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過去を切り捨て、前へ進む

過去を切り捨て、前へ進む

作家:  石見綾乃完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

ひいき/自己中

クズ男

愛人

後悔

妻を取り戻す修羅場

不倫

三宮徹也(みのみや てつや)の家のスマートロックには、私・神谷寧々(かみや ねね)の指紋が、いつも「一時登録」の扱いで記録されていた。 登録するたびに、彼はこう言った。 「いつでも好きなときに来ていいよ。俺の家はいつだってお前を歓迎するから」 けれど、登録されるたびに、次に彼の家の前を訪れると、決まって機械音声が告げる。 「この指紋は登録されていません」 またしても締め出された私は、赤く点灯した指紋認証部分を見つめながら、徹也に電話をかけた。 電話がつながると、彼はいつものように親しげで、申し訳なさそうな声で言った。 「ごめんな。昨日、幼なじみがふざけててさ。鍵を試してるときに、うっかりお前の指紋を消しちゃったみたいなんだ。 ちょっと待ってて。次に帰ったとき、また登録し直してあげるから」 また「次」。 スマホを握りしめながら、私はふと、これまで指紋を削除されたときに彼が口にしていた理由を思い出した。 その前は、「システムのアップデートで不具合が出た」と言っていた。 なのに、山本晴美(やまもと はるみ)の指紋だけは何事もなく残っていた。 その一つ前は、「鍵が壊れたから新しいパネルに交換した」と言っていた。 本当は、晴美が何気なく「指紋を登録しすぎるのって、安全じゃないよね」と愚痴をこぼしただけだった。 そのたびに、もっともらしい「偶然」が起きた。 徹也は、その「偶然」を口実に、晴美のこの家への独占欲に応じていた。 電話の向こうでは、徹也がまだ言っている。 「俺が帰るまで待ってて。帰ったら俺が開けてあげるから」 けれど、電話を切った次の瞬間、家の中から「カチリ」と澄んだ施錠音が聞こえた。 晴美は、私が外にいることを知っていて、内側から鍵をかけたのだ。 私は立ち上がり、ズボンについた埃を軽く払った。 もういい。 もう、あの扉の中には入りたくない。

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第1話

第1話

夜風が襟元から吹き込み、私は思わずぶるっと身震いした。

手を上げて顔を一度拭う。

泣いてなんかいない。

目元は乾いている。

ただ、風が強すぎるだけだ。

私はマンションの敷地脇に立ち、スマホを取り出して配車を呼ぼうとした。

「ん?なんでここにいる?」

顔を上げると、東山誠人(ひがしやま まさと)がコンビニの袋を提げて歩いてくるところだった。

彼は徹也と晴美の共通の友人で、このマンションにも住んでいる。

「徹也に会いに来たか?」彼が聞いた。

「うん」私は答えた。

「内側から鍵をかけられて、入れないの」

誠人は眉をひそめ、少し不思議そうな顔をした。

「晴美、来てるんじゃないか?

さっきグループにボイスメッセージ送ってたぞ。徹也んちで料理してるから、みんなで飲みに来いって」

誠人は私の青ざめた顔にも気づかず、何気なく話し続けた。

「彼女、よく来るの?」

私が尋ねると、彼は笑った。

「そりゃもう。徹也のことなら、誰よりも知り尽くしてるって感じだよ。

みんなで冗談言ってるんだ。あいつが本当の女主人なんじゃないかって」

そこまで言って、ようやく彼は何かがおかしいと気づいたらしく、気まずそうに口をつぐむ。

「いや、あの……そういう意味じゃ……」

私は口元を少し引きつらせ、「気にしないで」と言おうとした。

でも、喉に何かが詰まったようで、声が出なかった。

そのとき、誠人のスマホが鳴った。

グループチャットの通知だった。

私はちらりと画面を見る。

そこに表示されていたグループ名は【三宮のハーレム】だ。

晴美がちょうどボイスメッセージを送ったところに、友人たちが面白がって送ったスタンプがいくつも並んでいた。

【今行く】

【私の分も残しといて】

そんな返信まで見えた。

誠人は慌ててスマホの画面を消し、気まずそうに言った。

「その……一緒に上がる?彼女、料理で手が離せなくて、お前がノックしてるのに気づいてないのかもしれないし。

ほら、みんな友達なんだから、一緒にどうだ?」

みんな友達、か。

でも、私は徹也の彼女だ。

なのに、この輪の中では、私はただの余計な部外者だった。

私は首を横に振った。

「ううん。いい」

そう言って、踵を返して道端へ向かった。

数歩歩いたところで、どうしても我慢できなくなり、俯いてスマホを見た。

画面には、徹也が最後に送ってきたメッセージがそのまま残っていた。

【あと数分待ってて。すぐ戻って、俺が開けるから】

10分経った。

それでも、彼はまだ玄関まで戻ってこなかった。

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第1話
夜風が襟元から吹き込み、私は思わずぶるっと身震いした。手を上げて顔を一度拭う。泣いてなんかいない。目元は乾いている。ただ、風が強すぎるだけだ。私はマンションの敷地脇に立ち、スマホを取り出して配車を呼ぼうとした。「ん?なんでここにいる?」顔を上げると、東山誠人(ひがしやま まさと)がコンビニの袋を提げて歩いてくるところだった。彼は徹也と晴美の共通の友人で、このマンションにも住んでいる。「徹也に会いに来たか?」彼が聞いた。「うん」私は答えた。「内側から鍵をかけられて、入れないの」誠人は眉をひそめ、少し不思議そうな顔をした。「晴美、来てるんじゃないか?さっきグループにボイスメッセージ送ってたぞ。徹也んちで料理してるから、みんなで飲みに来いって」誠人は私の青ざめた顔にも気づかず、何気なく話し続けた。「彼女、よく来るの?」私が尋ねると、彼は笑った。「そりゃもう。徹也のことなら、誰よりも知り尽くしてるって感じだよ。みんなで冗談言ってるんだ。あいつが本当の女主人なんじゃないかって」そこまで言って、ようやく彼は何かがおかしいと気づいたらしく、気まずそうに口をつぐむ。「いや、あの……そういう意味じゃ……」私は口元を少し引きつらせ、「気にしないで」と言おうとした。でも、喉に何かが詰まったようで、声が出なかった。そのとき、誠人のスマホが鳴った。グループチャットの通知だった。私はちらりと画面を見る。そこに表示されていたグループ名は【三宮のハーレム】だ。晴美がちょうどボイスメッセージを送ったところに、友人たちが面白がって送ったスタンプがいくつも並んでいた。【今行く】【私の分も残しといて】そんな返信まで見えた。誠人は慌ててスマホの画面を消し、気まずそうに言った。「その……一緒に上がる?彼女、料理で手が離せなくて、お前がノックしてるのに気づいてないのかもしれないし。ほら、みんな友達なんだから、一緒にどうだ?」みんな友達、か。でも、私は徹也の彼女だ。なのに、この輪の中では、私はただの余計な部外者だった。私は首を横に振った。「ううん。いい」そう言って、踵を返して道端へ向かった。数歩歩いたところで、どうしても我慢できなくなり、俯いてスマホを
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第2話
翌朝、スマホの電源を入れると、画面に不在着信が二件表示されていた。それから、メッセージが二通あった。どちらも昨夜のものだった。一通目は、【なんで俺を待たなかったの?】と書いてあった。二通目は、【鍵のことは晴美が勝手にやったんだ。もう注意したから。家に着いたら連絡して】という文だった。返信する間もなく、徹也から電話がかかってきた。「鍵のことは、晴美が勝手にやったんだ。もう俺から言っておいたから」そして、もう一言を言った。「今夜、誠人たちが飲み会を企画してるんだ。一緒に飯食いに行こう。みんな友達なんだから、少しずつ仲良くなればいいよ」私は、その飲み会にはあまり行きたくなかった。それでも、私は承諾した。店の個室に着くと、晴美はすでに上座に座っていた。彼女は隣の椅子を軽く叩いて言った。「徹也、ここ座って」私は徹也の右隣に座ろうとした。けれど、別の友人に先を越された。「ほらほら、俺が徹也の隣で飲むから」晴美が顔を覗かせて私を見ると、笑って言った。「じゃあ、向かいに座れば?向かいのほうがよく見えるよ」こうして私は、徹也から一番遠い席に座ることになった。湯気の立ち込める鍋を挟んで、晴美が顔を横に向けて徹也に話しかけているのが見える。その髪が、ほとんど彼の肩に触れそうなほど近い。蟹が運ばれてきた。晴美は箸でつつき、甘えるように言った。「徹也、蟹剥いて。私、上手く剥けないの」徹也は何も言わず、蟹を自分の器に取り、剥き始めた。蒸気に当てられて、彼の指先が少し赤くなっている。それでも、まるで気にしていなかった。晴美は蟹を一つ取り、半分ほど齧った。そして、残った蟹肉を徹也の口元へ差し出す。「徹也も一口食べて。この蟹、すごく美味いよ」徹也は彼女の箸からそのまま食べた。唇が、彼女の齧った場所に触れる。友人の一人が茶化した。「お前ら、何年経っても相変わらずベタベタだな。彼女さんが嫉妬しないのかよ」晴美は笑った。「徹也は小さい頃からずっと私のために蟹を剥いてくれてるんだよ。彼女さんだって、そんな心狭くないよね?」そう言って、彼女は私を振り返った。その場にいた全員の視線が私に集まる。私は一瞬、体をこわばらせた。それでも、無理やり笑顔を作る
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第3話
店を出ると、みんなで別れの挨拶をしながら、何人かずつ道端に立って車を待っていた。私は自然な足取りで徹也の車へ向かい、助手席のドアノブに手を伸ばした。そのとき、反対側から晴美が早足で回り込み、私を押しのけた。彼女は笑いながら言った。「助手席に座らせて。車酔いするから、後ろだと本当にきついの」言い終わるより先に、彼女はドアを開けて乗り込み、シートベルトまで締めた。その一連の動作はあまりにも自然で、まるで何度も繰り返してきたかのようだった。そして横を向いて徹也に言う。「徹也、行こ行こ」徹也は私を一度見て、ごく普通の口調で言った。「晴美は本当に車酔いするんだ。お前は後ろに座って」私は唇をきゅっと結び、後部座席のドアを開けた。車が走り出す。晴美はごく自然にダッシュボードの収納を開け、中からナッツの袋を取り出した。そして、何粒か自分で食べたあと、一粒を徹也の口元へ差し出す。「はい、あーん」徹也は俯き、そのまま彼女の指から食べた。唇が彼女の指先に触れた。「徹也、来週末、木村たちが新しくできたキャンプ場に行くんだって。行く?」「行くよ。最近、全然出かけてないし」「じゃあ私も行く。その時もこのSUVで行くんでしょ?私、徹也の車に乗る」「いいよ。当日、迎えに行く」晴美が笑った。「じゃあ約束ね。また私との約束すっぽかさないでよ」そう言って、彼女は徹也の腕を指で軽くつついた。私は後部座席で、二人が来週の予定について話しているのを聞いていた。指が掌に食い込むほど、強く握りしめている。キャンプの話なんて、私は何も知らなかった。徹也は、一度も私に話していなかった。赤信号で車が止まると、晴美がスマホを取り出し、徹也に見せた。「もう最悪。永野さんがまた企画書を急かしてきた。ほら、この要求見て。頭おかしくない?」徹也は横目で画面を確認して言った。「普通に筋道立てて書けばいい。あいつのペースに巻き込まれるな」晴美はスマホをしまい、ため息をついた。「やっぱり徹也は私のこと分かってくれる。他の人に話しても、私が何にイライラしてるのか全然分かってくれないんだよね」車が徹也の家の近くまで来た頃、晴美が突然咳き込み始めた。最初は軽く、喉の調子が悪いような咳だった。
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第4話
タクシーが徹也のマンションの前に停まった。私は、夜に彼から教えてもらった暗証番号でドアを開けた。暖かな黄色い照明がテーブルを照らしている。その光の下に、私の書類袋があった。袋は開けられていた。中に入っていた契約書は、真っ二つに引き裂かれていた。紙はくしゃくしゃになり、大きな水染みまで広がっている。インクは滲み、公印も署名の部分もすっかり潰れていた。私は二つに裂かれた書類を拾い上げた。指が、裂け目のところで震える。これは、住宅の所有権譲渡契約書だった。母が、実家の所有権を私に譲るためのものだ。本来なら、私の住んでいるところに送ってもらうはずだった。けれど、徹也がその話を聞いて言った。「俺のところに送ってもらえば?不動産登記所に知り合いがいるから、手続きは俺がやってあげるよ。お母さんに何度も出向いてもらう必要もないし」それなのに今、その書類は引き裂かれていた。この手続きをやり直すには、母が実家からもう一度公証役場まで足を運ばなければならない。原本をもう一度送ってもらって、そこから少なくとも1ヶ月は待つことになる。それに、もう母の身体は、そんな無理に耐えられる状態ではない。私は俯き、2ヶ月かけて準備してきたものが2枚の破れた紙になっているのを見つめた。そこには、ぼんやりと靴跡まで残っていた。私は徹也に電話をかけた。何度も呼び出して、ようやく繋がった。彼の声は低く抑えられていて、疲労と苛立ちが滲んでいた。「今、救急外来。晴美が酸素吸ってる。何か用?」「私の所有権譲渡契約書……」私は言った。「書斎の机に置いてたけど、誰かに破られて、水までかけられてた」彼はしばらく黙った。「今、それどころじゃないんだ。医者が言うには、あと少し来るのが遅かったら危なかったらしい」「その契約書は、母が……」彼は私の言葉を遮ると、声を冷たくした。まるで別人のようだった。「今どうしてもその話をしなきゃいけないのか?晴美は喘息の発作で死にかけたんだぞ。分かってるのか?自分でもう一度作り直せばいいだろ?何でも晴美のせいにするなよ」そして、少し間を置いて付け加えた。「今、晴美は酸素吸ってるんだ。少しは空気を読めよ」電話が切れた。その直後、晴美のSNSに新しい
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第5話
晴美は病室のベッドに寄りかかり、顔色も来たばかりの頃よりずっと良くなっていた。「徹也、もうだいぶ楽になったよ。心配しないで」彼女は小さな声で言った。徹也は隣のプラスチック椅子に座ったまま、「うん」とだけ答え、顔を上げなかった。そして私にメッセージを送った。【寝た?】5分経っても、返信はなかった。彼はもう一度送った。【契約書のことは、明日帰ってから確認する。怒るなよ】深夜の救急外来は、次第に静かになっていった。徹也は椅子の背もたれに身体を預け、目を閉じた。けれど、眠れなかった。頭の中には、私から最後に届いたメッセージが何度も浮かんでいた。【もういい】とても短い文だった。余計なものが何もない、乾いた言葉だ。まるで、一枚の扉が静かに閉じられたようだった。徹也はふと、先月の私の誕生日を思い出す。彼は私に電子マネーのギフトを送り、【自分で好きなもの買いなよ】とだけ言った。私から返ってきたのは、【ありがとう】その一言だけだった。それ以上は何もなかった。そのときは、特に気に留めなかった。けれど今になって思えば、私はあの頃からもう、彼には何も期待しなくなっていたのかもしれない。夜が明け、晴美は退院した。看護師からは、大したことはないので、家に帰ってゆっくり休めばいいと言われた。徹也は退院の手続きを済ませ、車で彼女を家まで送った。晴美は助手席に座り、少し甘えるような声で言った。「徹也、昨日は本当に怖かった。徹也がいてくれてよかった」「これからは出かけるとき、薬を忘れるなよ」徹也が言った。「徹也がいてくれるなら、何も怖くないよ」晴美は小さく笑った。徹也は何も答えなかった。スマホをセンターコンソールに置く。画面は上向きだった。最初の信号で停まったとき、彼はちらりと画面を見た。通知はない。二つ目の信号でも、また確認した。やはり、何もない。晴美を家まで送り届けても、徹也は車から降りなかった。車内に一人残ったまま、彼はふと思い返す。晴美の引っ越しを手伝ったこと。水道管を修理したこと。食事を届けたこと。以前の彼にとって、それらは当然のことだった。幼なじみだし、彼女は一人でこの街に暮らしていて大変なのだから。そう思っ
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第6話
列車の出発時刻は、午前2時だった。私が買ったのは普通座席で、車内にはまばらに人が座っているだけだった。私は徹也の電話番号をブロックし、ラインも非表示にした。夜が明ける頃、私はN市に着いた。駅の近くで、安いビジネスホテルを一軒見つけた。フロントで何泊するのかと聞かれ、「とりあえず……まだ分かりません」と答えた。部屋に入り、スーツケースを置く。それからスマホを開き、N市での求人を探し始めた。……一方、徹也は自宅へ戻っていた。靴を脱ぎ、リビングへ入る。ソファには、以前私が座ったときに残していったクッションがまだあった。私が抱きしめていたせいか、少しだけ皺が寄っている。徹也はそこへ歩み寄り、クッションを軽く叩いて形を整えた。そして、リビングの中央に立ち、ぐるりと部屋を見回す。何が違うのか、うまく言葉にはできなかった。ただ、この家が、ひどくがらんとしているように感じた。彼は書斎のドアを開けた。机の上は空っぽだった。あの書類袋も、なくなっている。徹也は一瞬、呆然とした。そして歩み寄り、引き出しをいくつか開けて確認する。私がここに置いていたものが、いくつか消えていた。彼はスマホを取り出し、私に電話をかけた。長い間呼び出したが、誰も出ない。もう一度かける。今度は、着信を拒否された。3度目――「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」そこで、ようやく気づいた。ブロックされている。徹也はスマホを握ったまま、クローゼットの前に長い間立ち尽くした。このときになって初めて、本当に理解した。私は「怒っている」ではなく、「出ていった」のだ。彼は車を走らせ、私が暮らしていた住所へ向かった。ドアを開けた瞬間、何かがおかしいと分かった。リビングから、たくさんの物がなくなっている。クローゼットも半分以上が空っぽだった。それなのに、床は綺麗に掃除されていた。キッチンのコンロも、鏡のように磨かれている。ゴミさえ、すべて持っていったようだった。徹也は、何もなくなったリビングに一人で立ち尽くした。そして、ふと一つの言葉が浮かんだ。撤退だ。逃げたんじゃない。何一つ取り乱すことなく、順序立てて、
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第7話
私はホテルで2日間過ごした。3日目の午前、私はあるデザイン会社の面接を受けに行った。面接官は30代くらいの女性で、デザインディレクターだった。彼女は私のポートフォリオを数ページめくると、頷いた。「デザインがすごくすっきりしていますね。どうして前の町を離れたんですか?」私は少し考えてから答えた。「環境を変えたくて」彼女はそれ以上追及しなかった。ポートフォリオを閉じて言う。「分かりました。では、来週まで連絡します」私は立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。会議室を出る途中、オープンな執務スペースを通りかかった。誰かがカップを片手に私の横を通り過ぎ、何気なく言った。「新入り?」私が答えるより先に、その人は同僚に呼ばれて行ってしまった。みんな忙しそうに働いていて、誰もわざわざ他人に干渉しない。私は、そんな雰囲気がなんだか心地いいと思った。会社を出ると、陽射しがとても暖かかった。そのとき、スマホが震えた。人事からのメッセージだった。【面接に合格しました。来週月曜日から出社してください】私は見知らぬ街角に立ったまま、そのメッセージを二度読み返した。……一方、徹也は私が半分ほど荷物を持ち出した部屋に座っていた。窓から差し込む陽射しが、左側から中央へとゆっくり移動し、床に斜めの光の筋を作っている。彼は、この数日間に起きたことを一つずつ思い返し始めた。始まりは、玄関の指紋認証からだった。私が電話をかけてきたとき、声はまだ落ち着いていた。あのとき、自分は何を考えていた?「晴美が料理してるんだから、機嫌を損ねないようにしよう」と考えていた。玄関の外に立っていた私が、寒くないか。そんなことは、一度も考えなかった。そして、3ヶ月前のあの週末を思い出す。温泉ホテルに、晴美が言った。「徹也、赤ワイン頼んだから、部屋で飲もうよ」彼は飲んだ。その後のこと……徹也は目を閉じると、記憶が一気に蘇ってくる。晴美は彼のシャツを着ていた。襟元は大きく開き、髪は濡れていた。ベッドサイドのテーブルには、彼が注文したコンドームの箱があった。すでに開封されていた。あのとき、彼は自分に言い聞かせた。酒に酔って、過ちを犯しただけだと。
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第8話
月曜日の朝、私は新しい会社へ初出勤した。人事の担当者が社内を一通り案内してくれた。「トイレはここで、給湯室はこっち。消火器はあそこです」最後に案内されたのは、空いているデスクだった。隣には、ショートヘアの女の子が座っている。「やっほー、新入り!私、周防美央(すおう みお)っていうの」「神谷寧々です」「寧々、よろしくね。お昼、一緒に食べようよ。社内のこと教えてあげる」私は席に座り、自分のマグカップを机の隅に置いた。IT担当がシステムを設定してくれるのを待ちながら、パソコンを立ち上げる。美央はすでにイヤホンをつけて仕事に戻っていた。鼻歌を口ずさんでいる。誰もわざわざ私を見に来ることはなかった。だからといって、誰かに冷たくされることもない。近すぎず、遠すぎない。ちょうどいい距離感だった。昼休みになると、美央は本当に私を誘いに来た。私たちはトレーを持って社員食堂へ向かった。それほど遠くない道のりだったけれど、彼女はその間ずっといろんなことを話してくれた。どの店の料理がおいしいとか。階下のカフェではラテが2杯目半額になるとか。金曜日の午後は私服で来てもいいとか。どれも気負いのない話だった。私が無理に話を続ける必要もない。ただ聞いているだけでよかった。その瞬間、私は少しだけぼんやりした。以前いた街では、友達を作るのはこんな感じじゃなかった。徹也のいる輪に入ってから、私はずっと「馴染む」ために時間を使ってきた。誠人がどんな酒を飲むのか――アサヒだ。木村がどの会社にいるのか――不動産会社で企画をしている。グループの中で誰と誰が揉めているのか――たしか、以前割り勘にした食事代の計算が合わなかったのが原因だ。私は全部スマホにメモしていた。会う前には、一度復習していた。余計なことを言わないように。会話が途切れないように。徹也の友人たちに「付き合いにくい女」だと思われないように。でも結局、私はいつまで経っても、「徹也の彼女」だった。ただの付属品だった。それなのに今の私は、美央とただの同僚だ。彼女は私の過去を知らない。私も、彼女の前で何かを証明する必要はない。私はただ、私自身でいればいい。「今度、一緒にライブに行こうよ」美
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第9話
入社2週目の金曜日、仕事を終えて帰ろうとした私は、会社のエントランスで徹也を見かけた。彼はガラス扉のそばに立っていて、濃いグレーのコートを着ていた。隣を歩いていた美央が私の視線を追い、声を落として尋ねる。「知り合い?」「うん。友達。先に帰っていいよ」美央はそれ以上何も聞かず、軽く頷いて先に帰っていった。私は徹也の前まで歩いていった。驚きも、怒りもなかった。ただ、静かに尋ねた。「どうして来たの?」「直接、お前に謝りたくて」彼の声は少し掠れていた。「何について謝るの?」彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。「言えないの?」私は彼を見つめた。「それとも……『ごめん』の一言で済むと思ってる?」彼はしばらく黙ったあと、口を開いた。「パソコンに残ってた注文履歴、見たんだろ?」その声は、ひどく苦しげだった。「温泉ホテルのあの夜……晴美が部屋で一杯飲もうって言って、それで俺は……」彼は一度言葉を切った。「一時の気の迷いだった」私は彼を見つめた。「一時の気の迷い?食事の席で、晴美が齧った蟹をそのまま食べたのも、一時の気の迷い?車の中で晴美を助手席に座らせて、ナッツまで食べさせてもらってたのも?晴美が襟を直してくれたとき、避けなかったのも、全部、気の迷い?」彼は口を開いた。けれど、何も言えなかった。「あなたが晴美に優しくしてることなんて、みんな分かってる」「違う……」徹也はその場に立ち尽くしていた。顔はひどく青ざめている。「説明しなくていいよ」私は言った。「あなたが晴美にどれだけ優しいかなんて、もう十分すぎるほど分かったから。二人でずっと一緒にいればいいよ」そう言って、私は彼の横を通り過ぎ、エントランスへ向かった。「寧々」後ろから、彼が私を呼ぶ。私は立ち止まらなかった。外へ出ると、夜風が正面から吹きつけてきた。私はコートをしっかりと合わせ、そのまま角にあるコンビニへ入った。冷蔵ケースにはミネラルウォーターがきれいに並んでいる。私は一本手に取った。その頃になっても、徹也はまだその場に立っていた。彼は、私の背中が角の向こうへ消えていくのを見つめていた。彼はN市で一晩過ごした。翌朝、ホテルをチェックア
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第10話
会社のビルを出たときには、もう10時近くになっていた。夜風がひんやりと吹いている。私はアパートへ向かって歩いた。歩いて15分ほどの距離だった。何歩か進んだところで、ふと気づいた。私はもう、ほぼ1ヶ月も徹也のことを思い出していない。最後に思い出したのは、いつだっただろう。たしか、スーパーで布団を買った日だった。徹也の家にあったものと同じようなシーツを見つけて、売り場で数秒立ち止まった。それから、別の商品を手に取った。それ以来、一度も思い出していない。意識して考えないようにしていたわけじゃない。本当に、思い出さなくなったのだ。正社員になってから、私は引っ越した。新しい部屋は以前のワンルームより少し広く、小さなベランダもついている。私はスマートロックを一つ買って、自分で取り付けた。取り付け業者が電話で「訪問して取り付けましょうか」と言ってくれたけれど、「大丈夫です。自分でやってみたいので」と断った。古い鍵を取り外し、新しいロックの台座を取り付けた。ネジを締めるときは、力いっぱい回した。取り付けを終え、私はドアの外に立った。そして、指を認証部分に置く。「指紋の登録が完了しました」私は、その音声を何度も聞いた。澄んだ、機械的で、感情のない女性の声だ。あの夜に聞いた、「この指紋は登録されていません」という音声とは、まるで違った。あの夜、私は徹也の家の前に立っていた。廊下の窓から冷たい風が吹き込んできた。何度指を当てても、返ってくるのは、あの冷たい音声だけだった。けれど今、私は自分の家の前に立っている。この鍵は、私を知っている。翌日、会社で一つの荷物を受け取った。差出人の住所は、徹也の家だった。手に持って重さを確かめる。軽い。小さな箱だった。開けると、中に入っていたのは、一本の鍵だ。そこには小さなプレートが付いていた。表には、こう書かれていた。【この家のドアロックには、お前の指紋しか登録していない。ほかの誰も登録されていない。いつでも戻ってきていい】裏返すと、もう一行あった。【ごめん。本当にごめん】何度も書き直したのだろう。乱れた字だった。私は、その鍵を使うつもりはない。でも、捨てもしなかった。思い出の
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