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届かぬ龍の執愛、影に寄り添う飛鳥

届かぬ龍の執愛、影に寄り添う飛鳥

By:  えいさんCompleted
Language: Japanese
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後宮に入ってわずか三年、陸依霜(りく いそう)は、禁欲的と噂される時の皇帝に幾度となく抱かれた。 また一夜の伽を務め終えた後、彼女は傍らで微睡む皇帝を起こさぬようそっと身をかわし、全身に痛々しいほどの赤い痕を刻まれたまま寝台を抜け出すと、ひそやかに口笛を鳴らした。 ほどなくして、一筋の黒影が音もなく窓辺に舞い降りた。 「覚悟は決まったか?」 夜隠(やいん)の声は、夜の闇よりも冷たかった。 彼女は薄い寝衣をきつく掻き合わせ、消え入るような声で答えた。 「ええ。私の願いはただ一つ……この皇宮を出ること」 夜隠は淡々と返す。 「お前は官女として籍に登録されている。生きて外へ出るのは容易ではない。となれば……偽装死を図り、身分を捨てるほかない」 「それでいいわ」 依霜は頷いた。死んだことになろうが、顔を変えようが、この鳥籠から抜け出せるなら何だってよかった。 「半月後、迎えにこよう」 夜隠はそう言い残すと、はじめからそこに居なかったかのように夜の闇へ溶けていった。 依霜は空に懸かる細い月を見上げ、深く息を吐き出した。 ようやく……すべてが終わる。 そもそも彼女はこの深き後宮に生きるべき人間ではない。ここにいること自体が、かりそめの運命に過ぎなかったのだから。

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Chapter 1

第1話

三年前、依霜は宰相府で見向きもされない、ただの側室の娘だった。

正室の娘である姉の陸青儀(りく せいぎ)は、蝶よ花よと育てられた宰相府の珠玉であり、当時まだ第六皇子だった軒轅翊(けんえん よく)と将来を誓い合った仲だった。

だが皮肉なことに、父である宰相は第四皇子こそが次期皇帝にふさわしいと踏み、二人の仲を無残に引き裂いて、青儀を第四皇子に嫁がせてしまったのだ。

ところが、最終的に玉座を勝ち取ったのは、他でもない翊であった。

帝王の怒りは凄まじく、丞相たる父は左遷された。

その怒りを鎮めるための生贄として、父は冷遇していた彼女を宮中へ送り込み、皇帝の側近の官女として差し出したのである。どんな辱めを受けようと構わないとばかりに。

初めて翊と対面した時の光景を、依霜は今も鮮明に覚えている。

若く秀麗な皇帝は、漆黒の龍袍(りゅうほう/皇帝が着用する特別な儀礼服)を纏い、地にひれ伏す依霜を射抜くような酷薄な瞳で見下ろした。

「陸家の娘、だと?」

その日から、翊はありったけの憎悪を彼女へとぶつけた。

鞭打ち、長時間の正座、極寒の中で砕けた陶器の上に跪かせる……彼女の体には、もはや無傷の肌など残っていなかった。

あの夜、泥酔した彼が、彼女を青儀と錯覚し、無理やりその身を奪うまでは。

そのたった一度の「過ち」から、三年。

夜な夜な夜伽を強いられ、心身ともに限界を迎えていた彼女は、どうにか年季明けまで耐え抜き、後宮を去るつもりでいた。だが今日、退宮の許可証を受け取ろうとした矢先、足止めを食らってしまったのだ。

「陛下のご命令により、まかりならんとのことだ」

宦官の甲高い声が、鼓膜をひどく突き刺した。

その瞬間、彼女は悟った。自分は一生、この黄金の鳥籠から逃れられない運命なのだと。

だが、不幸中の幸いもあった。一年前、彼女は重傷を負った黒装束の男を偶然助けたことがあったのだ。

彼が暗殺者稼業で首位に立つ「夜隠」だと知ったのは、後になってからのことだ。

「命を救われた恩がある。一つだけ願いを叶えてやろう」

いつか彼はそう言った。

今、自分の願いはただ一つ……

ここから逃げ出すこと!

身を翻し、寝殿に戻ろうとしたその刹那、底知れぬほど冷たい眼差しとぶつかった。

いつの間にか目を覚ましていた翊が回廊に佇み、暗く沈んだ瞳で彼女を見据えていた。

「今しがた、どこへ行っていた?」

「少し喉が渇きまして、水を飲みに……」

依霜は必死に平静を装い、嘘を口にした。

翊の眼差しがたちまち冷え込んだ。

「戻ってこい」

依霜が大人しく寝台へ戻ると、彼はその顎を強く挟み込んだ。

「覚えておけ。朕の許しがない限り、一歩たりともここを離れることは許さん」

「はい……」

彼は満足げに手を離し、彼女を腕の中へ引き寄せた。

彼から漂う香りに包まれながら、彼女は水時計の音を数え、ただ夜明けを待った。

翌朝、依霜は両足が震え、まともに立つことすらできなかった。

翊は鼻で笑った。

「だらしない。何度か求めただけで立てもせぬとは。朕の輿に乗って戻れ」

「私めには、そのような恐れ多いこと……」

言葉を遮るように、翊は彼女を軽々と横抱きにし、殿外に控える豪奢な皇帝の輿へと大股で歩き出した。

「陛下!これでは規則に反します……」

彼女は慌てて彼の襟元を掴んだ。

「黙れ」

冷たく言い放ち、彼女をそのまま輿へと押し込む。

輿が浣衣局(かんいきょく/中国宮廷に置かれた宦官の官署であり、高齢の宮女や罪を犯した宮人を収容して雑役や衣類の洗濯などを行わせた場所)に差し掛かった時、翊はふいに手を上げ、輿を止めるよう合図した。

依霜が彼の視線の先を追うと、藍色の官女服を着た一人の少女が錦の布を干しているのが見えた。

緑蘿(りょくら)という名のその官女は、目鼻立ちが姉の青儀に少し似通っていた。

「あの官女に、今夜の夜伽を命じろ」

翊は淡々と言い放った。

宦官長の李(り)公公(こうこう/中国古代の宦官長に対する呼称)は即座に意図を察し、人を遣わして緑蘿にその旨を伝えた。

緑蘿は狂喜乱舞した。一日中浮かれきって何度も衣装を着替えては試し、幾度も湯浴みをして、ただただ夜の帳が下りるのを待ちわびた。

一方の依霜はまるで意に介さなかった。昨夜の翊の要求があまりに激しかったせいで、頭はひどく重く、体は鉛のようにだるく、熱に浮かされていたからだ。

当番の時間になっても彼女が姿を現さないため、李公公が様子を見にやって来た。

「李公公、体調が優れないのです。申し訳ありませんが、お休みをいただきたいとお伝えいただけますか」

彼女は寝台に身を横たえたまま、力なく呟いた。

彼女を不憫に思った李公公は、慌てて頷いた。

「しっかり休むといい。陛下には、私から上手く申し伝えておこう」

やがて、中庭は再び静寂を取り戻した。

依霜は全身が燃えるように熱く、薬を飲んでも一向に熱が引く気配はなかった。

夜、彼女の意識が朦朧としているところへ、目を真っ赤にした緑蘿が駆け込んでくるなり、彼女の頬を思い切り張り飛ばした。

「依霜、あんたわざとね?!やっと陛下のお目に留まったっていうのに、私が陛下の寝台に上がる前に、あんたがこんな所で熱を出したフリなんかするから!陛下は一瞬で顔色を変えて、私を放り出してあんたのところへ向かったのよ!

ここ数年、陛下は後宮を空にして、あんた一人だけに夜伽をさせてきた。まさか、陛下を独り占めする気なの!?」

依霜は熱で目が回り、彼女が何を喚いているのか全く理解できなかった。翊が、この自分を見舞いに来るはずがないではないか。

「熱があるのは、本当よ……」

だが緑蘿は全く信じようとせず、鬱憤を晴らすかのように依霜へ見境なく掴みかかり、殴りつけた。

「この男好きの卑しい女、泥棒猫!今日こそ、その男を惑わす顔をズタズタに引き裂いてやる!」

依霜はただでさえ息も絶え絶えなのに、無実の罪でなじられ、たまらず口走ってしまった。

「私はもうここから去るのに、陛下を誘惑してどうするというの?」

「去る、だと?」

扉の外から氷のように冷たい声が響き、彼女は全身の血が凍りつくのを覚えた。

翊が、龍袍を纏って入り口に立っていた。その眼差しは、恐ろしいほどに陰惨だった。

「依霜、お前はどこへ行くつもりだ?」

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FU_mido
FU_mido
どんな終わり方になるのかとドキドキしながら最後まで読ませていただきました。とてつとない血生臭いラストを想像してましたが、意外と理性的で安心しました笑 暴君の愛は独りよがりでしたが、私はこの皇帝好きです。面白かったです!
2026-08-20 19:07:57
1
0
蘇枋美郷
蘇枋美郷
はぁ??この皇帝なんだったの???散々甚振っておいて、あのクズ姉とくっついてろよ! しかも他人の息子を勝手にあんな風にして!!まぁ、本人に才能もありやる気だったからしょうがないけど… 主人公達はこの後は2人で穏やかに過ごしていけますように…
2026-08-17 14:52:18
3
0
松坂 美枝
松坂 美枝
えぇ~? なんだこの皇帝…(笑)
2026-08-16 09:34:24
5
0
ノンスケ
ノンスケ
皇帝だがなんだか知らないけど、狂ってる。お姉さんのことが好きで、妹の方をあれだけ酷い目に合わせたくせに。
2026-08-17 03:44:39
4
0
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第1話
三年前、依霜は宰相府で見向きもされない、ただの側室の娘だった。正室の娘である姉の陸青儀(りく せいぎ)は、蝶よ花よと育てられた宰相府の珠玉であり、当時まだ第六皇子だった軒轅翊(けんえん よく)と将来を誓い合った仲だった。だが皮肉なことに、父である宰相は第四皇子こそが次期皇帝にふさわしいと踏み、二人の仲を無残に引き裂いて、青儀を第四皇子に嫁がせてしまったのだ。ところが、最終的に玉座を勝ち取ったのは、他でもない翊であった。帝王の怒りは凄まじく、丞相たる父は左遷された。その怒りを鎮めるための生贄として、父は冷遇していた彼女を宮中へ送り込み、皇帝の側近の官女として差し出したのである。どんな辱めを受けようと構わないとばかりに。初めて翊と対面した時の光景を、依霜は今も鮮明に覚えている。若く秀麗な皇帝は、漆黒の龍袍(りゅうほう/皇帝が着用する特別な儀礼服)を纏い、地にひれ伏す依霜を射抜くような酷薄な瞳で見下ろした。「陸家の娘、だと?」その日から、翊はありったけの憎悪を彼女へとぶつけた。鞭打ち、長時間の正座、極寒の中で砕けた陶器の上に跪かせる……彼女の体には、もはや無傷の肌など残っていなかった。あの夜、泥酔した彼が、彼女を青儀と錯覚し、無理やりその身を奪うまでは。そのたった一度の「過ち」から、三年。夜な夜な夜伽を強いられ、心身ともに限界を迎えていた彼女は、どうにか年季明けまで耐え抜き、後宮を去るつもりでいた。だが今日、退宮の許可証を受け取ろうとした矢先、足止めを食らってしまったのだ。「陛下のご命令により、まかりならんとのことだ」宦官の甲高い声が、鼓膜をひどく突き刺した。その瞬間、彼女は悟った。自分は一生、この黄金の鳥籠から逃れられない運命なのだと。だが、不幸中の幸いもあった。一年前、彼女は重傷を負った黒装束の男を偶然助けたことがあったのだ。彼が暗殺者稼業で首位に立つ「夜隠」だと知ったのは、後になってからのことだ。「命を救われた恩がある。一つだけ願いを叶えてやろう」いつか彼はそう言った。今、自分の願いはただ一つ……ここから逃げ出すこと!身を翻し、寝殿に戻ろうとしたその刹那、底知れぬほど冷たい眼差しとぶつかった。いつの間にか目を覚ましていた翊が回廊に佇み、暗く沈んだ瞳で彼女を見据えていた。
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第2話
依霜はハッと目を覚ました。背筋には冷や汗がびっしょりと滲んでいる。彼女は無理に身を起こし、震える弱々しい声で言った。「私めは、熱に浮かされて出鱈目を……ひどく具合が悪く、もう長くはない、ここを去る時が来たのだと思い込んでしまい……」翊は鋭い視線を彼女の顔に走らせ、鼻で笑った。「朕から見れば、随分と元気が良さそうだがな」そう言い残し、袖を払って立ち去った。殿の扉が閉まるや否や、緑蘿が再び躍りかかってきた。「よくも陛下をたぶらかしたわね!ぶち殺してやる!」彼女は依霜の髪を鷲掴みにし、寝台の柱へ容赦なく頭を打ち付けた。依霜はただでさえ高熱が引いていない上に、強く打ち付けられて目の前がチカチカした。抵抗しようにも、腕を上げる力すら残っていない。緑蘿の平手打ちが雨あられと降り注ぎ、その爪が彼女の顔に幾筋もの血の跡を刻んだ。「陛下が本気であんたを気にかけてると思った?ただの遊び道具のくせに!」緑蘿は彼女のみぞおちを蹴り上げた。激痛が走り、依霜は目の前が真っ暗になり、完全に気を失った。再び目を覚ました時、中庭から悲痛な叫び声が聞こえてきた。「陛下!私めが悪うございました、二度といたしません、どうかお許しを……」依霜は無理をして身を起こし、窓の格子越しに外を見た。緑蘿が刑罰用の長椅子に押さえつけられ、二人の宦官が交代で杖打ちの刑を執行している。彼女の臀部はすでに血まみれになり、泣き叫ぶ声は次第に弱々しくなっていた。翊は後ろ手に組んで立ち、漆黒の龍袍が風にはためいていた。視線に気づいた彼は、窓際の依霜へと首を巡らせ、その瞳に一抹の嫌悪を走らせた。「役立たずめ」彼は大股で殿内に足を踏み入れた。「これほど痛めつけられておきながら、報告することも知らんのか?」依霜は地にひれ伏し、氷のように冷たい床に額を擦り付けた。「申し訳ございません」翊は彼女の顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。「己の立場を弁えろ。お前は陸家が朕の憂さ晴らしのために献上した玩具だ。朕以外の誰にも、お前を指一本触れさせることは許さん」「はい……」依霜は声を絞り出したが、心の中は氷のように冷え切っていた。やはり、彼はただ怒りをぶつける道具を失いたくないだけなのだ。彼女がそれほど大事に至っていないのを
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第3話
翊はわざと乱暴に依霜を抱きすくめながら言った。「朕が誰を寵愛し、どこで抱こうと、お前の口出しすることではない」依霜の視界の隅に、青ざめた顔で手巾を握りしめる青儀の姿が映った。そこで彼女は気づいた。彼が青儀と第四親王の仲に嫉妬し、だからこそ青儀にも嫉妬させようとしているだけなのだと。では、自分はどうなるのか?一人の女として、このような公衆の面前でどれほどの屈辱を味わうか、彼は考えたことなどあるのだろうか。百官は一斉に背を向け、楽師でさえ演奏を止めた。広大な宮殿は水を打ったように静まり返り、ただ衣の裂ける音と、彼女のすすり泣きだけが響いた。翊がようやく満ち足りて、衣冠を整えて立ち上がった時、依霜の衣はすでにズタズタに引き裂かれ、見るも無惨な姿になっていた。彼女がぼろ布のように玉座から崩れ落ちても、翊は一瞥もくれず、真っ直ぐに殿外へと歩き去った。官吏や宮人たちは依然として背を向けたままで、まるで先ほどの情事など初めから存在しなかったかのようだった。依霜は床にうずくまり、爪が掌に食い込むほど強く握りしめた。この瞬間、彼女は痛感した。翊の目には、自分が人間としてすら映っていないのだと。宴が果て、依霜は蹂躙された体を引きずるようにして帰途についたが、両足がガクガクと震えていた。突然、背後から凄まじい力が襲いかかり……「あっ!」彼女はそのまま氷のように冷たい湖水へと真っ逆さまに落ち、生臭い泥水を思い切り飲み込んでしまった。必死にもがき、指が岸辺の石に触れた瞬間、何者かに頭を容赦なく水中に押し沈められた!「ごぼっ……助け……」鼻腔に水が入り込み、視界が次第にぼやけていく。最後の意識が途切れる直前、岸辺に立つ人影が朧げに見えた……青儀だった。再び目を覚ますと、依霜は小部屋の寝台に横たわっていた。喉が焼けるように痛み、呼吸をするたびに刃物で切り裂かれるようだ。……「目が覚めた?」青儀が寝台の傍らに端座していた。華麗な錦の襦裙(じゅくん/中国の伝統衣装である漢服の一種)を纏い、髪に挿した金の簪が彼女の動きに合わせて微かに揺れている。「陛下に何度か抱かれたからって、玉の輿にでも乗れると勘違いしたの?彼はただ、あんたで鬱憤を晴らしているだけよ!陛下が私を許してくだされば、当然私を宮中に
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第4話
「口を慎め!」翊は激しく上奏文を投げつけた。「朕の事に口出しする気か?」李公公は慌てて自分の頬をピシャリと叩いた。「私めが出過ぎました。どうかお許しを」……依霜は自分の住まいに戻り、鏡に向かって薬を塗った。献上品の薬はことのほか効き目がよく、わずか一、二日で顔の傷は随分と良くなった。貴重な休息の時間を縫って、彼女は持ち出す予定の品々を整理し、かさばる装飾品を銀銭に換えておいた。そして迎えたある日。皇太后が皇帝と青儀、そして第四親王を呼び寄せた。依霜も翊に連れられて同行することになった。ひるげの後、皇太后が切々と諭し始めた。「皇帝よ、後宮を空にして三年。そろそろ広く妃を迎え、皇嗣をもうける頃合いですよ」翊は茶碗を弄りながら答えた。「国は未だ安定しておらず、後宮に気を配る余裕はございませぬ」それを聞いて、皇太后は深い徒労感を覚え、首を振ってため息をついた。この三年間、彼は事あるごとにこの理由で言い逃れをしており、彼女にもどうしようもなかったのだ。そもそも彼が誰のためにそこまでしているのか、皇太后も内心では察しがついていた。そこで、矛先を青儀へと向けた。「四王妃や。そなたも親王との間に、そろそろ子を儲けるべきではないか」ピキッ……翊の手の中で突然茶碗が砕け、掌を伝って鮮血が滴り落ちた。彼はちょうど茶を差し出そうとしていた依霜を腕に引き寄せ、自身の膝の上に押さえつけた。「手当てをしろ」鼻をつく血の匂いに、依霜は突如として激しい吐き気を覚えた。「うっ……」彼女は慌てて床に跪き罰を乞うたが、皇太后は喜びに声を弾ませた。「これは、身籠ったのではないか?早く太医(たいい/朝廷に仕える医官)を呼べ!」翊の顔は恐ろしいほどに険しくなり、青儀はさらに悔しそうに目を赤くした。脈を診て身籠っていることが確認された瞬間、依霜は氷の穴に突き落とされたような心地がした。なんと、本当に翊の子を身籠ってしまったのだ!「こいつは体調が優れぬゆえ、休ませる」翊は冷酷な顔つきで彼女を引きずって退出した。寝殿に戻ると、堕胎薬が入った椀が依霜の前に差し出された。「飲め」依霜は震える手で椀を受け取ったが、官女たちに押さえつけられ、無理やり流し込まれた。激痛が一瞬にして全身を駆
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第5話
依霜は呆然とした。翊はまだ青儀を愛しているはずなのに、もうじき彼女を宮中へ迎え入れられるはずなのに、なぜ……自分を縛り付けようとするのだろう?彼女は伏し目がちに、低い声で言った。「私めは、そのような大それたことなど……」翊は彼女の蒼白な顔と痩せ細った体を見つめ、眉を深く寄せた。「もう十分休んだのなら、今日から日夜、朕の傍で仕えよ」それからの日々、翊はまたしても食事に文句をつけるようになった。御膳房(ごぜんぼう/皇帝の食事を作る機関)から様々な滋養のある薬膳が運ばれてきても、彼は一口食べただけで依霜へ突き出した。「不味い。貴様にくれてやる」依霜は彼の視線を浴びながら、ご馳走を一口ずつ無理やり喉に流し込むしかなかった。そのおかげか、彼女の体はいつの間にかすっかり回復していた。秋の狩猟の日。翊はどうしても依霜を連れて行くと言って聞かなかった。狩猟場で、青儀と第四親王が馬を並べて進むのを見た彼は、途端に目を冷たく光らせ、依霜を自分の馬の背へと力任せに引きずり上げた。「あっ!」依霜は恐怖のあまり悲鳴を上げた。「黙れ!」彼は依霜の腰を強く抱き寄せ、耳元で冷たく囁いた。「お前と青儀は姉妹だろう?あいつはお前のように臆病ではない。もう一度悲鳴を上げたら、ここから放り出して馬に踏み殺させるぞ!」依霜は唇を強く噛み締め、目を閉じて二度と見ようとはしなかった。翊は鼻で笑うと、依霜を乗せたまま数多くの獲物を仕留めた。突然、森の中から数十人の黒装束の者たちが飛び出してきた。「陛下をお守りしろ!」護衛たちが刀を抜いて応戦する。乱戦の中、依霜と青儀は攫われてしまった。再び目を覚ました時、二人は断崖絶壁に立たされていた。賊は獰猛な笑みを浮かべ、依霜と青儀の首に刀を突きつけた。「軒轅翊!俺の家族を皆殺しにしたな。今日こそ、貴様が最も愛する二人の女を失う痛みを味わわせてやる!」翊は賊を冷たく睨みつけ、なんと声を出して笑った。「最も愛する二人の女、だと?」「陸青儀はすでに他人の妻。朕は傷物の女など要らん。それに引き換え、陸依霜は宮中に入ったその瞬間から、朕の女となる運命にある。そいつを返せ。陸青儀は……好きにしろ」依霜はハッと息を呑んだ。彼が……自分を選んだ?だが、より
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第6話
それからの日々、翊は毎日依霜の傷の具合を確かめにやって来た。だが、息があることさえ確認すれば、一言も口を利かずに立ち去っていった。そんなある日、青儀が突然訪ねてきた。「具合はどう?」彼女は優しげな笑みを浮かべ、自ら依霜の手を引いて寝台から下ろした。「姉である私が、陛下にわざわざお願いして見舞いに来させてもらったのよ」依霜は警戒心を露わにして彼女を睨んだ。「一体、何のつもり?」「まあ、何をおっしゃるの?」青儀はわざとらしく瞬きをした。「姉が妹を案じるのは、ごく当たり前のことでしょう?」そこへ、翊が足を踏み入れた。青儀は突然床に泣き崩れ、ぼろぼろと涙をこぼしながら訴え始めた。「陛下!あの日、私を妻にすると誓ってくださった愛の証……あの玉佩(ぎょくはい/翡翠で作られた装飾品)が無くなってしまったのです!」依霜の心臓が激しく跳ね上がった。「どういうことだ?」翊が眉をひそめる。「今日、私は妹にしか会っていません……」青儀は意味ありげに依霜に視線を向けた。「この子が盗んだのでなければ、他に誰が……」依霜は顔色を変えた。「私はやっていません!」だがすぐに、官女たちが依霜の枕の下からその玉佩を見つけ出した。……すでに粉々に砕け散っていた。「依霜!」青儀はさらに悲痛な声を上げた。「この玉佩が私にとってどれほど大切な物か、知っているでしょう!陛下と私が将来を誓い合っていたことに嫉妬して……だから、こんなことを……!」翊の視線が二人の間を行き来し、最後に依霜へと突き刺さった。「貴様の仕業か?」依霜は床にひれ伏し、淡々とした声で答えた。「私めは己の立場を弁えております。身分不相応な望みなど、抱いたことすらございませぬ。どうか、陛下のご明察を」翊の瞳の奥に複雑な色がよぎり、何かを口にしようとした瞬間、二人の官女がひざまずいて証言した。「私めは、陸家の次女が玉佩を叩き割るのをこの目で見ました!」「さらに、『四王妃など死んでしまえばいい』と呪いを吐いておりました……」その言葉を聞いた瞬間、翊の顔色は氷のように冷ややかになった。「これが、身分不相応な望みはないと言った結果か?最近朕が少し甘やかしてやったせいで、すっかり思い上がったようだな!者共、こいつを引きず
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第7話
依霜が意識を取り戻した時、背中の傷が焼け付くように痛んだ。李公公が薬の椀を手に寝台の傍らに立っており、彼女が目を覚ましたのを見ると、慌てて身を起こすのを手伝った。「お前さん、やっと気がついたか」李公公はため息をつき、椀を差し出した。「なぜ陛下に逆らうような真似をするのだ?私は長年陛下にお仕えしてきたが、あの方ご自身で罰を命じた後、殿外で夜半まで佇んでおられたのは初めてのことだぞ」依霜は椀を受け取った。苦い薬湯が喉を通り過ぎていったが、胸の奥の苦味には及ばなかった。「李公公の考えすぎです」彼女は低い声で言った。「私めが陛下に逆らうなど、めっそうもございません」李公公は首を振った。「私の出過ぎた口を許せ。陛下はお前さんに厳しいが、罰を与えた後はいつも……」彼は言葉を区切り、続けた。「ともかく、お前さんの父親が支持する皇子を誤ったのだから、巻き添えを食うのも仕方あるまい。いずれ四王妃が宮中に入られたら、少しは大人しく従っていれば、お前さんの日々も楽になろうて」依霜はそれには答えず、ただ枕の下から巾着を取り出し、李公公の手に握らせた。「李公公、これまでのご配慮に感謝いたします」李公公は巾着の重みを感じ取り、少し驚いた。「これは……」「ほんの気持ちです」依霜は無理に笑みを作った。「どうかお納めください」李公公はどこか妙な胸騒ぎを覚えたが、それでも巾着を受け取った。その日の夜、翊が突然、夜伽のために彼女を呼びつけた。依霜は寝台の前にひざまずき、震える声で言った。「陛下、私めの傷はまだ癒えておらず、陛下の御目を汚してしまいます……」「脱げ」翊は冷酷に遮った。その眼差しは陰惨だった。依霜は唇を噛んだ。明日にはここを去るというのに、この最後の夜まで彼の折檻に耐えなければならないのか。だが、命令に背けば余計な波風が立ちかねない。彼女は震える指で衣の紐を解き、決死の思いで衣を脱ごうとしたその時、殿外から慌ただしい足音が響いた。「陛下!一大事にございます!」護衛が血相を変えて飛び込んできた。「四王妃様が毒に倒れられました!太医によれば、国庫にある天山の雪蓮を用いねば、お命が危ういと……!」翊は勢いよく立ち上がり、その瞳に明らかな動揺を走らせた。彼は無意識に
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第8話
第四親王府にて、翊は眉間を揉みほぐしていた。なぜか胸の奥が空虚で、かけがえのない何かを落としてしまったような、名状しがたい喪失感に襲われていた。気のせいだろう。彼は青儀の寝台の傍らに付き添い、解毒されて目を覚ますのを待っていた。彼女の静かな寝顔を見つめていると、不意に宮中にいる依霜のことが頭をよぎった。あの女は眠る時、いつも体を小さく丸め、眉間にしわを寄せていた。数え切れないほどの悩みを抱え込んでいるかのように。突然、青儀のまつ毛が震え、ゆっくりと目を開いた。翊の姿を認めた瞬間、彼女の瞳に喜びの光が宿った。「陛下、助けに来てくださったのですね?私、痛くて、恐ろしくて……このまま死んでしまったら、もう二度とあなたに会えない、あなたに嫁ぐこともできないのだと……」そのあとの言葉は口にしなかったが、翊には十分に伝わっていた。彼は冷淡でどこかよそよそしい態度で立ち上がり、淡々と言った。「解毒が済んだのなら重畳だ。朕はまだ政務が残っている、これで帰る」青儀は慌てて身を起こし、彼が下ろしていた手を大胆に握りしめた。「陛下、もう少しだけ一緒にいてはくださいませんか?今回の毒は決して偶然ではありません。おそらく……あの日、妹が陛下から杖刑の罰を受けたことを恨み、人を金で釣って私に毒を盛らせたに違いありません。私はこれまで、誰の恨みを買うような真似もしていません。私を憎んでいるのはあの子だけ。いくら側室の娘とはいえ、私の妹であり家族です。あの日、罰を受け入れなさいと諭したのに、あの子は頑なに認めず、それどころか私を脅したのです……『もし次また陛下に抱かれることがあれば、必ず枕元で吹き込んで復讐してやる』と。まさか、その復讐がこれほど早く訪れるとは思いもしませんでした」そう言いながら、彼女は可哀想に手巾で口元を覆い、軽く咳き込んだ。手巾には抜け切っていない毒のせいで黒ずんだ血がべったりと付着しており、彼女の体は今にも倒れそうなほど揺れていた。翊は冷たい瞳を微かに細め、躊躇うことなく言った。「あいつの仕業ではない。あいつは臆病で、そんな策を弄する知恵もないし、お前の屋敷の人間を買収する機会すらないはずだ」それを聞いた青儀は密かに歯を食いしばり、瞳の奥に悪意を閃かせて、もっともらしく言った。「そうかもしれません
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第9話
火事は丸一日燃え続け、依霜が住んでいた小さな中庭は完全に灰と化し、黒焦げの廃墟だけが残されていた。濃く立ち込める焦げ臭さが鼻を突き、かつて朱色だった宮廷の壁も黒く焼け焦げ、元の姿が判別できないほどだった。部屋の中にあった調度品は燃え尽きて何も残っておらず、かつて寝台があった場所には、黒焦げになった遺体が不自然に身を縮めて横たわっていた。生前、どれほど凄まじい苦痛を味わったかを物語るかのように。その光景を目にした瞬間、翊は息を呑んだ。心臓を抉り取られたような喪失感と、血を吐くような痛みが同時に襲いかかってきた。依霜が……死んだ?なぜこんなことに?昨夜までは何事もなかったではないか。今夜も夜伽をすると、約束したではないか!翊は拳を強く握りしめ、指の隙間から滴り落ちた鮮血が地面を赤く染めた。「儲秀宮の火事を、一刻も早く徹底的に調べ上げろ!もし下手人を見つけ出せねば、貴様らの首を刎ねるぞ!」彼は背後に控える者たちに向かって怒号を飛ばし、額には青筋が浮かび上がっていた。もし一握りの理性が残っていなければ、次の瞬間には刀を抜いて斬り捨てていたかもしれない。無数の者たちが恐怖のあまり激しく身をすくませた。陛下がこれほどまでに激怒されるのは、陸家の長女が他人に嫁いだ時以来だ。それが今……皆、震え上がりながらも命を受け、一刻の猶予も無く調査へと走り出した。轟音とともに雷が鳴り、にわかに空模様が暗くなり、土砂降りの雨の気配が立ち込めた。骨の傍らに転がる、灰まみれになった装身具。それは彼が与えたものだった。腕にはめられた腕輪も、そうだ。焼け残ったわずかな衣の切れ端。そのすべてが、この骸が依霜であることを証明しており、偽りの余地はなかった。翊がどれほど信じたくなくとも、これが現実なのだ。彼が皇帝であろうと、無数の宝を手にしていようと、強大な権力を持っていようと、もう二度と彼女を取り戻すことはできない。遅れて押し寄せた激しい不安に、彼は胸を強く押さえた。激痛がそこから全身へと広がっていく。「依霜……」翊は枯れた声で、どうにか言葉を絞り出した。風が吹けば崩れ落ちてしまいそうな黒焦げの遺体を見つめ、彼は手を伸ばして触れようとしたが、震えながら手を引っ込めた。彼女に触れるのが怖かった。ほんの少し力を入れただ
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第10話
突然、李康海が震える足取りで入ってきた。「申し上げます、陛下。儲秀宮の火事について調べがつきました。誰も依霜を害してはおりませぬ。あれは……その……」しかし、肝心の結果を口にする段になると、彼は言葉を濁し、ひどく言い淀んだ。翊は胸で渦巻く怒りを抑えつけ、鋭く言い放った。「一体どういうことだ?これ以上言えぬというなら、その首を刎ねるぞ!」李康海は死を覚悟したように言った。「依霜が、自ら火を放ったのでございます。誰も彼女に危害を加えておらず、彼女が外へ出たのを見た者もおりません。あの娘は自ら死を選んだのです!」その言葉を聞いた瞬間、翊の心は激しく揺さぶられ、全く信じられないという表情を浮かべた。「ふん、自ら命を絶っただと?」彼は深い悲しみに満ちた自嘲の笑みを浮かべた。「朕はあいつに十分よくしてやらなかったとでも言うのか?あいつはそれほどまでに朕から離れたかったのか!自由を与えなかったこと以外、朕がいつあいつを冷遇した!朕から逃れるために、命すら投げ出すというのか!」彼の心臓は、無数の鋭い刃で掻き回されているかのように激しく痛んだ。一滴の血の涙が目尻から転がり落ち、氷の棺にぽたりと落ちて、目に痛いほどの赤を描いた。李康海は慌てて頭を下げ、深くため息をついた。「陛下、私めの出過ぎた口をお許しください。依霜は元来意地っ張りな性分でございます。当時の一件も、本来あの娘には何の罪もなく、陸丞相の巻き添えを食ったに過ぎません。後宮に入ったのも望んでのことではありませんでした。この五年間、あれほどの罰を受け、あれほどの苦汁を嘗めながら、年季が明けて宮中を出る日を一日千秋の思いで待ち望んでいたことは、誰もが知っております。しかし、陛下が手放すことを拒み、無理やり引き留められました。もし宮中での暮らしが幸せであったなら、自ら残る道を選んだかもしれません。しかし最近、彼女はどれほどの折檻を受けましたか?自由を得られず、このまま宮中で苦しみ続けるくらいなら、いっそ死んだ方がましだと……そう思い詰めたのでしょう。陛下、もしあの娘を気に掛けておられたのなら、別のやり方があったはずです。もし気にかけておられなかったのなら、手放してやればよかったのです。何ゆえ、あのように無理に手元へ縛り付けたのですか?」その言葉
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