INICIAR SESIÓN仕事にもすっかり慣れ、N市では美央が私の一番親しい友達になった。私たちは一緒にライブを観に行った。2時間も立ちっぱなしで、声が枯れるほど叫んだ。ライブが終わると、二人で道端の屋台に行って焼きそばを食べた。店主はもう私たちのことを覚えていて、「今日も二人とも辛めでいいか?」と聞いてくる。「はい」私は答えた。そんなふうに、些細なことを覚えていてもらえる。それだけで、この街が少しずつ私を受け入れてくれているような気がした。焼きそばができるのを待っていると、美央が突然言った。「寧々、最初に来たときは、雨に濡れた猫みたいだったのに。今は全然違うね」「どこが?」私が尋ねる。「目」美央は指で目元を示した。「前は何を見るときも俯いてた。でも今は、ちゃんと顔を上げてる」私は一瞬、呆気に取られた。それから笑った。彼女の言う通りだった。……一方、徹也は公証役場を訪れていた。窓口に所有権契約書の再発行に必要な書類を提出すると、職員が内容を確認し、判を押した。徹也は新しい契約書を手に、建物の前に立っていた。茶封筒を手に持つ。それほど重くない。ふと、以前私に言った言葉を思い出す。「俺のところに送って。手続きは俺がやってあげるから」あのときは、本当に私の力になりたいと思っていた。けれど、結局できなかった。徹也は新しい契約書を封筒にしまった。そしてオフィスへ戻り、自分の席に座る。スマホを開き、私とのチャット履歴を表示した。最後に残っているのは、あの一言だ。【もういい】彼は、その短い文をしばらく見つめた。それから、静かにトーク画面を閉じた。……翌日、私は一通の荷物を受け取った。茶色い封筒だ。右下には公証役場の名前が印刷されている。差出人の欄には、徹也の名前があった。開封するとき、指は震えなかった。中に入っていたのは、再発行された所有権契約書だった。真新しい紙だ。公印も、はっきりと押されている。最後のページの署名欄には、徹也がすでに署名していた。彼が署名したのは、「立会人」の欄だった。字は端正で、一画一画、丁寧に書かれている。以前の彼は、もっと字が雑だった。だからきっと、これは真剣に書いたのだろう。私は契約書
会社のビルを出たときには、もう10時近くになっていた。夜風がひんやりと吹いている。私はアパートへ向かって歩いた。歩いて15分ほどの距離だった。何歩か進んだところで、ふと気づいた。私はもう、ほぼ1ヶ月も徹也のことを思い出していない。最後に思い出したのは、いつだっただろう。たしか、スーパーで布団を買った日だった。徹也の家にあったものと同じようなシーツを見つけて、売り場で数秒立ち止まった。それから、別の商品を手に取った。それ以来、一度も思い出していない。意識して考えないようにしていたわけじゃない。本当に、思い出さなくなったのだ。正社員になってから、私は引っ越した。新しい部屋は以前のワンルームより少し広く、小さなベランダもついている。私はスマートロックを一つ買って、自分で取り付けた。取り付け業者が電話で「訪問して取り付けましょうか」と言ってくれたけれど、「大丈夫です。自分でやってみたいので」と断った。古い鍵を取り外し、新しいロックの台座を取り付けた。ネジを締めるときは、力いっぱい回した。取り付けを終え、私はドアの外に立った。そして、指を認証部分に置く。「指紋の登録が完了しました」私は、その音声を何度も聞いた。澄んだ、機械的で、感情のない女性の声だ。あの夜に聞いた、「この指紋は登録されていません」という音声とは、まるで違った。あの夜、私は徹也の家の前に立っていた。廊下の窓から冷たい風が吹き込んできた。何度指を当てても、返ってくるのは、あの冷たい音声だけだった。けれど今、私は自分の家の前に立っている。この鍵は、私を知っている。翌日、会社で一つの荷物を受け取った。差出人の住所は、徹也の家だった。手に持って重さを確かめる。軽い。小さな箱だった。開けると、中に入っていたのは、一本の鍵だ。そこには小さなプレートが付いていた。表には、こう書かれていた。【この家のドアロックには、お前の指紋しか登録していない。ほかの誰も登録されていない。いつでも戻ってきていい】裏返すと、もう一行あった。【ごめん。本当にごめん】何度も書き直したのだろう。乱れた字だった。私は、その鍵を使うつもりはない。でも、捨てもしなかった。思い出の
入社2週目の金曜日、仕事を終えて帰ろうとした私は、会社のエントランスで徹也を見かけた。彼はガラス扉のそばに立っていて、濃いグレーのコートを着ていた。隣を歩いていた美央が私の視線を追い、声を落として尋ねる。「知り合い?」「うん。友達。先に帰っていいよ」美央はそれ以上何も聞かず、軽く頷いて先に帰っていった。私は徹也の前まで歩いていった。驚きも、怒りもなかった。ただ、静かに尋ねた。「どうして来たの?」「直接、お前に謝りたくて」彼の声は少し掠れていた。「何について謝るの?」彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。「言えないの?」私は彼を見つめた。「それとも……『ごめん』の一言で済むと思ってる?」彼はしばらく黙ったあと、口を開いた。「パソコンに残ってた注文履歴、見たんだろ?」その声は、ひどく苦しげだった。「温泉ホテルのあの夜……晴美が部屋で一杯飲もうって言って、それで俺は……」彼は一度言葉を切った。「一時の気の迷いだった」私は彼を見つめた。「一時の気の迷い?食事の席で、晴美が齧った蟹をそのまま食べたのも、一時の気の迷い?車の中で晴美を助手席に座らせて、ナッツまで食べさせてもらってたのも?晴美が襟を直してくれたとき、避けなかったのも、全部、気の迷い?」彼は口を開いた。けれど、何も言えなかった。「あなたが晴美に優しくしてることなんて、みんな分かってる」「違う……」徹也はその場に立ち尽くしていた。顔はひどく青ざめている。「説明しなくていいよ」私は言った。「あなたが晴美にどれだけ優しいかなんて、もう十分すぎるほど分かったから。二人でずっと一緒にいればいいよ」そう言って、私は彼の横を通り過ぎ、エントランスへ向かった。「寧々」後ろから、彼が私を呼ぶ。私は立ち止まらなかった。外へ出ると、夜風が正面から吹きつけてきた。私はコートをしっかりと合わせ、そのまま角にあるコンビニへ入った。冷蔵ケースにはミネラルウォーターがきれいに並んでいる。私は一本手に取った。その頃になっても、徹也はまだその場に立っていた。彼は、私の背中が角の向こうへ消えていくのを見つめていた。彼はN市で一晩過ごした。翌朝、ホテルをチェックア
月曜日の朝、私は新しい会社へ初出勤した。人事の担当者が社内を一通り案内してくれた。「トイレはここで、給湯室はこっち。消火器はあそこです」最後に案内されたのは、空いているデスクだった。隣には、ショートヘアの女の子が座っている。「やっほー、新入り!私、周防美央(すおう みお)っていうの」「神谷寧々です」「寧々、よろしくね。お昼、一緒に食べようよ。社内のこと教えてあげる」私は席に座り、自分のマグカップを机の隅に置いた。IT担当がシステムを設定してくれるのを待ちながら、パソコンを立ち上げる。美央はすでにイヤホンをつけて仕事に戻っていた。鼻歌を口ずさんでいる。誰もわざわざ私を見に来ることはなかった。だからといって、誰かに冷たくされることもない。近すぎず、遠すぎない。ちょうどいい距離感だった。昼休みになると、美央は本当に私を誘いに来た。私たちはトレーを持って社員食堂へ向かった。それほど遠くない道のりだったけれど、彼女はその間ずっといろんなことを話してくれた。どの店の料理がおいしいとか。階下のカフェではラテが2杯目半額になるとか。金曜日の午後は私服で来てもいいとか。どれも気負いのない話だった。私が無理に話を続ける必要もない。ただ聞いているだけでよかった。その瞬間、私は少しだけぼんやりした。以前いた街では、友達を作るのはこんな感じじゃなかった。徹也のいる輪に入ってから、私はずっと「馴染む」ために時間を使ってきた。誠人がどんな酒を飲むのか――アサヒだ。木村がどの会社にいるのか――不動産会社で企画をしている。グループの中で誰と誰が揉めているのか――たしか、以前割り勘にした食事代の計算が合わなかったのが原因だ。私は全部スマホにメモしていた。会う前には、一度復習していた。余計なことを言わないように。会話が途切れないように。徹也の友人たちに「付き合いにくい女」だと思われないように。でも結局、私はいつまで経っても、「徹也の彼女」だった。ただの付属品だった。それなのに今の私は、美央とただの同僚だ。彼女は私の過去を知らない。私も、彼女の前で何かを証明する必要はない。私はただ、私自身でいればいい。「今度、一緒にライブに行こうよ」美
私はホテルで2日間過ごした。3日目の午前、私はあるデザイン会社の面接を受けに行った。面接官は30代くらいの女性で、デザインディレクターだった。彼女は私のポートフォリオを数ページめくると、頷いた。「デザインがすごくすっきりしていますね。どうして前の町を離れたんですか?」私は少し考えてから答えた。「環境を変えたくて」彼女はそれ以上追及しなかった。ポートフォリオを閉じて言う。「分かりました。では、来週まで連絡します」私は立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。会議室を出る途中、オープンな執務スペースを通りかかった。誰かがカップを片手に私の横を通り過ぎ、何気なく言った。「新入り?」私が答えるより先に、その人は同僚に呼ばれて行ってしまった。みんな忙しそうに働いていて、誰もわざわざ他人に干渉しない。私は、そんな雰囲気がなんだか心地いいと思った。会社を出ると、陽射しがとても暖かかった。そのとき、スマホが震えた。人事からのメッセージだった。【面接に合格しました。来週月曜日から出社してください】私は見知らぬ街角に立ったまま、そのメッセージを二度読み返した。……一方、徹也は私が半分ほど荷物を持ち出した部屋に座っていた。窓から差し込む陽射しが、左側から中央へとゆっくり移動し、床に斜めの光の筋を作っている。彼は、この数日間に起きたことを一つずつ思い返し始めた。始まりは、玄関の指紋認証からだった。私が電話をかけてきたとき、声はまだ落ち着いていた。あのとき、自分は何を考えていた?「晴美が料理してるんだから、機嫌を損ねないようにしよう」と考えていた。玄関の外に立っていた私が、寒くないか。そんなことは、一度も考えなかった。そして、3ヶ月前のあの週末を思い出す。温泉ホテルに、晴美が言った。「徹也、赤ワイン頼んだから、部屋で飲もうよ」彼は飲んだ。その後のこと……徹也は目を閉じると、記憶が一気に蘇ってくる。晴美は彼のシャツを着ていた。襟元は大きく開き、髪は濡れていた。ベッドサイドのテーブルには、彼が注文したコンドームの箱があった。すでに開封されていた。あのとき、彼は自分に言い聞かせた。酒に酔って、過ちを犯しただけだと。
列車の出発時刻は、午前2時だった。私が買ったのは普通座席で、車内にはまばらに人が座っているだけだった。私は徹也の電話番号をブロックし、ラインも非表示にした。夜が明ける頃、私はN市に着いた。駅の近くで、安いビジネスホテルを一軒見つけた。フロントで何泊するのかと聞かれ、「とりあえず……まだ分かりません」と答えた。部屋に入り、スーツケースを置く。それからスマホを開き、N市での求人を探し始めた。……一方、徹也は自宅へ戻っていた。靴を脱ぎ、リビングへ入る。ソファには、以前私が座ったときに残していったクッションがまだあった。私が抱きしめていたせいか、少しだけ皺が寄っている。徹也はそこへ歩み寄り、クッションを軽く叩いて形を整えた。そして、リビングの中央に立ち、ぐるりと部屋を見回す。何が違うのか、うまく言葉にはできなかった。ただ、この家が、ひどくがらんとしているように感じた。彼は書斎のドアを開けた。机の上は空っぽだった。あの書類袋も、なくなっている。徹也は一瞬、呆然とした。そして歩み寄り、引き出しをいくつか開けて確認する。私がここに置いていたものが、いくつか消えていた。彼はスマホを取り出し、私に電話をかけた。長い間呼び出したが、誰も出ない。もう一度かける。今度は、着信を拒否された。3度目――「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」そこで、ようやく気づいた。ブロックされている。徹也はスマホを握ったまま、クローゼットの前に長い間立ち尽くした。このときになって初めて、本当に理解した。私は「怒っている」ではなく、「出ていった」のだ。彼は車を走らせ、私が暮らしていた住所へ向かった。ドアを開けた瞬間、何かがおかしいと分かった。リビングから、たくさんの物がなくなっている。クローゼットも半分以上が空っぽだった。それなのに、床は綺麗に掃除されていた。キッチンのコンロも、鏡のように磨かれている。ゴミさえ、すべて持っていったようだった。徹也は、何もなくなったリビングに一人で立ち尽くした。そして、ふと一つの言葉が浮かんだ。撤退だ。逃げたんじゃない。何一つ取り乱すことなく、順序立てて、