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第3話

Author: 春を贈る
花梨は梓の前で足を止めた。無垢そうな瞳に、どこか意味ありげな光が浮かんだ。

「わざとですか?」

梓は意味が分からず眉をひそめた。

「社長が私の主人だって知ってるのに、わざわざペアの服を着てくるなんて」

花梨は軽蔑のこもった目で梓を見下ろし、吐き捨てるように言った。

「やり手の女性だって評判なのに、こんな下品な手で男を奪おうとするなんて。気持ち悪いですよ」

梓は冷ややかに花梨を見つめていたが、ふいに口の端を上げて笑った。

「何がおかしいんですか」

花梨は身構えて一歩あとずさる。

「あなたが哀れだからよ」

梓はため息をついた。

「社長に自分から擦り寄る女なんていくらでもいるのに、どうしてあなたはそっちのけで、よりによって私に絡んでくるのかしら。

それはね、あなたが一番よく分かっているからでしょう」

梓は冷笑を浮かべた。

「はっ。私が社長にとって、大切な存在だって?」

梓はここでようやく気づいた。あのコーヒーは、花梨がぶつかってきたせいでこぼれたのだ。花梨は最初から、あの証明書を自分に見せつけるつもりだったに違いない。

花梨の顔色がわずかに変わった。

「何を言ってるのか分かりません」

「分からない?」

梓は片眉を上げ、手にした赤ワインを花梨めがけてバシャッと浴びせた。

「なら試してみましょうか。社長にとって本当に大切なのはどちらなのか」

赤い液体が花梨の額を伝って滴り落ちた。

花梨は信じられないというように目を見開き、梓の鼻先を指さした。

「あなた……!」

だが言い終わるより先に乾いた音が響いた。梓が花梨の指を払いのけ、思い切り平手打ちを食らわせたのだ。

「人に指をさされるのがいちばん嫌いなの」

梓は顔を上げ、駆けつけてきた奏多に目をやった。

大股でやって来る彼の目には焦りの色がありありと浮かんでいる。

近づいてくる彼に、花梨は目を赤くし、ひどく傷ついたように訴えた。「奏多、私……」

ところが次の瞬間、奏多が取り出したのはハンカチだった。彼はそれで、花梨を平手打ちした際に梓の指についた赤ワインを拭い取った。

梓は一言も発さず、そのまま背を向けて歩き出す。

奏多も慌ててあとを追い、花梨のほうを振り返りもしなかった。

花梨は床にへたり込んだまま、信じられないという目でただ呆然としていた。

休憩室。

奏多は片膝をついて梓の手を包み込み、痛ましそうに目を細めた。

「あの子が何をしたか知らないけど、そんなの誰かに任せればいいだろ。わざわざ自分で手を出すことないよ。ほら、手のひらまで赤くなってる」

梓は奏多のつむじを見下ろし、ふっと鼻で笑った。

「社長は女性を連れてこない主義だったのに、今日はどうしたの?急に人が変わったみたい」

奏多はほっと大きく息を吐き、張りつめていた体から一気に力が抜けた。

「……もしかして、妬いてるのか?」

奏多は梓の手の甲に軽く口づけた。

「なんだ、そんなことか。同伴者なんて何の意味もないよ。ちょっと社会勉強させてやろうと思って連れてきただけだ。

だって愛しの奥さんが俺に堂々と隣を歩かせてくれないだろ。仕方なく、ほかの女で代わりを立てたんだ。みんなが同伴者を連れてるのに俺だけ一人じゃ格好がつかないしな」

奏多は梓を抱きしめた。

「嫌なら、もう二度と連れていかない」

梓の視線が半開きになった扉へ向かう。

そこには花梨が立ちすくんでいた。梓を引き裂きたいほどの恨みと嫉妬に燃える目を向けながら、扉を押し開けることも物音を立てることもできずにいる。

梓は眉を上げて微笑み、口の動きだけで告げた。「あなた、そこまで大事じゃないみたいよ」

その夜のパーティーで、その後、奏多が花梨を連れて歩くことは一度もなかった。

花梨の姿をふたたび目にしたのは、酒を飲んだ奏多から電話で「車で家まで送ってくれ」と頼まれたときだった。

梓もかなり飲んでいたため、割れるような頭痛をこらえながら後部座席に身を沈めていた。

奏多が気遣うように梓のこめかみを揉んでくれていたそのとき、車の外から耳をつんざくブレーキ音が響いた。

顔を向けた瞬間、花梨の体が糸の切れた凧のように撥ね飛ばされて宙を舞った。

奏多の顔色が一変した。彼は車から飛び出し、花梨を抱き上げる。

「早く救急車を呼べ!」

梓は一気に酔いが醒めた。自分も降りて様子を見ようとしたが、ドアはロックされていて開かない。

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