INICIAR SESIÓN有光梓(ありみつ あずさ)はうっかりコーヒーをこぼし、インターンの中津花梨(なかつ かりん)の結婚届受理証明書を汚してしまった。 梓が拭き取ろうと証明書を広げたとたん、花梨の顔がぽっと赤く染まった。 彼女は慌てて小さな菓子折りを梓の手に押しつけた。 「副社長、このことは誰にも言わないでくださいね。 主人はちょっと立場のある人で、今はまだ周りに知られると困るんです。 でも大丈夫。私が正式に社長夫人として紹介されたら、副社長の昇進もお給料のことも、ちゃんと口添えしますから」 梓は、開いた結婚届受理証明書に記された男の名前をじっと見つめた。 【小田切奏多(おだぎり かなた)】。 たしかに、ちょっとどころではない立場の人だ。 自分の直属の上司であるだけでなく、5年ものあいだ周囲に隠し通してきた自身の夫なのだから。
Ver más午前1時。奏多は手についた血をすっかり洗い流し、新しいスーツに着替え、手ぐしで髪を整え、ホテルのスイートルームをあとにした。最短の時間で梓のアパートへ車を走らせる。伝えたいことが山ほどあり、はやる気持ちを抑えられなかった。ところが、車を建物の前に停めて降りようとしたとき、少し離れたところから怜司と腕を組んだ梓が歩いてくるのが見えた。デートの帰りなのか、梓の腕にはバラの花束が抱えられている。ドアを開けようとした奏多の手が止まった。無意識にハンドルを握りしめる。手の甲に青筋が浮くほどの力だった。血走った目で梓のほうをじっと見つめる。瞬きもできなかった。二人はやがてアパートの前で足を止めた。怜司が何か言ったらしく、梓は呆れたように彼に目を向けた。奏多は、もう待てないと思った。これ以上待てば二度と間に合わなくなるかもしれない。彼が勢いよくドアを押し開けたそのとき、梓がふいにつま先立ちになり、怜司の口の端にそっと口づけた。雷に打たれたと言っても大げさではなかった。奏多の頭の中が真っ白になった。動けずにいる彼の目の前で怜司が梓を抱き寄せ、軽い口づけを、幾度も重なる深いキスへと変えた。そして梓が怜司の背に腕を回してしがみついた、そのとき。夜空にドンッと大きな音が轟き、無数の花火が打ち上がった。あまりに華やかであまりに美しく、二人の今の幸せを祝福しているかのようだった。色とりどりの光が奏多の青ざめた顔を照らし出す。彼には分かっていた。この花火は夜通し打ち上がり続ける。なぜなら、それは彼が梓に贈るはずだったものだから。まさかそれが、梓が新しい幸せを見つけたことへの祝砲になるなんて。全身の力がすべて抜け落ちた。奏多はよろめきながら数歩あとずさり、冷たい車のドアに背中を預けた。満天の光のなかで二人は長いキスを終えた。梓はそこで初めて彼に気づいたように、眉をひそめてこちらを見た。幸せに満ちていたその顔に、たちまち嫌悪の色が浮かぶ。奏多ははっと気づいた。自分はとっくに梓にとって迷惑な存在になっていたのだ。彼女の幸せはもう自分に与えられるものではなくなっていた。奏多はぎこちなくその場に立ち尽くした。言いたいことが喉につかえて、どう口にすればいいのかさえ分からない。そして、逃げることを選んだ。梓が
ホテルのスイートルーム。カーテンはすべて閉め切られ、部屋の中は墨を流したような真っ暗闇だった。花梨は両手両足を縛られ、口を塞がれたまま必死にもがいていた。カチリと音がして、薄暗い橙色の明かりが部屋に灯る。奏多は身をかがめ、花梨の口に詰めた布を引き抜いた。「言え。どうやって逃げ出した?」花梨は大きく息を吸い込んだ。「私、私……っ」奏多の目は冷え切っていた。「俺の一線を越えておいて、自分じゃ背負いきれない報いを受けるとは思わなかったのか?」花梨の目がみるみる潤んでいく。「だって、悔しかったの。奏多は私のこと好きだったはずなのに、どうして日の光も差さない、あんな真っ暗な地下室に閉じ込めるようなことができるの?私はあなたの妻なのに、どうしてこんな扱いをするの?」そう言いながら、花梨の目には次第に悪意が滲んだ。「あの有光梓って女、人をたらし込むのがうまいのよ。だから、騙されないで。お願い!」奏多は鼻で笑い、こらえきれずに低く笑った。「梓が、人をたらし込むって?人をたらし込んで惑わせてるのはお前のほうだ!お前に騙されさえしなければ、俺と梓がこんな結末を迎えることはなかったのに……」話しながら、奏多の目に少しずつ狂気の色が広がっていった。発散しようのなかった悔恨と苦痛と絶望が、この瞬間ようやく出口を見つけたかのようだった。彼はぼんやりと低い声でつぶやいた。「そうだ。すべてお前のせいだ。お前が梓を陥れなければ。お前が俺たちの仲を引き裂かなければ。お前さえいなければ……お前さえいなければ、梓が俺のもとを離れることなんてなかった!失うこともなかった!全部、全部お前のせいだ!」奏多の目にはもう狂気しか残っていなかった。憤怒のこもった視線で花梨を睨みつけ、血走った目ですっかり理性を失っていた。ボキリ、と鈍い音がした。奏多は花梨の片腕を力ずくでへし折った。花梨は悲鳴を上げ、痛みで顔じゅうに脂汗を浮かべた。顔を上げた彼女に奏多は言った。「飛び降りるのが好きなんだろう?骨を折るのが好きなんだろう?なら、もう一度全部味わわせてやる!」そう言うと、奏多は花梨のもう一方の腕を持ち上げた。ふたたびボキリと小さな音がして、花梨の両腕は力なく垂れ下がった。見るからに恐ろしい光景だった。激痛のあ
奏多は大通りで梓の前に立ちふさがり、バラの花束を差し出した。梓は相手にしなかった。見向きもせず、そのまま彼の横をすり抜けていく。梓の同僚が尋ねる声が、奏多の耳に届いた。「有光副社長、あの人ってアプローチしている人ですか?かっこいい人ですね。イケメンが二人もそばにいるなんて、うらやましいです」「うらやましがるようなことじゃないわ」梓は淡々と言った。「あの人はアプローチしているんじゃなくて、不倫した元夫なの」同僚はぴたりと黙り込み、複雑な表情を浮かべた。ふたたびこちらに向けた目には嫌悪の色が加わっている。「そうなんですね……不倫する男なんて最低です。見てるだけで吐き気がします」奏多は恥辱に顔が熱くなり、思わず視線をそらした。好奇の目にさらされ、後ろ指をさされる屈辱にこの上なく惨めな思いがした。けれどどれだけ恥をかこうと耐えるしかなかった。恥をかくことより、梓を失うことのほうがはるかに耐えがたい。それからも奏多は梓を追い続けた。毎日新しいバラを一束買って梓に贈り、毎朝自分で淹れたコーヒーとサンドイッチを彼女のアパートのドアノブに提げた。毎晩黙ってあとをつけて家まで見送り、部屋の明かりが消えるまで見届けた。そうして丸1か月続けた。その間、梓と怜司の距離が、どんどん縮まっていくのをただ見ているしかなかった。ある日も梓は怜司に笑いかけたかと思うと、呆れたようにジト目を向け、その肩を拳で思いきり叩いた。奏多の胸がぎくりと震えた。梓は体裁を重んじる礼儀正しい人だ。よほど心を許した、極めて親しい相手でなければ、あんなふうに遠慮なく呆れた顔を見せたりはしない。かつては、そうやって甘えたり、遠慮なくジト目を向けたりできる相手は、自分ただ一人だった。それが今では、もう一人がいるなんて……奏多は、もう待ってはいられないと悟った。悩みに悩んだ末に盛大な花火を予約し、車のトランクを告白の舞台のように飾りつけ、最後の勝負に出ることにした。ところが梓の会社のビルの下に車を停めると、エントランス付近が騒然としていた。奏多はバラの花束を抱えて急いで人垣をかき分けた。国内にいるはずの花梨が、なぜかメガホンを手に大声でわめき散らしていた。「この会社の有光梓は、恥知らずの泥棒猫です!最低の女です!何度も何度
怜司は梓を家まで送りながら、たまらず尋ねた。「僕があいつのこと、何とかしようか?」「はぁ……大丈夫です」梓はため息をついた。「放っておいて。そのうちいなくなりますから」けれどそう言った梓自身、本当はそんなこと信じていなかった。昔、奏多が自分を熱烈に口説いていたころ、彼はしつこく食い下がり、何があっても諦めようとしなかった。今回も同じことになるのではないか。梓はそれが怖かった。梓は深く息を吸って思い直した。いいえ、そうとも限らない。今回は違う。今回はもう二度とあの人とやり直さないと、はっきり心に決めているのだから。怜司に送られてアパートの前まで来ると、梓は別れを告げ階段を上がろうとした。そのとき背後から突然大きな物音がした。振り返ると、奏多が地面に倒れ込み、そのまま意識を失っていた。怜司の顔色がわずかに変わる。「背中の火傷のせいかもしれない。ちょっと見てくる――」けれど怜司が最初の一歩を踏み出すより先に、梓が彼の手をつかんだ。「放っておいて」こんな手口を、奏多はこれまで何度も使ってきた。要するに、梓の同情を引こうとしているだけなのだ。昔、彼に熱烈に口説かれていたころは確かにそうだった。でもそれはもう過去のことだ。梓はためらいもなく階段を上がった。「先に帰って。早めに休んでね」梓の姿はすぐに夜の闇に吸い込まれていった。地面に倒れていた奏多は、ゆっくり目を開けた。梓が消えていったほうを呆然と見つめる。胸に大きな恐怖がこみ上げた。彼女は本当にそのまま行ってしまったのか。自分のことなど少しも気にかけずに。奏多はずっと、自分さえ体面を捨てて優しくなだめれば梓は必ず許してくれると思っていた。けれど今になってようやく気づいた。今回はそう簡単にはいかないらしい。自分は本当に梓を失いかけているのかもしれない。ほとんど感覚を失っていた背中から、ずきずきとした痛みが波のように広がってくる。奏多は両手を強く握りしめ、苦しげに目を閉じて耐えきれないようにうめいた。やがて目の前の景色がぐるりと回り、彼は完全に意識を失った。次に目を覚ますと、奏多は病院にいた。背中の手当てはすでに終わっている。心にふいに強い歓喜が湧き上がった。彼は手の甲の点滴針を引き抜いた。血が飛び散るのも構
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