LOGIN鳴り物入りで世間の注目を集める弁護士、明石葵(あかし あおい)。桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は、そんな彼女に帰国後の初陣を飾らせるという名目のもと、妻の深水心愛(しみず ここあ)の反対を押し切り、葵に心愛の弟の弁護を委ねた。 しかし、その期待も虚しく裁判は敗訴に終わり、深水俊輔(しみず しゅんすけ)は実刑判決を下され、投獄の身となった。 世論の非難を一身に浴び、葵は弁護士としての面目を失墜させる。 にもかかわらず、貴臣はあろうことか、心愛に葵への謝罪を強いた。 さらに追い打ちをかけるように、俊輔の投獄に衝撃を受けた心愛の祖母までもが病に倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。 葵へのあからさまな贔屓を隠そうともしない貴臣を前にして、心愛はようやく悟る。 自分は、葵の「身代わり」に過ぎなかったのだと……
View More別荘に戻ると、予想どおり貴臣の姿はなかった。むしろ好都合だ。心愛はクローゼットを開けた。中に掛かっているのは、指で数えられるほどの服だけ。スーツケースを引き出す。それは三年前の結婚の折に祖母が買ってくれたもので、三年間使い続けても、なお新品のような艶を保っていた。心愛は自分の服を一着ずつ、畳み目を整えながら丁寧にスーツケースへ収めていく。そのとき、スマートフォンが小さく震え、画面に「清夏」の二文字が躍った。通話を受けると、心愛の表情にようやく温度が戻った。「心愛!どうだった?面接、受かった!?」清夏の弾んだ声が受話口から飛び出す。自分のことのように落ち着きなく、期待と興奮が入り混じっていた。「……受かったわ」心愛はクローゼットの扉に背を預け、静かに、しかしはっきりと答えた。「やったぁ!あんたなら絶対できるって信じてた!あいつら、意地悪してこなかった?加賀見の人たちに難癖つけられたりしなかった?」声のトーンは一気に高くなり、雛を守る親鳥のような勢いだ。心愛はふっと息を漏らすように笑った。「大丈夫。とてもスムーズだったわ」「最高じゃない!今夜はお祝いよ、お祝い!今どこ?会いに行くから!」「家にいるわ。荷物をまとめているの」「荷物……?ついに引っ越すのね!?」一瞬の沈黙のあと、清夏が叫ぶ。「うわぁ、本当に!?やっと決心ついたのね!いい、動かないで!今すぐ車で迎えに行くわ。この私が、あんたの門出をプロデュースしてあげる!」「いいわよ、荷物も多くないし、あとで自分でタクシーを――」「タクシーなんて論外!私が専属ドライバーよ!そこで大人しく待ってなさい、アクセル全開で向かうから!」そう言ってから、声を潜める。「……で、あのクズ貴臣はいないんでしょうね?」「……いないわ」「よかった。私の手を汚さずに済む」清夏は鼻を鳴らし、満足そうに言った。「待ってて、二十分で着くから!」通話が切れると、部屋に再び静寂が戻った。心愛はスーツケースのファスナーを閉め、ゆっくりと立ち上がって部屋を見渡す。そのとき、ふと思い出した。勾玉のペンダント。あの日、葵に奪われ、床に叩きつけられて砕け散った、あのペンダント。心愛は屈み込み、ベッドの下やカーペットの端を丹念に探した。……何もない。お手伝いが掃
「本当に、ありがとうございます……!」心愛は感極まり、言葉が少し乱れた。「精一杯、努めさせていただきます」暁は静かに頷き、一通の書類を心愛の前に差し出した。「こちらが内定通知書兼雇用条件明示書です。内容をご確認ください。試用期間は三か月、給与や待遇についてはすべて記載の通りです。また、遠方からの入社者向けに、会社が手頃な家賃の社宅も用意しています。最寄駅から徒歩五分で、通勤に便利です」助かった……ちょうど家を出たいと思っていた心愛にとって、これ以上ない条件だった。書類を受け取ると、昂一がエレベーターホールまで案内してくれた。「深水さん、明日は直接人事部へお越しください、入社手続きを進めさせていただきます」「はい、ありがとうございます、近藤様!」恭しく頭を下げた心愛に、昂一はわずかに目を丸くした。彼女は自分を会社の重役と勘違いしているらしい。だが訂正することはせず、ただ軽く会釈して見送った。エレベーターの扉が閉まると、昂一はオフィスへ戻り、思わず口を開いた。「社長……わざわざご自身でインターンの面接に出向くなんて……そこまでして、彼女を採用したかったんですか?」長年暁に仕えてきたが、ここまで一個人に気を配る姿は初めてだった。暁は振り返り、昂一を一瞥した。その眼差しは冷静だった。「あの子は、特別なんだ」「特別って……どんなところがですか?」昂一の好奇心が爆発する。「まさか、本当に生き別れの――」言い切る前に、暁の鋭い視線がそれを制した。「桐生貴臣の最近の動向を調べろ」暁の声のトーンが下がる。「特に、明石葵が関わっている事柄を詳しく」「承知いたしました」昂一は即座に表情を引き締め、余計な問いを飲み込んだ。一方、加賀見本社ビルを追い出された梨紗は、ついに堪えきれず歩道の端にしゃがみ込み、泣きじゃくっていた。彼女は震える手でスマートフォンを取り出し、泣き声のまま葵に電話をかける。「葵、ひどすぎるわ……!あの心愛がどんな手を使ったのか知らないけど、加賀見の人が彼女だけ特別扱いして中に連れて行っちゃったの。それだけじゃないわ、私……選考から外されちゃったのよ!」電話の向こうで、葵は眉をひそめた。「……何ですって。心愛が、加賀見に?」あり得ない。加賀見グループほど格式の高い大企業は、誰で
周囲のざわめきの一つ一つが、鋭い棘となって心愛の耳に突き刺さる。そのとき、ロビーの入り口付近で小さな騒ぎが起きた。スーツを完璧に着こなした一人の男が入ってくる。その瞬間、彼の放つ独特のオーラに、先ほどまで騒がしかったロビーの空気が、まるで数度下がったかのように静まり返った。梨紗はすぐに背筋を伸ばし、完璧な笑みを浮かべ、いつでも自分をアピールできるよう身構えた。だが、男は彼女に一瞥もくれず、まっすぐ心愛の前で足を止めた。「深水心愛さんでいらっしゃいますか?」低く澄んだ声が響く。心愛は一瞬呆然とし、それからゆっくりと顔を上げた。「……はい、私です」梨紗の顔から、笑みが音を立てて凍りついた。――えっ?なんで、こいつが……?脳裏を、焦燥が激しく駆け抜ける。犯罪者の姉で、桐生家から追い出されかけた女のくせに……!男は周囲の反応など意に介さず、心愛に向かって穏やかに手で示した。「どうぞ、こちらへ」梨紗はついに堪えきれず、一歩前に出て男の行く手を遮った。「どうして彼女だけ特別なんですか!?私たちはみんな、こうして順番を待っているのに。それでは不公平じゃありませんか。加賀見グループは、そんな不公平を許すんですか?」男は眉一つ動かさなかった。「弊社の選考プロセスについて、外部の方にご説明する立場にはありません」その冷淡な視線に、梨紗は一瞬言葉を詰まらせたが、それでも食い下がった。「納得いきません。説明してください。さもないと、SNSでこのことを拡散しますよ!」男はようやく、正面から梨紗を見据えた。そしてポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。「人事部ですか。近藤昂一(こんどう こういち)です。応募者・中村梨紗の面接資格を取り消し、ブラックリストに登録してください」わずかに間を置き、淡々と付け加えた。「理由は、当社の選考プロセスに対する不当な介入および業務妨害です」通話は、十秒にも満たないうちに切れた。梨紗の顔から、みるみる血の気が引いていく。昂一は二度と彼女を見ることなく心愛に向き直り、先ほどと同じ事務的な口調で言った。「深水さん、こちらへ」心愛の頭の中は混乱でいっぱいだった。それでも失礼のないよう、慌てて昂一の後に続く。梨紗の横を通り過ぎる際、背中に突き刺さる
夢を見ることもない、深い眠りだった。翌朝、心愛は早くに目を覚ました。いつもなら真っ先にキッチンへ向かい、朝食の支度を始めるところだが、今日は違った。物置部屋に置かれた小さな姿見の前に立ち、時間をかけて身なりを整える。クロゼットの奥から、久しく袖を通していなかったアイボリーのセットアップを取り出した。それに着替え、控えめにメイクを施す。長い髪を丁寧にまとめ、凛とした夜会巻きにすると、すらりとした首筋があらわになった。鏡に映る自分は、静かでありながらも、どこか鋭い光を宿している。――よし、完璧。地下鉄に乗り、都心でもっとも栄えているオフィス街へと向かった。朝の光を浴びた加賀見グループ本社ビルは、ガラスのカーテンウォールがまばゆく反射している。心愛は深く息を吸い込み、背筋を伸ばして中へ足を踏み入れた。面接の待機エリアにはすでに多くの応募者が集まっており、誰もがエリート然とした身なりをしていた。張り詰めた空気の中に、高級な香水の香りが混じって漂っている。心愛は隅の席を見つけ、静かに腰を下ろした。「あら、誰かと思えば。心愛じゃない?」わざとらしく誇張された声が、頭上から降ってきた。顔を上げると、そこには完璧に作り込まれた顔があった。中村梨紗(なかむら りさ)。葵の親友だ。全身をブランド品で固め、手には最新作のバッグ。その瞳には、隠そうともしない軽蔑と驚きが入り混じっている。心愛は何も言わず、ほんの一瞬だけ視線を向けると、すぐに手元の資料へ目を落とした。徹底的に無視されたことで、梨紗の顔が露骨に歪む。梨紗も今日、面接を受けに来ていた。こんな場所で心愛を見かけるなど、高級レストランで皿洗いのスタッフに出くわしたような感覚だった。梨紗はスマートフォンを取り出し、素早く葵にメッセージを打ち込む。【葵、誰に会ったと思う?心愛よ。信じられないことに、加賀見の面接に来てるわ】送信を終えると、梨紗は意を決したようにわざと声を張り上げ、待機エリアにいる全員に聞こえるよう言った。「心愛、久しぶりね。あなた、桐生家に嫁いで専業主婦になったんじゃなかった?どうしてこんなところにいるのよ?」その言葉は、見事に周囲の注目を集めた。「桐生家の奥様?」誰かが小声で囁く。「それなら、どうして仕事なんて探しに来るんだ?」
跡形もなく、粉々に。「いらない。食欲がないから。テーブルの上の食器は、明日、お手伝いさんに片付けさせて」そう言い残すと、心愛は二人の顔を一度も見ることなく、物置部屋へと背を向けた。ガラクタが詰め込まれたあの部屋が、今の彼女にとっては唯一の避難所だった。数歩進んだところで、背後から葵のか弱げな声が届いた。「貴臣、明日……私、チキンスープが飲みたいな。今日のこのスープ、すっごく美味しかったから。でも、心愛さんにまたお願いするのは、ご迷惑かしら……」声は次第に細くなり、申し訳なさと懇願を滲ませながら、潤んだ瞳で貴臣を見上げる。貴臣は案の定、その手に乗った。泣き出しそうな葵の様
けれど、その料理が、貴臣の口に入ったことは一度もなかった。彼が帰宅する時間を見計らい、心を込めて炊き上げ、待ち続けていても、届くのはいつも「残業だ」「接待が入った」「今日は帰らない」という冷淡なメッセージばかり。湯気を立てていた料理は、結局いつも虚しく捨てられ、やがて作ること自体をやめた。まさか、これほどの月日が流れてから、葵のために再び料理を炊くことになるとは。心愛はおたまを動かしながら、ふと物思いに耽っていた。その時、玄関から鍵の回る音がした。心臓がぎゅっと締めつけられる。貴臣が葵を連れて帰ってきたのだ。二人の足音がリビングからダイニングへと近づいてくると、やが
オフィスに戻ってからというもの、心愛が誰かに邪魔されることはなかった。きっと、午前中の瑞樹の一喝が効いたのだろう。心愛はデスクに突っ伏し、どうすれば貴臣にサインさせられるかと思案していた。貴臣という男は独占欲が強い。桐生家の名声のためにも、簡単に自分を手放すはずがない。何かきっかけを掴み、どうしても署名させなければ。――ドン。社長室の方角から、何かが床に叩きつけられたような鈍い音が響いた。オフィスエリアにいる全員が、思わず首をすくめる。また誰かが逆鱗に触れたのだ。心愛は顔を上げ、固く閉ざされたガラス張りのドアに目をやった。今の貴臣が、眉間に深い皺を刻んでいる光景
正午、休憩時間になるやいなや、心愛は清夏との約束のことを考え、バッグを手に取って足早にブースを後にした。貴臣が社長室の磨りガラスのドアから一歩踏み出した瞬間、視界の端を一筋の影が猛スピードで駆け抜けた。かすかな風を残して去っていったのは、華奢でありながらも凛と伸びた背中だった。貴臣は思わず足を止め、エレベーターに吸い込まれていく心愛の後ろ姿を見送りながら、言いようのない苛立ちを覚えた。あんなに急いで、一体どこへ行くつもりだ?その思いが浮かんだ瞬間、彼は自ら打ち消す。彼女がどこへ行こうと、自分には関係のないことだ。どうせ病院へ祖母の見舞いにでも向かったのだろう。眉をひそめ
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