LOGIN晴海テラス。リビングは薄暗い光に包まれていた。葵は絨毯の上へ力なく座り込んでいる。その周囲には、高価なワインボトルの破片が無数に散乱していた。濃密なアルコールの臭いが空気の中に充満し、鼻を突くたびに頭痛を誘う。彼女は壁に掛けられた百インチの液晶テレビを、死んだ魚のような目で見つめていた。手にしたリモコンは、指の関節が白く浮き出るほど強く握り締められている。テレビ画面の中では、名雲市でもっとも権威ある医療名門――梅原家の先代が、カメラへ向かって深々と頭を下げていた。いつもなら慈愛に満ちているはずの老人の顔は、今や厳粛さと深い罪悪感に染まっている。その背後には、瑞人が黒いスーツ姿で直立していた。うつむいたその姿は、まるで魂を抜き取られたようだった。かつて「天才医師」と呼ばれた男の覇気は、もはや微塵も残っていない。「……葵の保釈および加療に関する件につきまして、我が梅原病院内部における管理不足があり、一個人に欺かれた結果、診断書に重大な虚偽および偏りが発生しておりました。梅原グループとして深く遺憾の意を表するとともに、関連するすべての証明を即時撤回することをここに発表いたします。すでに警察当局とも協議を終えており、司法の正義を支持し、いかなる違法行為も断じて容認いたしません」波ひとつ立たない、冷酷極まりない「尻尾切り」だった。葵はその言葉を聞きながら、喉の奥から乾いた笑い声を漏らした。「……欺かれた?正義を支持するですって?」次の瞬間。彼女は手にしていたリモコンを、猛然とテレビへ投げつけた。凄まじい衝撃音が室内へ響き渡る。「梅原、この腰抜けがッ!お前、自分の母親に誓ったんじゃなかったの!?私を絶対に守り抜くって!あの死に損ないの老いぼれを引っ張り出して、私を売り飛ばすなんて……!」そのまま笑い転げ、涙を零す。梅原家は、加賀見家と桐生家という二大勢力に挟み撃ちにされ、完全に退路を断たれていた。生き残るためには、自分という「尻尾」を切り落とすしかなかったのだ。先ほど彼女は、別荘の周囲に配置されていた警備員たちが、一人残らず撤収していることに気づいていた。その代わりに、敷地入口の陰には二台のパトカーが不気味に潜んでいる。――このままでは殺される。あるいは、あの光も届かない牢獄
「西宮の土地の件なら、半時間も前に、俺が実名で告発を済ませてある。葵の命など、最初から興味はない。俺が望むのは――あいつがこの先の人生で、二度と『名門』という言葉を耳にできなくなることだ」昂一は小さく笑みを浮かべた。何も言わぬまま、身を翻し、そのまま軽やかな足取りで去っていく。オフィスには再び、死んだような静寂が戻った。貴臣は右手側の引き出しを開けた。数十億の価値を持つ印章の数々、その奥に――かつて心愛が残していった一枚の古い写真が眠っている。それは、彼女がまだ桐生家へ嫁ぐ前の姿だった。写真の中の少女は、何度も洗濯されて白く色褪せた制服を身にまとい、陽だまりの中で目を三日月のように細めて笑っていた。あの頃の彼女の瞳には、未来への憧れが満ちていた。そして、そのすべてが――桐生貴臣という男へ向けられていたのだ。貴臣は荒れた指先を伸ばし、写真の中の少女の柔らかな頬をそっとなぞった。「……心愛、すまない」その声はあまりにも低く、吐息のように頼りなかった。「こんな謝罪に何の価値もないことくらい、俺にも分かっている。お前の祖母のことも、深水家のことも……そして俊輔の件も。俺は、本当に目が潰れていた。毒蛇を宝物のように抱え込み、お前を泥沼へ踏みつけていたんだからな。あの時の俺は、どうしてあそこまで冷酷になれた……おばあちゃんの前で膝をつき、葵の一言で警備員に門外へ追い出されるお前を見ながら、俺は書斎で平然とコーヒーを飲んでいたんだぞ」記憶が蘇るたび、貴臣は自分の顔を殴りつけたい衝動に駆られた。写真を見つめているだけで、心臓が錆びたナイフで何度も抉られるように痛む。「……これが、お前への最初の償いだ」貴臣は引き出しを閉めた。目を閉じた瞬間、一滴の涙が静かに床へ落ちる。……同じ頃。南郊に位置する高級別荘地、晴海テラス。葵は贅沢なシルクのナイトガウンをまとい、ダイニングの長いテーブルの前へ腰掛けていた。テーブルには豪奢なフレンチのフルコース。傍らにはラトゥール。ようやく自分は生き返ったのだと、彼女は感じていた。先ほど瑞人は激昂していた。だが結局のところ、こうして今も、自分に快適な生活を与えているではないか。葵はスマートフォンへ目を落とした。先ほど、心愛を挑発するために送信した
「社長、梅原グループの主要株主たちが、いよいよ痺れを切らして動き始めました」それから間もなくして、隆が刷りたての財務諸表を抱え、足早に部屋へ入ってきた。貴臣は振り返りもしない。まるで氷穴の底から響くような冷え切った声で応じた。「……掴んだか」「はい。康永メディカルが昨年申請した三件の新薬認可ですが、やはり不正ルートが使われていました。梅原は父親の薬事審議会時代の古い人脈を利用し、医療ミスによって患者に重い後遺障害が残った二件の告発を強引に揉み消しています」隆はそこで一度息を継ぎ、さらに続けた。「加えて、一族が経営する私立精神病院ですが、帳簿上は巨額の『慈善寄付』として処理されているものの、実態は梅原グループによる資金洗浄の抜け穴でした」報告書の束がデスクへ置かれ、重い音が室内に響く。貴臣はゆっくりと身体を巡らせた。そして手にしていた煙草を、躊躇なく真っ二つに折る。砕けた煙草は灰皿へ投げ捨てられた。「……上出来だ」低く吐き捨てる。「梅原の奴は、自分が救い出したのが哀れな被害者だとでも思っているんだろう。だが、その女が梅原家の弔鐘になるとは夢にも思わないだろう。聖人君子を気取り、死んだ母親の遺言を果たしたいと言うなら、自分のせいで一族がどう破滅したか、あの世で母親にでも言い訳するんだな」彼はデスクの後ろへ腰を下ろし、両手の指を組んで顎の下へ当てた。「法務部と財務部に通達しろ。これより桐生グループは、梅原家との全共同プロジェクトから撤退する。特に南川の医療機器パーク――あれは梅原の命脈だ。即刻、資金を引き揚げろ。それに伴って、梅原グループへ製品を納入している二次代理店どもにも最後通牒を突きつけろ。梅原と心中するか。それとも今すぐ供給を断ち、我が社と新契約を結ぶか――好きな方を選ばせろ」隆は一瞬、言葉を失った。「社長……このタイミングで資金を引き揚げれば、我が社も立ち上げ資金として六十億の損失を被ります。取締役会が黙ってはいないかと……」「黙らせろ」貴臣は猛然とデスクを叩いた。低い声音。だが、逆らうことを許さぬ圧力が宿っていた。「六十億程度なら、俺が個人資産から補填する。葵一人を庇った代償が、梅原家そのものの未来を叩き潰すことだと、梅原の分不相応な理想主義に骨の髄まで刻み込んでや
「梅原家が人を救い出そうというのなら、俺はその穴をさらに深く掘り下げてやる。どれだけ土を注ぎ込もうと、二度と埋め戻せないほどにな」貴臣は立ち上がり、巨大な全面ガラス張りの窓の前へ歩み寄った。窓の外には、繁栄を極める名雲市の夜景が広がっている。ネオンの光が巨大な網のように幾重にも絡み合い、街全体を妖しく照らしていた。彼は眼下を流れる無数の車列を見下ろしていたが、その胸にあるべき権力を握る快感など、もはや欠片も存在しなかった。そこにあるのは、底の見えない虚無感だけだった。「社長……もし梅原家が本気で正面衝突を仕掛けてきた場合、我が社も海外医療シェアの一部を失うリスクがあります」隆がわずかに躊躇いながら進言する。「失う、だと?」貴臣はゆっくりと振り返った。その目には血走った筋がびっしりと浮かび、狂気じみた執着の光が宿っている。その視線に射抜かれ、隆は思わず半歩後ずさった。「葵と梅原――あの愚かな連中に代償を払わせられるなら、桐生グループの半分が吹き飛ぼうと惜しくはない。俺は葵に思い知らせてやりたいんだ。あいつが必死にしがみついている後ろ盾が、どれほど脆いものかをな」そう言いながら、彼はデスクの引き出しから一通の手紙を取り出した。先ほど速達で届いた封筒だった。封を切った瞬間から、吐き気を催すほど濃厚な香水の香りが漂っている。葵が最も好んでいた香りだ。すでに開封された手紙には、たった数行だけ文字が並んでいた。【貴臣、助けて。瑞人が私を支配しようとしているの。私をもう一度名門へ戻せるのは、あなただけ。昔、二人で交わした誓いを、私はまだ忘れていないわ】――誓い、だと?貴臣はその言葉を見つめながら、極限の皮肉しか感じなかった。彼は両手で手紙を挟み込み、一寸ずつ、引き千切っていく。香水臭い紙片は、汚れた雪のように静かに舞い落ち、ゴミ箱の底へ沈んでいった。「名門へ戻る、だと?」貴臣は鼻で笑った。「あいつがこの先の人生で辿り着ける『名門』など、地獄だけだ」彼は向き直り、隆へ命じる。「加賀見側の動きを監視しろ。暁が心愛を守る気なら、必ず梅原家にも牙を剥く。我々は加賀見と手柄争いをする必要はない。ただ、背後から梅原家へ致命傷を叩き込んでやればいい。梅原に教えてやるんだ。この名雲
桐生グループ最上階、社長オフィス。貴臣は、葵が保釈されていく監視カメラの映像を、無言のまま凝視していた。画面の中の女は、肌こそわずかに土気色を帯びていたものの、骨の髄から滲み出るようなあの傲慢さだけは、映像越しですら見る者の神経を逆撫でする。髪をかき上げ、黒塗りのビジネスカーへ乗り込んでいくその横顔を目にした瞬間、貴臣の胃の底から激しい吐き気が込み上げた。反吐が出るほど、不快だった。かつての自分は、この顔こそが救いであり、あの火災の夜の記憶に残された、唯一の心の拠り所なのだと信じ込んでいた。だが今となっては、自分の頭がどうかしていたとしか思えない。「まさか、梅原家の私生児だったとはな……」貴臣は低く呟いた。声はひどく掠れている。手にしていた煙草を、灰で埋め尽くされたクリスタルの灰皿へ乱暴に押し付ける。吸い殻は無惨に潰れ、最後の火花がわずかに抗った後、闇の中へ静かに消えていった。ほんの三十分前、隆から極秘の調査報告書を受け取ったばかりだった。清廉潔白を装っていた医療名門・梅原家が、その裏でこれほど隠し事を抱え込んでいたとは。葵は、梅原家先代の次女の娘だったが、長年にわたって一族として認められてこなかった。普段なら他人に興味すら示さない瑞人が、一族の経歴に泥を塗る危険を冒してまで、診断書を偽造し、保釈に奔走した理由も、これで説明がつく。貴臣はネクタイを乱暴に緩めた。だが、喉を締め付けるような息苦しさは一向に消えない。脳裏に浮かぶのは、葵が以前、自分の前で涙を流しながら「孤独だ」「寄り添ってくれる人がいない」と訴えていた姿だった。弱々しく、自分一人では何もできない女を演じていた、あの欺瞞に満ちた表情。あの演技力なら、いっそ映画賞でも狙えば良かったのだ。自分はまるで道化師だった。嘘に塗れた毒蛇のために、自らの手で婚姻関係を壊し、かつて自分だけを見つめてくれていた心愛を、自分の手で深淵へ突き落としたのだから。コンコン。オフィスのドアが二度、静かに叩かれた。貴臣は微動だにせず、冷え切った声で告げる。「入れ」隆がドアを開け、猛獣を刺激することを恐れるような慎重な足取りで中へ入ってきた。タブレットを抱えたまま近づき、声を潜めて報告する。「社長、葵さんの動きに変化がありまし
「受け取りなさい。暁の、あの苦虫を噛み潰したような顔を真似するんじゃないよ」正国はそう言い放つと、傍らの静香へ視線を向けた。「腹が減ったな。使用人にうどんでも作らせてくれ。この大馬鹿二人のせいで、一晩中振り回されて胃が痛くてかなわん」静香はすぐにその意図を察し、微笑みながら正国の腕を取った。「ええ、私もちょうどお腹が空いていたの。あとは若い子たち同士、好きに揉めさせておけばいいわ」両親の姿が仕切り壁の向こうへ消えていくのを見届けてから、心愛はようやく深く息を吐き出した。何かを言おうとした、その瞬間だった。暁が大股で駆け寄り、そのまま彼女の後頭部をがっしりと抱き寄せる。次の瞬間には、身体ごと胸の中へ閉じ込められていた。「怯えすぎて、頭まで真っ白になったか」暁は彼女の耳元へ唇を寄せ、低く笑った。胸板を震わせるその声が、心愛の奥深くをじりじりと痺れさせる。心愛は彼のシャツを掴み、涙を浮かべた瞳で見上げた。「お父さん……お兄ちゃんに無理なこと、言わなかった?株式のこととか……」暁は、心愛から見えない位置に控えていた執事へ、手だけで「下がれ」と合図を送る。それからわざと彼女の顔へ近づき、悪戯っぽく片目を細めた。「親父の話では、三ヶ月以内に孫の顔を見せられなければ、私の持つ株式を全部あなた名義に書き換えるそうだ。これからは社長として、色々ご面倒をおかけします」心愛は一瞬ぽかんとした。だが、すぐに冗談だと理解した途端、顔が首筋まで一気に真っ赤に染まる。彼女は勢いよく手を伸ばし、彼の胸を力いっぱい叩いた。「な、なに破廉恥なこと言ってるの!誰があなたとそんな……!」暁はその暴れる手を片手で簡単に捕まえ、そのまま自分の掌の中へ閉じ込める。暖炉に残る火の明かりの中、二人は見つめ合った。静かに、優しく笑い合う。一晩中屋敷を覆っていた陰鬱な空気は、その瞬間、ようやく完全に霧散していった。窓の外では冷たい風が荒れ狂っている。けれど、この加賀見本家の中だけは、長いあいだ忘れ去られていた温もりに満ちていた。……その頃、桐生グループ最上階のオフィス。全面ガラス張りの窓の向こうでは、ネオンの光が絶え間なく明滅し、冷え切ったガラスへ無機質に反射していた。貴臣は一人、大型のオフィスチェアに腰掛けてい







