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第4話

Author: ジョジョ
濃煙がさらに色を濃くし、肺を焼く。意識が混濁し始めた。

小夜子は奥歯を噛み締め、壁にすがりついてどうにか立ち上がると、ふらつく足取りで出口へと向かった。

しかし、扉の前には焼け落ちた梁が横たわり、行く手を完全に塞いでいる。もう、ここからは出られない。

燃え盛る梁を絶望の眼差しで見つめた後、彼女は翻って窓際へと走った。

窓を押し開けると、冷たい夜風が流れ込み、わずかに意識が鮮明になる。

眼下を見下ろすと、ちょうど湊がハクを抱きかかえて邸宅から飛び出してきたところだった。そこへ、理央が狂ったように彼に縋り付く。

「湊さん!怖かった、本当に怖かったわ!」

理央は激しく涙を流し、取り乱した様子で叫んでいた。

「ハクが死んじゃうかと思った……この子は、私たちの愛の証なのに……」

湊の身体が一瞬強張った。彼女を突き放そうとするかのような躊躇いが見えたが、あまりにひどく泣きじゃくる姿を前に、結局はその背を優しく叩いた。

「……泣くな。もう大丈夫だ。ハクも無事だ、お前もな」

その光景を目の当たりにした瞬間、小夜子の心臓を冷たい手で握り潰されたような衝撃が走り、直後にそれが無情にも放り出された感覚に陥った。あとに残ったのは、どこまでも続く、麻痺したような虚無の穴だけだった。

もう、誰にも期待しない。

彼女は窓枠に足をかけ、深く息を吸い込むと、静かに目を閉じて夜の闇へと身を投げた。

身体が宙を舞う時間は、恐怖を感じる暇もないほど短かった。

鈍い衝撃と共に、彼女の身体は地面に叩きつけられた。

「……っ!!」

全身を凄まじい激痛が突き抜ける。冷たい地面に横たわる彼女の身体から、生温かい血がじわじわと広がっていった。

「きゃあああ!小夜子様!小夜子様が飛び降りたわ!」

家政婦の悲鳴が夜の闇を切り裂き、湊が弾かれたように振り返った。

彼の視線の先にあったのは、血の海に沈む小夜子の姿だった。

「小夜子!!!」

その顔に浮かんでいたのは、これまでの結婚生活で一度も見せたことのない表情だった。

驚愕、信じがたいものを見た戦慄、そして――隠しようのない狼狽。

小夜子は彼を見つめ、何かを言おうと口を開いたが、ただ鮮血が溢れ出すだけだった。

そのまま、彼女の意識は深い闇の底へと沈んでいった。

再び意識が戻ったとき、鼻腔を突いたのは重苦しい消毒液の臭いだった。

小夜子がうっすらと目を開けると、視界には無機質な白い天井が広がっていた。

わずかに身体を動かそうとしただけで、全身に凄まじい激痛が走る。特に足の痛みは、骨の芯を直接抉られるような鋭さだった。

「小夜子!」

傍らから湊の声がした。

首を巡らせると、ベッドの脇に彼がいた。瞳は真っ赤に充血し、顎には青々とした無精髭が伸びている。そのやつれきった姿は、かつての気高い彼とは別人のようだった。

彼は小夜子の手を強く握りしめ、震える声で問いかける。

「気がついたか?気分はどうだ、どこか痛むところはないか?」

小夜子はその問いには答えず、ただゆっくりと、けれど拒絶の意志を込めて、彼の手の中から自分の手を引き抜いた。

湊の手が空中で凍りつき、その顔がわずかに強張る。

彼は、彼女が火災の件や飛び降りたことに腹を立てているのだと思った。自分を真っ先に助けなかったことを恨んでいるのだと。

「小夜子」彼は声を低め、言い訳を絞り出した。「あの時、部屋に入ったんだが君の姿が見えなかったんだ。もう逃げ出した後だと思い込んで、だからハクだけを連れて出た。あの子はただの犬じゃない、あれは……」

あれは、何? 彼と理央の愛の証? 二人の輝かしい思い出の象徴?

「部屋にいたのなら、なぜ俺を呼ばなかったんだ」

なぜ呼ばなかったのか。

小夜子はついに視線を上げ、彼を真っ向から見据えた。

その瞳は深く、暗い。そこには恨み言もなければ、縋るような期待もない。ただ、底の見えない静寂だけが横たわっていた。

「……あなたを、もう頼りにしていないからよ」

湊の身体が激しく震えた。まるで何かで強く殴りつけられたかのように瞳孔が収縮し、信じがたいものを見る目で彼女を凝視する。

「頼りにしていない……とは、どういう意味だ?」

自分の声が、ひどく乾いていくのが分かった。彼女の一言で、胸の奥が急にがらんどうになったようで、そこへ、得体の知れない冷たさが入り込んできた。

小夜子はまるで赤の他人を見るような冷ややかな眼差しで、彼を見つめ返した。

「言葉通りの意味よ。あなたが助けてくれるなんて思っていないし、私を選んでくれるとも思っていない。……愛してくれるなんてことも、もう一ミリも期待していないの」

湊の心臓が大きく脈打った。反論しようと口を開きかけたその時、無慈悲にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。

理央からだ。

彼は窓際まで歩き、小夜子に背を向けて通話に出た。

具体的な内容は聞こえなかったが、強張った彼の横顔からは、最初は苛立ちを含んでいた声が、最後には抑え込んだ妥協と「……わかった」という一言に変わるのが分かった。

通話を終え、ベッドの脇に戻ってきた湊の表情は冴えなかった。彼は小夜子を見つめ、何かを言いかけては躊躇っている。

「行っていいわよ」

小夜子は彼の言葉を待たず、先にそう告げた。その口調は、やはり息が詰まるほどに淡々としている。「ここには本当に、誰も必要ないから」

湊は彼女を凝視した。胸の奥に湿った綿でも詰め込まれたかのように、息苦しいほどの圧迫感が彼を襲う。

彼は何度か口を動かし、ようやく言葉を絞り出した。

「理央の方で少しトラブルがあってな。……片付けてくる。すぐに戻るから」

一拍おいて、彼は自分に言い聞かせるように付け加えた。

「さっきのは、あの火事のことで気が立っているから出た嫌味だろう。分かっている。……安心しろ、あんなことは二度と起こさない。

数日後は、君のお母さんの命日だ。一緒に墓参りに行こう」

伏せられていた小夜子の睫毛が、わずかに震えた。

「母の命日と、理央さんの誕生日は同じ日よ」

彼女はふっと自嘲気味に笑った。

「彼女の誕生日、お祝いしに行かなくていいの?」

湊は不意を突かれたように、一瞬だけ表情を強張らせた。

数秒の沈黙の後、彼は彼女の視線を避けるようにして、硬い声で答えた。

「あいつの誕生日が……俺に何の関係がある」

小夜子は、また笑った。

関係がないはずがない。

結婚してからの五年間、毎年この日になると、湊には決まって「外せない用事」があった。

一年目は出張、二年目は会議、三年目は接待。

後になって知ったのだ。母の命日が理央の誕生日と同じであること。そして毎年その日に、湊が十数時間もかけて海外へ飛び、理央の家の前で一晩中立ち尽くし、プレゼントを置いて立ち去っていたことを。

今年は理央が帰国しているのだ。わざわざ海を越えなくても、その溢れんばかりの愛を直接伝えることができるだろう。

「ああ、そう」

小夜子は小さく相槌を打つと、それ以上は何も語らず、再び瞼を閉じた。対話を拒絶し、心底疲れ果てたという様子だった。

何を言っても響かないその頑なな態度に、湊はやり場のない苛立ちを募らせる。

青白い小夜子の顔と、固く閉じられた瞳を見つめながら、「俺と理央には本当に何もない、誤解するな」という言葉が喉元まで出かかったが、結局、彼は一言だけ残した。

「……ゆっくり休め。夜にまた来る」

そして背を向け、逃げるように病室を後にした。

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