Masuk流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。 今日あった楽しい出来事をわざわざ彼に話すこともなければ、帰りが遅いからといって夜通し電話をかけ続けることもない。 当たり屋のトラブルに巻き込まれて警察署に連行され、身元引受人がいなければ出られないと言われた際も、彼女は「呼べるような家族はいません」とだけ告げ、一週間の拘留を淡々と受け入れた。 七日後の夕暮れ時。 重々しい鉄の扉がガランと音を立てて開いた。 小夜子が警察署の階段を下りようとしたその時、一台の黒いマイバッハが猛スピードで彼女の目の前に急停車した。 開いたドアから降りてきたのは、仕立てのいい高級スーツに身を包んだ湊だった。 長身で、広い肩幅から引き締まった腰へと流れる見事なスタイル。相変わらず冷ややかで気高く、どこか浮世離れした美しさを纏っていた。
Lihat lebih banyakボイスメッセージはそこで途切れ、自動的にリピートが始まった。「湊、今日は誕生日でしょう?ケーキを焼いて待ってるね。どんなに遅くなっても、ずっと起きて待ってるから」何度も、何度も。彼が忘却の彼方に追いやった、数えきれないほどの誕生日の夜。小夜子はたった一人でケーキを守り、深夜まで、そして夜が明けるまで待ち続けたのだ。溶けて無惨な形になった生クリームと、すっかり硬くなったスポンジを、最後は独りきりで黙々と口に運んでいたのだろう。湊の目尻から、絶え間なく涙が溢れ出した。天井を見つめる瞳は次第に焦点を失い、白濁していく。だが、その口元だけが、ごく微かに、幸福そうに綻んだ。何か、かけがえのない美しい思い出に触れたかのように。彼は残された最後の力を振り絞り、音にならない吐息を漏らした。凍てついた空気に向かって、腕の中の冷え切った写真立てに向かって、そして二度と返事の来ないリフレインに向かって、掠れた声で呟く。「……小夜子。……誕生日、おめでとう……」その囁きは、誰に届くこともなく夜の闇に吸い込まれた。腕の中から写真立てが滑り落ち、柔らかな布団の上に鈍い音を立てて沈む。旧式のスマートフォンからは、今も小夜子の優しい声が流れ続けていた。「……ずっと起きて待ってるから」「……ずっと、待ってるから……」窓から差し込む冷ややかな月光が、主のいなくなったベッドを、伏せられた結婚写真を、そして鳴り続ける携帯電話を虚しく照らしている。枕元のバイタルモニターが、鼓膜を突き刺すような長い警告音を鳴らした。心電図の波形は、ただの一本の直線へと帰していく。そこにはもう、何の起伏も残されてはいなかった。同じ夜空の下。南の海に浮かぶ小島では、今も祝福の花火が夜を彩っていた。小夜子は涼の腕に抱かれ、空いっぱいに広がる鮮やかな光を仰ぎ見ていた。その唇には、至福の笑みが刻まれている。「何を考えているんだい?」涼が顔を寄せ、彼女の髪にそっと口づけを落とした。小夜子は視線を戻し、隣に立つ最愛の男を見つめて優しく微笑む。「……ようやく、長く苦しい悪夢から目が覚めたんだなって。そんなことを考えていたの」「え?」「ううん、なんでもない」小夜子はかぶりを振ると、もう一度彼の胸に身を預け、愛おしそうに囁いた。
数年の月日が流れた。地中海に浮かぶ、とあるプライベートアイランド。眩い陽光、白い砂浜、透き通るような紺碧の海。そして、それらを背に立つ白亜の建築物。すべてが絵葉書から抜け出したような、完璧な景色だった。この島で、小夜子の結婚式が執り行われていた。ごく親しい家族と友人だけを招いた、ささやかで温かな式。彼女が纏っているのは、混じりけのない純白のウェディングドレスだ。デザインはシンプルで洗練されており、大仰なトレーンこそないものの、しなやかな腰つきと美しいデコルテのラインを完璧に引き立てていた。ベールは淡いシャンパンゴールド。光を浴びるたび、柔らかな輝きを放っている。花々で飾られたアーチの下、小夜子は白いスズランのブーケを手に、ひときわ明るく微笑んでいた。その瞳に宿っているのは、偽りのない、一点の曇りもない幸福と安らぎだった。隣に立つのは、白いタキシードに身を包んだ新郎だ。深みのある瞳で小夜子を慈しむように見つめるその眼差しからは、溢れんばかりの愛情がこぼれ落ちそうだった。神父の穏やかな声が、誓いの言葉を紡ぐ。「白泉小夜子さん。あなたは、篠原涼(しのはら りょう)さんを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しるときも、彼を愛し、敬い、慈しみ、命ある限り貞節を守ることを誓いますか?」小夜子は隣に立つ男を振り返り、唇に優しい笑みを浮かべた。「はい、誓います」その声は澄み渡り、未来への希望に満ちた確かな響きを湛えていた。「篠原涼さん。あなたは、白泉小夜子さんを妻とし……」「はい、誓います」涼は、待ちきれないといった様子で答え、小夜子の手をそっと取った。そして、愛おしそうに彼女の手の甲へ口づけを落とす。「これからの人生のすべてを懸けて、君を愛し、守り抜くことを。今日という日の幸せが、永遠に続くように」参列者たちの間から、温かな笑い声と拍手が沸き起こる。指輪が交換され、誓いのキスが交わされると、拍手はいっそう大きく、祝福の調べとなって島中に響き渡った。晩餐会は、海を見渡す広大な芝生の庭園で催された。満天の星、揺らめくキャンドルの灯り、芳醇な美酒と美食、そして親愛なる人々の祝福。そのすべてが完璧だった。ブーケトスの時間が訪れる。小夜子は、ステージの下で期待に胸
また、深い秋が巡ってきた。都心の最高級ホテルの宴会場では、大規模なチャリティ・ガラパーティーが開催されていた。小夜子は特別ゲスト兼名誉顧問として、その華やかな席に招かれていた。湊が設立した慈善基金も、今回の晩餐会の主催者の一つに名を連ねている。開演を目前に控えた舞台裏の廊下は、スタッフや招待客、メディア関係者が慌ただしく行き交い、熱気に包まれていた。小夜子は基金の責任者と、ステージでのスピーチについて細かな打ち合わせをしながら、控室へと向かっていた。角を曲がった、その時だった。向こうから一人の男が歩いてくる。驚くほど痩せこけた体躯。体に合わせて仕立て直してはいるが、どこか古びた印象を与える黒のスーツを纏っている。髪だけは几帳面に整えられ、手元の資料に視線を落としたまま、こちらへ近づいてくる。狭い通路で、二人は不意に、正面から顔を合わせた。男が顔を上げる。視線が、ぶつかった。その瞬間、まるで時が止まったかのようだった。湊は、その場に縫い付けられたように硬直した。瞬時に氷漬けにされた彫像のように、指先一つ動かせない。手から滑り落ちた資料が、「パサッ」と虚しい音を立てて床に散らばった。湊は、目の前の女性をただ凝視した。その姿を骨の髄まで刻み込もうとするかのように、飢えた瞳で彼女を見つめる。数年ぶりに見る小夜子は、以前にも増して美しかった。少女のような、守ってやらなければ壊れてしまいそうな儚い美しさではない。歳月を重ね、自立した一人の人間としての自信に満ちあふれた、内側から発光するような輝き。シャンパンゴールドのドレスに身を包み、緩やかに巻かれた長い髪が肩に流れている。完璧なメイクを施した口元には、いつもの温かく、それでいて隙のない笑みが湛えられていた。それは、磨き抜かれた真珠のようだった。穏やかな光を宿しながらも、見る者を圧倒するほどに眩しい。湊は唇を震わせ、何かを言いかけようとした。しかし、目に見えない何かに喉をきつく締め上げられているかのように、声は一向に形をなさない。ただ、胸の奥で心臓だけが狂ったように脈打ち、肋骨を内側から激しく叩きつける。その振動が痛いほどに響いた。彼は老いた。あまりにも、やつれ果てていた。まだ三十代半ばだというのに、目尻には細かい皺が刻まれ、こめかみ
数年の月日が流れた。かつて小夜子が旅立った異国の地で、通訳・翻訳界の最高峰とされる国際フォーラムが開催されていた。世界中から第一線の通訳者や学者、さらには各国政府の要人たちが一堂に会している。小夜子は、最年少の理事にして首席同時通訳者として、オープニングの基調講演を任されていた。スポットライトを浴びる彼女は、パールの光沢を纏った白いセットアップを完璧に着こなしている。艶やかな髪は上品にまとめられ、知的な額とすらりとした首筋が際立っていた。壇上に立つ彼女は、会場を埋め尽くす聴衆と無数のフラッシュを前にしても、いささかの動揺も見せず、毅然とした態度で語り始める。複数の主要言語を自在に操り、鋭い洞察と独創的な見解を展開していく。古今東西の文献を引用しながらも、その語り口はどこまでも自然で淀みがない。自信、優雅さ、そして圧倒的なプロフェッショナリズム。彼女こそが、この会場で最も輝くセンターだった。講演が終わると、割れんばかりの拍手が会場を包み込み、いつまでも鳴り止まなかった。そこへ、濃いグレーのスーツを纏った、知的な雰囲気の青年学者が白いスズランの花束を抱えて登壇した。彼は穏やかな微笑みを浮かべ、彼女に花を手渡す。二人は見つめ合い、深く頷き合った。その様子からは、言葉を超えた確かな信頼関係が伝わってくる。カメラのシャッター音が重なり、その美しい一瞬を記録していった。その青年は、この地域の言語学界で期待される俊英だった。名門の学者一家に生まれ、若くして数々の功績を挙げているだけでなく、その端正な容姿と紳士的な振る舞いから、誰もが羨む独身貴族としても知られていた。彼と小夜子は多くの国際会議で共に仕事をし、公私ともに深い信頼を築き上げてきた仲だった。メディアは二人を「業界の双子星」と称え、その才能の共鳴と深い絆を報じている。二人がソウルメイトなのか、あるいは恋人同士なのか――報道はあえて核心には触れず、読者の想像に委ねていた。だが、誰の目にも明らかだったのは、今の小夜子が、誰もが仰ぎ見るような新たな高みに到達しているということだ。輝かしいキャリア、満ち足りた日々。そして傍らには、彼女を心から敬い、愛し、高め合える素晴らしいパートナーがいる。これが、彼女が自らの手で掴み取った新しい人生だった。フォーラムは三