Short
裏切りの夜を越えた彼女は、眩いダイヤとなる

裏切りの夜を越えた彼女は、眩いダイヤとなる

By:  匿名Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
22Chapters
1.7Kviews
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

柳沼杏美(やぎぬま あずみ)は、親友である東原真理奈(ひがしはら まりな)の兄、東原春彦(ひがしはら はるひこ)と結婚して3年になる。 昨夜、いつも禁欲的な夫と初めて身体を重ねた。 何気ない雑談のなかでそのことを打ち明けると、真理奈はサッと顔色を変えた。瞬く間に目元を赤くして、そのまま部屋を飛び出してしまった。 翌日。 杏美は信じられない光景を目にした。 夜会が開かれている庭園の片隅。 春彦が真理奈を壁に押し付けていた。 いつもは気高く自制心に満ちた男が、今は焦燥に顔を歪め、すがるような声を漏らしている。 「あの夜は、酔っていたんだ」 真理奈は目を赤くし、怒りを滲ませた声で言い放つ。 「汚い手で触らないで! それに、義妹の私に夫婦の事情なんて説明しないでよ!」 その瞬間、杏美は大きく目を見開いた。 血の繋がりがないとはいえ、春彦は自分の義妹を愛している……

View More

Latest chapter

More Chapters

reviews

しょう
しょう
ちょこちょこ「短編のお約束」を裏切る珍しい感じの短編で、結末みたいな結末がないけど私は好きかも。 強くなった輝くヒロインと、愚かな男どもの対比がよいね。途中から出て来た調香師、なんだったんだ君は(笑)
2026-08-23 14:36:56
1
0
松坂 美枝
松坂 美枝
主人公可哀想… 男に大事にされるどころか何もしてないのに酷い目に遭いまくるわ誤解されまくるわ 最後までモヤモヤ あの女はクズ兄がああなって治療費稼がないとならなくなって悲惨な末路か逃げ出すかだな
2026-08-23 09:54:40
4
0
22 Chapters
第1話
その言葉に春彦の顔から血の気が引き、顎を鋭く強張らせた。「なら、どうして取り乱しているんだ。俺に結婚しろと言ったのはお前だろう。男が妻を抱くのは当然のことだ。こんな日が来るくらい、最初からわかっていたはずじゃないか」不穏な空気に、物陰から様子を窺っていた杏美は眉をひそめた。やがて、重苦しい沈黙を破るように、低く啜り泣く声が聞こえてきた。「……わかった。もう泣かないでくれ。起きてしまったことだし、俺が悪かった。罰ならいくらでも受けるから」春彦の口調が急に甘く優しいものに変わる。その言葉を遮るように、真理奈が春彦の腕を掴み、思い切り噛みついた。春彦は苦悶の呻きを漏らしたが、彼女を突き飛ばそうとはしない。引き締まった腕には、瞬く間にくっきりとした歯型が浮かび上がった。まるで牧場で、持ち主が「これは自分の所有物だ」と知らしめるために馬に押す焼き印のように。真理奈の狂おしいほどの独占欲に当てられたのか、春彦はふっと息を呑み、堪えきれずに彼女の唇を塞いだ。深く、溺れるような口づけ。やがて唇を離すと、春彦が荒い息を吐きながら囁く。「わかってるくせに。あの夜、俺はお前と間違えたんだ……」その瞬間、杏美は大きく目を見開いた。それが何を意味するのかを理解した途端、顔からさあっと血の気が引き、全身の震えが止まらなくなる。血の繋がりがないとはいえ、春彦は自分の義妹を愛している。あろうことか、妻の親友を。杏美は崩れ落ちそうになる身体を必死に支え、その場から逃げ出した。見えない大きな手に心臓を鷲掴みにされたように苦しい。涙が後から後から溢れてくる。そうか。あれが、突然プロポーズしてきた理由だった。……杏美と真理奈は大学の同級生で、学生会の役員を共に務めていた。いつも行動を共にし、学生会の飲み会にも揃って参加していた。そんな飲み会の帰り。店の外にはいつも、同じ黒のマイバッハが停まっていた。車内には、パリッとしたスーツを着こなす冷たい顔立ちの男の姿があった。彼の視線はいつも、杏美たちへ向けられていた。後になって、その男が真理奈の兄、春彦だと知った。妹を心配するあまり、飲み会のたびに車で迎えに来ては待っていたらしい。最初は少し変わった人だと思っていた。けれど顔を合わせるうち
Read more
第2話
それから数日間、春彦は家に帰ってこなかった。真理奈もまた、姿を見せなかった。その間、真理奈のインスタグラムのストーリーは頻繁に更新されていた。雨の中、わざわざ買ってきてくれたという老舗の和菓子。50カラットのピンクダイヤモンド。遊園地の夜空を彩る花火。そして、彼女の足元に跪いて靴を履かせている男の姿。添えられた文章にはこうある。【何億円もの仕事を放り出して和菓子を買ってくれたから、今回だけは特別に許してあげる。次はないからね~!】大学の友人たちは、真理奈の秘密の彼氏の羽振りの良さに沸き立ち、次々とコメントを寄せていた。だが、写真の端に無造作に写り込んだ指先を見た瞬間、杏美にはわかってしまった。この「秘密の彼氏」が、春彦であるということを。杏美の瞳からスッと光が失われた。彼女は手のひらに爪が食い込むほど、強く拳を握りしめた。3年前に結婚した際、春彦は式を挙げずに入籍だけで済ませたいと提案し、杏美もそれに同意した。せめて近場でいいから、一泊二日の新婚旅行に行きたい。温泉に入ったり、自然の中を歩いたりするだけでいい。それが杏美の唯一のささやかな願いだった。しかし春彦は「仕事が忙しい」と、にべもなくそれをはねつけた。今ならわかる。仕事が忙しかったわけではない。単に、価値のない人間のために時間を割く必要などなかっただけなのだ。春彦から贈られたバッグやピアス、そして数少ないツーショット写真を、すべてゴミ袋へ放り込んだ。何年もの時間をかけて少しずつ思い出で埋まってきた部屋が、すっかりがらんどうになっていく。一抹の寂しさはあったが、それ以上に、重い枷が外れたような解放感が勝っていた。最後の段ボール箱を片付け終えたとき、不意に春彦が部屋に姿を見せた。ゴミ箱の中身に目を留め、彼はわずかに眉をひそめた。「どうして捨てたんだ」「古くなったから、新しいものに買い替えようと思って」杏美が淡々と答えると、春彦はそれ以上追及しなかった。ネクタイを緩め、ふうと息を吐いた。「ドレスに着替えてくれ。今夜のチャリティーパーティーに付き合ってもらう」「体調が優れないの。一人で行ってきて」結婚して以来、杏美が彼の頼みを断ったのはこれが初めてだった。春彦は特に気にする素振りも見せず頷くと、不意に手
Read more
第3話
マイバッハがホテルのエントランスに滑り込むと、すかさず支配人が出迎えた。案内されたのは会場で最も格式高い主賓席だった。そこには父の東原宗次郎(ひがしはら そうじろう)と母の東原珠代(ひがしはら たまよ)をはじめ、東原家の面々がすでに顔を揃えていた。宴が始まる前から、挨拶に訪れる人は後を絶たなかった。親に連れられた御曹司たちも、東原家に取り入ろうと次々に群がってくる。そんな中、見知らぬ青年が真理奈にダンスを申し込んだ。だが、本人が口を開くより早く、春彦がすげなく断りを入れた。それを見ていた叔母が顔をしかめ、諭すように口を挟んだ。「真理奈がもういくつになったと思っているの?少しは若い男の相手くらいさせなさいよ。ちょうど今日は年頃の優秀な青年たちが大勢来ているんだから、この機にふさわしい相手を見つけて、早く嫁に行かせたほうがいいわ。これ以上婚期が遅れたら、本当に嫁の貰い手がなくなってしまうわよ」春彦は顔色を変えたが、あくまで冷静を装って言い返した。「真理奈はまだ若い。あと数年待っても遅くはないでしょう。あいつの結婚相手は、俺が自分の目で見定めます」しかし、意固地になる春彦を見て、周囲の親戚たちもこぞって口を出し始めた。「春彦、昔から妹を可愛がっているのは知っている。だがな、男も女も年頃になれば結婚するものだ。兄がいつまでも妹を縛り付けておくなんて世間体が悪いだろう!」「そうよ!真理奈ちゃんも今年で26、杏美さんと同じ年なんだから、もう子供じゃないわ。親友の杏美さんがあなたと夫婦仲良くしているのを見たら、自分だって早くお嫁に行って温かい家庭を築きたいと思うに決まっているじゃない!」周囲からの追及が熱を帯び、真理奈が困惑し始めたその時。春彦が勢いよく立ち上がった。その声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。「真理奈の婚約は俺が決めると言っているんだ。口出しは無用だ!」普段は冷静沈着な春彦が、親族の重鎮たちの前で感情を爆発させたことに、誰もが息を呑んだ。ちょうどその時、フロアに流れる曲が変わった。宗次郎がそっと珠代に目配せをした。意図を察した珠代は、春彦と杏美にダンスフロアへ向かうよう促した。「春彦、杏美。夫婦で一曲踊っていらっしゃい。最近は仕事ばかりで、夫婦水入らずの時間もなかったでしょう?いい
Read more
第4話
再び目を覚ました時、そこは病院のベッドの上だった。そっとまぶたを開けると、傍らの丸椅子で真理奈がうとうとしていた。その背後には春彦が立ち、ひどく熱を帯びた瞳で彼女を見つめている。彼は着ていたスーツのジャケットを脱ぎ、真理奈の肩にそっと掛けた。そのまま彼女の髪に触れようと手を伸ばしかけ――不意に、目を覚ました杏美と視線が交差した。春彦は宙に浮いたままの手を、しばらくして力なく下ろした。一切の言い訳を口にすることなく、きびすを返して医者を呼びに出て行った。気配で真理奈も目を覚ました。眠気を引きずった声でこちらを覗き込んだ。「杏美、気がついた?大丈夫?」杏美は小さく頷いた。真理奈はほっと胸をなでおろした。「もう、死ぬほどびっくりしたんだから。昨日、すごい血だったんだよ。傷口がパックリ開いて……私まで痛くなりそうだった。もとはと言えば、あの大竹ってバカが馴れ馴れしく触ってくるからいけないのよ!パパがお見合いなんて急かさなければ、こんな事にはならなかったのに」杏美が何か言おうとした矢先、春彦が医師を連れて戻ってきた。医師がベッドに近づき、杏美の傷口を診察し始めた。その時、真理奈のスマートフォンが鳴った。画面に表示されたのは「パパ」の文字。おそらく、また見合いの進捗を問い詰めてくるのだろう。真理奈はサッと表情を強張らせ、助けを求めるように春彦を見上げた。春彦は眉間に深い皺を寄せると、真理奈のスマートフォンをひったくり、足早に病室を出て行った。その険しい表情に、何かマズいことが起きると思ったのか、真理奈も慌てて後を追った。診察を終えた医師が検査票を差し出し、一階で再度全身検査を受けるようにと杏美に告げた。階段の踊り場に足を踏み入れた瞬間、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。「真理奈、よく聞け。父さんたちがどう思おうと、お前の結婚だけは絶対に認めない。俺は一生、お前を手放さない。この東原家の跡継ぎの座すら、どうなったって構わない!」「じゃあ、杏美のことはどうなるの?杏美は今、お兄ちゃんの奥さんで、私の親友なんだよ。申し訳ないと思わないの?」涙で顔をくしゃくしゃにした真理奈が、春彦を問い詰めていた。春彦は真理奈の華奢な肩を痛いほど掴み、血走った目で吼えた。声はひどく掠れ、絶望に満
Read more
第5話
しばらくして、春彦が鏡越しに杏美を見た。「起きたか」春彦は気楽な口調で言いながらも、視線は歌集に向けたままだ。「お前が和歌を好むとはな」それは大学時代に彼が誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだ。日夜読み込んでいたため、ページにはすでにびっしりと書き込みが残っている。彼は忘れてしまったのか、それとも秘書に適当に見繕わせたものをただ贈っただけだったのか。杏美は話題を変えた。「今日は会社、お休みなの?」「ああ」春彦は片手をポケットに突っ込み、ゆっくりと歩み寄ってきた。「最近は忙しくて、構ってやれなかったからな。今日は前からお前が言っていた遊園地に行って、息抜きでもしよう」杏美は眉をひそめた。彼の真意が読めない。だが、気づけばもう遊園地のゲートの前に立っていた。案内役のスタッフが付きっ切りで特別待遇でもてなし、すべてのアトラクションへ優先的に案内される。春彦に手を引かれるまま、メリーゴーランドやジェットコースターに乗った。フリーフォールが急降下する瞬間、杏美は思わずきつく目を閉じ、隣に座る春彦の手をギュッと握りしめてしまった。ハッとしてすぐに手を離したが、春彦は複雑な色を帯びた瞳でこちらを見ていた。最後に向かったのは観覧車だった。ゴンドラが静かに上昇し、地面が遠ざかっていく。眼下の建物も人影も、豆粒のように小さくなった。空いっぱいに広がる夕焼けが、二人の体を赤く染め上げる。ドンッ、と空で大輪の花火が弾け、ムードは最高潮に達した。春彦は一枚の写真を撮ると、手元のスマートフォンに素早い指使いで文字を打ち込み始めた。杏美の目に飛び込んできたのは、真理奈とのチャット画面。観覧車から撮った夕日と花火の写真。添えられたメッセージは「綺麗だ。お前に会いたい」。杏美はこみ上げる胸を締め付けるような思いを押し殺し、窓の外へ顔を向けた。幼い頃、観覧車には「幸福の観覧車」というジンクスがあると聞いたことがある。好きな人と一緒に乗れば、それから先ずっと幸せになれるというものだ。結婚してからの3年間はおろか、それ以前の長い間ずっと、春彦と一緒に観覧車に乗ることは杏美の執念のようなものだった。まさか、空に一番近い頂点までやって来たというのに、これほどまでに幸せから遠ざかること
Read more
第6話
杏美は真理奈に無事を知らせる短いメッセージを送り、一人で東原家へと帰った。死線を越えたあの火事は、彼らの関係性を大きく変えた。春彦と真理奈は、互いの存在を確かめ合ったからか、公の場でも人目を憚らずに親密な空気を漂わせるようになった。数年前から、東都の社交界ではこの血の繋がらない兄妹について様々な憶測が飛び交っていたが、春彦の結婚によってようやく落ち着きを見せていたところだった。それが今、二人の異常な振る舞いによって、過去の忌まわしいゴシップが再び蒸し返されてしまった。当然、その噂は杏美の耳にも届いていた。だが、あの火災を経て、彼女の心は完全に冷え切っていた。外の喧騒には一切耳を貸さず、毎日ひたすら荷物をまとめ、資金を移し、この家から去るための計画だけを進めていた。日々はただ淡々と、整然と過ぎていった。*そんなある日の夕暮れ時。執事が血相を変えて部屋に飛び込んできた。その顔には明らかな恐怖が張り付いていた。「杏美様、どうか春彦様をお助けください!このままでは旦那様に打ち殺されてしまいます!」杏美はわずかに目を丸くしたが、手元の作業を止めることはなかった。本家へ向かう車中、執事が涙ながらに事の顛末を語った。春彦が誰かと喧嘩になり、相手を半殺しにしてしまったという。相手の男は集中治療室で昏睡状態に陥り、その家族がメディアにまで話を持ち込んで騒ぎ立てているらしい。本家に到着すると、春彦は血まみれになって床に這いつくばっていた。傍らでは真理奈が泣き叫んでいた。空気を裂く音と鈍い打撃音が響き、宗次郎の振り下ろしたゴルフクラブが春彦の背中を容赦なく打ち据えた。痛々しいミミズ腫れがまた一つ増えた。執事に促され、杏美は呆然としたまま歩み寄った。「お義父さん、もうやめてください。何かあるなら話し合いましょう」杏美が庇いに入ったのを見て、激昂していた宗次郎も動きを止め、荒い息を吐いた。「苦労をかけるな。この馬鹿息子を、しっかり叩き直してやってくれ」そう吐き捨てるように言うと、再び春彦を指差して怒鳴り散らした。「すでに家庭を持つ身でありながら、なんだその無思慮な振る舞いは!あんな言葉を吐いて、妹の顔に泥を塗るとは!」そこで初めて、杏美は事の真相を知った。相手の男は巷の噂を真に受け、春
Read more
第7話
杏美は奥歯を噛み締め、極限まで冷え切った瞳で虚空を睨みつけた。外野の噂を信じたわけではない。すべて、この目で真実を見てしまっただけだ。「杏美」春彦が荒々しく腰を打ち付けてきた。「お前には本当に失望したよ」春彦は彼女の細い首筋に顔を埋め、その動きをさらに激しく、容赦のないものにしていった。下半身から引き裂かれるような激痛が走った。杏美は歯を食いしばり、声一つ漏らしまいと耐え忍んだ。乱暴に体を揺さぶられながら、ふと、彼と初めて出会った時の光景が脳裏をよぎった。白いシャツに黒のスラックス。紫煙の向こう、人混みの中で大笑いする真理奈を、どこか寂しげな瞳でじっと見つめていた男。そして、自分へと向けられた視線。思い上がりだった。惹かれ合う二人の運命に、部外者の自分が無粋にも割って入ってしまっただけだった。……30分後。春彦は一言も発することなく部屋を出て行った。杏美は頭の中が真っ白になるのを感じながら、どうにか体を支えて起き上がった。屋敷の薬箱へ避妊薬と鎮痛剤を探しに行く途中、春彦の書斎の前を通りかかると、中から声が聞こえてきた。「ああ、もう済ませた」「一度だけだ。心配するな、これで妊娠できるはずだ。お前だって、一回でできただろう?」「ああ。キスはしていない」そこから、彼はさらに声を潜めた。「出国手続きはすべて手配してある。向こうは環境も医療設備も万全だ。安心して胎教に専念しろ」「真理奈、俺の計画通りだ。杏美が子供を産んだら、俺たちの子供とすり替えて、適当な理由をつけて離婚する。そうすれば、俺たちの子供が正真正銘の東原家の跡取りになり、俺たちもずっと一緒にいられる」杏美は氷のように冷たい壁に背を預けた。全身の震えが止まらなかった。そういうことだったのか。外聞を気にしたわけでも、心を入れ替えたわけでもなかった。真理奈が妊娠したからだ。最初から最後まで、自分は彼らの道ならぬ愛を隠すための隠れ蓑でしかなかった。利用するだけ利用して、用済みになればあっさりと切り捨てる。彼はそこまで周到に計画を練っていた。……そして、最後の日。杏美は朝一番で荷物を詰めたスーツケースを空港へと発送した。階段を降りて家を出ようとした矢先、真理奈と鉢合わせた。
Read more
第8話
春彦は未だ消えやらぬ殺気と、鼻を突く消毒液の匂いを漂わせながら屋敷へと飛び込んだ。胸の奥で煮えたぎる怒りが、腹の底から彼を焼き尽くさんばかりに暴れ狂っていた。真理奈の子が、失われた。病室で泣き叫んでいた彼女の姿を思い出すたび、胸の奥を鋭い刃で抉られるような鈍痛に襲われた。今回ばかりは、絶対に杏美を許さない。ドンッ!主寝室のドアを乱暴に蹴り開けた。凄まじい轟音が、主のいない屋敷に虚しく響き渡った。血走った目で部屋の中を見回した。杏美の姿はどこにもなかった。不自然なほどの生活感の欠如に、春彦の胸がざわついた。泥棒に入られたような乱雑さはない。徹底的に、そして計画的に整頓されていた。杏美という人間の痕跡だけが見事に消し去られていた。ドレッサーに並んでいたスキンケア用品も、ウォークインクローゼットを埋めていたドレスや靴も、跡形もない。空間に漂っていた彼女特有の香りすら、完全に消え失せていた。まさにもぬけの殻だった。また気を引くための、くだらない駆け引きか。春彦は鼻で笑い、大股で部屋の奥へと足を踏み入れた。ふと、ベッドサイドのテーブルに視線が止まった。そこに一通の書類が静かに置かれ、重し代わりに小さな印鑑ケースが乗せられていた。心臓が跳ねた。春彦はそれを鷲掴みにした。印鑑は、彼自身のものだった。そして書類に印字された「離婚届受理証明書」という黒々とした文字が、まるで焼け火箸のように春彦の目を焼いた。彼女は癇癪を起こしたわけではない。本当に、ここから去った。それだけでなく、一方的かつあっさりと離婚を成立させていた。驚愕と、自分でも気づかないほどの微かな喪失感が入り混じり、一瞬だけ怒りをかき消した。だが次の瞬間。それを呑み込むほどの圧倒的で、狂喜にも似た解放感が全身を駆け巡った。杏美は自ら消え失せた。空気を読んで、さっさと身を引いた。これはまさに、願ってもない好機だった。自分と真理奈の間に立ち塞がっていた最大の障壁が、ついに取り払われた。もうコソコソと隠れる必要もないし、子供をすり替えるような面倒な計画を練る必要もない。これからは堂々と、愛する真理奈を抱きしめることができる。――杏美。お前も少しは物分かりが良くなったらしいな。*
Read more
第9話
熱狂の渦の中、春彦は皆の視線を浴びながら真理奈の唇を深く塞いだ。真理奈もまた、周囲の目など忘れたように熱烈にそれに応えた。幻惑的な照明が飛び交い、再び鳴り響いた音楽がフロアの熱気を最高潮へと押し上げていた。その火のように熱い口づけの最中。ガチャリと、厚く重いVIPルームの扉が外から開かれた。そこには、石のように顔を強張らせた父、宗次郎が立っていた。傍らの珠代は口元を両手で覆い、ショックと悲痛に目を見開いていた。背後には東原家の親族の長老たちが、一様に険しい顔で並んでいた。その場の空気が凍りついた。贅を尽くしたラウンジの個室から、取り巻きの若者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。真理奈は弾かれたように春彦から離れると、血の気を失った顔で床に崩れ落ちるように跪いた。「お父様……お母様……おじ様方……」宗次郎は深く息を吸い込んだ。床に震えながらうずくまる養女を見下ろすその声には、深い疲労と重圧が滲んでいた。「真理奈……なぜだ。お前は実の娘ではないが、俺も妻も、決して冷遇した覚えはない。それなのに……よくもこんな人倫に悖る、恩を仇で返すような真似ができたな!」「父さん!真理奈は関係ない!」春彦が真理奈の前に立ちはだかり、彼女を背後に庇った。「俺が無理やり手を出したんだ!俺が真理奈を愛している。ずっと前からだ!東原の家にやってきたその日から、俺の物にしてやりたいと思っていた!くだらない掟や家柄のせいで、俺たちがどれだけ引き裂かれてきたと思ってる?杏美も身の程を弁えて自分から出て行ったじゃないか。これ以上、何を望むって言うんだ!」「このたわけが!」宗次郎は怒りに身を震わせた。「まだ口答えをするか!どの口が杏美の名前を出す!あの子がお前にどれだけ尽くしてくれたか。杏美に顔向けできるのか!」「俺は杏美なんか少しも好きじゃなかった!」春彦はさらに声を張り上げた。その両目は赤く血走っていた。「あいつが勝手に嫁いできただけだ。一度だって愛したことなんかない!俺の心には真理奈しかいないんだ!父さんたちが無理やり結婚させたんだろうが。俺たちを引き裂いた張本人だ!」「恥知らずが!」ついに限界を迎えた宗次郎は、春彦を指差す手を激しく震わせた。「この俺に、こんな恩知らずの息子はいな
Read more
第10話
東原家から一切の経済的援助を絶たれた春彦は、事情を知る数人の親友たちから密かに金銭的支援を受け、真理奈と共に東都郊外にある古い1LDKのアパートを借りた。男である春彦はまだ良かった。だが、幼い頃から贅沢に囲まれて育ってきた真理奈にとって、この凄まじい環境の激変は耐えがたいものだった。ここにはすべてをこなしてくれる使用人も、専属の運転手もいない。カード一枚で即座に届くブランド品もない。あるのは、塗装の剥がれかけた壁と古びた家具だけ。彼女は最低限の家事すらまともにこなせなかった。野菜を洗えば台所を水浸しにし、ご飯を炊けば芯が残るか黒焦げになる。掃除機やモップ掛けも適当だった。果ては自分の下着や靴下の洗濯すら、最終的には春彦が手洗いする始末だった。生活の重圧は、すべて春彦の両肩にのしかかっていた。彼はプライドを捨て、腕に覚えのあるカーレースの技術と命知らずな度胸を武器に、地下レース場へと身を投じた。一回のレースで数万から数十万の賞金が稼げた。それが、二人の唯一の収入源だった。昼間は自動車の修理工場で日雇いとして働き、夜は危険なレースで命を削った。そして家に帰れば、散らかった部屋を片付け、洗濯をこなし、塞ぎ込みがちな真理奈をなだめた。苦しいか。疲れているか。洗面台の鏡に映る、目の下に濃い隈を作った自分の顔を見つめ、背中の傷跡が治りかけのひどい痒みと痛みを感じるたび、答えは明白だった。それでも――夜の静寂の中、柔らかく甘い香りを放ちながら腕の中で眠る真理奈を抱きしめ、自分に全幅の信頼を寄せるその温もりを感じる時、鬱屈した疲労は歪んだ満足感によって塗り潰されていった。これが、愛のために支払う代償なのだ。彼はそう納得していた。*1年という歳月が流れ去った。杏美という名前は、深い淵に投げ込まれた小石のように、とうの昔に春彦の記憶の底へと沈んでいた。……その頃、杏美は国際的に名を馳せるジュエリーデザイナーとして、海外のトップクラスの美術館に籍を置いていた。今回の帰国は、歴史的にも芸術的にも極めて価値の高いアンティークリング「ダイヤモンド・ティアーズ」を美術館の代表として競り落とすためであった。この指輪は、近日開催されるジュエリー特別展「世紀の流光」の目玉となる予定だった。
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status