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私より妹がお好きなら、さようなら

私より妹がお好きなら、さようなら

By:  春野月Completed
Language: Japanese
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旅行の荷造りをしている最中、夫の東条蒼介(とうじょう そうすけ)は行き先を、妹の白瀬葵(しらせ あおい)がずっと行きたがっていた蒼碧島に変えてしまった。 手を止めた私・東条満月(とうじょう みつき)の目に、示し合わせたように顔を見合わせる夫と息子の東条陽向(とうじょう ひなた)の姿が映った。 「もしママが文句あるなら、多数決で決めよう」 私と葵の意見がぶつかるたびに、あの二人は「多数決」という名目で票を投じた。 誕生日に洋食が食べたいと言えば、二人は葵の「和食の方が体にいい」に賛成票を投じた。 体調がおかしくて病院に行きたいと訴えても、二人は「ただのストレスだ」という葵の言葉に賛成した。 そして今回も、票数は二対一。私はまた負けた。 喉の奥が詰まるように痛んで、私は小さく反論した。 「蒼介、十六夜湖は私たちが結ばれた場所でしょう」 彼は顔も上げず、蒼碧島行きの航空券をまとめ買いしていた。 「『うみ』があるのはどこも同じだろ」 蒼介が予約したのは、三人分のプラン。 「三人分しか取ってないから、お前は自分でチケット買えよ」 彼は自分と息子と義理の妹をひとくくりにして、妻の私だけを蚊帳の外に置いた。 私は結婚指輪を外し、十六夜湖行きのチケットを予約した。 辿り着きたい場所になら、一人ででも行ける。

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Chapter 1

第1話

私が自分のチケットの予約をするのを見て、蒼介の眉間の皺がふっと緩んだ。

彼は葵の頭を撫でてから、私の手を取りに来た。

「じゃあ、水着を買いに行こうか。葵と陽向は最近、付け焼き刃でサーフィンを習ったんだ。蒼碧島に着いたら早速実践できるな」

陽向が葵の脚に擦り寄り、甘えた声を出す。

「その時は、葵さんが一番きれいな景色になるんだろうね」

陽向がお世辞を言うことなど、滅多にない。私にはいつもよそよそしくて、視線は常に私に微妙な蔑みを感じさせた。

息子との距離を縮めたくて、私は陽向がフォローしているグルメ系インフルエンサーを探し出し、彼が「いいね」した料理を真似て作った。

けれど、期待を込めて「美味しい?」と聞くたびに、陽向は眉をひそめて食べ物をゴミ箱に吐き出し、えずいてみせた。

「ママの料理、本当にまずい」

味は悪くなかったはずだ。最初は、単に陽向の好みに合わないだけだと思っていた。

でも今ならわかる。彼は私自身が嫌いで、だから私が作るもの全てを嫌っていたのだ。

助手席に座った私は、バックミラー越しに、陽向が大人しく葵の腕の中に収まっているのを見た。

私が見ているのに気づくと、陽向はおどけた顔をしてこちらに唾を吐く真似をした。

葵が口元を押さえて笑いながら口を挟む。

「お姉ちゃん、陽向と前世で何かあったんじゃない?私が今まで見た中で一番いい子なのに、なぜかお姉ちゃんとだけは相性が悪いのよね」

ハンドルを握る蒼介が、相槌を打つように言う。

「陽向は確かに葵の方が好きみたいだな。毎年の誕生日の願い事の時に、明るくて元気な葵さんがママだったらいいのに、って言ってるくらいだし」

言い終わるか終わらないかのうちに、葵の顔がぱっと赤く染まった。恥ずかしそうに蒼介をちらりと見てから、陽向のわき腹をくすぐる。

「もう陽向、変なこと言わないで。ママが悲しむでしょ」

車内に響く笑い声が、針のように私の心に突き刺さった。

自分が腹を痛めて産んだ息子を見つめる。葵が家に越してきてから、陽向は一度も私に懐かなくなった。

心の中に苦みが広がる。蒼介が身を屈めて、私のシートベルトを外してくれた。私の沈んだ気持ちに気づいたのか、彼は慰めるように額にキスを落とした。

「子供の冗談だ、気にするな」

水着ショップに入ると、それまで私と並んで歩いていた蒼介は、いつの間にか葵の隣へと寄っていった。

葵が陽向の手を引き、陽向が蒼介の手を引く。

店員が愛想よく声をかけてきた。

「ご家族お三人とも、本当に仲がよろしいんですね」

後ろに取り残された私に気づく者は誰もおらず、本当の家族は私の方だと訂正する者もいなかった。

目の奥が熱くなるのを堪えながら、陽向が葵に水着を選んでやる姿を眺めた。

不意に、陽向は淡い黄色の水着を手に私の方へ歩み寄ってきた。その目は期待に満ちている。

「ママ、これ着たら絶対似合うよ」

蒼介が言葉を継ぎ、私の背を押して試着室へ向かわせる。

「早く試着してこい、陽向のセンスを見せてもらおうか」

心にじんわりと温かいものが広がった。着替え終えた後も、鏡の前でしわを何度も直した。

ドアを開ければ褒め言葉が待っていると思っていたのに、開けた瞬間に浴びせられたのは、カメラのフラッシュだった。

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第1話
私が自分のチケットの予約をするのを見て、蒼介の眉間の皺がふっと緩んだ。彼は葵の頭を撫でてから、私の手を取りに来た。「じゃあ、水着を買いに行こうか。葵と陽向は最近、付け焼き刃でサーフィンを習ったんだ。蒼碧島に着いたら早速実践できるな」陽向が葵の脚に擦り寄り、甘えた声を出す。「その時は、葵さんが一番きれいな景色になるんだろうね」陽向がお世辞を言うことなど、滅多にない。私にはいつもよそよそしくて、視線は常に私に微妙な蔑みを感じさせた。息子との距離を縮めたくて、私は陽向がフォローしているグルメ系インフルエンサーを探し出し、彼が「いいね」した料理を真似て作った。けれど、期待を込めて「美味しい?」と聞くたびに、陽向は眉をひそめて食べ物をゴミ箱に吐き出し、えずいてみせた。「ママの料理、本当にまずい」味は悪くなかったはずだ。最初は、単に陽向の好みに合わないだけだと思っていた。でも今ならわかる。彼は私自身が嫌いで、だから私が作るもの全てを嫌っていたのだ。助手席に座った私は、バックミラー越しに、陽向が大人しく葵の腕の中に収まっているのを見た。私が見ているのに気づくと、陽向はおどけた顔をしてこちらに唾を吐く真似をした。葵が口元を押さえて笑いながら口を挟む。「お姉ちゃん、陽向と前世で何かあったんじゃない?私が今まで見た中で一番いい子なのに、なぜかお姉ちゃんとだけは相性が悪いのよね」ハンドルを握る蒼介が、相槌を打つように言う。「陽向は確かに葵の方が好きみたいだな。毎年の誕生日の願い事の時に、明るくて元気な葵さんがママだったらいいのに、って言ってるくらいだし」言い終わるか終わらないかのうちに、葵の顔がぱっと赤く染まった。恥ずかしそうに蒼介をちらりと見てから、陽向のわき腹をくすぐる。「もう陽向、変なこと言わないで。ママが悲しむでしょ」車内に響く笑い声が、針のように私の心に突き刺さった。自分が腹を痛めて産んだ息子を見つめる。葵が家に越してきてから、陽向は一度も私に懐かなくなった。心の中に苦みが広がる。蒼介が身を屈めて、私のシートベルトを外してくれた。私の沈んだ気持ちに気づいたのか、彼は慰めるように額にキスを落とした。「子供の冗談だ、気にするな」水着ショップに入ると、それまで私と並んで歩いていた蒼介は、いつの
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第2話
陽向は写真を家族のグループチャットに投稿した。あどけない声の裏に、濃い悪意が滲んでいた。「ママのお腹のムカデ、気持ち悪いよね。なんでいつもみっともなく、葵さんのお気に入りの服を横取りするんだろ」指先まで冷たくなるのを感じながら、私は隣の試着室から出てきた葵の姿を目にした。彼女は私と同じ水着を着ていて、その体のラインは誰の目にも眩しいほど整っていた。店内の視線が、一斉に彼女へ吸い寄せられる。「うわ、スタイルよすぎない?肌も白くてきれいだし、ウエストのくびれもすごい。女神かよってレベルじゃん」「その隣にいるの誰?お腹に妊娠線びっしりで、脇も黒ずんでて……ちょっと引くんだけど」服を剥ぎ取られたような気分になって、私は縋るように蒼介を見た。彼の視線は熱っぽく葵に注がれたまま、私の居たたまれなさになど気づきもしなかった。親戚のグループLINEでは、母親のくせに色気を出すなんて恥さらしだと、私への攻撃が止まらなかった。逃げるように試着室へ戻ると、涙が大粒でこぼれ落ちた。陽向を産んでから、私はずっとお腹に残った妊娠線と傷跡を消す方法を探していた。深刻な体型不安に陥り、軽い抑うつ状態にまで陥っていたこともある。あの頃、蒼介は「それは愛した証だ」と慰めてくれた。物心ついたばかりの頃の陽向も、よく「世界で一番きれいなママだよ」と言って励ましてくれたものだった。やっと塞がりかけていた傷が、再び生々しく引き裂かれる。息が詰まって苦しかった。ドアの外から、蒼介と陽向の忍び笑いが聞こえてきた。「前に親戚のグループで葵さんが物を散らかしたって叱られてたよな。今回、ママに恥をかかせたのはその仕返しってことで」力が抜けて壁に寄りかかり、ずるずると座り込む。蒼介に呼ばれるまで、私はドアを開けられなかった。店を出るとき、葵が挑発するように私を睨みながら、パンパンに膨らんだ紙袋を揺らしてみせた。「お姉ちゃん、次から服買うときは先に聞いてよね。おそろいになったら気まずいでしょ」陽向が噴き出すように笑い、我先にと葵の荷物を持とうとする。蒼介が、おまけの粗末なパールのヘアピンを私に押しつけてきた。「もう若い子じゃないんだから、少しは自分の体型がどんなものかくらい分かるだろ。パールみたいな、丸くて上品なものの方がお前には似
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第3話
少女に別れを告げながら、私は真剣な口調で伝えた。「近いうちに必ず新作を出しますよ。あんまり待たせないようにしますね」背後から重い足音が近づいてきて、蒼介が眉をひそめながら私の前に立った。「一体何をぐずぐずしてるんだ?水着も選ばない、サングラスも興味ない。いい加減その顔やめてくれよ。十六夜湖なら次は絶対付き合うから、それでいいだろ?」私の番はいつも「次」で、葵にはいつも「今すぐ」が用意されていた。彼女がシャネルの新作バッグを欲しがれば、蒼介は街中を駆けずり回って高値で取り寄せ、その日のうちに手に入れさせた。私がニコンの新型レンズを欲しいと言えば、彼は友人に代理購入を頼むと約束してくれた。けれど、心待ちにして一週間、荷物がまだ届かないと聞くと、彼は「忘れてた」の一言で済ませた。蒼介にとって、私はとうに取るに足らない存在になっていたのだろう。私の顔色があまりに悪かったのか、蒼介の口調がふと和らいだ。「満月、葵はお前の妹だろ。そんなにむきになる必要ないだろ」私は黙って頷き、彼の言葉に同意した。満足げに笑った彼は、私の肩を抱き寄せて誓った。「十六夜湖に着いたら、アシスタントに一番いいウェディングフォトの店とヘアメイクを手配させる。お前の夢を全部叶えてやる。もう一度、世界で一番きれいな花嫁にしてやるから」葵と陽向が、両手いっぱいの紙袋を提げて息を切らしながら出てきた。「もう帰ろうよ。この店の商品、あらかた買い占めちゃったわ」蒼介が甘い眼差しで、葵から荷物を受け取る。モールを出ると、激しい雨が降り出し、雨粒が私のスカートの裾を叩いた。数え切れないほどの紙袋が、私の席と助手席を埋め尽くしていた。雨が窓を叩きつける中、葵が申し訳なさそうに顔を出す。「お姉ちゃん、タクシーで帰ってもらえる?もう席がないの」陽向が私の手を振り払うように、力任せに車のドアを閉めた。指の骨に鋭い痛みが走り、手を引いた拍子に足を滑らせて、ヒールが側溝に挟まってしまった。蒼介は一瞬車を降りようとしたが、葵が心配そうに口を挟んだ。「雨がひどくなってきたし、これ以上暗くなったら運転危ないよ」彼はエンジンをかけ、「気をつけて」と一言残して走り去った。大粒の雨が体に打ちつけて冷たかった。私は唇を噛み締め、泣きたい気
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第4話
家に帰り着くと、ちょうど蒼介が味噌うどんを持ってキッチンから出てくるところだった。心がすとんと沈んでいった。だが、私は蒼介がなぜ台所に立つ気になったのかを問い詰めることはしなかった。先月、三十歳の誕生日を迎えたとき、私は蒼介に蕎麦を作ってほしいと頼んだことがある。彼は取り付く島もなく、一言で切り捨てた。「俺、料理できないから」蒼介の顔に珍しく気まずさが浮かび、慌てて言い訳を探す。「葵と陽向が雨に濡れたから、風邪引かせたくなくてうどん作っただけだよ。鍋にはまだ残ってるけど、要る?」キッチンをちらりと覗くと、鍋の底に残っていたのは、具のないうどんだけだった。「いらないよ」陽向が鼻で笑い、容赦なく真実を突きつけてくる。「パパ、ママの分なんて最初から作ってないよ。パパの愛は僕と葵さんだけのものだって約束したもん」蒼介のことなどもう気にしていないと自分に言い聞かせても、胸の奥は勝手にずきりと痛んだ。「その足、どうしたんだ?」蒼介の顔色が少し変わり、リビングにある救急箱を漁りに行く。私は土砂降りの中に置き去りにされたことを許す気になれず、蒼介の気遣いを素直に受け取る気になれなかった。大丈夫、と言おうとした矢先、両足に刺すような痛みが走った。蒼介が顔をしかめて口元を覆いながら、消毒液を容赦なく吹きかけてくる。「葵は体が弱いんだから、お前の足が化膿して外の菌を家に持ち込んだら大変だろ。病気にでもなったら、俺が付き添いで看病する羽目になるだろ」一言一言が、鈍器で殴り付けるように私の心を打ち砕いていく。私は動くこともできず、蒼介が消毒液を三回、アルコールを五回も私の足に吹きかけたあと、無菌服を投げてよこすのをただ見ていた。葵はうどんをすすりながら、陽向と一緒に笑っている。そして不意に部屋へ駆け込んでいったかと思うと、何台ものカメラを抱えて戻ってくる。「お姉ちゃん、カメラ一台ちょうだいよ。明日飛行機の中で写真撮りたいの」そのカメラたちは、ほぼ北半球を一緒に旅してきた、私にとって手放せない相棒だった。「駄目」葵が悔しそうに口を尖らせ、涙をぶわっと溢れさせる。蒼介が苛立たしげに私を睨みつけ、カメラを全部葵の腕に押しつけた。「欲しいなら持ってけ。足りなきゃ俺がまた買ってやるから」
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第5話
眩しい朝日に目を刺されて、蒼介は無意識に隣の人物を揺り動かした。「満月、カーテン閉めてくれ」見知らぬ香りに刺激され、蒼介は一瞬で覚醒した。枕元に横たわる葵の姿を見て、蒼介は慌てて布団をめくり上げる。自分は服を着たままで、葵も寝間着姿のままだった。満月に対して疚しいことは何もしていない。物音で目を覚ました陽向が、寝ぼけたまま葵の腕の中に潜り込む。「ママ、もうちょっと寝たい」だが次の瞬間、目の前にいるのが葵だと気づいた陽向は、目を見開いて泣き出した。「なんで葵さんなの?」葵はうるさがって、陽向を足で蹴りベッドから落とした。蒼介は手を伸ばすのが一瞬遅れ、陽向が床に叩きつけられて額を赤く腫らすのをただ見ていることしかできなかった。痛ましさに陽向を抱き上げ、蒼介は苛立ちを込めて怒鳴った。「葵、お前いきなり何するんだ?」陽向は蒼介の胸に顔を埋めて泣きじゃくり、ママを呼び続けた。いつもなら、目を覚ました朝は優しく背中をさすってもらい、起こされて朝ご飯を食べに行く。なのに今日は、目を開けた瞬間に葵に蹴り落とされたのだ。体中が痛くて、陽向は喉が裂けそうな声でママを呼び続けた。蒼介の胸に、じわりと不安が広がる。いつもなら陽向の泣き声を聞いた満月が真っ先に飛んでくるはずだった。だが今は、陽向が息もできないほど泣いているのに、彼女は姿を見せない。すっかり目を覚ました葵が、決まり悪そうに陽向をなだめに来る。「悪かったね、わざと蹴ったんじゃないの。私が傷、痛いの痛いの飛んでけをしてあげる」尖った付け爪が陽向の目尻をかすめ、彼は声にならない悲鳴を上げた。「痛い……痛いよ……」蒼介は怒りと焦りが同時に込み上げ、力任せに葵を突き飛ばした。体勢を崩した葵は、頭をベッドの縁に強く打ちつける。痛みに顔を歪め、彼女は枕を蒼介と陽向に向かって思い切り投げつけた。「二人ともうるさいのよ、揉めるなら外でやってよ!大きな声出して私の睡眠の邪魔しないで」そう言い放つと、葵は乱暴に二人を寝室から追い出し、二度寝を決め込んだ。蒼介は胸を大きく上下させ、怒りを抑えきることが難しかった。葵の性格が良くないことはわかっていたから、満月のためにこれまでずっと我慢して、頼まれれば何でも聞いてやってきた。だが今日になってようや
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第6話
蒼介はゆっくり身をかがめ、離婚協議書を開いた。署名欄には、几帳面な字で満月の名前が書かれていた。彼の心は瞬時に氷漬けにされたように冷たくなり、昨夜の喧嘩がどれほど深刻なものだったのかを、ようやく理解した。眠りから覚めて空腹を訴える葵が、寝室のドアを開けて出てくる。「お姉ちゃん、荷物まとめてくれた?何か味噌汁でも作らせてよ、食べてから出発しよう」いつもなら、この一言に蒼介はすぐ満月に支度を言いつけ、陽向も不満げに急かすところだ。だが今日は、二人とも何も答えなかった。葵は眉をひそめ、思わず不満を漏らす。「聞こえてる?お腹すいたんだけど」蒼介の脳裏に、毎朝眠気を押し殺して朝食を作り続けていた満月の姿がよぎった。葵は好みがうるさく、みそ汁の出汁は鰹節から丁寧に取ったものでなければ口にしないし、ご飯も炊きたてでなければ箸をつけようともしない。満月はいつも不眠に悩まされていて、眠りについてから三十分も経たないうちに叩き起こされ、朝食の支度をさせられた。目の下の青黒い隈は、まるで色褪せない絵の具のように張り付いていて、尽きない疲労を映していた。それでも満月は一度も文句を言わず、黙って悔しさを飲み込み、言われたことをこなし続けてきた。蒼介の中に苛立ちが湧く。なぜ彼女は断らなかったのだろう?自分に話してくれればよかったのに。不満があるなら、口に出して一緒に解決策を考えればよかったのに。逃げるように家を出て、離婚したいと言い残すのではなく。いつもなら自分にべったり張り付いてくる蒼介と陽向が反応しないことに、葵は苛立って足を踏み鳴らした。「聞こえてるの?早くお姉ちゃんに朝ご飯作ってもらってよ。じゃないと飛行機に間に合わなくなるよ」蒼介の瞳が沈み、葵を叱りつけた。「黙れ!彼女はお前の姉だろ、呼べば来て追い払えば消えるような使用人じゃない」一度も厳しい口調で怒鳴られたことのなかった葵は、逆上してコップを叩き割った。陽向が飛びついて葵の手に噛みつき、彼女を突き飛ばして破られたコップの破片の上に転ばせる。「ママが一番大事にしてたコップ壊したね。ママ、悲しむよ」陽向は睫毛に涙をためながら、憎々しげに葵を睨みつけた。葵の手には深く鋭い切り傷が走り、痛みに指先が制御できないほど震えた。蒼介にすがるよ
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第7話
十六夜湖に着いてから、私は前もって予約しておいた民宿へ向かった。その民宿の女将の宮下茜(みやした あかね)は私の熱心なファンで親友なので、わざわざ空港まで迎えに来てくれていた。茜は私の後ろに目をやり、不思議そうに口を開いた。「旦那さんと陽向ちゃんは?結婚十周年の記念に、十六夜湖でウェディングフォト撮る約束だったんじゃないの?」私は唇の端を上げて笑い、静かに答えた。「離婚するつもりなの」茜は信じられないという顔で声を上げ、さらに問い詰めてくる。「昔、蒼介さんがあんなに盛大にお金かけて満月を口説いてたのに!?満月が付き合うって答えた月、十六夜湖では毎晩ドローンでバラの花びらを撒くまでしてたわよね。白銀岳の前で膝までついて、一生裏切らないって誓ってたのに、なんでそんなことになったの?」あの頃の愛は確かに熱く激しくて、忘れがたいものだった。十六夜湖を訪れる観光客なら誰もが、蒼介が私に夢中だったことを知っていた。皆が私たちの幸せを祝福し、共に白髪になるまで添い遂げるものだと信じていた。だが、あれほど激しかった愛情も、時間の中で薄れていくとは誰も思わなかった。誓いもまた、幾度も重なる不公平さの中で崩れ去っていくとは。私は白銀岳の方角を見上げ、笑って答えた。「大丈夫よ、もう全部過ぎたことだから」茜が荷物を車に積んでくれ、窓から涼やかな風が吹き込んできた。髪が揺れて、久しぶりに自由の感覚を味わった。湖畔を通り過ぎたとき、鮮やかな青が視界いっぱいに広がった。ほとんど反射的に構図を探し、カメラを取り出そうと手を伸ばした。だが手は空を掴み、そこでようやく思い出した。カメラは全部、陽向に叩き壊されてしまっていたのだ。あのカメラたちには、陽向が生まれてから今日までの誕生日の映像が全部収められていた。十八歳になったら記念に編集して贈るつもりだったが、もうその必要もなくなった。陽向は私が積み重ねてきたものを何とも思っていない。だったら、私ももう何かを差し出すつもりはない。車が静かに止まり、茜が三人用のファミリールームから一人用のスイートに部屋を替えてくれた。壁に飾られたポスターを見て、胸の奥に温かいものが広がった。それは、私が初めて国際写真大賞の金賞を獲った作品だった。白銀岳が朝日を浴びて黄金色に染まる、
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第8話
蒼介が目を赤くしながら私の前まで来て、力いっぱい私を抱きしめた。冷たい雫がいくつか首筋に落ちて、彼は縋るように私の首元に顔を埋めてくる。「満月、離婚しないでくれないか」陽向が駆け寄って私の手を取り、涙で潤んだ目で懇願してきた。「ママ、僕とパパのこと、いらないなんて言わないで」十六夜湖へ向かう飛行機の中で、私は蒼介と陽向が私の不在に気づいたときの様子を何度も想像していた。きっとまた、私が構ってほしくて拗ねているだけだと思うんだろう。彼らの無関心が憎かった。私を理解しようとしないことが憎かった。葵ばかり可愛がることが憎かった。再会したら、罵声を浴びせて出て行けと叫ぶだろうと思っていた……でも今、心は驚くほど凪いでいて、まるで彼らが赤の他人であるかのようだった。蒼介の涙が私の襟元を濡らし、私は苛立ちを覚えて彼を押しのけた。彼は嗚咽混じりに説明してくる。「ごめん、お前の気持ちを蔑ろにしてた。お前が葵をうちに住まわせるとき、何度も葵に優しくしてくれって念を押しただろう?だから俺は無意識のうちに、葵に優しくしなきゃって自分に言い聞かせ続けてた。それが結局、お前より優先するところまでいってしまった」謝罪は遅すぎた。私はもう、受け入れて許すつもりにはなれない。陽向が私の足にしがみつき、泣き腫らした顔を上げる。「ママ、僕もう葵さんいらない。ママだけがいい」去年の陽向の誕生日、私は丸一日かけて手作りでケーキを作ったことを思い出した。見た目は陽向の好きなパンダで、中身は同じく陽向の好きなマンゴーとブルーベリーを詰め込んだものだった。でも彼はそのケーキに一瞥もくれず、葵の懐に飛び込んで、踏み躙られてぐちゃぐちゃに崩れたケーキを受け取っていた。あのとき彼が言った胸に刺さる言葉を、今でも覚えている。「たとえ葵さんにがらくたを貰ったとしても、ママが作ったケーキよりかは一万倍いい」私のお腹から出てきたはずの子は、いつの間にか他人の懐にすっかり懐いていた。私は陽向の指を一本ずつ引き剥がしてから、後ずさって二人と距離を取った。「これからはパパと、大好きな葵さんと暮らせるじゃない。誕生日の願い事が叶うのよ、嬉しくないの?」陽向は口をへの字に曲げて、涙をぼたぼたと落とした。一日中撮影に出かけて、疲れ
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第9話
メイクアップアーティストは手慣れた仕草で、私の顔に優しく化粧を施していく。鏡の中で少しずつ美しくなっていく顔を見つめながら、ふと十年前の記憶がよみがえる。すっぴんのまま、蒼介の腕に無造作に収まっていた頃の自分。彼は私の唇にキスをして、どんな私になっても好きだと誓ってくれた。でもその後、蒼介は私の身なりに構わない部分を疎ましがるようになり、代わりに葵のおしゃれ上手さや若さを褒めるようになった。十六夜湖でウェディングフォトを撮るために、私は毎週時間を作ってエステに通い、パーソナルトレーナーをつけてピラティスに励んだ。少しでも綺麗になって、蒼介の心を繋ぎ止めたくて……カメラを手に取り、メイクアップアーティストがベールを被せてくれる瞬間を撮った。蒼介と陽向は、どこで聞きつけたのかウェディングドレスの店まで追いかけてきた。二人が店に入ってきたとき、私はちょうどライトの下でドレスの裾を整えているところだった。陽向の目がぱっと輝いて、駆け寄って褒めてくる。「ママ、今日すごく綺麗だよ」褒め言葉というのは、すんなり口から出てくるものだったのだ。なのに陽向はいつも、私に一番残酷な言葉ばかりぶつけてきた。私は反応せず、車で十六夜湖へ向かう準備を始めた。蒼介の目がふいに赤くなり、メイクアップアーティストに私の着ているドレスに合う男性用のタキシードを探させようとする。メイクアップアーティストが礼儀正しく笑った。「こちらのお客様は個人でのウェディングフォトのご予約なので、お連れ様用のタキシードのご用意はございません」蒼介の瞳孔がわずかに震え、彼はメイクアップアーティストの言葉を小さく繰り返した。「個人でのウェディングフォト……」私は重いドレスの裾を引きずりながら、メイクアップアーティストに支えられて車に乗り込んだ。道中、私はずっと撮影に適した機位を頭の中で組み立て直している。蒼介は陽向を連れてタクシーで追いかけてきて、まるで貼りついたように私の後ろをついて回った。茜が私の熱心なファンたちを連れて、先に湖畔で待っていてくれた。以前、商店街で絆創膏を差し出してくれた少女の姿もあった。私は笑って彼女に声をかけた。彼女たちは私を見つけると、興奮して歓声を上げた。「三日月さん、今日も本当に綺麗!写真撮ってSNSに
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第10話
蒼介は諦めきれず、あれから全く動こうとせずに私の部屋の前に居座り続けている。私は写真をパソコンに移し、コンクールの応募作品を提出した。結果発表を待つ半月の間、陽向は毎日花束を届けに来た。蒼介はといえば、大金をはたいて半月間ずっと花火を打ち上げ続けた。華やかな花火が空の半分を照らしても、私と蒼介の未来まで照らすことはなかった。花火が終わるたびに、夜空には決まって三文字が浮かび上がる。【ごめん】茜がビールを飲みながら、おつまみを私の前に押しやった。「求婚したときよりすごい規模じゃない、何も感じないの?」窓の外で首を長くして待っている男を見やり、私は手元のカメラを手に取った。「何も。今はただ、自分らしく生きたいだけ。もう台所に閉じ込められるのはごめんだし、自分の居場所じゃない家に縛られるのも嫌なの」窓の外の蒼介がうなだれ、苦々しく笑みを引きつらせる。陽向も、もうママを求めて叫ぶことはなくなっていた。もう受け入れたのだろう、私に必要とされなくなったことを。写真コンクールの結果発表当日、茜が緊張した様子で私に寄り添ってきた。心臓が飛び出しそうなほど跳ねて、手が震えて止まらない。メールを開くと、耳元で鋭い歓声が弾けた。「金賞、第一位だって!三日月、またやったのよ」金賞という二文字を見つめる私の目に、じわりと涙が滲んでいく。茜が私を強く抱きしめ、フロントスタッフにすぐネットで宣伝するよう指示を出す。「今夜はお祝いで豪華なご馳走食べに行くよ!私が奢るから」大勢に囲まれて外へ向かう途中、蒼介たちと鉢合わせした。左手にケーキ、右手には大きな赤いバラの花束を抱えている。「満月、受賞おめでとう」陽向がケーキを差し出してきて、うっかり絆創膏を貼った指先が見えてしまう。「ママ、ケーキ、パパと僕で手作りしたんだ。食べてみてよ、美味しいから」私は彼の傷には目もくれず、眉をひそめて蒼介を見た。「台所は危ないでしょう。次からは入れないで」陽向の目がぱっと輝いて、隠しきれない喜びが声に滲む。「ママ、それって僕を心配してくれてるの?」蒼介も情熱的な眼差しで私を見つめながら、バラの花束を差し出してくる。けれど、私は一歩後ずさった。花束は音を立てて地面に落ちた。花びらが散らばり、空気が凍りつ
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