ログイン三宮徹也(みのみや てつや)の家のスマートロックには、私・神谷寧々(かみや ねね)の指紋が、いつも「一時登録」の扱いで記録されていた。 登録するたびに、彼はこう言った。 「いつでも好きなときに来ていいよ。俺の家はいつだってお前を歓迎するから」 けれど、登録されるたびに、次に彼の家の前を訪れると、決まって機械音声が告げる。 「この指紋は登録されていません」 またしても締め出された私は、赤く点灯した指紋認証部分を見つめながら、徹也に電話をかけた。 電話がつながると、彼はいつものように親しげで、申し訳なさそうな声で言った。 「ごめんな。昨日、幼なじみがふざけててさ。鍵を試してるときに、うっかりお前の指紋を消しちゃったみたいなんだ。 ちょっと待ってて。次に帰ったとき、また登録し直してあげるから」 また「次」。 スマホを握りしめながら、私はふと、これまで指紋を削除されたときに彼が口にしていた理由を思い出した。 その前は、「システムのアップデートで不具合が出た」と言っていた。 なのに、山本晴美(やまもと はるみ)の指紋だけは何事もなく残っていた。 その一つ前は、「鍵が壊れたから新しいパネルに交換した」と言っていた。 本当は、晴美が何気なく「指紋を登録しすぎるのって、安全じゃないよね」と愚痴をこぼしただけだった。 そのたびに、もっともらしい「偶然」が起きた。 徹也は、その「偶然」を口実に、晴美のこの家への独占欲に応じていた。 電話の向こうでは、徹也がまだ言っている。 「俺が帰るまで待ってて。帰ったら俺が開けてあげるから」 けれど、電話を切った次の瞬間、家の中から「カチリ」と澄んだ施錠音が聞こえた。 晴美は、私が外にいることを知っていて、内側から鍵をかけたのだ。 私は立ち上がり、ズボンについた埃を軽く払った。 もういい。 もう、あの扉の中には入りたくない。
もっと見る仕事にもすっかり慣れ、N市では美央が私の一番親しい友達になった。私たちは一緒にライブを観に行った。2時間も立ちっぱなしで、声が枯れるほど叫んだ。ライブが終わると、二人で道端の屋台に行って焼きそばを食べた。店主はもう私たちのことを覚えていて、「今日も二人とも辛めでいいか?」と聞いてくる。「はい」私は答えた。そんなふうに、些細なことを覚えていてもらえる。それだけで、この街が少しずつ私を受け入れてくれているような気がした。焼きそばができるのを待っていると、美央が突然言った。「寧々、最初に来たときは、雨に濡れた猫みたいだったのに。今は全然違うね」「どこが?」私が尋ねる。「目」美央は指で目元を示した。「前は何を見るときも俯いてた。でも今は、ちゃんと顔を上げてる」私は一瞬、呆気に取られた。それから笑った。彼女の言う通りだった。……一方、徹也は公証役場を訪れていた。窓口に所有権契約書の再発行に必要な書類を提出すると、職員が内容を確認し、判を押した。徹也は新しい契約書を手に、建物の前に立っていた。茶封筒を手に持つ。それほど重くない。ふと、以前私に言った言葉を思い出す。「俺のところに送って。手続きは俺がやってあげるから」あのときは、本当に私の力になりたいと思っていた。けれど、結局できなかった。徹也は新しい契約書を封筒にしまった。そしてオフィスへ戻り、自分の席に座る。スマホを開き、私とのチャット履歴を表示した。最後に残っているのは、あの一言だ。【もういい】彼は、その短い文をしばらく見つめた。それから、静かにトーク画面を閉じた。……翌日、私は一通の荷物を受け取った。茶色い封筒だ。右下には公証役場の名前が印刷されている。差出人の欄には、徹也の名前があった。開封するとき、指は震えなかった。中に入っていたのは、再発行された所有権契約書だった。真新しい紙だ。公印も、はっきりと押されている。最後のページの署名欄には、徹也がすでに署名していた。彼が署名したのは、「立会人」の欄だった。字は端正で、一画一画、丁寧に書かれている。以前の彼は、もっと字が雑だった。だからきっと、これは真剣に書いたのだろう。私は契約書
会社のビルを出たときには、もう10時近くになっていた。夜風がひんやりと吹いている。私はアパートへ向かって歩いた。歩いて15分ほどの距離だった。何歩か進んだところで、ふと気づいた。私はもう、ほぼ1ヶ月も徹也のことを思い出していない。最後に思い出したのは、いつだっただろう。たしか、スーパーで布団を買った日だった。徹也の家にあったものと同じようなシーツを見つけて、売り場で数秒立ち止まった。それから、別の商品を手に取った。それ以来、一度も思い出していない。意識して考えないようにしていたわけじゃない。本当に、思い出さなくなったのだ。正社員になってから、私は引っ越した。新しい部屋は以前のワンルームより少し広く、小さなベランダもついている。私はスマートロックを一つ買って、自分で取り付けた。取り付け業者が電話で「訪問して取り付けましょうか」と言ってくれたけれど、「大丈夫です。自分でやってみたいので」と断った。古い鍵を取り外し、新しいロックの台座を取り付けた。ネジを締めるときは、力いっぱい回した。取り付けを終え、私はドアの外に立った。そして、指を認証部分に置く。「指紋の登録が完了しました」私は、その音声を何度も聞いた。澄んだ、機械的で、感情のない女性の声だ。あの夜に聞いた、「この指紋は登録されていません」という音声とは、まるで違った。あの夜、私は徹也の家の前に立っていた。廊下の窓から冷たい風が吹き込んできた。何度指を当てても、返ってくるのは、あの冷たい音声だけだった。けれど今、私は自分の家の前に立っている。この鍵は、私を知っている。翌日、会社で一つの荷物を受け取った。差出人の住所は、徹也の家だった。手に持って重さを確かめる。軽い。小さな箱だった。開けると、中に入っていたのは、一本の鍵だ。そこには小さなプレートが付いていた。表には、こう書かれていた。【この家のドアロックには、お前の指紋しか登録していない。ほかの誰も登録されていない。いつでも戻ってきていい】裏返すと、もう一行あった。【ごめん。本当にごめん】何度も書き直したのだろう。乱れた字だった。私は、その鍵を使うつもりはない。でも、捨てもしなかった。思い出の
入社2週目の金曜日、仕事を終えて帰ろうとした私は、会社のエントランスで徹也を見かけた。彼はガラス扉のそばに立っていて、濃いグレーのコートを着ていた。隣を歩いていた美央が私の視線を追い、声を落として尋ねる。「知り合い?」「うん。友達。先に帰っていいよ」美央はそれ以上何も聞かず、軽く頷いて先に帰っていった。私は徹也の前まで歩いていった。驚きも、怒りもなかった。ただ、静かに尋ねた。「どうして来たの?」「直接、お前に謝りたくて」彼の声は少し掠れていた。「何について謝るの?」彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。「言えないの?」私は彼を見つめた。「それとも……『ごめん』の一言で済むと思ってる?」彼はしばらく黙ったあと、口を開いた。「パソコンに残ってた注文履歴、見たんだろ?」その声は、ひどく苦しげだった。「温泉ホテルのあの夜……晴美が部屋で一杯飲もうって言って、それで俺は……」彼は一度言葉を切った。「一時の気の迷いだった」私は彼を見つめた。「一時の気の迷い?食事の席で、晴美が齧った蟹をそのまま食べたのも、一時の気の迷い?車の中で晴美を助手席に座らせて、ナッツまで食べさせてもらってたのも?晴美が襟を直してくれたとき、避けなかったのも、全部、気の迷い?」彼は口を開いた。けれど、何も言えなかった。「あなたが晴美に優しくしてることなんて、みんな分かってる」「違う……」徹也はその場に立ち尽くしていた。顔はひどく青ざめている。「説明しなくていいよ」私は言った。「あなたが晴美にどれだけ優しいかなんて、もう十分すぎるほど分かったから。二人でずっと一緒にいればいいよ」そう言って、私は彼の横を通り過ぎ、エントランスへ向かった。「寧々」後ろから、彼が私を呼ぶ。私は立ち止まらなかった。外へ出ると、夜風が正面から吹きつけてきた。私はコートをしっかりと合わせ、そのまま角にあるコンビニへ入った。冷蔵ケースにはミネラルウォーターがきれいに並んでいる。私は一本手に取った。その頃になっても、徹也はまだその場に立っていた。彼は、私の背中が角の向こうへ消えていくのを見つめていた。彼はN市で一晩過ごした。翌朝、ホテルをチェックア
月曜日の朝、私は新しい会社へ初出勤した。人事の担当者が社内を一通り案内してくれた。「トイレはここで、給湯室はこっち。消火器はあそこです」最後に案内されたのは、空いているデスクだった。隣には、ショートヘアの女の子が座っている。「やっほー、新入り!私、周防美央(すおう みお)っていうの」「神谷寧々です」「寧々、よろしくね。お昼、一緒に食べようよ。社内のこと教えてあげる」私は席に座り、自分のマグカップを机の隅に置いた。IT担当がシステムを設定してくれるのを待ちながら、パソコンを立ち上げる。美央はすでにイヤホンをつけて仕事に戻っていた。鼻歌を口ずさんでいる。誰もわざわざ私を見に来ることはなかった。だからといって、誰かに冷たくされることもない。近すぎず、遠すぎない。ちょうどいい距離感だった。昼休みになると、美央は本当に私を誘いに来た。私たちはトレーを持って社員食堂へ向かった。それほど遠くない道のりだったけれど、彼女はその間ずっといろんなことを話してくれた。どの店の料理がおいしいとか。階下のカフェではラテが2杯目半額になるとか。金曜日の午後は私服で来てもいいとか。どれも気負いのない話だった。私が無理に話を続ける必要もない。ただ聞いているだけでよかった。その瞬間、私は少しだけぼんやりした。以前いた街では、友達を作るのはこんな感じじゃなかった。徹也のいる輪に入ってから、私はずっと「馴染む」ために時間を使ってきた。誠人がどんな酒を飲むのか――アサヒだ。木村がどの会社にいるのか――不動産会社で企画をしている。グループの中で誰と誰が揉めているのか――たしか、以前割り勘にした食事代の計算が合わなかったのが原因だ。私は全部スマホにメモしていた。会う前には、一度復習していた。余計なことを言わないように。会話が途切れないように。徹也の友人たちに「付き合いにくい女」だと思われないように。でも結局、私はいつまで経っても、「徹也の彼女」だった。ただの付属品だった。それなのに今の私は、美央とただの同僚だ。彼女は私の過去を知らない。私も、彼女の前で何かを証明する必要はない。私はただ、私自身でいればいい。「今度、一緒にライブに行こうよ」美