LOGIN鳴り物入りで世間の注目を集める弁護士、明石葵(あかし あおい)。桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は、そんな彼女に帰国後の初陣を飾らせるという名目のもと、妻の深水心愛(しみず ここあ)の反対を押し切り、葵に心愛の弟の弁護を委ねた。 しかし、その期待も虚しく裁判は敗訴に終わり、深水俊輔(しみず しゅんすけ)は実刑判決を下され、投獄の身となった。 世論の非難を一身に浴び、葵は弁護士としての面目を失墜させる。 にもかかわらず、貴臣はあろうことか、心愛に葵への謝罪を強いた。 さらに追い打ちをかけるように、俊輔の投獄に衝撃を受けた心愛の祖母までもが病に倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。 葵へのあからさまな贔屓を隠そうともしない貴臣を前にして、心愛はようやく悟る。 自分は、葵の「身代わり」に過ぎなかったのだと……
View More心愛は息を呑み、目前に横たわる祖母を、瞬きすら忘れて凝視した。「おばあ……ちゃん……?」絞り出されたその声は、何者かに喉を強く締めつけられているかのように震え、零れ落ちる端から粉々に砕け散っていく。震える文子の唇からは白く乾いた皮が剥がれ落ち、音にならない言葉を紡いでいた。だが、その微かな口の動きだけで、心愛には分かった。――水。祖母は、水を求めているのだ。心愛はその場に崩れ落ち、激しい嗚咽を漏らした。あの貴臣が、自分の祖母を虐待するなどという、おぞましい事態は夢想だにしていなかった。「水!おばあちゃん、待ってて。今すぐ持ってくるから!」脱兎のごとく駆け出した彼女の脳内は、ただ「祖母に水を飲ませなければ」という、強迫観念に近い一念に支配されていた。躓きそうになりながら倉庫を飛び出し、碧の車へとひた走る。心愛はなりふり構わずドアを剥ぎ開け、後部座席に身を投じると、乱雑な荷物の中を狂おしい手つきでかき回した。ようやくトランクの隅に一本のミネラルウォーターを見つけ出すと、再び狂ったような足取りで倉庫へと引き返した。倉庫の中では、文子が先ほどと同じ姿勢のまま、力なく横たわっていた。「おばあちゃん、水よ」心愛は枕元に膝をつき、片手でそっと文子のうなじを支え、もう片方の震える手でボトルの口をその乾いた唇へと導いた。一口、また一口。むせぬよう、慈しむように慎重に含ませる。半分ほど残っていた水は、瞬く間に底を突いた。ひび割れていた文子の唇にようやく仄かな血色が戻り、彼女は荒い呼吸を繰り返しながら心愛の腕に身を預けた。その瞳にも、わずかに理性の光が宿る。心愛は空になったボトルを置くと、堪えきれずに涙を決壊させた。「おばあちゃん、どうしてこんな場所に?貴臣が……あの男が、おばあちゃんをここへ追いやったのね?」心愛の声に宿る憎悪は、もはや形を成さんばかりだった。今すぐにでもあの男に詰め寄り、その真意を問い質さなければならない。心愛は震える手でポケットのスマホに手を伸ばした。その時、枯れ枝のように痩せ細った手が、心愛の手の甲に重なった。力は弱々しかったが、その感触に心愛のすべての動きが凍りついた。「……心愛……」文子の声は、地を這うように低く、掠れていた。心愛には聞き取れず、慌てて耳
心愛は廊下の突き当たりまで一気に駆け抜け、逸る心を押さえつけるようにして通話ボタンを押し込んだ。「はい、もしもし」「深水俊輔のご家族ですか」受話器の向こうから聞こえる声は、事務的で、突き放すように冷ややかだった。「はい、深水俊輔の姉です。弟が何か……?」「俊輔さんが中で喧嘩沙汰を起こし、相手に怪我を負わせました。至急こちらへ来て、手続きを行ってください」「えっ!?」心愛の頭の中で何かが弾け、立っていられなくなるほどの衝撃が全身を貫いた。「あの子はどうなったんですか?怪我の具合は……っ」「本人は無事です。ですが、相手方のご家族が納得されていません。とにかく、一刻も早く来てください。失礼します」それだけを言い残し、相手は一方的に電話を切った。心愛はスマートフォンを握りしめたまま、激しい震えに襲われていた。俊輔が喧嘩?あの心優しい子が、そんなことをするはずがない。心愛は執務室へと取って返し、話し込んでいた二人の言葉を遮るように声を上げた。「高橋さん、申し訳ありません、急用ができてしまいました。お先に失礼します!」そのただならぬ狼狽ぶりに、碧は目を見開いた。「どうしたんですか?」「弟が……刑務所から連絡があって、トラブルがあったみたいなんです」心愛は縋るような思いで、早口にまくしたてた。「だったら早く行きなさい!タクシーなんて待っている時間はない。下の駐車場に私の車を停めてあるから、これを使ってください。早く!」碧は迷うことなく、車のキーを彼女の掌に押しつけた。「ありがとうございます!」それ以上言葉を交わす余裕もなく、心愛はキーを握りしめて階下へと駆け下りた。駐車場は管理棟の裏手に位置し、人気のない、どこか寂れた空気が漂っていた。碧に告げられたナンバーを探して、心愛は足早に歩を進める。目的の車に辿り着こうとしたその時、ふと、微かな音が耳をかすめた。それは風の唸りに混じって消えてしまいそうな、子猫の鳴き声にも似た、細く、弱々しい喘ぎだった。心愛は足を止め、その場に立ちすくんだ。耳を澄ますと、再びその音が響く。「……けて……」声だ。誰かが助けを求めている。心愛の胸が締め付けられた。ネットで目にした、この病院に渦巻く虐待の噂が、瞬時に脳裏をよぎる。ここは、やはり何か
翌日、オフィスに足を踏み入れた心愛の足取りは、依然としておぼつかなかった。まるで雲の上を歩いているかのような、現実味を欠いた感覚が付きまとっていた。デスクに座り、ルーチンワークのようにパソコンを起動させたものの、思考の断片は昨夜の記憶に囚われたままだ。ドアの向こうに暁を拒み、締め出した瞬間の光景が、混迷を極めた頭の中を執拗にかき乱していた。「深水さん!ちょっと、これ見てください!」碧が突風のごとき勢いで駆け寄ってくると、スマホの画面を心愛の眼前に突きつけた。その横顔には、ゴシップに対する興奮と隠しきれない軽蔑が入り混じった、複雑な表情が浮かんでいる。「和井田病院がトレンドを席巻してますよ!老人虐待なんて……動画まで流出しちゃって。もう、なんておぞましい連中なのかしら」心愛の瞼が、ぴくりと激しく跳ねた。吸い寄せられるように、視線をスマホの画面へと凝集させる。「……その件なら、昨夜のうちに目にしました。一晩明けても、まだ騒ぎは収まっていないのですね」「これで、この病院の面目は丸潰れ、完全に終わりですわね」隣で碧がなおも憤慨の声を上げる。「さっき木村部長に呼ばれたんですけど、あんな悪徳病院のくせに、厚かましくもうちの会社にイメージ回復の依頼を寄こしてきたんですって。ロゴをリニューアルしたいだなんて、悪い冗談としか思えませんわ」心愛は応えず、ただ画面の一点を見つめ続けていた。指の関節が白く浮き出るほど、握りしめた手に力がこもる。碧はその尋常ならざる様子に気づき、それまでの野次馬根性を引っ込め、案じるように声を落とした。「どうしたんですか?顔色がひどく真っ青ですよ」心愛は強張った頬を動かし、無理やり口角を吊り上げた。「……いえ、大丈夫です。昨夜、少し寝付けなかったものですから」「この案件、私が担当することになったんです。だから今日の午後、一度あの病院へ行かなきゃいけなくて。院長から具体的な要望を聞いてくるつもりです」碧はデスクの上のトレース台やノートを片付け始めた。「深水さんも、一緒に行きません?気晴らしになるかもしれませんし。今日のあなた、ここにいても仕事が手につかないみたいですから」あの病院へ――心愛の心臓が、ドクンと大きく脈打った。本能的な拒絶感が全身を駆け巡る。その名を耳にするだけで、肺が圧迫
おぞましい疑念の数々が、奔流のごとく伸びる蔦となって一瞬で心臓を縛り上げ、呼吸を奪うほどに締め付けた。けれど、一体誰に問えばいいというのか。貴臣に聞けというのか。その考えは、浮かんだ瞬間に自ら打ち消した。あの男の冷徹な横顔が脳裏を掠める。彼ならば、ただ他人事のような冷ややかさで「知りたいか?ならば、膝をついて乞うてみろ」と言い放つに決まっている。あるいは、また葵に謝れと強要するのだろうか。あの男の瞳に映るのは、いつだって悪女としての心愛であり、葵は決して過ちを犯さない汚れなき聖女なのだから。制御不能な思考の渦に、もう一つの顔が過った。暁。あの男ならば、不可能など存在しないのではないか――そんな錯覚さえ抱かせる。けれど、昨夜の食事の席での、あの険悪な諍め。「故人に似ている」という、あの不可解な言葉。……よそう、考えるのは。心愛は逃げるように、手元のスケッチブックへと視線を落とし、そこに顔を埋めた。もう少し描き進めて、案を練り上げよう。そう心に決めた矢先、碧からメッセージが舞い込んだ。【深水さん!もう仕事終わりましたか?】画面を確認した心愛は、碧に電話をかけ直した。コール音を待たずして、碧が声を弾ませる。「まだ会社ですよ。どうしたんですか?」「私のデスクの横にあるデザイン稿のファイル、悪いんだけど送ってくれないですか?家で少し残業したくて。木村部長に、明日までに提出しろって言われてしまって……」受話器越しに、碧の悲痛な叫びが響く。心愛は電話を肩に挟んだまま碧のデスクへと向かい、パソコンを立ち上げた。目的の原稿を見つけ出し、碧のメールボックスへと転送する。ログアウトしようとしたその刹那、心愛の瞳に、先ほどトレンドで見かけたあの病院のロゴが飛び込んできた。思わず、言葉がこぼれる。「高橋さん、どうしてあなたのデータに、病院のロゴがあるの?」「ああ、それね。以前、あの病院からロゴのデザインを依頼されたことがあって。中の方たちとは結構顔見知りなんですよ。遊びに来てって誘われるくらいにはね……それより深水さん、まだ残業してるんでしょ?早く帰って体を休めなさいよ」「ええ、分かっていますわ」電話を切った後、もはや仕事に集中することなど叶わなかった。心愛はパソコンの電源を落とし
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