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隠し妻をやめた朝、私は異国の空で咲き直す

隠し妻をやめた朝、私は異国の空で咲き直す

Por:  春を贈るCompletado
Idioma: Japanese
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有光梓(ありみつ あずさ)はうっかりコーヒーをこぼし、インターンの中津花梨(なかつ かりん)の結婚届受理証明書を汚してしまった。 梓が拭き取ろうと証明書を広げたとたん、花梨の顔がぽっと赤く染まった。 彼女は慌てて小さな菓子折りを梓の手に押しつけた。 「副社長、このことは誰にも言わないでくださいね。 主人はちょっと立場のある人で、今はまだ周りに知られると困るんです。 でも大丈夫。私が正式に社長夫人として紹介されたら、副社長の昇進もお給料のことも、ちゃんと口添えしますから」 梓は、開いた結婚届受理証明書に記された男の名前をじっと見つめた。 【小田切奏多(おだぎり かなた)】。 たしかに、ちょっとどころではない立場の人だ。 自分の直属の上司であるだけでなく、5年ものあいだ周囲に隠し通してきた自身の夫なのだから。

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松坂 美枝
松坂 美枝
勝手に離婚されて愛人と夫が堂々と籍を入れて結婚式してたらじゃあ出て行きますってなるよね 婚姻を舐めすぎ それで焦って色々されてもね… 愛人もとい後妻あんだけザクザク刺されて生きてんのビックリ
2026-10-22 09:57:20
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18 Capítulos
第1話
まるで雷に打たれたかのような衝撃が走り、耳の奥でガンガンと耳鳴りが響いた。命懸けで自分を愛してくれた奏多が、別の女との結婚式の招待状に顔を並べているなんて。どうしても信じられなかった。梓と奏多も、社内恋愛の末に結ばれた仲だ。当時の梓はまだ奏多のアシスタントだった。出張に同行した先で土石流に巻き込まれ、奏多は泥と瓦礫の下に埋もれてしまった。運よく難を逃れた梓の目の前には、いつまた崩れてもおかしくない山肌が迫っていた。見捨てて逃げることだってできたはずだった。それでも梓は残った。夜通し素手で土を掘り続け、両手の指が血まみれになるまで掘り続け、ようやく奏多を助け出したのだ。梓が入院し、何日も意識が戻らなかったあいだ、奏多は何度も神社へ足を運んだ。長い石段を、一段上るごとに膝をついて祈りながら上った。その後も、梓に振り向いてもらうために、できることは何でもした。梓が好きなものなら、空の星でも取ってきてくれそうなほどだった。梓が少し眉をひそめただけで、1000億円規模のプロジェクトさえ放り出し、その夜のうちに帰国して「どうした?何か嫌なことでもあったのか」と駆けつけてくるような人だった。その一途さに心を動かされ、梓はとうとうプロポーズを受け入れたのだ。ただ、昇進が社長のコネだと思われたくなくて、結婚を伏せておきたいと言い出したのは梓のほうだった。あのとき、奏多はひどく寂しそうな顔をしていた。「俺じゃ、梓の夫を名乗る資格もないってことか。隣を歩くことも許されないのか!」なのに今では、その秘密の結婚が、彼が裏切るための好都合な盾になっている。梓は結婚届受理証明書をきつく握りしめたまま離さなかった。花梨が何度か引っ張っても、びくともしない。たまらず花梨が口を開いた。「あれ、どうかされましたか?顔色がすごく悪いですよ」梓は動揺を抑えきれず、まっすぐに花梨と視線を合わせた。「この受理証明書、偽物みたいだけど」「ふふ、そんなわけないじゃないですか」花梨は思わず笑い、幸せそうに目を細めた。「昨日、発行してもらったばかりですよ。婚姻届を出したあと、役所の前で記念に写真も動画も撮ったんですから」そう言うと、花梨はスマホを取り出し、その時の動画を梓の目の前に差し出した。動画に映る黒いスーツ姿の見慣
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第2話
梓の姿を見た瞬間、奏多の目に動揺がよぎった。「……梓?いつ帰ってきたんだ?」梓は深く息を吸い、胸の底の悲しみと怒りを押さえつける。「たった今よ」奏多は小さく安堵の息を吐き、長い腕を伸ばして梓を抱き寄せようとした。「君を驚かせようと思ってたのに、先に見つかっちゃったな」梓は無意識に奏多の腕を避けていた。部屋いっぱいのサプライズを前にして、梓の胸に喜びなど少しもなく、あるのは冷ややかな感情だけだった。愛おしそうに見つめてくる奏多の視線に、微かな吐き気さえ覚えた。「気に入らなかったか?」宙をつかんだ手を下ろし、奏多は眉をひそめた。胸にかすかな違和感が広がった。「全部、梓の好きな栄市のスイーツなんだぞ」梓は振り返りもせず、2階への階段を上りながら答えた。「そうじゃないの。ちょっと疲れただけ。休みたいわ」奏多はすぐに追いかけようとした。だが突然鳴り出した携帯の着信音が、彼の足を止めた。奏多が着信を切ると、今度は友人の携帯が鳴り出す。「奏多、あいつが怪我をしたらしい」蚊の鳴くような小さな声だったのに、梓の耳にははっきり届いていた。あいつ。そう、花梨は奏多の友人の連絡先まで手に入れていたのだ。奏多に連絡がつかなければ、その友人に。まったく、すっかり正妻気取りね。梓は冷ややかな笑みを浮かべた。奏多は「会社で急ぎの用ができた。ちょっと片づけてくる」とだけ言い残し、慌ただしく出ていった。奏多は一晩、帰ってこなかった。その夜、梓がしたことは三つだけ。一つ目。家にある自分の私物を整理して、捨てるべきものは捨てた。二つ目。退職願を書き、人事部にメールで提出して手続きを進めてもらった。退職の知らせを受けた同僚は、驚きを隠せない声で言った。「副社長、今まさにキャリアの絶頂じゃないですか。いま抱えているあの重要案件をまとめれば昇進が決まるのに、このタイミングで辞めるなんて。ヘッドハンティングですか?」「まあ、そういうことで」梓は淡々と答えた。電話の向こうで相手が小さくため息をつく。「はぁ……分かりました。ただ正式な退職は1か月後になります。その間に、抱えている業務をすべて引き継いでいただかないと」電話を切ると、梓は三つ目に取りかかった。旧友にメッセージを送る。【前に話してた入社の
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第3話
花梨は梓の前で足を止めた。無垢そうな瞳に、どこか意味ありげな光が浮かんだ。「わざとですか?」梓は意味が分からず眉をひそめた。「社長が私の主人だって知ってるのに、わざわざペアの服を着てくるなんて」花梨は軽蔑のこもった目で梓を見下ろし、吐き捨てるように言った。「やり手の女性だって評判なのに、こんな下品な手で男を奪おうとするなんて。気持ち悪いですよ」梓は冷ややかに花梨を見つめていたが、ふいに口の端を上げて笑った。「何がおかしいんですか」花梨は身構えて一歩あとずさる。「あなたが哀れだからよ」梓はため息をついた。「社長に自分から擦り寄る女なんていくらでもいるのに、どうしてあなたはそっちのけで、よりによって私に絡んでくるのかしら。それはね、あなたが一番よく分かっているからでしょう」梓は冷笑を浮かべた。「はっ。私が社長にとって、大切な存在だって?」梓はここでようやく気づいた。あのコーヒーは、花梨がぶつかってきたせいでこぼれたのだ。花梨は最初から、あの証明書を自分に見せつけるつもりだったに違いない。花梨の顔色がわずかに変わった。「何を言ってるのか分かりません」「分からない?」梓は片眉を上げ、手にした赤ワインを花梨めがけてバシャッと浴びせた。「なら試してみましょうか。社長にとって本当に大切なのはどちらなのか」赤い液体が花梨の額を伝って滴り落ちた。花梨は信じられないというように目を見開き、梓の鼻先を指さした。「あなた……!」だが言い終わるより先に乾いた音が響いた。梓が花梨の指を払いのけ、思い切り平手打ちを食らわせたのだ。「人に指をさされるのがいちばん嫌いなの」梓は顔を上げ、駆けつけてきた奏多に目をやった。大股でやって来る彼の目には焦りの色がありありと浮かんでいる。近づいてくる彼に、花梨は目を赤くし、ひどく傷ついたように訴えた。「奏多、私……」ところが次の瞬間、奏多が取り出したのはハンカチだった。彼はそれで、花梨を平手打ちした際に梓の指についた赤ワインを拭い取った。梓は一言も発さず、そのまま背を向けて歩き出す。奏多も慌ててあとを追い、花梨のほうを振り返りもしなかった。花梨は床にへたり込んだまま、信じられないという目でただ呆然としていた。休憩室。奏多は片膝
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第4話
この車は奏多が手に入れたばかりの新車で、梓はまだ自分の携帯をアプリに連携させていなかった。そのため、奏多が花梨を抱きかかえて慌てて走り去るのを見送るほかなかった。梓は冷たい窓ガラスを力なく叩き続けたが、誰も助けに来てはくれない。夜は更け、凍てつくような真冬の寒さだった。車内は暖房も切られており、薄いドレス姿の梓は全身をがたがたと震わせていた。1時間後、梓はようやく奏多に電話がつながった。「奏多、私、あなたの車に閉じ込められて……」言い終わらないうちに、花梨の声が横から割り込んでくる。「副社長、奏多は今、副社長に構っている余裕はないと思いますよ」続いて、奏多の声が遠ざかったり近づいたりしながら耳に入ってきた。「誰かから電話か?」「あっ、明日の会議の件よ」花梨が慌てて答える。奏多は苛立たしげに言った。「会議はひとまず中止だ。今は体を治すことだけ考えろ。何が食べたい?買ってくるから、な?」花梨がわざとらしく甘えた声を出す。「駅の南口にあるお店のお弁当が食べたいな。いい?」「もちろんだ」奏多の声が、さらにスマホのマイクに近づいた。ガサガサと衣擦れのような音がしたあと、梓の耳に奏多のかすれた低い声が届いた。欲を含んだような、ひどく甘い声だった。「食べたいのは、それだけか?」花梨が甘ったるい声を出す。「当たり前でしょ。今の私は怪我人なんだから、変なこと考えちゃダメだからね」体の芯の冷えが、手足のすみずみにまで広がっていくようだった。梓はもうこれ以上聞いていられず、震える手で通話を切った。吐く息まで氷の欠片になって喉に詰まったようだった。体温がじわじわと奪われていく。梓は体を丸めながら、ふと、奏多と結婚した最初の年のことを思い出した。その年、街には珍しく大雪が降った。寒がりな梓のために、奏多は自宅をまるごと改装し、大金を投じて全館の温度管理システムを整えてくれた。おかげで家の中は、一年中春のような暖かさだった。あのとき彼は、梓の冷えきった両足を自分のお腹に当てて温めながら、慈しむような目で言ったのだ。「俺がいる限り、もう二度と寒い思いはさせない」それなのに今、梓は極限の苦しみと寒さの中で、冷たい闇へと意識を手放した。目を開けると、そこは暖かい室内だった。それでも梓の体は冷えきったま
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第5話
奏多の顔色が一変した。信じられないという目で梓を見る。「私じゃないわ」梓はすぐに否定した。奏多は険しい顔で眉をひそめた。「じゃあ、梓に罪を着せるために、あいつがわざと3階から飛び降りたって言うのか?」奏多は目を閉じ、深く息を吸った。「梓、彼女が命を懸けてまでそんなことをしたって言うのか。昨夜、俺が中津を同伴者にしたことを、梓が恨んでるのは分かってる。でも……」失望のこもった視線を梓に向け、奏多は一語一語区切るように言った。「何があっても、人の命を弄んじゃいけない」言い終えると、奏多は迷いなく背を向けて出ていった。梓はその場に立ち尽くしたまま、奏多が我を忘れたように階下へ駆け下りていくのを見ていた。彼の目は、心配と焦りでいっぱいだった。視線を落とすと、腕にはたった今花梨がつけた3本の引っかき傷が残っている。奏多は気づいてすらいない。かつては、血も出ない程度の小さな擦り傷ひとつで、奏多は額に汗をにじませて慌て、自分が痛がるのではと気をもんでいたというのに。その後の数日間、奏多は家に帰ってこなかった。梓は同僚たちの噂話から、奏多がずっと病院で花梨の看病をしていると知った。「社長の慌てぶり、あの二人、本当に何かあるんじゃない?」「絶対あるって。社長は今まで女っ気なんて全然なかったのに、今は中津さんにつきっきりなんだよ。何もないなんてありえないでしょ」「みんな知らないでしょ。昨日社長にサインをもらいに行ったら、中津さんにりんごを剥くのに夢中でさ。書類なんてろくに見もしないで、全部にサインしてくれたんだから」同僚はそう言いながら、退職願を梓に差し出した。「有光副社長、退職願、社長の承認が下りましたよ」書類に並ぶ見慣れた名前を眺め、梓は胸につかえていたものをすべて吐き出すように深く息をついた。重かった体がふっと軽くなる。もうすぐ奏多から離れて、新しい生活を始められる。翌日、梓が担当していた例の重要案件が、ついに正式な契約にこぎつけた。これは梓が小田切グループで手がける最後の案件であり、ここ数年で最大規模の契約でもあった。経営陣は祝賀パーティーを開くことに決めた。パーティーの席で、梓は久しぶりに奏多と顔を合わせた。体にフィットしたオーダーメイドのスーツ姿。深い色の瞳でグラスの赤ワ
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第6話
梓はどきりとしたが、けっして顔には出さなかった。「辞めようかと考えているだけよ」同僚がまだ何か言いたそうにしている。梓は急いで耳打ちで仕事の指示をいくつか伝え、先にその場を離れさせてから、奏多に素っ気なく言った。「好きにすればいいわ。どうせ本部長のポストなんて、今の私にはそこまで大事じゃないもの」冷ややかな梓の表情を見て、奏多の胸にざわつきが生まれた。まるで、梓が自分の手からすり抜けてしまいそうな感覚に襲われた。でもそんなはずはない。梓は何も知らないのだから、自分から離れていくわけがない。奏多は一歩前に出て、さらに問いただそうとした。そのとき、壇上から花梨のおびえた悲鳴が響いた。「プレゼントを当てるゲームじゃなかったんですか?中で何かが動いてて……なんかプレゼントって感じしないんですけど」花梨の前には、余興用のボックスが三つ並べられていた。どれも中身が見えないよう布で覆われ、正面には手を入れるための穴が開いている。何が入っているのかは、触ってみるまでまったく分からなかった。梓は眉をひそめ、部下に様子を見に行かせようと体をひねった。その手首を、奏多が力強くつかんだ。「君がやったのか」「どういう意味?」「プレゼントを用意したのは君の部署だろう」奏多の目が暗く沈む。「さっき指示を出してた男の同僚は、プレゼントをすり替えに行かせたのか」梓は深く息を吸った。顔から血の気が引いた。「誤解よ。私は……」言い終わらないうちに、花梨がまた悲鳴を上げた。「や、やだ、本当に怖い、この中、本当に何か生き物がいる!」同僚たちが口々に言う。「中津さん、考えすぎじゃない?ありえないって」「そうだよ、プレゼントは俺たちの部署で直接入れたんだ。生き物なんているわけないだろ」花梨は唇をきゅっと結び、視線を梓に向けて挑むように言った。「そこまで言い切れるなら、副社長、ここに上がって、ご自分で触ってみていただけますか」梓はためらいもせず壇に上がった。だが梓が箱に手を差し入れた、その瞬間だった。中から低い羽音が響き、ほどなく1匹の大きな蜂が穴から飛び出した。花梨は悲鳴を上げ、反射的に箱を払いのける。蓋が外れた瞬間、中から何匹ものスズメバチが一斉に飛び出した。会場はたちまち騒然となった。
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第7話
会議が中盤に差しかかったころ、轟音を立てて窓の外を飛行機が飛んでいった。奏多はふと気を取られ、遠くの空を見やった。嫌な予感が胸をかすめる。無意識にスマホを取り出し、梓とのトーク画面を開いた。新着メッセージはない。二人のやり取りは、彼が送った「どこにいる?」で止まったままだった。奏多は眉を寄せ、もう一度文字を打つ。【会議がまだ終わらない。あと30分だけ待っててくれ】送信ボタンを押そうとしたとき、すぐ横で小さな悲鳴が上がり、熱いコーヒーが奏多の腕にこぼれた。「申し訳ありません、社長!」花梨はすぐにティッシュを何枚も引き抜き、奏多の腕にかかったコーヒーを拭き取った。焼けつくような痛みに眉をひそめた奏多が、おろおろしている花梨と目が合った途端、ふいに苛立ちが込み上げた。「どうしてコーヒーなんか注いでいるんだ」プロジェクト本部長のポストを与えたばかりだというのに、彼女は相変わらずへりくだってコーヒーを注いでいる。そう思うと、苛立ちはいっそう募った。「この案件に対する見解は?」花梨は一瞬ぽかんとして口ごもった。「この案件について……ですか……」頭の中は明らかに真っ白で、まともな答えなど出てこない。彼女は話題を逸らしてごまかそうとした。「社長、ズボンにもコーヒーがついてしまいました。私が拭きます」そう言うなり彼女はその場にしゃがみ込み、あろうことか堂々と奏多の太ももに手をのせた。まるで自分のものだと宣言しているかのようだった。奏多が視線を落とし、恥じらうような彼女の瞳を見た瞬間、確信した。彼女はこんな厳粛な場で、自分に色目を使っているのだ。長机の両側に並ぶ経営陣は、表情に違いはあれど、みな視線を泳がせていた。奏多は気まずさを覚え、続いて怒りがこみ上げてくる。「もういい。席に戻れッ!」奏多は鋭く叱りつけた。「プロジェクト本部長として、この案件に自分なりの見解も持っていないのか」その言葉は花梨の顔に泥を塗ると同時に、奏多自身の面目をも潰すものだった。奏多はふと、このポストを花梨に与えたことを後悔した。警察に届けさせないためなら、ほかにいくらでも方法はあったはずだ。会社の未来を天秤にかけるようなやり方を選ぶべきではなかった。花梨は目を赤くして気まずそうにその場に立ち尽くし、服の裾
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第8話
頭の中でガンと音がした。奏多は凍りついた。激しい動揺が目に走り、次の瞬間には相手の腕をつかんでいた。手の甲に青筋が浮くほどの力だった。「退職!?彼女が辞めたって言ったのか。そんなはずがあるか!なんで俺は知らされてないんだ」怒りをこらえるように息を整えながら、奏多は低い声で言った。「人事を呼んでくれ。今すぐここに」5分後、人事担当が梓の退職関係の書類を分厚いファイルにまとめて駆けつけた。「社長、副社長の退職手続きは確かにすべて完了しております」手を伸ばした奏多の指先は、かすかに震えていた。彼は勇気をふりしぼるようにして、ようやくその書類の束を受け取り、1枚ずつめくっていった。梓の退職書類にまぎれもなく自分の直筆の署名があるのを目にした瞬間、頭の中で雷が炸裂したような衝撃が走り、呼吸する力さえ根こそぎ奪われた。奏多は退職願を睨みつけた。「俺がいつ、こんなものにサインした!?」人事担当が慌てて答える。「あの日、社長はお忙しく、大量の書類を細かく確認せずにサインなさいました。その中に副社長の退職願も含まれていたのです」奏多はあの日のことを思い出した。あの日、花梨は梓に3階から突き落とされ、片脚を骨折した。彼女が警察に届け出るのではないかと恐れた奏多は、花梨の言うことなら何でも聞き入れていた。人事が署名をもらいに来たとき、彼は花梨のためにりんごを剥いていた。書類をきちんと確認しようとしたそのとき、花梨が頭がふらふらすると言い出したのだ。「奏多、私、脳震盪を起こしてるんじゃないかな……?」だから奏多は、急いですべての書類にサインした。その中に梓の退職願が紛れ込んでいたことなど、知る由もなかった。奏多は目を血走らせた。「どうして急に辞めるんだ。あいつは何を考えてるんだ!」人事担当はうつむいたまま口を開けずにいる。そのとき、そばにいた花梨が突然涙をこぼして泣き出した。「社長、悪いのは私です。責めるなら、私を責めてください。副社長は、ずっとこの会社で真面目に頑張ってきたのに、急に入ってきた私がその立場に収まったんです。理不尽だと思うのも無理はありません。いっそ、この役職は副社長にお返しします」それを聞いた奏多の胸に激しい波が立ち、彼は一気に激昂した。梓なら、自分がなぜこ
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第9話
轟、と耳元で幾つもの雷が炸裂したような衝撃が走った。奏多は信じられないと目を見開く。「……今、何と言った?」家政婦がさらに何か言っていたが、もう奏多の耳には入らなかった。耳鳴りがして、全身の力がすべて抜けていくようだった。花梨がコーヒーを持って入ってきて、こう尋ねるまでは。「どうしたの?副社長、まだサインをもらいに来ないの?」その声で、奏多の意識はようやく引き戻された。彼は勢いよく立ち上がり、弾みでコーヒーを倒してしまった。熱いコーヒーが花梨の全身にかかり、彼女は悲鳴を上げた。「痛い!手が赤くなっちゃったじゃ……」涙目で顔を上げ彼の気を引こうとした花梨が見たのは、すでに廊下の角を曲がって見えなくなる奏多の背中だった。奏多は大急ぎでマイバッハに乗り込んだ。アクセルを踏み込み、道中、いくつ赤信号を無視したか分からない。本来なら30分かかる道のりを20分で走り切った。邸宅に着いて門を押し開けると、庭の花壇が目に入った。咲き誇っていた花の大半は枯れ落ち、雑草が目立ち始めている。あの花壇は、この家に越してきたときに梓がわざわざ人に頼んで作らせたものだった。当時の奏多はよく梓にバラを贈っていた。けれど梓はそれをあまり喜ばなかった。彼女はいつも言っていた。「バラは摘まれたら魂を失って、ただの観賞用の道具になってしまう。すぐに枯れてしまうもの。バラは好きよ。でも土に根を張って思うままに咲いている姿が好きなの。冬に枯れても、来年また咲くところが」だから奏多は、数えきれないほどの花の種を彼女に贈った。梓は花々をよく世話し、どれほど忙しくても時間をつくって水をやり、肥料を与えていた。それなのに今、あんなに元気に育っていた花はみな枯れてしまっている。見えない大きな手に心臓を鷲づかみにされたように、胸がひどく痛んだ。彼はすぐにリビングへ入り、狂ったように2階の主寝室へ駆け上がった。扉を押し開け、がらんとした部屋を目にした瞬間、胸に巨大な穴をえぐり開けられたような痛みが走り、息もできないほどだった。寝室の壁に掛けてあったウェディングフォトはいつの間にか外されていた。鏡台に並んでいた梓がいつも使う化粧品もなくなり、クローゼットからは彼女がよく着ていた服までが消えていた。部屋に残っているのは自分
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第10話
その後の数日、奏多は夜も眠れず、寝返りを打つばかりであっという間にひどくやつれた。友人の誕生会でも終始上の空で、周囲の注目を集めるほどだった。「奏多のやつ、どうしたんだ。今は美人を二人もそばに置いているのに、まだあんな顔してるのか」言い終わらないうちに、隣の男が目配せした。「聞いてないのか。有光副社長、会社を辞めたんだよ」「辞めた?そんな急に?」奏多はぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばった。「ああ。辞めただけじゃない。たぶん、俺と離婚するつもりだ」でなければ、あんなに脅したのに梓が一切反応しない理由がない。「離婚?」友人は吹き出した。「それなら梓さんは当てが外れたな。お前たち、とっくに離婚してるじゃないか」奏多ははっとして背筋を伸ばし、その目に衝撃の色を浮かべた。そうだった。梓には内緒で離婚の手続きを済ませていたのに、そのことをすっかり忘れていたのだ。梓は退職の手続きまで済ませた。役所へ離婚の手続きを確認しに行っていても不思議ではない。だとしたら、梓はもう何かに気づいたんじゃないか。頭の中で警鐘が鳴り響いた。奏多はすぐさま席を立ち、血相を変えて役所へ車を走らせた。伝手を頼って役所周辺の防犯カメラ映像を手に入れ、食い入るように一コマずつ確かめたが、手がかりは何ひとつ見つからなかった。それでも奏多は諦めなかった。すぐに秘書へ電話をかける。「自宅、社内、梓が入院していた病室も含めて、彼女の足取りが分かる映像は全部洗い出せ!おかしな箇所はまとめて俺のメールに送れ」指示を終えると、奏多はすぐに車を走らせて邸宅に戻った。花梨はずっと待っていたらしく、彼の姿を見るなり駆け寄ってきた。「副社長、何かに気づいたんじゃない?」彼女の顔を見るたび、苛立ちが波のように押し寄せてくる。しばらく黙り込んだあと、奏多は眉間を押さえ、込み上げる不快感を抑えて口を開いた。「……先に帰れ」「いやよ、そばにいたいもん」花梨は、湯気の立つ器を手に近づいてきた。「丸一日、何も召し上がっていないと聞いて。雑炊を作ってきました」奏多の視線が、その器に落ちる。魚介入りの雑炊だった。奏多は魚介類にアレルギーがある。何度も花梨には話したはずなのに、彼女はまるで覚えていなかった。梓とは大違いだ。梓
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