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身代わり妻の海外逃亡〜遅すぎた夫の懺悔〜

身代わり妻の海外逃亡〜遅すぎた夫の懺悔〜

Oleh:  ジョジョTamat
Bahasa: Japanese
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流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。 今日あった楽しい出来事をわざわざ彼に話すこともなければ、帰りが遅いからといって夜通し電話をかけ続けることもない。 当たり屋のトラブルに巻き込まれて警察署に連行され、身元引受人がいなければ出られないと言われた際も、彼女は「呼べるような家族はいません」とだけ告げ、一週間の拘留を淡々と受け入れた。 七日後の夕暮れ時。 重々しい鉄の扉がガランと音を立てて開いた。 小夜子が警察署の階段を下りようとしたその時、一台の黒いマイバッハが猛スピードで彼女の目の前に急停車した。 開いたドアから降りてきたのは、仕立てのいい高級スーツに身を包んだ湊だった。 長身で、広い肩幅から引き締まった腰へと流れる見事なスタイル。相変わらず冷ややかで気高く、どこか浮世離れした美しさを纏っていた。

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Bab 1

第1話

流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。

今日あった楽しい出来事をわざわざ彼に話すこともなければ、帰りが遅いからといって夜通し電話をかけ続けることもない。

当たり屋のトラブルに巻き込まれて警察署に連行され、身元引受人がいなければ出られないと言われた際も、彼女は「呼べるような家族はいません」とだけ告げ、一週間の拘留を淡々と受け入れた。

七日後の夕暮れ時。

重々しい鉄の扉がガランと音を立てて開いた。

小夜子が警察署の階段を下りようとしたその時、一台の黒いマイバッハが猛スピードで彼女の目の前に急停車した。

開いたドアから降りてきたのは、仕立てのいい高級スーツに身を包んだ湊だった。

長身で、広い肩幅から引き締まった腰へと流れる見事なスタイル。相変わらず冷ややかで気高く、どこか浮世離れした美しさを纏っていた。

湊は彼女の目の前まで大股で歩み寄ると、わずかに眉を寄せた。

「小夜子、トラブルに巻き込まれたなら、なぜ俺に電話をしなかった」

小夜子は、ふっと力なく微笑んだ。

「電話をしたところで、あなたの携帯、電源が入っていたかしら?」

昨日の仕事帰り、一台の自転車が彼女の車の前で唐突に倒れ込んだ。慌てて車を降り、倒れていた老人に手を貸そうとした瞬間、その男は彼女の腕を力任せに掴んで叫んだのだ。

「人殺しだ!この女、人を撥ねておいて逃げようとしてるぞ!」

ドライブレコーダーの映像によって小夜子の潔白はすぐに証明されたが、規定の手続き上、身元引受人の署名がなければ署を離れることはできなかった。

「私には、呼べるような家族はいません」と小夜子は言ったが、警察側はそれを信じず、戸籍情報を照合して湊の連絡先を突き止めた。

しかし、警察が何度ダイヤルしても、彼の携帯電話は、無情にも電源が切られていた。

何十回とかけ直しても、結局、一度として繋がることはなかったのだ。

湊の表情がかすかに揺れた。

「昨夜、理央が胃痛を訴えてな。病院に付き添っていたんだ。彼女、騒がしいのを嫌がるから……電源を切っていた」

一拍おいて、彼は声を低めた。

「すまない」

「いいのよ」小夜子は言った。「もともと、あなたに来てもらおうなんて思っていなかったし。自分の用事を優先してくれて構わないわ」

その口調はあまりに穏やかで、眼差しも凪いだ水面のように静まり返っていた。感情の波紋ひとつ立たないその様子に、湊は突き動かされるように彼女の手首を掴んだ。

肌に触れる彼の手は熱く、力強い。小夜子はわずかに眉をひそめた。

「……なぜ怒らない?」

湊は彼女を凝視した。その瞳には困惑と、彼自身も認めようとしない微かな不安が混じっている。

小夜子は、それがおかしくて仕方がなかった。

「どうして怒らなきゃいけないの?あなたは理由を説明したし、私はそれを理解した。怒るようなことなんて何もないわ」

「小夜子……」

「疲れたの。家に帰らせて」

彼女はそっと手を振り払い、彼を避けるようにして車のドアへと向かった。

湊はその場に立ち尽くし、彼女の背中を見つめていた。

一週間会わないうちに、彼女はひどく痩せてしまったようだ。シャツの袖から覗く腕は細く、衣服が身体の上で虚しく泳いでいる。

以前の彼女なら、ほんの少し蔑ろにされただけで、瞳を潤ませて彼に詰め寄ったものだ。

「湊、私のことなんてどうでもいいの?」

そんなふうに、いじらしく、切実に。

当時の彼は、それを子供じみた我がままだと冷ややかに一蹴していた。

だが、今の彼女は騒がない。泣きもしない。彼が何を言っても「わかった」と頷くだけだ。

それなのに、湊の胸には得体の知れない焦燥が広がっていた。

車内は静まり返っていた。

運転手が前を向き、小夜子は後部座席の窓際に身を寄せて、飛ぶように過ぎ去る街並みを眺めている。

かつての彼女なら、車に乗るなり彼の方を向き、その瞳を彼への情愛でいっぱいに満たしていたはずだ。たとえ彼が生返事しか返さなくても、独り言のように延々と話し続けていた。

今の彼女は、ただ静かに座っている。

まるで隣に、彼という人間が存在していないかのように。

湊はついに堪えきれず、口を開いた。

「……まだあの時のことを根に持って、当てつけをしているのか?」

小夜子は顔を彼の方へ向けた。その瞳はどこまでも静かだ。

「いいえ。もう終わったことだもの」

「なら、どうしてそんな――」

「湊」

小夜子が彼の言葉を遮った。

「私にどうしてほしいの?昔みたいに毎日あなたにまとわりつけばいい?それとも、今みたいに物分かりよく、あなたに十分な自由をあげればいいのかしら?」

湊は言葉に詰まった。

深町理央(ふかまち りお)のことでいちいち騒ぎ立てず、静かにしていてほしいと願っていたのは自分のはずだ。だが、いざ彼女が理想通りの妻になると、何かが決定的に違うという違和感が拭えない。

「……ただ、君が変わった気がしてな」

彼は声を落として、独り言のようにつぶやいた。

小夜子は再び視線を窓の外へと戻した。

変わった、だろうか。

たぶん、そうなのだろう。

人を愛している時と、愛するのをやめた時。その姿が同じであるはずがない。

車内に沈黙が戻った。湊が何かを言いかけようとした瞬間、彼のスマートフォンが震えた。

理央からだった。

彼が通話ボタンを押すと、スピーカーから理央の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。

「湊さん、今どこ?私、ショッピングモールにいるんだけど、買いすぎちゃって荷物が重いの。迎えに来てくれない?」

湊は小夜子を盗み見た。

しかし彼女は、まるで何も聞こえていないかのように、相変わらず窓の外を眺めていた。

言いようのない苛立ちが、湊の胸を突き上げる。

「理央、君はもう大人だろう。いつまでも俺を頼るな。それに、俺たちの間にはもう何の関係もないはずだ」

「でも、ずっと私を甘やかしてくれたじゃない。もう慣れちゃったんだもの」

理央はさも当然のように言い放った。

「前にお願いした時は、一度だって断らなかったわよね?」

「前は前だ」湊の声が冷たく険しさを帯びる。「当時は君が恋人だったが、今の俺には奥さんがいる」

「奥さん?」理央が鼻で笑うのがわかった。「本当に彼女を愛してるの?自分に嘘をつくのはやめて。……もし来てくれないなら、他の男の人に頼むからいいわ。私の荷物を持ちたがる人なんて、いくらでもいるし」

湊はスマートフォンを握りしめた。

理央は彼の急所を熟知している。彼女が他の男に頼る素振りを見せるのが、彼にとって何より耐えがたい屈辱であることを知り抜いているのだ。

「……待っていろ」

奥歯を噛み締めるようにしてそれだけを告げると、湊は一方的に通話を切った。

彼は深く息を吐き出し、隣に座る妻に向き直る。

「小夜子、俺は――」

「タクシーで帰るわ」

小夜子はすでにドアに手をかけていた。「彼女を迎えに行ってあげて」

その動作はあまりに速く、湊が反応する暇もなかった。

「小夜子!」

慌てて車を降りた湊が、歩き出した彼女の腕を掴んで引き止める。

「俺と彼女の間には、本当に何もないんだ。だが、あいつとは親同士も昔からの仲だし、家族ぐるみの付き合いがある。完全に縁を切るわけにはいかないだろう」

「わかっているわ」

小夜子は短く頷いた。「理解しているから、大丈夫よ」

彼女はいつだって「わかっている」「理解している」と答える。まるでプログラムされた人工知能のように、そこには感情の欠片も見当たらない。

その空虚な態度が、湊の胸の内で燻る正体不明の怒りに油を注いだ。だが、無慈悲にも理央からの着信が再び鳴り響き、彼を急き立てる。

「……先に帰っていてくれ。俺も後で……」

戻ると言いかけた言葉を、小夜子が遮るようにタクシーを停めた。

彼女は流れるような動作で乗り込むと、迷うことなくドアを閉める。湊を一度も振り返ることなく、視線は前方に据えられたままだった。

タクシーが走り去る。

テールランプが夜の車列に紛れ、やがて完全に見えなくなった。

湊はその場に立ち尽くし、胸の奥をざわつかせた。何かが、決定的に狂い始めている。そんな予感が拭えなかった。

その頃、走り出したタクシーの車内で、小夜子のスマートフォンが鳴った。

人事部からの着信だった。

「小夜子さん、海外赴任の審査が正式に下りたよ」

受話器越しに、担当者の弾んだ声が聞こえてくる。

「おめでとう!今回は海外本社への配属だ。滅多にないチャンスだよ。ただ……旦那さんは大丈夫かい?帰任時期も未定だし、しばらくは離れ離れになるだろうから」

窓の外、流れていくネオンの光を、小夜子はただ見つめていた。

「夫はいません」

彼女の声は、夜の静寂に溶けるほど微かだった。

「海外赴任の申請を出した同じ日に、離婚届も提出しましたから。受理されて手続きが終われば、すぐに発ちます」

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第1話
流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。今日あった楽しい出来事をわざわざ彼に話すこともなければ、帰りが遅いからといって夜通し電話をかけ続けることもない。当たり屋のトラブルに巻き込まれて警察署に連行され、身元引受人がいなければ出られないと言われた際も、彼女は「呼べるような家族はいません」とだけ告げ、一週間の拘留を淡々と受け入れた。七日後の夕暮れ時。重々しい鉄の扉がガランと音を立てて開いた。小夜子が警察署の階段を下りようとしたその時、一台の黒いマイバッハが猛スピードで彼女の目の前に急停車した。開いたドアから降りてきたのは、仕立てのいい高級スーツに身を包んだ湊だった。長身で、広い肩幅から引き締まった腰へと流れる見事なスタイル。相変わらず冷ややかで気高く、どこか浮世離れした美しさを纏っていた。湊は彼女の目の前まで大股で歩み寄ると、わずかに眉を寄せた。「小夜子、トラブルに巻き込まれたなら、なぜ俺に電話をしなかった」小夜子は、ふっと力なく微笑んだ。「電話をしたところで、あなたの携帯、電源が入っていたかしら?」昨日の仕事帰り、一台の自転車が彼女の車の前で唐突に倒れ込んだ。慌てて車を降り、倒れていた老人に手を貸そうとした瞬間、その男は彼女の腕を力任せに掴んで叫んだのだ。「人殺しだ!この女、人を撥ねておいて逃げようとしてるぞ!」ドライブレコーダーの映像によって小夜子の潔白はすぐに証明されたが、規定の手続き上、身元引受人の署名がなければ署を離れることはできなかった。「私には、呼べるような家族はいません」と小夜子は言ったが、警察側はそれを信じず、戸籍情報を照合して湊の連絡先を突き止めた。しかし、警察が何度ダイヤルしても、彼の携帯電話は、無情にも電源が切られていた。何十回とかけ直しても、結局、一度として繋がることはなかったのだ。湊の表情がかすかに揺れた。「昨夜、理央が胃痛を訴えてな。病院に付き添っていたんだ。彼女、騒がしいのを嫌がるから……電源を切っていた」一拍おいて、彼は声を低めた。「すまない」「いいのよ」小夜子は言った。「もともと、あなたに来てもらおうなんて思っていなかったし。自分の用事を優先してくれて構
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第2話
受話器の向こうで、数秒の沈黙が流れた。「……本気なのかい? あんなに彼のことが好きで、そのためにどれほどのチャンスを棒に振ってきたか。それがどうして急に……」小夜子は小さく笑い、首を振った。「今はもう、好きじゃないんです。それだけですよ」電話を切ると、彼女は窓に頭を預け、そっと瞼を閉じた。この数年間、彼女が湊に心酔していることは誰もが知る事実だった。自分を失うほどに、プライドを捨てて縋り付くように、彼を想い続けてきた。けれど、もう疲れ果ててしまったのだ。心のなかに永遠に別の女性を住まわせている男を愛し続けるのは、あまりに過酷だった。十八歳の春。大学の一年生だった小夜子は、新入生歓迎の式典で初めて湊を見かけた。うららかな陽光が降り注ぐ中、白いシャツに黒のスラックスを纏って壇上に立つ彼は、清廉で、どこか浮世離れした輝きを放っていた。まさに選ばれし者という言葉が相応しい彼の姿に、会場にいた女子学生たちの多くが頬を染めた。小夜子もまた、そのうちの一人だった。しかし、彼に近づける者など誰もいなかった。湊の心には、幼馴染である理央しかいない。それは周知の事実だったからだ。理央は奔放で、わがままで、気性の激しい女性だったが、湊はそんな彼女を慈しみ、すべてを許容していた。誰もが、彼は彼女を死ぬほど愛しているのだと噂し合った。彼が理央を愛した歳月と同じだけ、小夜子もまた、彼の背中を影から追い続けてきた。やがて、理央が湊との結婚を何度も反故にするようになる。一度目は「まだ若すぎるから、結婚なんて早すぎる」と言い、二度目は「マリッジブルーだから」とはぐらかした。三度目は「あなたの愛が足りない気がする」と。そして九度目。結婚式を翌日に控えた夜、海外にいた彼女から一本の電話が入った。「湊さん。やっぱり自由の方が大切だって気づいちゃったの。今の結婚はやめておきましょう?しばらく海外で遊んでくるわ!」その時、湊はもう彼女を追いかけなかった。しばらくの間、彼は抜け殻のようになっていたが、やがて親の勧める見合いに応じ始めた。何人もの女性と会っては、一度きりで縁を切る。そんな日々が続いていた。その知らせを耳にしたとき、小夜子の鼓動は激しく跳ね上がった。知人を介し、あらゆる手を尽くして、彼女は彼との見合いの席をも
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第3話
小夜子は、一人で家に戻った。広すぎる邸宅は冷え冷えとしていて、空虚な静寂に包まれている。彼女は靴を脱いで二階へ上がると、淡々と荷造りを始めた。この日のために、少しずつ整理は進めていた。あとは最後の仕上げをするだけだ。彼女はクローゼットから、かつての理央を彷彿とさせる服を一枚ずつ取り出し、丁寧に畳んで箱に詰めていく。こんな服、もう二度と着ることはない。階下でドアが開く音がした。湊が帰宅したのだ。だが、足音は一つではない。「久しぶりね、小夜子さん」階段の吹き抜けに、理央の甘ったるい声が響いた。彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべてそこに立っていた。小夜子は、何も答えなかった。「理央がハクに会いたいと言い出してな」湊が口を開いたが、その声にはどこか落ち着かない響きがあった。「久しぶりだから、どうしても見たいと」ハクは、湊と理央が付き合っていた頃に飼い始めたサモエドだった。理央が海外へ逃げた後、犬は湊の元に残され、結婚してからはずっと小夜子が世話をしてきたのだ。「好きにすれば」小夜子は背を向け、自室に戻ろうとした。「ハク!ハク、おいで!」理央はすでに床に膝をつき、手を叩いて犬を呼んでいる。部屋の隅から一匹の白いサモエドが駆け寄り、理央を見つけると、ちぎれんばかりに尻尾を振って飛びついた。「まあ、ハクったらちゃんと覚えててくれたのね!」理央は目を細めて犬を抱きしめた。「よその女の人に何年も世話になってたみたいだけど、誰が本当のママか、ちゃんと分かってるじゃない。賢い子!」その言葉には、隠しきれない挑発の色が混じっていた。小夜子の足が止まった。湊が眉をひそめる。「理央、勝手に国を出てハクを捨てたのはお前だ。今さら親気取りで可愛がる資格なんてない。もう顔は見ただろう。そろそろ帰れ」理央は不満げに唇を尖らせた。「外はこんなに暗いし、雨まで降ってきたわ。一人で帰るなんて危ないもの。……ねえ、今夜だけここに泊めてくれない?」湊は断ろうとした。だが、窓の外では確かに激しい雨が降り始め、遠くで雷鳴が轟いている。彼は無意識に小夜子の方を見た。彼女を説得し、同意を得ようとしたのだ。以前なら、理央が来るたびに小夜子は激しく詰め寄り、そのたびになだめるのが常だった。しかし今回、彼が
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第4話
濃煙がさらに色を濃くし、肺を焼く。意識が混濁し始めた。小夜子は奥歯を噛み締め、壁にすがりついてどうにか立ち上がると、ふらつく足取りで出口へと向かった。しかし、扉の前には焼け落ちた梁が横たわり、行く手を完全に塞いでいる。もう、ここからは出られない。燃え盛る梁を絶望の眼差しで見つめた後、彼女は翻って窓際へと走った。窓を押し開けると、冷たい夜風が流れ込み、わずかに意識が鮮明になる。眼下を見下ろすと、ちょうど湊がハクを抱きかかえて邸宅から飛び出してきたところだった。そこへ、理央が狂ったように彼に縋り付く。「湊さん!怖かった、本当に怖かったわ!」理央は激しく涙を流し、取り乱した様子で叫んでいた。「ハクが死んじゃうかと思った……この子は、私たちの愛の証なのに……」湊の身体が一瞬強張った。彼女を突き放そうとするかのような躊躇いが見えたが、あまりにひどく泣きじゃくる姿を前に、結局はその背を優しく叩いた。「……泣くな。もう大丈夫だ。ハクも無事だ、お前もな」その光景を目の当たりにした瞬間、小夜子の心臓を冷たい手で握り潰されたような衝撃が走り、直後にそれが無情にも放り出された感覚に陥った。あとに残ったのは、どこまでも続く、麻痺したような虚無の穴だけだった。もう、誰にも期待しない。彼女は窓枠に足をかけ、深く息を吸い込むと、静かに目を閉じて夜の闇へと身を投げた。身体が宙を舞う時間は、恐怖を感じる暇もないほど短かった。鈍い衝撃と共に、彼女の身体は地面に叩きつけられた。「……っ!!」全身を凄まじい激痛が突き抜ける。冷たい地面に横たわる彼女の身体から、生温かい血がじわじわと広がっていった。「きゃあああ!小夜子様!小夜子様が飛び降りたわ!」家政婦の悲鳴が夜の闇を切り裂き、湊が弾かれたように振り返った。彼の視線の先にあったのは、血の海に沈む小夜子の姿だった。「小夜子!!!」その顔に浮かんでいたのは、これまでの結婚生活で一度も見せたことのない表情だった。驚愕、信じがたいものを見た戦慄、そして――隠しようのない狼狽。小夜子は彼を見つめ、何かを言おうと口を開いたが、ただ鮮血が溢れ出すだけだった。そのまま、彼女の意識は深い闇の底へと沈んでいった。再び意識が戻ったとき、鼻腔を突いたのは重苦しい消毒液の臭いだっ
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第5話
それからの数日間、小夜子は静かに病院で怪我の回復を待った。湊も何度か足を運んできた。高価な補給品や見事な花束を携えてはいたが、滞在時間はいつも短い。彼のスマートフォンは、ひっきりなしに仕事の連絡を告げていた。小夜子は取り乱すことも、縋ることもなかった。湊が何を言っても、ただ「ええ」と短く頷くだけだ。その手応えのなさは、まるで真綿に拳を打ち込んでいるような、得体の知れない無力感を湊に抱かせた。退院の日、湊は供え物を準備し、小夜子と共に郊外の墓地へと向かった。車窓を流れる見慣れた景色を眺めながら、小夜子の胸には言いようのない荒涼とした思いが込み上げていた。結婚して五年。湊が「義理の息子」として彼女の母の墓を訪れるのは、これが初めてのことだった。墓地は静まり返り、松や柏の枝を揺らす風の音だけがさらさらと耳を撫でる。墓標の前に立った湊は、そこに刻まれた義母の名を見つめていた。小夜子によく似た面影を心に思い描きながら、彼は長い沈黙を貫いた。「お義母さん」ようやく口を開いた彼の声は、どこか乾いていた。「……こんなに長い間、ご挨拶に伺えず申し訳ありませんでした」湊は言葉を継ぐ。「これからは、僕が責任を持って小夜子を大切にしていきます。どうか安心してください。二度と、彼女に辛い思いはさせませんから」小夜子は、母の眠る冷たい墓石を、ただ無感動に見つめていた。お母さん、聞こえた?十年間、私が心から焦がれ続けたあの人が、今さら私を大切にするなんて言っている。でもね、もう遅すぎるの。その言葉を必要としていた時間は、もう、とっくに過ぎ去ってしまったのだから。墓参りを終えた後、湊は小夜子を連れて、あるレストランへと向かった。そこは都内でも予約が取れないことで有名な店で、かつて小夜子が何度も行きたいと口にしていた場所だった。だがそのたびに、湊は忙しさを理由に聞き流してきたのだ。今日は彼が店を貸し切りにしたらしく、テーブルにはキャンドルが揺れ、幻想的なディナーが用意されていた。「ここ、前から来たがっていたよな」湊が丁寧に椅子を引き、彼女を促す。「食べてみてくれ。君の口に合うといいんだが」小夜子は席に着き、目の前に並ぶ洗練された料理の数々を眺めた。けれど、胸のうちは凪いだ海のように静まり返ったままで、何の
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第6話
呆気に取られている間に、湊は理央に手を引かれ、ダンスフロアの中央へと連れ出されていた。ワルツの旋律が流れ出す。湊は理央の腰に手を回しステップを踏みながらも、視線はどうしても会場の隅へと向かってしまう。そこには、小夜子がいた。彼女はビュッフェ台の前に立ち、小さく切ったケーキを口に運んでいた。その横顔はあまりにも静かで、瞳には何の感情も浮かんでいない。まるで、まったく赤の他人のパーティーに紛れ込んでしまった客のようだ。心ここにあらずな湊の様子に、敏感な理央が気づかないはずがない。「……そんなに小夜子さんのことが気になるなら、あっちに行けばいいじゃない」不機嫌そうに唇を尖らせる。「私は他の人と踊るから」言い捨てるなり、理央はパッと湊から身を離した。彼女の視線の先には、純白のスーツを着込んだ男が立っていた。大学時代の同級生で、以前から理央に熱を上げていた男だ。チャンスとばかりに彼が恭しく手を差し伸べると、理央はその手に自身の指を重ね、滑るようにダンスフロアの奥へと消えていった。湊はその場に立ち尽くし、楽しげに語らう理央と男の姿を凝視していた。その表情が、一刻ごとに険しく沈んでいく。理央はわざと当てつけるように、男との距離をいっそう縮めてみせた。しまいには男の耳元に唇を寄せて何かを囁き、それに応えるように男が満足げな笑みを浮かべ、彼女の頬に唇を落とした。パリン、と硬質な音が響く。湊の手の中で、ワイングラスが砕け散った。破片が指に食い込み、鮮血がアルコールと混じり合って滴り落ちる。だが、彼にはその痛みすら感じていないようだった。湊はダンスフロアへ突き進むと、理央の手首を強引に掴み、人だかりの中から引きずり出した。「湊!何するのよ、放して!」理央が身をよじって抵抗するが、湊は一言も発しない。凍りついたような顔のまま、半ば引きずるようにして彼女を宴会場から連れ出し、人気のないバルコニーへと連行した。冷たい手すりに理央を押しつけ、湊は抑えきれない怒りをぶつけるように声を荒らげた。「理央、恥を知れ! あんな男と……」「恥を知れですって?」一瞬たじろいだ理央だったが、すぐに表情を険しくして湊の手を振り払った。「私が誰と何をしようと勝手じゃない!私も彼も独身なの。お互い納得の上で楽しんでるのに、何が
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第7話
湊はそのまま入院することになった。だが、小夜子が彼を見舞うことはなかった。彼女は自宅で独り、淡々と自分の時間を過ごしていた。読書をし、映画を観て、着々と荷物を整理していく。そんなある日の夜、執事から突然の電話が入った。「小夜子様、どうか一度病院へ来ていただけませんか?湊様の持病の胃痛が再発してしまい、かなり苦しんでおられるのです。お医者様の薬もあまり効かないようで……冷や汗を流しながら、看護師さんを寄せ付けようともなさいません。以前は、小夜子様がマッサージをしてくだされば和らぐとおっしゃっていましたが……私共ではもう、どうにもできなくて」小夜子は窓辺へと歩み寄り、雨の幕に覆い尽くされた街を見下ろした。ガラスを激しく叩く雨音は、まるで世界すべてを呑み込もうとしているかのようだ。執事の必死な訴えを最後まで聞き終えてから、彼女は静かに口を開いた。「雨がひどいから、行かないわ」電話の向こうで、執事が絶句したのが分かった。数秒の間、沈黙が流れる。あまりの返答に、自分の耳を疑っているようだった。「さ、小夜子様……今、なんとおっしゃいましたか?」執事がしどろもどろに問い返す。「だから、外は雨がひどいから出かけたくないの。今夜は行かないわ」「ですが、湊様が……っ」「もう寝るわ」小夜子は彼の言葉を遮った。「おやすみなさい」そのまま通話を切り、スマートフォンの電源を落とす。彼女はベッドに潜り込むと、外界の喧騒を一切断ち切って目を閉じた。翌日、湊は予定を切り上げて退院し、屋敷へと戻ってきた。その顔はまだ蒼白で、どこか痛みに耐えているような陰がある。リビングのソファで本を読んでいる小夜子の姿を認めると、彼はわずかに足を止め、やがて彼女の正面に立ちはだかった。「昨夜……」湊が口を開く。低く沈んだ声で、射抜くような視線を彼女に注いだ。「執事から電話があっただろう」「ええ」小夜子は視線を本に落としたまま、静かにページを捲った。「どうして来なかった」湊の問いには、抑えきれない感情が滲んでいた。「以前の君なら……どんなに雨や風が強くても、俺が少し体調を崩したと口にしただけで、すぐに駆けつけてくれたはずだ」小夜子の指が止まった。彼女はようやく顔を上げ、湊を見つめた。その瞳は凪いだ湖のよう
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第8話
「この……っ!」小夜子の瞳に宿る、隠しようのない蔑みと憐れみ。それに逆上した理央の顔が、怒りで醜く歪んだ。彼女は小夜子の背後にある低い装飾用の手すりに目をやり、その瞳にどす黒い殺意を浮かべた。「死んじゃいなさいよ!」理央は叫ぶなり両手を突き出し、全身の力を込めて小夜子を突き飛ばした。不意を突かれた小夜子は、なす術もなく身体をのけぞらせ、バランスを崩して宙に投げ出される。だが、落下する刹那。死の淵に立った小夜子の生存本能が、反射的に空を掴んだ。彼女の手は、引っ込める暇もなかった理央の手首を、万力のような力で掴み取った。「――っ!?」二人の悲鳴が夜の闇に重なる。小夜子の身体はすでに大半がバルコニーの外へと放り出され、理央の手首を掴む片手一本でかろうじて繋ぎ止まっている状態だった。理央もまた、その重みに引きずられるように手すりへ前のめりになり、もう片方の手で必死に欄干を掴んで、共倒れになるのを防ぐのが精一杯だった。「助けて!湊さん、助けて、落ちちゃう!!」理央が狂乱状態で叫ぶ。異変に気づいたゲストたちが、雪崩を打ってバルコニーへと押し寄せた。真っ先に飛び込んできたのは、湊だった。目の前の光景に、彼の顔から一気に血の気が引いた。「湊さん!助けて!私、死んじゃう!早く引っ張り上げて!!」理央は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、自由なほうの手を必死に湊へと伸ばした。湊の視線が、奥歯を噛み締め沈黙を守る小夜子と、泣き叫びながら助けを求める理央の間を激しく往復した。だが、その迷いは一瞬だった。電光石火の勢いで駆け寄ると、彼は躊躇うことなく理央が差し出したその手を掴んだ。「小夜子、あと少しだけ耐えてくれ!」湊の声が震える。必死に理央を支えながら、彼は階下を睨むように叫んだ。「先に理央を引っ張り上げたら、すぐに君を助ける。だから……!」懸命に訴えかける湊を、小夜子はただ見つめていた。やがて、その唇がふわりと弧を描く。彼女は、掴んでいた手を離した。重力に引かれ、身体が夜の闇へと沈んでいく。耳元で風が猛烈に唸りを上げた。刹那の浮遊感の後、彼女の身体は階下の屋外プールへと叩きつけられた。激しい水飛沫が上がる。氷のような水が視界を奪い、意識は深い闇の底へと飲み込まれていった。再び目を覚ま
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第9話
湊は病院の廊下に立ち、青白い蛍光灯の下で、もはや指が覚えているその番号を何度も何度も叩き続けていた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」冷たく無機質な機械音声が、耳の奥に残酷な宣告を繰り返す。彼は苛立ちに任せて通話を切り、またかけ直し、また切る。その指先は、自分でも気づかぬほど微かに震えていた。手の甲には、あのシャンデリアが落下した際に負った傷が、痛々しくかさぶたとなって残っている。説明したかった。あのバルコニーの極限状態の中、理央の手が先に自分に伸びてきたのだと。あれはただの反射で、本能的な選択に過ぎなかったのだと。ようやく意識が追いつき、小夜子を助けようとした瞬間には、彼女はもう自らその手を離して墜ちていた。「湊さん……」検査室のドアが開き、理央が姿を現した。顔色はまだ冴えないが、右腕に巻かれた小さなガーゼが示すのは、ほんの軽微な擦り傷に過ぎない。彼女は湊の姿を認めるなり瞳を潤ませ、その胸へと飛び込んだ。「怖かった……私、本当に死ぬかと思ったわ。小夜子さん、どうかしてたのよ。私を殺そうとしたんだわ!どうして私を道連れにしようとしたの……?」理央を抱きとめたまま、湊の身体がわずかに硬直した。「理央」彼は彼女を引き剥がすと、低く沈んだ声で正面から見据えた。「本当のことを言ってくれ。あの時、一体何があったんだ」理央が息を呑む。問い詰めるような彼の眼差しに、その瞳が一瞬だけ泳いだ。だがすぐに、彼女の目にはまた被害者を装った涙が溢れ出した。「わ、私はただ、少しお話ししようとしただけなのに……そうしたら彼女、急に逆上して、私の手を掴んだままバルコニーから飛び降りようとしたのよ!私は必死に手すりにしがみついたのに、彼女、私を下に引きずり込もうとして……私と一緒に死ぬつもりだったのよ、絶対に!」湊は何も言わず、ただ理央を凝視していた。その眼差しはナイフのように鋭く、彼女の心の奥底まで暴き出そうとしているかのようだ。「理央、もう一度だけ聞く。本当のことを言え」静かな声だったが、そこには心臓を凍りつかせるような冷徹な響きがあった。「彼女が先に君を突き飛ばしたのか。それとも君が何かを言い……あるいは、先に何かをしたんじゃないのか?」その視線に射すくめられ、理央の心に動揺が走った。彼女は反
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第10話
湊は通話を切ると、狂ったように病院の外へと駆け出した。行った?荷物をまとめて、出て行ったというのか?いや。あり得ない。彼女が、俺の前から消えるはずがない。あれほど俺を愛していた彼女が、何も言わずに去るなんて……「湊さん!どこに行くの!?」理央が背後から叫んでいる。制御を失った獣のように飛び出していった湊を、彼女は必死に呼び止めた。だが、今の湊の耳には何も届かない。頭にあるのはただ一つ。家へ帰ること。今すぐ、あの屋敷に戻らなければ。彼女は、家にいるはずだ。あの離婚の通知も嘘だ。誰かの悪戯か、あるいは……小夜子が俺を怒らせようとして仕組んだ、質の悪い冗談に違いない。そうだ、そうに決まっている。彼女が、本当に俺を捨てるなんて、できるはずがないんだ。湊は階段を駆け下り、駐車場へと飛び込むと、愛車のエンジンを轟かせた。アクセルを床まで踏み込む。漆黒のスポーツカーは、放たれた矢のような勢いで病院を飛び出し、夜の渋滞へと割り込んでいった。思考は支離滅裂だった。バルコニーから墜ちていく瞬間の、あの絶望的に冷めきった小夜子の瞳。無機質な離婚のメッセージ。そして「行くわね」という執事の言葉。それらが混ざり合い、彼の脳内を掻き乱す。道中、三つの赤信号を無視した。普段なら四十分はかかる道のりを、わずか二十分で駆け抜ける。タイヤが悲鳴を上げるほどの急ブレーキをかけ、車を屋敷の門前に叩きつけるように停めた。湊は車を降りるなり、屋敷へと駆け込んだ。だが、玄関を抜けた先に広がっていたのは、しんと静まり返った空虚な空間だった。「小夜子!」叫び声が虚しく木霊する。彼は階段を駆け上がり、主寝室のドアを乱暴に押し開けた。部屋の中は整然としていた。あまりに整いすぎていて、かえって薄気味悪ささえ感じるほどに。小夜子の私物は、すべて消えていた。クローゼットを開ければ、彼女が好んで着ていた服は一着も残っていない。そこにあるのは、湊が買い与えた、高価だが一度も袖を通されることのなかったドレスやスーツばかりが、抜け殻のように寂しく吊るされていた。ドレッサーの上からも化粧品や小物は消え失せ、わずかな埃がうっすらと積もっているだけだ。ふと視線を落とすと、ナイトテーブルの上に一通の書類
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