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第5話

Auteur: ジョジョ
それからの数日間、小夜子は静かに病院で怪我の回復を待った。

湊も何度か足を運んできた。高価な補給品や見事な花束を携えてはいたが、滞在時間はいつも短い。彼のスマートフォンは、ひっきりなしに仕事の連絡を告げていた。

小夜子は取り乱すことも、縋ることもなかった。湊が何を言っても、ただ「ええ」と短く頷くだけだ。その手応えのなさは、まるで真綿に拳を打ち込んでいるような、得体の知れない無力感を湊に抱かせた。

退院の日、湊は供え物を準備し、小夜子と共に郊外の墓地へと向かった。

車窓を流れる見慣れた景色を眺めながら、小夜子の胸には言いようのない荒涼とした思いが込み上げていた。

結婚して五年。湊が「義理の息子」として彼女の母の墓を訪れるのは、これが初めてのことだった。

墓地は静まり返り、松や柏の枝を揺らす風の音だけがさらさらと耳を撫でる。

墓標の前に立った湊は、そこに刻まれた義母の名を見つめていた。小夜子によく似た面影を心に思い描きながら、彼は長い沈黙を貫いた。

「お義母さん」

ようやく口を開いた彼の声は、どこか乾いていた。

「……こんなに長い間、ご挨拶に伺えず申し訳ありませんでした」

湊は言葉を継ぐ。

「これからは、僕が責任を持って小夜子を大切にしていきます。どうか安心してください。二度と、彼女に辛い思いはさせませんから」

小夜子は、母の眠る冷たい墓石を、ただ無感動に見つめていた。

お母さん、聞こえた?

十年間、私が心から焦がれ続けたあの人が、今さら私を大切にするなんて言っている。

でもね、もう遅すぎるの。

その言葉を必要としていた時間は、もう、とっくに過ぎ去ってしまったのだから。

墓参りを終えた後、湊は小夜子を連れて、あるレストランへと向かった。

そこは都内でも予約が取れないことで有名な店で、かつて小夜子が何度も行きたいと口にしていた場所だった。だがそのたびに、湊は忙しさを理由に聞き流してきたのだ。

今日は彼が店を貸し切りにしたらしく、テーブルにはキャンドルが揺れ、幻想的なディナーが用意されていた。

「ここ、前から来たがっていたよな」

湊が丁寧に椅子を引き、彼女を促す。

「食べてみてくれ。君の口に合うといいんだが」

小夜子は席に着き、目の前に並ぶ洗練された料理の数々を眺めた。けれど、胸のうちは凪いだ海のように静まり返ったままで、何の感慨も湧いてこない。

コースが中盤に差し掛かった頃、湊のスマートフォンがまた震えだした。

画面には、理央の名前。

静かな店内に、彼女の苛立った声が漏れ聞こえてくる。受話器越しでもはっきりと分かるほどの剣幕だった。

「ねえ湊さん!私のためにあんなに盛大な誕生日パーティーを企画してくれたのに、どうして主役のあなたが来ないのよ!」

湊は眉をひそめ、向かい側に座る小夜子に視線を走らせた。

小夜子はただ黙々とステーキにナイフを入れていた。その所作は優雅で、表情はどこまでも穏やかだ。まるで何も聞こえていないかのように。

「……用事があるんだ」

湊が声を潜めて応じる。

「私の誕生日より大事な用事なんてあるわけないじゃない!今すぐ来なきゃ承知しないから。あなたが来ないなら、パーティーなんて台無しよ!」

理央の執拗な追及に逃げ場を失ったのか、湊は溜息をついて電話を切った。

彼は小夜子に向き直り、何かを言い訳しようとしたが、彼女はすでにナイフとフォークを置いていた。

「行ってきたら?」

小夜子は淡々と言った。

「ちょうど私も食べ終わったところだから」

「小夜子、あいつ……理央は帰国したばかりで、友達を呼び集めたいって言っていたんだ。でも自分じゃパーティーの段取りもできないから、少し手助けしただけで……他意はないんだ」

必死に弁明する湊に、小夜子は小さく頷いた。

「わかってるわ。理解してるから」

またその言葉だ。

湊の胸の奥で、正体の知れない苛立ちがふつふつと沸き上がった。

「君も一緒に行こう」

彼は唐突に言い放った。

「会場はすぐ近くだ。少し顔を出してすぐに帰ればいい。気分転換になるだろう」

小夜子が断ろうとするよりも早く、湊は席を立った。

「行こうか」

理央の誕生日パーティーは、都内でも指折りの高級ホテルのバンケットルームで開かれていた。

会場に足を踏み入れると、そこはすでに着飾った人々で溢れかえっている。

その中心に、理央はいた。真紅のドレスを纏い、まるで誇り高い孔雀のように、賛辞と視線を一身に浴びている。

湊の姿を認めるなり、彼女は瞳を輝かせ、ドレスの裾を翻して駆け寄ってきた。

「湊さん!やっと来た!」

小夜子の存在など最初から目に入っていないかのように、理央は当然のような顔で湊の腕に絡みつく。

「おい、理央」

湊が眉を寄せ、腕を解こうとするが、彼女は離さない。

「ねえ、ファーストダンスの相手してよ。最近全然かまってくれないじゃない」

甘えるような猫撫で声。湊は助けを求めるように小夜子を振り返った。

しかし、小夜子の視線は彼を見ていなかった。壁に飾られた絵画でも鑑賞するかのように、ふいと顔を背けている。

「小夜子……」

「行ってらしたら?」

小夜子は平然と言った。

「私、あっちで何かいただいてくるわ」

そう言い残すと、彼女は躊躇いなくきびすを返し、ビュッフェ台の方へと歩き出してしまった。

湊は呆然と立ち尽くした。

以前なら、自分が理央と言葉を交わすだけで、小夜子は悲しげに目を潤ませていたはずだ。

それなのに、今の彼女は自分から進んで、夫を他の女の元へ追いやろうとしているのか?

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