身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った

身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った

Par:  炭酸が抜けたコーラMis à jour à l'instant
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
8.2
5 Notes. 5 commentaires
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鳴り物入りで世間の注目を集める弁護士、明石葵(あかし あおい)。桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は、そんな彼女に帰国後の初陣を飾らせるという名目のもと、妻の深水心愛(しみず ここあ)の反対を押し切り、葵に心愛の弟の弁護を委ねた。 しかし、その期待も虚しく裁判は敗訴に終わり、深水俊輔(しみず しゅんすけ)は実刑判決を下され、投獄の身となった。 世論の非難を一身に浴び、葵は弁護士としての面目を失墜させる。 にもかかわらず、貴臣はあろうことか、心愛に葵への謝罪を強いた。 さらに追い打ちをかけるように、俊輔の投獄に衝撃を受けた心愛の祖母までもが病に倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。 葵へのあからさまな贔屓を隠そうともしない貴臣を前にして、心愛はようやく悟る。 自分は、葵の「身代わり」に過ぎなかったのだと……

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Chapitre 1

第1話

「……被告人を、無期懲役に処する」

裁判官の宣告が、鼓膜を震わせた。

ブーン、と耳鳴りがする。

深水心愛(しみず ここあ)の体がぐらりと揺らぎ、危うくその場に崩れ落ちそうになった。

無期懲役……

そんな……

深水俊輔(しみず しゅんすけ)は、自分がずっと見守り、手ずから育ててきた弟なのだ。あの子が人を殺めるなど、あり得るはずがない!

開廷前、桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は何と言ったっけ?

「わがままはよせ、心愛」

眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせず、彼はそう言った。

「葵は海外から戻ったばかりで、専攻は法学だ。これは、彼女が帰国後に名を上げるための初陣だ。勝てば今後のキャリアにも箔がつく。お前の弟の弁護は、葵に任せておけば間違いない」

弟の命運を、明石葵(あかし あおい)などに託してたまるものか。心愛は、即座に反論した。

「貴臣、これは弟の命がかかっているのよ!葵が経歴に箔をつけるための踏み台じゃないわ」

しかし、彼は聞く耳を持たなかった。

その眼差しは次第に冷え、脅しにも似た色が浮かんだ。

「だからこそ、葵に任せるんだ。お前はただ、俺を信じていればいい」

――俺を信じろ、と。

心愛は、そんな彼の言葉を受け入れてしまった。

だが、その結果がこれだ。

法廷での葵は、冒頭陳述を読み上げたきり、その後は俊輔のために弁護らしい弁護をほとんどしなかった。

宇佐美紘(うさみ ひろし)側の弁護士が提示した証拠に対し、葵は反論するどころか、あろうことか相手の主張を認めるかのような素振りさえ見せたのだ。

紘のたった数言の告発に対しても、葵は異議さえ申し立てなかった。

そして、俊輔が無期懲役を宣告されるのを、ただ黙って見ているだけだった。

それも当然だ。俊輔は葵の弟ではない。自分の弟なのだから、彼女が同じ痛みを感じるはずもない。

心愛は、よろめきながら法廷を出た。廊下の冷気が肺を刺し、激しい咳が込み上げる。

前方に、二つの人影が見えた。葵が貴臣に寄り添い、肩を細かく震わせ、涙をぼろぼろと零して泣き崩れている。

「貴臣、ごめんなさい……私、本当に精一杯やったの。でも相手側の証拠の連なりが……あまりにも完璧で、どこにもつけ入る隙がなかった。もしかしたら……俊輔くんは、本当に有罪なんじゃないかって……」

「もういい。お前のせいじゃない」

貴臣の声は、心愛が今まで聞いたこともないほど優しさに満ちていた。彼はスーツの上着を脱ぎ、そっと葵の肩にかける。

「お前が全力を尽くしたことは、俺が一番よく知っている」

すすり泣いていた葵は、視界の端に心愛の姿を捉えると、その表情をさっと怯えたものに変えた。

「心愛さん……この度は、お力になれず、本当に……」

言葉が終わらないうちに、心愛は二人に向かって歩き出した。

彼女が近づいた瞬間、貴臣は反射的に葵を背後へとかばった。

それは、あまりにも自然で、あまりにも無意識の仕草だった。

葵を庇う貴臣の姿に、心愛の瞳に底知れぬ失望が広がる。

葵を抱き寄せる貴臣の腕を見て、心愛は悟った――もはや彼は、かつての貴臣ではないのだと。

それでも、無実の罪を着せられた弟を思うと、葵を睨みつけずにはいられなかった。

「どうして?」心愛の声は乾き、かすれていた。「宇佐美の証言にはあれほど矛盾があったのに、なぜ一言も反論しなかったの?あなたは一体、どっちの代理人なの!?」

葵は貴臣の背後に隠れ、泣き腫らした目だけを覗かせている。その姿は、いかにも無垢で哀れに見えた。

心愛に答えたのは、貴臣だった。

「いい加減にしろ、心愛。事実は明白だ。いつまで騒ぎ立てるつもりだ?」

「事実?」心愛は乾いた笑いを漏らした。「どんな事実よ。俊輔は人を殺してなんかいない!あの子は、ただアルバイトに行っていただけよ。人殺しなんて、できるわけがないじゃない!」

感情は、堰を切ったように溢れ出す。「宇佐美紘がどんな人間か、知らないわけじゃないでしょう?名雲中じゃ、あいつが人の命を弄ぶ道楽息子だって、知らない者はいないわ!前にも、人を弄んで死なせたという噂があったのに……どうして彼を調べないの?どうして彼の戯言を信じるのよ!」

「おっと、そこのお嬢ちゃん、言葉には気をつけろよ」

軽薄な声が、横から割り込んできた。

両手をポケットにねじ込んだまま、紘は階段を悠然と降り、心愛の前で足を止めた。その口元には、あからさまな悪意を孕んだ笑みが浮かんでいる。

「俺が人を死なせた、だと?くだらん噂を鵜呑みにするなよ。証拠もなくそんなことを口走れば、名誉棄損になるぜ。訴えられたくなければ、その口は慎むことだな」

紘は心愛を顎でしゃくるように見下ろした。その眼差しには、隠す気もない侮蔑と挑発の色が滲んでいる。

やがてその視線は心愛を通り越し、貴臣の背後から不安げに顔を覗かせる葵を捉えて交錯した。その一瞬の目配せには、まるで共犯者のような得意げな光が宿っていた。

言いたいことだけ一方的に言い放つと、紘は愉快な見世物でも堪能したかのように口の端を吊り上げ、取り巻きを引き連れて勝ち誇ったように去っていった。

その背中が見えなくなった矢先、誰かが叫び声を上げた。

「おい、見ろ!桐生社長だ!」

「明石弁護士も一緒だぞ!」

その声を皮切りに、瞬く間に大勢の記者が四方八方から押し寄せ、心愛たち三人を幾重にも取り囲んだ。

「明石先生、今回の判決について一言お願いします!」

「鳴り物入りで帰国された初陣が敗訴となりましたが、今のお気持ちは!」

「法廷では弁護に力が入っていなかったとの声もありますが、事実ですか!?」

「桐生社長、なぜこの裁判を明石弁護士に?」

無数のマイクが突きつけられ、容赦ない質問が浴びせられる中、葵の顔が一瞬にして蒼白に染まった。

貴臣の表情もたちまち険しくなる。

彼は怯える葵を強く抱き寄せると、自らの体で無数のカメラレンズから彼女を庇った。そして人垣を押し分けるようにして、一度も振り返ることなく自分の車へと向かう。

その傍らに心愛が立っていることなど、まるで思い出すことすらないかのように。

彼は、記者たちの渦中に、心愛をただ一人置き去りにした。

遠ざかる二人の背中を見つめる心愛の胸に、冷たい痛みがしんしんと込み上げてきた。

貴臣を追うのを諦めた記者たちは、即座に標的を変え、残された心愛へと殺到した。

「そちらの方、あなたは深水俊輔さんのご家族ですか?」

「今回の判決について、お考えをお聞かせいただけますか?」

「明石弁護士の仕事ぶりはいかがでしたか?」

その喧騒の中、一人の目ざとい芸能記者が何かに気づいたように、甲高い声を張り上げた。

「待ってください!あなた……もしかして、桐生グループの社長夫人、深水心愛さんではありませんか!?」

その一言は、静寂に投じられた石のように波紋を広げ、その場の空気を一変させた。

すべてのカメラレンズが、一斉に心愛の顔へと向けられる。

「本当だ、社長夫人だ!」

「ってことは、被告は社長夫人の弟か?とんでもないセレブスキャンダルだぞ!」

そんな喧騒の中に、心愛を氷の底へと突き落とす囁き声が混じっていた。

「じゃあ、さっき桐生社長が庇っていたのが、噂の明石葵か。三年前、桐生社長の元を去ったっていう……彼女こそ、桐生社長がずっと想い続けていたという『本命の元カノ』らしいぜ」

「ああ、だからか!言われてみれば、社長夫人とあの明石葵、どことなく目元が似ている……」

「なるほどな!どうりで深水家が破産した途端、桐生社長が周囲の猛反対を押し切って、ただの養女だった深水心愛と結婚したわけだ。つまり……元カノの『身代わり』を見つけた、ってことか」

身代わり。

その言葉が、雷鳴のように心愛の思考を打ち砕いた。

そうか、そういうことだったのか。

深水家が倒産し、居候の養女だった自分が生活のために三つもアルバイトを掛け持ちしていた、あの頃。雲の上の存在だったはずの貴臣が、なぜ周囲の反対を押し切ってまで自分を妻に迎えたのか。その謎が、今、すべて解けた。

あれは救いだと思っていた。暗闇に差し込んだ、唯一の光だと信じていた。

だが、すべてははじめから、滑稽な茶番に過ぎなかったのだ。

自分はただ、彼の愛した女の面影を宿す、身代わりに過ぎなかった。

心愛はその場に凍りついたように立ち尽くした。無数のフラッシュが白く視界を焼く中、貴臣が冷たく去っていった虚空を見つめ、乾いた笑いが唇からこぼれ落ちた。

この三年間、ひたむきに、すべてを捧げる想いで尽くしてきた結婚生活。

それらすべてが、結局は彼女一人の、滑稽な一人芝居だったというわけだ。

その頃、葵はスマートフォンを手に、自分の名前がSNSのトレンドを駆け上がっているのを確認していた。そしてある番号へ短いメッセージを送ると、すぐさまその送信履歴を削除した。

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commentaires

久美
久美
続きはいつですか?早く心愛の幸せをみたいのですが!
2026-03-06 09:16:01
12
0
ritsu
ritsu
貴臣から心愛への愛情は一切感じない むしろ精神的に追い込んでくる 元サヤは絶対反対 ステキな人とハッピーエンドを迎えてほしい
2026-02-17 15:17:51
24
0
まる
まる
面白いです。続きを早く読みたいです。
2026-02-09 23:29:28
12
0
紀久子
紀久子
面白くて40話迄あっという間に 読んでしまいました。 続きが楽しみです♪
2026-02-09 19:19:07
6
0
井口サエ子
井口サエ子
主人公の後援者はいなくて、理不尽で脳無しのくせに自己肯定過剰の金持ち連中にいじめられすぎる話しで、読むと心が荒む、痛快爽快話が欲しいです
2026-03-01 19:06:22
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第1話
「……被告人を、無期懲役に処する」裁判官の宣告が、鼓膜を震わせた。ブーン、と耳鳴りがする。深水心愛(しみず ここあ)の体がぐらりと揺らぎ、危うくその場に崩れ落ちそうになった。無期懲役……そんな……深水俊輔(しみず しゅんすけ)は、自分がずっと見守り、手ずから育ててきた弟なのだ。あの子が人を殺めるなど、あり得るはずがない!開廷前、桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は何と言ったっけ?「わがままはよせ、心愛」眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせず、彼はそう言った。「葵は海外から戻ったばかりで、専攻は法学だ。これは、彼女が帰国後に名を上げるための初陣だ。勝てば今後のキャリアにも箔がつく。お前の弟の弁護は、葵に任せておけば間違いない」弟の命運を、明石葵(あかし あおい)などに託してたまるものか。心愛は、即座に反論した。「貴臣、これは弟の命がかかっているのよ!葵が経歴に箔をつけるための踏み台じゃないわ」しかし、彼は聞く耳を持たなかった。その眼差しは次第に冷え、脅しにも似た色が浮かんだ。「だからこそ、葵に任せるんだ。お前はただ、俺を信じていればいい」――俺を信じろ、と。心愛は、そんな彼の言葉を受け入れてしまった。だが、その結果がこれだ。法廷での葵は、冒頭陳述を読み上げたきり、その後は俊輔のために弁護らしい弁護をほとんどしなかった。宇佐美紘(うさみ ひろし)側の弁護士が提示した証拠に対し、葵は反論するどころか、あろうことか相手の主張を認めるかのような素振りさえ見せたのだ。紘のたった数言の告発に対しても、葵は異議さえ申し立てなかった。そして、俊輔が無期懲役を宣告されるのを、ただ黙って見ているだけだった。それも当然だ。俊輔は葵の弟ではない。自分の弟なのだから、彼女が同じ痛みを感じるはずもない。心愛は、よろめきながら法廷を出た。廊下の冷気が肺を刺し、激しい咳が込み上げる。前方に、二つの人影が見えた。葵が貴臣に寄り添い、肩を細かく震わせ、涙をぼろぼろと零して泣き崩れている。「貴臣、ごめんなさい……私、本当に精一杯やったの。でも相手側の証拠の連なりが……あまりにも完璧で、どこにもつけ入る隙がなかった。もしかしたら……俊輔くんは、本当に有罪なんじゃないかって……」「もういい。お前のせいじゃない」
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第2話
ポケットの中でスマホが一度、微かに震えた。取り出すと、画面がぱっと明るくなり、貴臣からのメッセージが表示された。【葵が帰国して最初に手掛けた案件を、お前たち姉弟が台無しにしたんだ。世間は今、彼女の実力を疑っている。速やかに謝罪と説明動画を公開しろ。そうすれば物議も鎮まる】画面越しであっても、貴臣の冷え切った眼差しがありありと浮かぶ。心愛はその一文を、じっと見つめ続けた。指先がかすかに冷たくなる。台無しにした?たった一人の弟が濡れ衣を着せられ、投獄されたというのに、貴臣の目には、それは葵のキャリアについた汚点としか映っていないのだ。その上、自分に謝罪しろと言う。胸の奥に何かが詰まったようで、返信を一文字打つ気力すら湧かなかった。彼女は躊躇なく、削除ボタンをタップした。ふと、祖母・深水文子(しみず ふみこ)の顔が脳裏をよぎる。俊輔の事件が起きて以来、心愛は文子にだけは事実を伏せ続けてきた。俊輔は遠方で缶詰の研修に行っていて、数か月は帰らない――そう説明してある。文子は高齢で、心臓も弱い。強い刺激に耐えられない。これ以上、何かあってはならない。そう思った瞬間、心愛はタクシーを拾っていた。「運転手さん、清水町まで」清水町は旧市街にあり、街灯さえどこか薄暗い。車を降りると、心愛は古びた集合住宅の中へ急いだ。三階まで一気に駆け上がり、玄関の前に立って鍵を取り出す。だが、差し込んでも回らない。中から鍵がかかっている。胸を撫で下ろす。おばあちゃんは家にいる。鍵をしまい、ドアを叩いた。「おばあちゃん、帰ったよ」返事はない。もう一度叩き、少し声を張り上げる。「おばあちゃん?私だよ、心愛だよ」嫌な予感が胸の奥を這い上がる。祖母は少し耳が遠いが、この音に気づかないはずがない。心愛はスマホを取り出し、文子の番号を押した。「おかけになった電話は、現在応答がありません……」諦めきれず何度もかけ直すが、返ってくるのは同じアナウンスばかり。不安が雪だるまのように膨らんでいく。「おばあちゃん!中にいるの?開けて!おばあちゃん!」その時、隣のドアが「ギィ」と音を立てて開き、隣人の主婦・田中優子(たなか ゆうこ)が顔を覗かせた。眠たげな目で心愛を見る。「心愛ちゃん、そんなに叩かなくて
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第3話
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第4話
貴臣は心愛が折れたのを見ると、すぐに隆に指示を出し、必要なものを持って来させた。それは、心愛が文子の病室に戻って間もなくのことだった。隆はプリントアウトされた「謝罪文」を手に、足早に現れた。「心愛さん、始めましょう。これが原稿です。社長は、これに沿って読んでいただければいいとおっしゃっていました」心愛は目を伏せ、原稿用紙に並ぶ、真実を歪めた言葉の列を見つめた。それはまるで、俊輔が犯人であることを既成事実のように定め、葵が騙されて弁護を引き受けたのだと語っているかのようだった。「私……」口を開いたものの、内心の葛藤はそのまま表情に滲み出ていた。心愛は唇を固く結ぶ。今は祖母の安否の方が何よりも重要だと分かっていた。祖母が戻ってきたら、必ず証拠を見つけ、俊輔の無実を証明する――そう、胸の奥で誓った。「心愛さん、お祖母様の病室はすでに手配済みです。名雲市でも最高水準の医療チームが待機しています」隆は金縁眼鏡を押し上げ、感情のこもらない声で告げた。これは、祖母の命を賭けた取引なのだ。心愛の瞳の奥が、少しずつ冷えていくのを自覚した。今や貴臣は取り繕うことすらしない。葵が彼にとってそれほど重要な存在なら、なぜ最初から自分と結婚したのか――そんな疑問が、遅れて胸に沈んだ。心愛はスマートフォンを取り出し、紙の上の文字をなぞるように見つめながら、読み上げ始めた。「私の弟、深水俊輔の事件に関しましては、多くの誤解がございました。明石弁護士は法廷で職務を全うされましたが、私個人が実情を正しく把握しておらず、弟のことを十分に理解していなかったため、皆様に多大なご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます……」録音を終えると、隆が一度内容を確認し、静かに頷いた。「社長が確認します。お祖母様は、すぐこちらに戻されます」そう言い残すと、心愛に目も向けず背を向け、部屋を後にした。隆が去ると、病室は不気味なほど静まり返った。心愛は突然、底冷えのような寒気に襲われ、俊輔への罪悪感が激しく込み上げてきた。スマートフォンが一度、短く震えた。銀行からのショートメッセージだった。名雲病院で十年は賄えるほどの巨額が、彼女の口座に振り込まれていた。これが、貴臣のやり方。金で、人の口を封じる。心愛は、貴臣が自分を口説いていたあの頃
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第5話
心愛は病院に戻り、文子に付き添って一晩を明かした。翌朝、スマートフォンの通知音で目を覚ます。手に取って画面を見ると、真っ先にトレンドが目に飛び込んできた。#桐生グループ社長夫人が明石葵の潔白を証明#その横には、真っ赤な「急上昇」の表示。タップすると、最上段に問題の動画が表示され、コメント欄は罵詈雑言で埋め尽くされていた。【演技うますぎだろ。オスカー獲らないとかもったいない。弟が捕まったと思ったら、今度は仇の潔白証明?いくら積まれたんだよ】【浅はかだな。金目当て?いや、あいつは桐生夫人だろ。欲しいのは地位だよ。生活守るためなら何でも売るさ】【見てるだけで吐き気する。死んだ魚みたいな目で、まだ情があるふり?弟が捕まるのも当然だわ、こんな姉なら】【葵ちゃんがかわいそう。こんな悪女に絡まれて、それでも寛大ぶって許してあげなきゃならないなんて。桐生さん、見る目なさすぎ】容赦のない言葉が、次から次へと突き刺さる。だが、悲しんでいる暇はなかった。文子はいまだ意識を取り戻さず、俊輔の無実も証明されていない。気丈でいなければならなかった。心愛はニュースをスワイプして消した。すると今度は、経済アプリの通知が浮かび上がり、その見出しはさらに目に痛かった。『社長夫人の不祥事報道を受け、桐生グループ株、寄り付きで7%急落。時価総額は一時、約2000億円減少』まさか、自分にこれほどの「価値」があるとは。心愛は画面を消し、もうスマートフォンを見るのをやめようとした。そのとき、切迫した着信音が鳴り響いた。発信者は、貴臣の祖母・桐生雅子(きりゅう まさこ)。一瞬ためらったものの通話に出ると、挨拶を口にするより早く、罵声が飛び込んできた。「この疫病神が!」雅子の甲高く意地悪な声が、途切れることなく続く。「よくもまあ、まだ桐生家にいられるわね!自分のやったことを見てごらんなさい!うちの面子はあんたのせいで台無しよ!株価は暴落、あんたに弁償できるの!?」心愛は何も言わず、ただ受話器を握りしめて聞いていた。「だから言ったでしょ、小金持ち上がりの人間は表に出るべきじゃないって!わざとやってるんでしょう?うちが苦しむのを見て楽しいの?刑務所にいる弟と同じ、根っから腐ってる!」雅子の声はさらに激しさを増す。「貴
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第6話
「二階の端にある物置部屋を使ってくれ。葵は体が弱くてね、医者から日当たりのいい部屋に住むよう言われている。うちの寝室は、もう彼女が使っているんだ」背後から貴臣の声がした。心愛は、階段を上っていた足をぴたりと止めた。葵に向けるその気遣いと優しさ。それは、この三年間、彼が一度として自分に向けたことのないものだった。言い争う気力すら湧かず、「分かった」とだけ答え、黙って物置部屋へ向かった。物置部屋は埃にまみれていた。簡単に片づけを終えた頃には、すでに深夜になっていた。押入れから布団を引っ張り出し、そのまま横になる。体は鉛のように重いのに、心愛は窓から差し込む淡い光を見つめたまま、どうしても眠れなかった。結婚してから、心愛は貴臣のために、いちばん好きだったデザインの仕事を手放した。家事に専念し、「良き妻」であることを学んできた。だが今、「離婚」という考えがひとたび芽生えると、それは蔓のように際限なく伸び、心臓を絡め取って離さなかった。もはや、貴臣への想いは完全に砕け散っている。彼が自分と結婚した理由が、葵に似ていたから――ただの代替品だったということは、今や誰の目にも明らかだった。それでも。どうすれば、離婚できる?桐生家は名雲市で絶大な権力を誇り、貴臣は骨の髄まで支配欲に染まった男だ。愛がなくとも、この結婚が「失敗」になることだけは決して許さないだろう。まして心愛の側から離婚を切り出すなど、到底受け入れられるはずがない。弁護士を探したところで、すぐに圧力がかかり、断られるのが関の山だ。心愛は寝返りを打ち、頭の中で思考が凄まじい速度で渦を巻く。そのとき、ある名前が、記憶の底から浮かび上がった。桐生清夏(きりゅう さかや)。親友であり、桐生家傍系の婚外子。心愛ははっきり覚えている。清夏は大学で法律を学び、全額奨学金で留学していたはずだ。当時、深水家に問題が起きた頃、清夏はまだ海外にいた。その後帰国してから、何度も連絡をくれた。だがその頃、心愛はすでに貴臣と結婚していた。清夏が桐生家で苦労していることも知っていた。これ以上迷惑をかけたくなかった。自分のことで、ただでさえ厳しい彼女の立場を、これ以上悪くしたくなかった。だから、連絡できずにいた。今思えば、本当に愚かだ。心愛は清夏の
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第7話
電話の向こうで、清夏の声は簡潔で、迷いがなかった。「わかった。私が作っておく。明日の昼十二時、桐生グループ本社の隣にあるカフェで渡すわ」「桐生の本社から、もう少し離れた場所にできないかな」心愛は声を潜めて言った。貴臣に見つかりたくない。会社の周辺は、あまりにもリスクが高すぎる。「どこがいいの?」清夏の語気が和らいだ。「中央区にある『MOMENT』っていうカフェ」心愛は間髪入れずに答えた。清夏はまだ何か言い足りない様子だった。心愛には、清夏が自分を心配してくれているのが分かっていた。だが、すでに巻き込んでしまっている以上、胸の内は申し訳なさでいっぱいだった。自分が去ったあと、清夏まで被害を受けるのではないかという不安もある。心愛は慌てて「もう寝るね」と告げ、電話を切った。物置部屋の床は骨身にこたえるほど硬く、心愛は寝返りを打っても眠りにつけなかった。背中の骨が突き上げられるように痛む。結婚当初、この家のレイアウトはすべて貴臣から任され、自分で設計したことを思い出す。仕事から帰った彼がぐっすり眠れるようにと、わざわざ甘えてねだり、海外から脊椎構造に合わせた特注のマットレスを取り寄せたこともあった。それなのに、葵が戻ってきた今では、自分の寝室さえも譲らなければならない。心愛は自嘲気味に微笑み、胸の奥からこみ上げる切なさを飲み込んだ。もっとも、あのベッドで貴臣が眠ったことなど、結婚してから数えるほどしかなかったのだが。ほとんど一睡もできないまま、空が白み始めた頃になって、ようやくうつらうつらと意識が沈んだ。耳を突くアラームが、正確に鳴り響く。心愛ははっと目を開けた。一瞬、自分がどこにいるのか分からず呆然としたが、部屋の隅に積み上げられたガラクタが視界に入り、完全に意識が覚醒した。今日は桐生グループに出勤する日だ。昨日、貴臣と交わした約束である。余計な波風を立てないためにも、今は彼を怒らせるわけにはいかない。素早く身を起こし、洗面台の鏡に映る青白い顔を見つめる。簡単にメイクを施し、最後に口紅を引くと、ようやく少し血色が戻った。心愛は階段を下りた。空気の中には、トーストとコーヒーの香りが漂っている。貴臣と葵がテーブルを囲んでいた。男は仕立ての良いオーダーメイドのシャツを纏い、腕まくりした袖口
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第8話
すべての手続きを終え、心愛は社長室の外側に設けられた小さなブースへ案内された。そこにはデスクと椅子、そしてパソコンが一台あるだけで、これ以上ないほど簡素な造りだった。今の心愛の肩書きは、名目上は社長秘書だ。だが、彼女がコネで入社したことは、誰もが知る事実だった。心愛がパソコンを立ち上げると、画面には桐生社内共通の壁紙が映し出された。中身を確認してみても、データは何も入っていない。一時間が経ち、内蔵されていたマインスイーパーを三回クリアし、しばらくぼうっと過ごした後、彼女は様子を見に外へ出てみようと考えた。そのとき、オフィスの外がにわかに騒がしくなった。貴臣が戻ってきたのだと気づいた心愛は、自分に割り当てる仕事をもらおうと彼を訪ねることにした。ブースを出ると、ちょうど重役や幹部たちに囲まれた貴臣の背の高いシルエットが、ガラスのパーテーション越しに通り過ぎ、一番奥の社長室へ入っていくのが見えた。心愛は、社長室のドアが閉まるのを見届けて足を止めた。深水家は破産したが、彼女は無能な人間ではない。貴臣と結婚する前、彼女は名門大学を卒業し、全額給付の奨学金を得ていたデザイン科期待の新星だった。だが、そんな事実に貴臣が目を向けたことは一度もなかった。心愛は深く息を吸い込み、固く閉ざされたそのドアへ歩み寄った。ノックをすると、中から男の低く冷ややかな声が響いた。「入れ」心愛はドアを押し開けて中へ入った。貴臣は大きなデスクの向こうに座り、手元の資料に目を落としたまま、彼女に視線を向けることすらしない。静かな室内にあっても、彼が放つ圧倒的な威圧感は少しも衰えていなかった。「社長」心愛が口を開くと、その声は波風ひとつ立たぬほど穏やかだった。貴臣はようやく顔を上げ、それが心愛だと分かると、眉間にわずかな皺を寄せた。「何の用だ」心愛は真っ直ぐに彼を見据えた。「何か、私に任せていただける仕事はないかと思いまして。ただ、じっとしているわけにもいきませんから」貴臣の視線が、二秒ほど彼女の顔に留まった。その眼差しに探究心はなく、ただ品物を検品するかのような冷淡さだけが宿っている。桐生家に釣り合う嫁にするため、深水家がどれほどの金を積んで心愛を名門校にねじ込んだか、彼が知らないはずがない。草花を描くしか能のない
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第9話
「ついでなんだから、私の分も買ってきてよ。アイスアメリカーノ、シロップ抜きね。よろしく」ウェーブヘアの女はそう言いながらスマホを取り出した。「私も。ラテ、ミルク多めで」「私はカプチーノ!」女性社員たちは口々に注文を重ねてくる。心愛をパシリ扱いするのが当然だと言わんばかりの態度だった。コネで入ってきた新人にすぎない心愛が、古参の自分たちに逆らえるはずがないと高をくくっているのだ。カードを握る指先に、ぎゅっと力がこもる。心愛は顔を上げ、勝ち誇ったように見下ろしてくる女性社員たちを、冷ややかに見据えた。「一杯買うのも、数杯買うのも同じでしょ」ウェーブヘアの女が、追い打ちをかけるように言った。心愛の表情が険しくなる。声は低く、小さかったが、拒絶の意志ははっきりしていた。「飲みたければ、自分で行けば。それとも、あなたの足はただの飾り?」ウェーブヘアの女の顔から笑みが消えた。「なんですって?調子に乗らないでよ!頼んであげてるんだから、ありがたく思いなさいよ!」心愛が言い返そうとした、そのときだった。廊下の向こうから、見覚えのある影が近づいてくるのが視界の端に入った。瑞樹だ。彼は手元の資料に目を落としたまま、こちらへ向かってくる。心愛の脳裏に、ひとつの考えが閃いた。「ごめんなさい……私、社長にコーヒーを頼まれていて。お待たせするわけにはいかないんです」声は急に弱まり、わずかに震えを帯びる。その豹変ぶりに、女性社員たちは一瞬呆気に取られた。そこへ、心愛の弱々しい様子を見て下心を起こしたのか、一人の男性社員がにやけ面で近づいてきた。「まあまあ、新人を困らせちゃダメだよ。深水さん、コーヒーくらい俺が代わりに行ってあげようか?」そう言いながら、馴れ馴れしく手を伸ばし、脂ぎった指先で心愛の頬に触れようとする。心愛は嫌悪感に眉をひそめ、身を引こうとした、その瞬間――「ゴホン」小さく、だが鋭い咳払いが響いた。いつの間にか背後に立っていた瑞樹が、眼鏡の奥から冷徹な視線を投げていた。「就業時間中に集まって、随分とお暇なようですね」社員たちの表情が凍りつく。瑞樹の姿を認めた途端、蛇に睨まれた蛙のように、さっきまでの威勢は霧散した。手を伸ばしていた男性社員も、びくりと肩を震わせ、慌てて手を引っ込める。「は、林補佐……」
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第10話
正午、休憩時間になるやいなや、心愛は清夏との約束のことを考え、バッグを手に取って足早にブースを後にした。貴臣が社長室の磨りガラスのドアから一歩踏み出した瞬間、視界の端を一筋の影が猛スピードで駆け抜けた。かすかな風を残して去っていったのは、華奢でありながらも凛と伸びた背中だった。貴臣は思わず足を止め、エレベーターに吸い込まれていく心愛の後ろ姿を見送りながら、言いようのない苛立ちを覚えた。あんなに急いで、一体どこへ行くつもりだ?その思いが浮かんだ瞬間、彼は自ら打ち消す。彼女がどこへ行こうと、自分には関係のないことだ。どうせ病院へ祖母の見舞いにでも向かったのだろう。眉をひそめかけたその時、ポケットのスマホが震えた。画面に表示された「葵」の名前を見た途端、先ほどまでの苛立ちは一瞬で霧散する。通話ボタンをスライドさせると、無意識のうちに声が和らいだ。「どうした?」電話の向こうから、心細そうな葵の声が返ってくる。「貴臣……私、低血糖になっちゃったみたい。頭がくらくらするの……」貴臣の心臓が跳ね、スマホを握る指に力がこもった。「どこにいる?動くな、すぐ行く」「事務所のビルの一階にあるカフェで待ってる……」「わかった、すぐ行く」彼は通話を切ると、ほとんど駆け出すようにしてエレベーターへ向かった。ついさっき目にした心愛の慌ただしい後ろ姿など、すでに記憶の彼方へと押し流されていた。貴臣はまるで疾風のごとく、一路カフェへと駆けつけた。ドアを開けると、窓際に座る葵の姿がすぐに目に入る。彼女はうつむき加減で、ティラミスを少しずつ口に運んでいた。顔色はやや青白いものの、瞳にははっきりと光が宿っており、状態はそれほど悪くないようにも見えた。貴臣は大股で近づき、自分でも気づかぬほどの緊張を滲ませて尋ねた。「低血糖は治まったか?」葵は彼に気づくと、ぱっと表情を明るくし、フォークを置いて彼の袖口を掴んだ。その仕草には露骨な依存がにじんでいる。「貴臣、来てくれたのね。同僚が持ってきてくれたスイーツを食べたら、だいぶ楽になったみたい」貴臣は眉を寄せ、葵の額に手を当てた。熱はない。それでも、胸の奥の不安は消えなかった。「だめだ。病院で診てもらわないと」「いいわよ、もう治ったんだから」葵は甘えるように言った。彼女はただ、貴
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