LOGIN柳沼杏美(やぎぬま あずみ)は、親友である東原真理奈(ひがしはら まりな)の兄、東原春彦(ひがしはら はるひこ)と結婚して3年になる。 昨夜、いつも禁欲的な夫と初めて身体を重ねた。 何気ない雑談のなかでそのことを打ち明けると、真理奈はサッと顔色を変えた。瞬く間に目元を赤くして、そのまま部屋を飛び出してしまった。 翌日。 杏美は信じられない光景を目にした。 夜会が開かれている庭園の片隅。 春彦が真理奈を壁に押し付けていた。 いつもは気高く自制心に満ちた男が、今は焦燥に顔を歪め、すがるような声を漏らしている。 「あの夜は、酔っていたんだ」 真理奈は目を赤くし、怒りを滲ませた声で言い放つ。 「汚い手で触らないで! それに、義妹の私に夫婦の事情なんて説明しないでよ!」 その瞬間、杏美は大きく目を見開いた。 血の繋がりがないとはいえ、春彦は自分の義妹を愛している……
View More採血を終えた秀明が、少し青ざめた顔で戻ってきた。まだそこに立っている杏美の姿を認めると、瞳の奥の嫌悪感をさらに深め、顎でボディガードに合図を送る。「つまみ出せ。目障りだ」黒服の男たちが進み出て、杏美の両腕を乱暴に掴んで引きずり出そうとした。「離して!自分で歩けるわ!」杏美は身をよじって抵抗した。もみ合いになった弾みで、彼女のハンドバッグから飾りが1つ千切れ落ち、床に転がった。それは精巧に編み込まれた色褪せた赤い紐で、先端には小ぶりで美しいトンボ玉が結びつけられていた。床に落ちたその赤い紐を無意識に一瞥した瞬間、秀明は大きく目を見開いた。弾かれたように自分の左手首へ視線を落とす。そこには、色褪せた赤い紐とトンボ玉が結ばれていた。落ちたものと、まったく同じ代物だった。雷に打たれたように、彼はその場で硬直した。数秒後、勢いよく身をかがめて杏美の紐を拾い上げ、自分の手首と並べて食い入るように見比べた。見間違えようもない。2つのトンボ玉の模様は、明らかに同じ職人の手によって焼き上げられたものだった。信じられないものを見る目で顔を上げ、ボディガードに両腕を拘束されたまま青ざめている杏美を凝視した。極度の衝撃と、ある恐ろしい推測によって、彼の声は激しく震えていた。「この紐……君は、これをどこで手に入れた!?」秀明が2つの紐を見比べる姿を目にして、杏美は口角を引きつらせた。笑ってやろうとしたが、ひどく喉が突っ張る。「ひゅっ」と掠れた、壊れたような音が漏れた。その反応を見て、秀明は息を呑んだ。彼女の瞳にはすべてを悟ったような光と、底知れない悲哀、そして嘲りが浮かんでいる。想像すらしたくなかった一つの真実が、鋭い刃となって秀明の心臓を貫いた。「……君が、『Aさん』なのか。この1年間、毎月私から『ソンジュ・ド・ニュイ』を買ってくれていたのは」「今更、それが重要かしら」杏美は冷たく鼻で笑った。「そうなのかと聞いているんだ!」「そうだとしたら、何だと言うの」自分がずっと感謝し、魂の理解者だと信じていた「Aさん」は、真理奈ではなかった。他でもない目の前のこの女――自分が何度も酷い言葉で罵り、見下し、脅しまでかけた杏美だった。完全に思い違いをしていた。自分は、救いようの
カフェを出た杏美は、あてもなく歩道をさまよっていた。街のネオンがひどく滲み、冷たい光の輪となって視界を揺らす。春彦が最後に放った言葉が、蠅のように耳元で羽音を立ててまとわりついていた。吐き気を催すほどの白々しさだ。大切にするだと?あの男にそんな言葉を使う資格があるのか。彼が大切にするのは、真理奈ただ1人だろうに。一刻も早くホテルに戻り、この息の詰まる街から完全に立ち去りたかった。人通りの少ない通りを抜け、タクシーを拾おうとした。その時、斜め後ろから、タイヤがアスファルトを激しく擦る悲鳴のような甲高い摩擦音が耳を劈いた。1台の車がコントロールを失い、杏美が立つ歩道のガードレールへと猛烈な勢いで突っ込んでくる。杏美の頭は真っ白になり、体が石のように硬直して動かない。危機一髪――斜め横から黒い影が猛然と飛び出してきた。凄まじい衝撃とともに、杏美の体は弾き飛ばされた。ドンッ!ガシャアアアアンッ!巨石がぶつかったような激突音。金属がひしゃげる不快な音と、ガラスが粉々に砕け散る音が同時に弾けた。強い力で突き飛ばされた杏美は、数メートル先の地面に激しく叩きつけられた。肘と膝に、焼け焦げるような激痛が走る。目眩に襲われながら、なんとか顔を上げた。暴走した車は、つい先ほどまで杏美が立っていた場所のガードレールに深々と突き刺さっていた。フロント部分は無惨にひしゃげ、ねじ曲がったボンネットから白煙を噴き上げている。そして、杏美と大破した車の中間地点。そこに、1人の男が横たわっていた。春彦だった。彼は身を丸くしたまま、ピクリとも動かない。その体の下から赤黒い血流が急速に広がり、冷たいアスファルトの上を蛇のように這い進んでいく。目を背けたくなるような光景だった。「春彦……っ!」呆然と声が漏れた。彼の顔色は紙のように白く、息をしているかどうかも分からないほどに弱々しい。体からは絶え間なく血が流れ出していた。「救急車!誰か、救急車を呼んで!」数秒遅れてようやく我に返った杏美は、恐怖で立ち尽くす通行人たちに向かって絶叫した。震える手でスマートフォンを取り出し、自らも119番を通報する。口から出る言葉は、ひどく支離滅裂だった。……病院の救急外来。
「要件から話して」杏美は視線を上げ、凪いだ湖面のような冷ややかな瞳で彼を射抜いた。春彦の喉仏が上下に動いた。自分でも驚くほど、その声は掠れ、苦しげだった。「……俺のことが、そんなに憎いか。もう少しだけ、付き合ってくれてもいいだろう」彼は深煎りのブラックコーヒーを無理やり喉に流し込み、胸に渦巻く苛立ちを押さえつけた。「あの時は……俺が全部悪かった。どうかしていたんだ。最低なクズだったと認める。だが、俺は何年も真理奈のことが好きだった。感情ばかりは……どうにもならない。だからお前を蔑ろにして、あんなにも深く傷つけた。お前には、ちゃんと謝らなければと思っていた」杏美は静かに耳を傾けていた。まるで赤の他人の身の上話でも聞いているかのように、その顔には何の色も浮かんでいない。「お前は……本当に魅力的な人だ」彼女の静かな横顔を見つめながら、春彦の口から唐突にそんな言葉がこぼれ落ちた。彼自身すら戸惑うほど、そこには純粋な響きが混じっている。「本当だ。だから……俺との結婚なんかに、いつまでも縛られないでくれ。お前はまだ若い。もっとふさわしい相手がいるはずだ」杏美の指先が、冷たいグラスの表面を静かになぞった。やがてゆっくりと視線を上げると、その口角を冷ややかに釣り上げた。「東原さんが今日私を呼び出したのは、心理カウンセリングでもするため?過去を忘れて、前を向いて生きろって」彼女はグラスから手を離し、わずかに身を乗り出す。その眼差しが鋭く彼を射抜いた。「それとも、私があなたの想像していたよりも惨めな生活を送っていなかったから、東原さんには面白くなかったのかしら。私が今でもあなたに未練を残しているかどうか確かめて、その今更な虚栄心を満たしたかっただけじゃないの?」棘のある言葉に痛いところを突かれ、春彦はさっと顔色を失った。コーヒーカップの取っ手をきつく握りしめる。「そんなつもりじゃない!」「じゃあ、どういうつもり?」杏美は立ち上がり、傍らのハンドバッグを手に取った。「くだらない雑談のためだけなら、これ以上お互いの時間を浪費する必要はないわね」「待ってくれ!」春彦も勢いよく立ち上がった。焦燥に駆られるまま、スーツの内ポケットからベルベットの化粧箱を取り出し、蓋を開けて彼女の目の前へ差し出
「私がどう勘違いしてるって言うの!」真理奈は泣き叫びながら彼を突き飛ばした。「あなたは後悔してるんじゃないの!?やっぱり彼女の方が良かったって。私と一緒にいることが、重荷になったんじゃないの!?」「そんなわけないだろう!」春彦は苛立たしげに髪を掻き毟り、無力感に苛まれたような声で言葉を絞り出した。「あいつには負い目があるだけだ。あの時は……俺がクズだった。あいつを利用して、傷つけた。だから、あいつがそれなりにうまくやっているのを見て、少し肩の荷が下りたんだ。少しでも手を貸せれば、借りを返せると思った。ただそれだけだ!よく考えてみろ。最初から最後まで、俺の心の中に、お前以外の誰かがいたか?」春彦は力任せに真理奈を腕の中に抱き寄せた。その声は低く、微かな掠れを帯びている。「もう余計なことを考えるな。俺たちはやっと一緒になれたんだ。関係ない人間のことで喧嘩したくない。愛してる。一生、お前だけだ」その腕の中で、真理奈の泣き声は次第に小さくなり、やがて甘えるようなすすり泣きへと変わっていった。深夜、春彦はベッドに横たわっていた。隣では泣き疲れた真理奈がすでに寝息を立てていたが、彼自身は一向に眠れそうになかった。暗闇の中、杏美のあの氷のように冷え切った瞳が何度も脳裏をよぎる。やがて、とうに薄れていたはずの記憶の断片が、恐ろしいほど鮮明に蘇ってきた。結婚したばかりの頃、彼女はいつもおずおずとした視線を向けながら、温かいしじみ汁をそっと運んできた。徹夜明けで帰宅すると、リビングには決まってオレンジ色のフロアライトが灯っていて、彼女は読みかけの本を握りしめたままソファで丸くなって彼を待っていた。胃の痛みに冷や汗を流して苦しんだ夜には、彼女は余計なことは何一つ言わず一晩中付き添い、温かいタオルで何度も汗を拭ってくれた。その指先はひんやりとして、ひどく優しかった……あの時はそれが当たり前だと思っていた。むしろ、その過剰なまでの献身を煩わしく感じていたことさえあった。だが今、この暗闇の中で思い返すと、それは無数の細い針となって胸の奥底を深く突き刺し、遅れてやってきた覚えのない鈍痛と苦い疼きを呼び起こした。春彦は苛立たしげに寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。なぜ今更こんなことを思い出す?罪悪感のせいか。そうだ、罪悪感
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