INICIAR SESIÓNそれから間もなくして、チャイムが鳴った。「命がけではるばるやってきたお兄ちゃんのご到着みたいだね」瑞人はカップを置き、顎で玄関の方をしゃくってみせた。「行ってきなさい。こんな天気の中を外に立たせていたら、神様だって氷漬けになってしまう」それまで比較的落ち着いていた心愛の鼓動が、その瞬間、どくんと大きく跳ね上がった。彼女は無意識に襟元を整えたが、瑞人から借りたぶかぶかのパジャマでは、どう取り繕っても滑稽にしか見えない。靴を履くのももどかしく、裸足のままカーペットを駆け抜け、玄関へと急いだ。冷たい真鍮のドアノブに手をかけ、心愛は深く息を吸い込む。ドアが開いた。吹き込んできた風に、心愛は思わず目を細めた。雪煙の向こうに、暁が立っていた。いつもなら一分の隙もなく整えられている髪は鳥の巣のように乱れ、高価なマウンテンパーカーは皺だらけだ。頬には青い無精髭が浮き、その全身からは隠しきれない疲労が滲み出ていた。暁もまた、家の中に立つ心愛の姿を捉える。「……心愛」その声を聞いた瞬間、心愛の目頭が熱くなった。九死に一生を得たあとの張り詰めた感情と、ようやく身内に会えた安堵が入り混じり、鼻の奥がつんと痛む。「お兄ちゃん……」彼女が彼を中へ招き入れようと手を伸ばしかけた、その時だった。暁が風を避けるように、わずかに身を翻した。その動きによって、彼の背後に隠れていた人物が姿を現す。心愛の伸ばしかけた手は、空中でぴたりと止まった。貴臣だった。男は玄関ポーチの石柱に寄りかかっていた。そうでもしなければ、とっくに雪の上へ崩れ落ちていただろう。身にまとっているのは、着替えすらしていない入院着のまま。おそらく病院から直接駆けつけてきたのだろうが、雅子は一体どうやって許可を出したのか。彼は心愛を見つけると、濁った瞳をかすかに揺らした。微笑もうとしたらしい。しかし顔の筋肉は硬直し、その表情は笑顔というより、泣き顔よりなお痛々しく見えた。「……こ、心愛……」かすかに唇が動く。だが、心愛は応じなかった。彼女はあろうことか一歩後ずさりし、ドアノブを握る指先に力を込めた。関節が白く浮き上がる。「……どういうこと?」心愛は、暁を射抜くような視線で見据えた。「どうして、この人がここにいるの?」
貴臣は歯を食いしばり、それ以上は何も言わなかった。まさか暁と同じ車に揺られる日が来るなど、想像したことすらなかった。……邸宅の中。電話を切った後も、心愛はしばらく呆然と立ち尽くしていた。掌にはじっとりと汗が滲み、握りしめたスマートフォンのケースを湿らせている。ネットが繋がったなら……彼女は震える指先でLINEを開いた。一番上に表示されていたのは碧だった。数十件ものボイスメッセージが届いている。どれも今にも泣き出しそうな声だった。「深水さん!大丈夫ですか?ニュースを見て、心配で死にそうです!」「返事してください!お願いします!」「深水さんにもしものことがあったら、私も生きていけませんよ、うぅっ……」その下には清夏、そして母である静香からのメッセージも並んでいた。画面越しですら、彼女の不安と気遣いが痛いほど伝わってくる。【心愛、お母さんは神様にちゃんとお願いしたから、あなたは絶対に大丈夫。俊輔くんが怖がっていたら、抱きしめてあげてね。家で待っているわ】最後の一件は俊輔からだった。【姉ちゃん!こっちも今やっと電波が戻った!僕は大丈夫。宿屋のオーナーさんがみんなを地下室に集めてくれたから、食べ物も飲み物もあるよ。姉ちゃんはどこ?兄さんから電話があった。すごく心配してた……】その文字を見た瞬間、心愛の目頭が熱くなった。彼女は鼻をすすり、込み上げる涙を必死に堪えながら、急いで文字を打ち込む。まず俊輔へ返信した。【私は大丈夫。すごく安全な場所にいるよ。お兄ちゃんがこっちに来てくれたの。あなたは地下室から出ちゃ駄目。私たちが迎えに行くまで待ってて】それから「私は大丈夫、安全だよ」という文をコピーし、全員へ一斉送信した。すべてを終えた時になって、ようやく自分の身体が激しく震えていることに気づく。寒さのせいではなかった。恐怖が、遅れて押し寄せてきたのだ。もし、暁の乗った飛行機に何かあったら――もし、自分を捜すために彼が命を落としていたら――心愛は、その先の想像を無理やり断ち切った。「コンコン」軽いノックの音が響く。心愛は弾かれたように顔を上げた。階段の踊り場には瑞人が立っていた。手にしたトレーには、赤ワインの代わりに湯気を立てるホットココアが二つ並んでいる。「さっ
I国の夜は、あまりにも長かった。外ではなおも風が壁を激しく叩きつけ、その重苦しい轟音に、心愛は身を縮こまらせるような心地でいた。眠れない。彼女は、圏外表示のまま沈黙していたスマートフォンを、強く握り締めていた。――ブーッ。不意に掌の中で震えた振動に、心愛は危うくスマホを取り落としそうになった。飛び込んできた着信表示を見た瞬間、心臓が大きく跳ねる。暁からだった。こんな時間に?国内は今、まだ午後のはずだ。彼は会議中か、あるいは宇佐美家が残した厄介事の後始末に追われている頃ではないのか。彼女は慌てて画面をスワイプし、通話を繋げた。「もしもし?お兄ちゃん?」受話口の向こうでは、激しいノイズが断続的に鳴り響いていた。まるで無数の電流が空気を裂いているような雑音。その奥では、エンジンの唸りにも似た低い轟音が続いている。「……聞こえるか?」掠れたその声は、砂を噛み潰したように乾いていて、まるで氷室から引きずり出されたばかりのような冷たさを帯びていた。心愛は一瞬、言葉を失った。「お兄ちゃん?どうしたの?電波、あまり良くなくて……」彼女は無意識にスマホを耳へ強く押し当てた。「心配しないで。私は大丈夫。ここは結構安全だよ。ちょっと風が強くて、道で足止めされてるだけだから……」「位置だ、心愛。あなたのいる場所を送れ」「送ってどうするの?」心愛は戸惑いながら、漆黒に沈む窓の外へ視線を向けた。「やっと電波が戻ったばかりなんだよ?送ったって、どうにも――」「私は今、I国にいる」その瞬間、心愛の頭の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。彼女は口を半開きにしたまま、しばらく声を失う。「……え?何て言ったの?」「言っただろう。私もI国にいる」電話の向こうで、暁が深く息を吐く気配がした。「たった今、着陸した。位置を送れ。今から迎えに行く」「そんなの無理だよ……」反射的に否定したものの、その声は震えていた。「ニュースで言ってた。全土で飛行禁止、最高レベルの警戒警報が出てるって。救助隊だって動けないのに、どうやって――」「心愛!」暁の声が鋭く響く。「I国のニュースを見て、すぐ俊輔くんに連絡した。あなたが朝食を買いに出たまま戻らないと聞いて、気が気じゃなかった。早く場所を教え
心愛はワイングラスを握る手に、そっと力を込めた。「……もし私に医術の心得があったなら、救えたかもしれない人がいるんです」彼女はぽつりと口を開く。「おばあちゃんです。元夫のことがなければ……きっと、今も生きていたと思います」瑞人は静かに彼女を振り返った。「結婚していたのか?」その視線が、心愛の左手薬指へ落ちる。そこには確かに、長年指輪を嵌めていた者だけに残る、淡い白い跡が刻まれていた。心愛は自嘲するように微笑む。「つい最近、離婚しました」顔を上げると、赤ワインを大きくひと口あおった。「ひどく失敗した結婚でしたよ。私はただの身代わりで、彼には忘れられない本命がいたんです。私は馬鹿みたいに三年間も尽くして、冷たい石だって温め続ければいつか応えてくれるって、本気で信じていました」彼女は小さく息を吐いた。「でも、その人が戻ってきた途端、私はただの邪魔なゴミになったんです」「その男は、節穴か?」瑞人は眉を寄せた。心愛は虚を突かれたように彼を見る。「こんなに素敵な女性なのに」瑞人はグラスを軽く揺らした。「料理もできる。猫を助けようともする。僕の勘が、君は優しい人間だって言ってる。そんな君を無碍にするなんて、よほど見る目がないんだろうな」「節穴だったわけじゃありません」心愛は伏し目がちに呟いた。「ただ、自信過剰だったんです。私は彼なしじゃ生きていけないって、勝手に思い込んでいた。籠の中のカナリアみたいに、呼べば来るし、飽きたら追い払える――そんな存在だと、彼は疑いもしなかったんでしょうね」「なら、どうしてこんな遠くまで逃げてきた?」瑞人が静かに問う。「弟に、この世界がどれだけ広いか見せてあげたかったんです」心愛は窓の外を見つめた。「それに……彼がいなくても、本当に私は生きていけないのか、確かめたかった」吹雪はなお窓の外で荒れ狂っている。「実は、さっき車の中ですごく怖かったんです。このまま死んだら、あまりにも割に合わないなって。ようやく自分の人生を歩き始めて、私を愛してくれる家族ができて、やっと――」――やっと、心から大切だと思える人に出会えたのに。その言葉だけは、喉の奥で飲み込んだ。脳裏に浮かんだのは、暁の顔だった。「やっと、何だ?」瑞人が続きを促す。「……いえ」心愛
お腹も満たされ、ようやく人心地ついた心愛は、瑞人の家のシャワーを借りていた。客室のバスルームだけでも、かつて自分が借りていたアパートより遥かに広い。こんな極限状態の中でも何ひとつ揺らぐことなく、これほどの贅沢を享受できる。この男はいったい何者なのだろう。心愛は彼が用意してくれたパジャマに着替え、部屋のドアを開けた。寝室にはベッドサイドランプが一つだけ灯されており、琥珀色の光が静かに沈んでいる。茶トラの子猫を入れた布製のバスケットは、ベッドの足元のカーペットの上に置かれていた。「ニャー……」心愛は足早に歩み寄り、バスケットのそばにしゃがみ込む。小さな身体は丸くなっていて、先ほどよりは落ち着いたように見えた。ただ、瑞人が巻いてくれた包帯が少し緩んでいるのか、わずかに血が滲んでいる。「包帯、替えてあげようか?」驚かせないよう、声を潜める。「大丈夫、痛くないわよ。いい子だから」そっと手を伸ばし、指先が包帯に触れた、その瞬間だった。「シャーッ!」子猫が突然背を丸め、心愛が手を引くより早く、その指に牙を立てた。「っ……!」思わず息を呑み、本能的に手を押さえる。鮮やかな赤い血の玉が、ぷくりと浮かび上がった。「この子ったら……せっかく助けてあげたのに、恩を仇で返すなんて。外に放り出しちゃうわよ?」心愛は子猫に向かって、精一杯強気な声音で言い放つ。「どうした?」ノックもなくドアが開いた。入口に立っていたのは、水の入ったグラスを手にした瑞人だった。どうやら彼女の痛がる声が聞こえたらしい。彼は一目で、心愛が押さえている手に気づいた。「動くな。消毒が必要だ。この猫、ワクチンは打っていないだろう。感染症のリスクがある」瑞人はグラスを置き、大股で歩み寄ってくる。彼はなお威嚇を続ける猫を責めるでもなく、ただ心愛の傷をじっと見つめた。「深いな。肉が見えている」眉をひそめる。「浴室で洗え。石鹸でしっかり流すんだ、早く」心愛は半ば強引に腕を引かれ、浴室へ押し込まれた。彼女が傷を洗っている間に、瑞人はいったん部屋を出ていき、ほどなくして戻ってきた。手にはヨードチンキと、密閉された小瓶がいくつか握られている。「それ……」ラベルを見た心愛が目を丸くする。「狂犬病ワクチン
昂一は、目の前の光景が信じられないといった風に呆然と立ち尽くした。「社長、正気ですか……本当に桐生さんを連れて行くつもりですか?あの体で……」「死なせはしない」暁はコートを掴み取ると、外へと歩き出した。その足取りは風を切り裂くような、有無を言わせぬ速度だった。「たとえ死に体になろうとも、息がある限り、担いででも機内へ叩き込め」……名雲第一病院、正面玄関。凍てつくような寒風が乾いた枯れ葉を舞い上げ、無機質なアスファルトの上で躍らせている。貴臣は、花壇の脇に立つ街灯の柱に、辛うじて体を預けていた。身に纏っているのは薄い検査着だけで、その上に母・千恵が置き忘れていったカシミアのショールを、ひどく無造作に羽織っている。顔色は紙のように白濁し、右手は今にも崩れ落ちそうな腹部を強く押さえていた。左手の甲には医療用テープが痛々しく残っており、そこから滲んだ血が赤黒く変色している。先ほど、強引に点滴を引き抜いた際の痕跡だ。千恵は彼を止める術を持たず、ただ傍らで涙を流しながらボディガードへ電話をかけ続けていた。しかし、貴臣の射抜くような鋭い一瞥に言葉を失い、たじろいで後退りするしかなかった。漆黒のマイバッハが静寂を切り裂いて現れ、彼の目前で滑らかに停車した。ドアが開く気配はない。暁はただ、無機質な音を立ててパワーウィンドウを下げた。「乗れ」貴臣は口角を歪め、自嘲気味に笑おうとした。だが、そのわずかな動きさえ胃の傷を激しく抉り、額から嫌な冷や汗が噴き出す。彼は、介抱しようと差し伸べられた千恵の手を冷たく振り払い、ふらつく足取りで車へと歩み寄った。重厚なドアを開け、後部座席に崩れ落ちるようにして体を投げ出す。「パタン」という乾いた音と共に、外界との繋がりが断たれた。「そんなザマで保つのか。私の車で死なれては、縁起が悪くて敵わん」暁は冷徹に言い放ち、ステアリングを握る手に力を込めると、アクセルを床まで踏み込んだ。貴臣は背もたれに深く沈み込み、重い瞼を閉じた。乱れた髪が冷や汗で肌に張り付いている。「……案ずるな」掠れた低い声が、車内に響く。「心愛に会うまでは……死んでも死にきれん」「飛行機が予定通りに到着することを祈るんだな。さもなければ、真っ先にお前をここから放り出す」暁の言葉には、刃のような鋭







