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第50話

Author: 炭酸が抜けたコーラ
その夜、心愛は夢一つ見ることなく、泥のように深く眠った。

翌朝、目を覚ました心愛は逃げるように身支度を済ませ、足早に会社へと向かった。

幸いにも、どうにか始業時間には間に合った。

自席に着いた途端、碧が何か言いたげな様子で近づいてくる。

しかしその矢先、デスクに放り出していたスマートフォンが、けたたましい振動音を立てて震え始めた。

画面に浮かび上がったのは、貴臣の名前だった。

無意識のうちに、心愛の指先がこわばり、ぎゅっと力が入る。

その不自然な空気を察したのだろう。碧は何も言わずに踵を返し、自分の席へと戻っていった。

それとほぼ同時に、理恵の凛とした声がフロアに響いた。

「深水さん、少し話があるから、私のオフィスまで来てちょうだい」

心愛がちらりと視線を向けると、碧は励ますように小さく頷いてみせた。

心愛は迷いを断ち切るように貴臣からの着信を拒否し、小走りで部長室へと向かう。

道すがら、ポケットの中で再びスマートフォンが震える。今度は貴臣からのメッセージだった。

【なぜ電話を切る?】

心愛は無言のまま端末をマナーモードに設定した。

ガラス扉を押して中へ入
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