LOGIN千温は二人の間に漂う刺々しい空気に気づかなかった。ただ、今日会ったばかりの自分を気遣ってくれる祐理は、本当に親切な人なのだと思った。 千温は小さく首を横に振る。「大丈夫だよ。優和は、私に優しくしてくれるから」 口にした途端、優和がこの数日、一度も会いに来なかったことを思い出した。 この前告げられた言葉も、病室で子供を堕ろすよう命じられたことも忘れてはいない。それでも千温は、祐理に向かって優和のことを悪く言いたくなかった。 無意識に優和の顔を窺う。 優和は小さく鼻を鳴らし、祐理へ冷たい目を向けた。「千温は俺の女だ。赤の他人に心配してもらう必要はない」 千温の手を握る力が、わずかに強くなる。 祐理は何か言い返しかけたが、千温が二人の顔を交互に見ていることに気づき、口を閉じた。 優和はそれ以上祐理を相手にせず、千温を連れて病室を出る。 扉が閉まるまで、千温の手は強く握られたままだった。 廊下へ出た途端、その手が乱暴に振り払われる。 急に支えを失い、千温はよろめいて壁へ手をついた。冷たい壁の感触に驚きながら、優和を見上げる。「優和……」 返ってきたのは、怒りを含んだ声だった。「千温、俺が数日来なかっただけで、そんなに大人しくしていられないのか? よく知らない男に誘われるまま、病室までついていって。少し男と離れただけで、もう我慢できなくなったのか?」 千温は首をすくめ、顔から血の気を失った。 祐理とは、ただ話をして、シャボン玉を吹いていただけだ。 沢田へ電話をしても優和が来なかったことも、優和の声を聞きたかっただけだということも、伝えようと思えば伝えられる。 けれど、優和の険しい顔を見ると、言葉が喉につかえた。「ご、ごめんなさい、優和……。でも、祐理さんは悪い人じゃ……」 千温がその名を口にしただけで、優和の表情はさらに険しくなった。 病室で祐理と笑い合っていた千温の顔が、また脳裏に浮かぶ。自分が現れた途端に消えてしまった、あの無邪気な笑みも。 優和は何も答えず、千温を元の病室へ連れ戻した。 千温は退院してもよいのか、医師に確認を取る。優和が手続きを進めている間、千温はベッド脇に置いていたわずかな荷物をまとめた。 同じ部屋に戻ったのに、二人はほとんど言葉を交わさなかった。 病棟を出るとき、優和はまた千温の手を取った
この一年で、優和が千温に怒ることは増えた。 怒ったときの彼がどれほど怖いか、千温はもうよく知っている。これ以上、機嫌を損ねたくなかった。「優和……」 名を呼ぶ声は、自分でも驚くほど頼りなかった。 気づけば足は、命じられたとおり優和へ向かっていた。祐理の前から離れることに迷いはない。ただ、近づくほどに優和の険しい表情がはっきり見えて、胸の奥が強張っていく。 あと数歩というところで、優和が待ちきれずに千温の手首を掴んだ。 強く引かれ、千温の身体は彼の胸元へ倒れ込む。抱き留められたはずなのに、逃がさないために捕まえられたように感じた。 かつては安心できた腕の中だった。 優和の体温も、衣服越しに伝わる胸の硬さも覚えている。それなのに今は、そこに身を預けても、少しも温かいと思えない。 優和のもう片方の手が顎を捉えた。 千温が顔を上げた途端、唇を塞がれる。 驚いて息を呑んだ隙に、口づけはさらに深くなった。 押し当てられた唇の熱さに反して、顎を支える指は容赦がない。千温がわずかに身じろぐと、優和は手首を引き寄せ、二人の間に残っていた距離まで奪った。 祐理がすぐそばにいる。 そう思うと頬が熱くなるのに、優和は少しも気にしていなかった。むしろ見せつけるために口づけているのだと、千温にも分かった。 呼吸が乱れ、膝から力が抜けていく。優和の腕に支えられていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。 唇が離れた。 千温がようやく息を吸い込む、そのわずかな間に、優和は祐理へ目を向けた。 怒りを露わにする顔が見たかった。だが、返ってきたのは呆れたような眼差しだけだった。 祐理は千温と今日知り合ったばかりで、特別な関係などない。優和を彼女の兄か保護者だと思い込んでいたから、二人が口づけを始めた瞬間は確かに驚いた。 けれど、それ以上に気になったことがある。 ここは祐理の病室だ。そして千温は、望んで口づけを受けているようには見えなかった。 この男は、いったい何を考えているのだろう。 優和が完全に唇を離すと、千温は浅い呼吸を繰り返しながら、熱くなった顔を彼の胸元へ伏せた。顎にはまだ優和の指の感触が残っている。 祐理が同じ部屋にいることを思い出すと、恥ずかしさと申し訳なさで、ますます顔を上げられなくなった。「千温。今から退院の手続きをして、一緒に
優和は病院へ駆けつけたものの、千温をなかなか見つけられなかった。 元の病室にも中庭にも、彼女の姿はない。院内をしばらく捜し回った末、先ほど電話をかけてきた男へ折り返し、ようやく病棟の最上階にある特別室へ辿り着いた。 千温はそこで、見知らぬ男と二人きりで過ごしていた。 優和の表情は、ひどく険しくなっていた。 ノックすらせず、目の前の扉を押し開ける。 その先に広がっていたのは、病室とは思えないほど豪華な空間だった。広々とした個室には、小さいながらも専用のリビングまで備えられている。 これほどの特別室へ入院している時点で、そこにいる男がただ者ではないことは一目で分かった。 優和が室内へ足を踏み入れたとき、千温の小さな声が耳に届いた。 その声は、彼が思いもしなかったほど、無邪気な喜びに弾んでいた。「わあ……きれい……」「はは、そうだろ? 陽の光に当てると、もっといろんな色が見えるよ」 病室では、祐理がシャボン玉を吹いていた。 いくつもの泡がふわふわと宙を漂い、窓から差し込む陽射しを受けて、虹色の光を浮かべている。 千温は顔を上げ、ゆっくりと舞い降りてくるシャボン玉を嬉しそうに見つめていた。 その表情は、無邪気な喜びに満ちている。 先ほどまで泣いていたことなど忘れてしまったかのように目を輝かせ、少し興奮した様子で指を伸ばす。触れた途端、薄い膜は小さく弾けて消えた。 千温は驚いたように目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。 優和の胸の奥に、形容しがたい苛立ちが込み上げる。 自分を待ちながら、病室で泣いているはずだった千温。 優和が見舞いに来たときでさえ、あれほど沈んだ顔をしていた千温が、見知らぬ男の前では何の翳りもなく笑っている。 その事実が、なぜか無性に気に入らなかった。 優和は後ろ手に扉を乱暴に閉め、わざと大きな音を立てた。 千温はそこでようやく、彼の存在に気づいた。「ゆ、優和……」 優和の姿を目にした途端、それまで楽しげに笑っていた顔から、すっと笑みが消えた。 笑みの代わりに浮かんだのは、今にも泣き出しそうな、ひどく悲しげな表情だった。 赤くなった目元が歪み、縋るような眼差しが優和へ向けられる。 その顔を見ても、優和の苛立ちは鎮まらなかった。 千温の隣にいる祐理へ、冷たい視線を移す。 祐理もまた、優和の全身を値踏
千温は長い間迷っていた。 それでも、優和の声を聞けるかもしれないという誘惑には抗えず、やがて小さな声で電話番号を読み上げた。 その番号は、これまで何度も何度も、心の中で繰り返してきたものだった。 この一年ほどで、優和の帰りがひどく遅くなる夜や、朝になっても帰ってこない日が増えていた。 そんな夜、千温は一人でリビングのソファに座り、物音一つしない広い部屋を見つめながら、心の中で優和の電話番号を繰り返し唱えていた。 連絡したい。 今どこにいるのか、何時に帰ってくるのか、尋ねたい。 そう思っても、実際に電話をかける勇気は持てなかった。忙しい優和を煩わせれば、嫌われてしまうかもしれない。 番号を唱えながら帰りを待つうちに、そのままソファで眠ってしまうことも多かった。 千温が目を覚ます前に優和が帰宅していれば、彼は眠っている千温を抱き上げ、寝室まで運んでくれた。 翌朝ベッドで目覚めるたび、優和が自分を大切にしてくれているような気がして、千温は嬉しくなった。 けれど、そうではない日のほうがずっと多かった。 朝になって目を覚ましても、千温は一人きりでソファに横たわったまま。 家の中には、優和が帰ってきた形跡すら残されていなかった。 愛されていないことには、最初からいくつもの兆しがあったのだ。 ただ、千温だけがそれに気づかなかった。 過去の記憶へ意識を奪われている間にも、祐理の行動は早かった。 耳も記憶力もいいらしく、千温が小声で一度読み上げただけの番号をすぐに覚え、その場で迷うことなく電話をかけてしまう。 千温の番号ではなかったため、仕事の連絡だとでも思ったのだろうか。 数度の呼び出し音のあと、優和は通話に応じた。「はい、宮長です」 聞こえてきたのは、祐理が想像していたよりもずっと若い男の声だった。 父親にしては若すぎる。 祐理はわずかに眉を寄せたものの、千温の世話を任されている保護者には違いないと思った。「千温の保護者だろ? 病人をこんなに長い間、一人きりで病院に放っておいて、どうして一度も顔を見に来ないんだよ」 祐理は、人の顔色を窺って言葉を呑み込むような性格ではないらしい。電話が繋がるなり、何の遠慮もなく優和を責め始めた。 千温がどんな理由で入院しているのか、祐理は知らない。 それでも、見るからに弱っている女の子が、
声をかけられて初めて、千温は自分が人目も憚らず泣いていたことに気づいた。 慌てて嗚咽を呑み込み、涙に濡れた顔を上げる。 いつの間にか、一人の男がすぐ隣へ腰を下ろしていた。 陽射しがあまりにも眩しかったせいだろうか。 男の肌は、光の中で透き通るように白く輝いて見えた。柔らかな髪も、整った顔立ちも、どこか現実離れした雰囲気をまとっている。 まるで空から迷い込んできた天使のように美しかった。 その眩しさに、千温は思わず目を細めた。 一方、男も泣き腫らした千温の顔を見つめたまま、わずかに我を忘れていた。 赤く染まった目元も、涙に濡れた睫毛も、痛々しいほどなのに目を離せない。 少しして我に返ると、男は片方の眉を上げ、遠慮のない口調で尋ねた。「何の病気で、そんなに泣いてるんだ?」 不躾な問いかけだった。 不思議と嫌味には聞こえず、千温はただ戸惑って目を瞬かせる。 男も千温と同じ入院着を身につけていた。どうやら彼も、この病院へ入院している患者らしい。 問いかけてから、自分の言葉が少し無遠慮だったことに気づいたのだろう。 入院着を着たまま、これほど激しく泣いている。もしかすると、他人には簡単に話せないほど深刻な病気を抱えているのかもしれない。 男は一瞬だけ考え込むような表情を浮かべ、唐突に話題を変えた。「……飴、食べる?」 祐理は羽織っていた上着のポケットを探り、数粒の飴を取り出すと、千温の前へ差し出した。 どれも色鮮やかで、美しい包み紙に包まれていた。 千温は目の前に差し出された手のひらを呆然と見つめたまま、すぐには動けなかった。 待ちきれなくなったらしい男は、他人との距離などまるで気にしない様子で千温の手を取った。 その手のひらに、持っていた飴をすべて載せる。 指先が触れた瞬間、千温は彼の体温が不自然なほど低いことに気づいた。「ほら、ちゃんと食べて。日本じゃ買えない、外国の飴なんだから」 男はどこか誇らしげに笑った。 惜しげもなく全部渡しておきながら、自分の宝物を自慢する子供のような表情をしている。 その無邪気さに、千温はほんの少しだけ泣くことを忘れた。 男は自分の胸元を指差し、名乗った。「上ノ町祐理。君は? 名前、何ていうの?」「小北……千温」「へえ、千温。いい名前だね」 名前を褒めてくれたのは、優和に続い
千温は沢田に、できれば早く迎えに来てほしいと、優和へ伝えてもらった。 一人きりで過ごす病院は、ひどく寂しかった。 入院してから、すでに何日も経っている。それでも優和は一度も姿を見せず、電話すらかけてこなかった。 千温は優和の言いつけを守り、毎日大人しく病室で待ち続けた。 仕事が一段落すれば、きっと迎えに来てくれる。 そう信じていたものの、日が経つにつれて胸騒ぎは強くなるばかりだった。 どうしても不安に耐えられなくなり、何度も迷った末、千温はもう一度だけ沢田へ電話をかけた。 返ってきたのは、やはり以前と変わらない言葉だった。「小北様、社長からは、病院でおとなしく療養し、勝手に出歩かないようにとのことです。仕事が一段落しましたら、社長自ら迎えに行くと申しておりました」「……はい」 千温は力なく返事をした。 沢田は急かすことなく、電話の向こうで辛抱強く待っている。「ほかに何かありますか?」 千温は唇をわずかに開いた。 それ以上、何を言えばいいのか思いつかない。 本当は、優和の声が聞きたかった。 ほんの少しでも声を聞ければ、胸の奥に広がる不安も、少しは落ち着くかもしれない。 けれど、そんなことを頼めば沢田を困らせてしまう。「……いいえ。ありがとうございました」 お礼だけを告げ、千温は自分から通話を終えた。 静かになったスマートフォンを握り締めても、不安は消えてくれない。行き場をなくした思いは、日を追うごとに千温の中へ積み重なっていった。 ある日、看護師から、気分転換に庭へ出て日光に当たってみてはどうかと勧められた。 千温は言われたとおり病院の中庭へ向かい、空いていたベンチへ腰を下ろした。 柔らかな陽射しが降り注ぎ、風が木々の葉を静かに揺らしている。病室の中に閉じこもっているよりも、ずっと穏やかな場所だった。 それなのに、千温の心は少しも晴れなかった。 周囲を行き交う患者たちは、誰もが付き添いを連れている。 家族らしい人と腕を組んでゆっくり歩く者もいれば、恋人らしい相手と肩を寄せ合い、楽しそうに話している者もいた。 皆、自分を心配してくれる誰かがそばにいる。 千温だけが、一人だった。 その事実を突きつけられた途端、胸の奥に溜め込んでいたものが一気に溢れ出した。「うっ……」 堪えきれず、小さな泣き声が漏れる。







