Se connecter鳴り物入りで世間の注目を集める弁護士、明石葵(あかし あおい)。桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は、そんな彼女に帰国後の初陣を飾らせるという名目のもと、妻の深水心愛(しみず ここあ)の反対を押し切り、葵に心愛の弟の弁護を委ねた。 しかし、その期待も虚しく裁判は敗訴に終わり、深水俊輔(しみず しゅんすけ)は実刑判決を下され、投獄の身となった。 世論の非難を一身に浴び、葵は弁護士としての面目を失墜させる。 にもかかわらず、貴臣はあろうことか、心愛に葵への謝罪を強いた。 さらに追い打ちをかけるように、俊輔の投獄に衝撃を受けた心愛の祖母までもが病に倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。 葵へのあからさまな贔屓を隠そうともしない貴臣を前にして、心愛はようやく悟る。 自分は、葵の「身代わり」に過ぎなかったのだと……
Voir plusデザイン部の休憩エリアでは、コーヒーマシンが豆を挽く音だけが、なおも静かに響いていた。悠花はその場に立ち尽くし、両手でデスクの角を死に物狂いで掴んでいた。爪が白く裏返るほど、指先には凄まじい力が込められている。床には、瑞人の写真が表紙になった学術雑誌が落ちていた。かつては端正で知性に満ちて見えたその顔も、今では無惨に引き裂かれ、星形の破片となって埃まみれに転がっている。「悠花さん、もうやめて。手が痛むでしょう」心愛が歩み寄り、その手をそっと止めようとした。「痛む?痛いのは私の心よ!」悠花は弾かれたように顔を上げた。その瞳は恐ろしいほど赤く充血し、大粒の涙が今にも溢れそうに滲んでいた。けれど、彼女特有の意地と激しさだけが、かろうじて涙を堰き止めている。「心愛さん、私……今まで瑞人のこと、この世で一番潔白な人間だと思ってた。あの手は、人を救うためにあるんだって。なのに結果はどう!?あいつはその手で、葵っていうあの腐った生ゴミを泥沼から引っ張り上げたのよ!こんなの人助けなんかじゃない。私たちの心臓に刃物を突き立てる裏切りじゃない!」悠花は怒鳴りながら、半分だけ残っていた雑誌を掴み上げると、まるで憎き仇を引き裂くかのように、バリバリと音を立てて真っ二つに破り捨てた。「私、本当に目が腐ってたわ。あいつを浮世離れした高潔な聖人だなんて思ってたなんて……ペッ、ただの善悪の区別もつかない偽善者じゃない!母親の遺言なんて大義名分を振りかざして、殺人犯を庇うなんて……そんなに理想論を語りたいなら、今すぐあの世の母親のところへ行って添い遂げればいいのよ!」悠花は引き裂いた紙屑を床へ叩きつけ、荒い呼吸を繰り返した。胸が激しく上下している。「心愛さん、本当にごめんなさい。私、今まで何度もあいつを褒めて、あなたの前で持ち上げたりして……もう、自分の頬を引っぱたいてやりたいくらいよ」床一面に散らばる惨状を見つめながら、心愛は、自分の胸の奥に沈殿していた瑞人への冷え切った絶望が、悠花の燃え上がる怒りによって、少しだけ薄れていくのを感じていた。彼女はそっと腕を伸ばし、悠花を抱き締める。その身体は、怒りと悔しさで小刻みに震えていた。「あなたのせいじゃないわ」心愛は静かに言った。「人は変わるものよ。それとも……私たちは最初か
碧は言えば言うほど怒りが込み上げてきたのか、スマートフォンの画面を心愛の目の前へ突きつけた。「ネットの反応、見てください!私だって黙って見てたわけじゃありませんからね。さっき捨て垢を何十個も作って、葵が昔、桐生家でやらかしたあのゲスな悪事とか、深水さんを土下座させた動画とか、全部トレンドの最上位にぶち込んでやりました!保釈令が何だって言うんですか。あいつが少しでも街に顔を出そうものなら、世間の唾で溺れ死にさせてやりますよ。これぞ大衆の力ってやつです!」猛烈な勢いで流れていくリプライの数々。そして、興奮で顔を真っ赤に染めている碧の姿。凍りついていた心愛の胸に、小さな火が灯ったような気がした。「碧、ありがとう」心愛は静かに微笑む。「お礼なんて水臭いですよ!私たち、一緒に修羅場を潜り抜けてきた戦友じゃないですか!」碧は勢いよく自分の太腿を叩いた。「あの梅原って男は、先輩の優しさにつけ込んでるだけです。命の恩人だからって何なんですか?この世に命の恩人なんていくらでもいますけど、恩を売った相手の家を後ろから放火するような奴、聞いたことありませんよ!それ、もう恩を盾にした脅迫です!」「昂一」暁はオフィスの入り口に向かって声をかけた。ずっとで控えていた昂一が、すぐさま分厚い書類の束を抱えて部屋へ入ってきた。「社長」「洗え。康永メディカルの過去五年分の全収支だ。特に、奴らが経営しているあの私立精神病院を徹底的に調べろ。不法収容の疑いがある。それから法務部長を呼んで。俊輔の件は、今日から一切妥協なしで再告訴の手続きを進める。あの保釈令を、二十四時間以内にただの紙屑へ変えてみせなさい。梅原家が葵を囲い込みたいなら、身ぐるみ剥がされるまで追い詰めてやるだけだ。名雲市に、法律を玩具にするような『名門』はいらない」「承知いたしました!」昂一は短く応じると、風を切るような足取りで即座に立ち去った。心愛は席に座ったまま、暁の背中を静かに見つめる。「梅原。あんたが葵を守るというのなら、私はこの手で、彼女をあの檻の中へ引き戻してみせる。あんたがI国で助けてくれた恩も、今日ここで徹底的に帳消しにしてあげるわ」その瞳から、生気のない虚無は消えていた。そこに宿っていたのは、幾多の試練を経て研ぎ澄まされた、冷徹な
デザイン部の自分のデスクへ戻ってきた時、心愛の足元はひどく頼りなかった。まるで、どこへも辿り着けない腐った綿屑の上を歩かされているように、地に足がつかない。その瞳には、もう何の生気も宿っていなかった。視線の先では、閉じられないままのウェブニュースが画面に映し出されている。それはまるで、無数の返し刃を備えた巨大な焼き鏝のように、執拗に彼女の心を焼き続けていた。黒い高級ミニバンの後部座席に深く腰掛ける葵の横顔。そして、電話越しに突きつけられた瑞人の――「僕がやったんだ」というあの言葉。そのすべてが、この半年間、心愛が血を滲ませながらようやく築き上げてきた僅かな信頼と、心の拠り所を、跡形もなく粉々に打ち砕いていた。心愛は、デスクの片隅に置かれた一本の鉛筆を、ただぼんやりと見つめていた。だが次の瞬間、指先の神経が痙攣するように小さく震える。マイボトルへ手を伸ばそうとしても、指が激しく震えてしまい、どこを掴めばいいのかさえ分からなかった。「深水さん、ホットミルク飲んでください。角砂糖、三つ入れてありますから」碧の声はどこか掠れていた。マグカップがデスクへ置かれ、鈍い音を立てる。心愛は顔を上げられなかった。周囲から向けられる視線。同情、憐憫、そしてどこか他人の不幸を面白がるような好奇の眼差し。それらが無数の棘となって後頭部へ突き刺さってくるのを、肌で感じていたからだ。コツン――不意に、デスクを軽く叩く音が響く。心愛が虚ろな視線を持ち上げると、そこには底知れない漆黒を宿した暁の瞳があった。彼は最上階の社長室へ戻らず、そのままデザイン部のフロアへ直行してきたのだ。この瞬間の彼は、加賀見家という巨大組織を掌で動かす絶対的支配者であり、同時にこの廃墟のような絶望の中で、心愛が唯一縋りつける錨でもあった。暁は人差し指を曲げ、デスクを二度、コンコンと叩く。「飲め」たった二文字。だがそこには、拒絶を許さない強い命令の響きがあった。心愛はマグカップを両手で包み込んだ。掌から伝わる熱が、凍え切った身体へ少しずつ広がっていく。彼女は機械のように、一口だけそれを啜った。喉を焼くほど甘いはずなのに、その味はひどく苦かった。「お兄ちゃん……」ようやく絞り出した声は、酷く掠れていた。
彼の言葉はそこで一度途切れた。その瞳から、骨の芯まで射抜くような冷徹な光が迸る。「だが、お前が犯した最大の過ちは――深水家の仇を救い出すことで、梅原家の恩義を返そうとしたことだ」瑞人は荒く息を吐きながら、それでもなお言い訳を重ねようとした。「僕は心愛の命を救ったんだ!I国で、あの時僕がいなければ、彼女はとっくに凍死していた!加賀見、あんたにそこまで言われる筋合いはないはずだ。加賀見グループがここ数年で潰してきた企業がどれだけある?皆、それぞれの利益のために動いているんだ。僕はただ、葵さんの命を繋ぎ止めたかっただけだ。彼女はもう二度と心愛の前には現れない。それでも許さないと言うのか!」「梅原、お前は手術室に籠もりすぎて、脳まで麻痺したか」暁は冷たく言葉を遮った。「命の恩なら、とっくに加賀見が返し終えている。先月、南川医療機器パークの入札があっただろう。もし加賀見グループが裏で手を引いていなければ、梅原家があれほど容易くあの土地を手に入れられたと思うか。お前がI国で差し出した一杯の白湯、その代価として、私は百億規模の利益を譲ってやったんだ。梅原家にとっては、破格どころの話じゃないはずだな」瑞人は言葉を失った。南川の地所は、自らの実力で勝ち取ったものだと信じて疑わなかった。だが実際は、すべて暁が心愛の代わりに支払った「返礼」だったのだ。「加賀見家はお前に何一つ借りなどない。心愛も同じだ」暁は、一語一句を釘のように打ち込む。「だが、深水家が背負わせた命の重みを、お前に償い切れるのか。心愛の祖母の墓石が砕かれた時、宇佐美紘が俊輔を死の淵まで追い込んだ時……お前の母親の遺言ひとつで、そのすべてが帳消しになるとでも思っているのか」瑞人は完全に言葉を失っていた。命の恩人という大義名分を掲げれば、心愛を黙らせられると思っていた。だが、暁の圧倒的な論理と力の前では、その偽善に塗れた理屈など、紙切れ同然だった。「……なら、どうするつもりだ」瑞人の声からは、すでに覇気が抜け落ちていた。そこに残っているのは、自暴自棄にも似た諦念だけだった。「葵さんはもう外へ出した。手続きも完全に合法だ。もし医療証明の偽造を追及するなら、今すぐ身代わりを立てる。医師を二人切り捨てれば済む話だ」「甘いな」暁の口元が、残忍
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