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第5話:生活圏

Author: Sunny
last update publish date: 2026-07-02 19:09:10

元カレが隣に住んでいる。

その事実は、思っていた以上に早く、私の日常へ入り込んできた。

翌朝。

ゴミ袋を持って玄関を出ると、隣の扉が開いた。

反射的に足が止まる。

翔太だった。

黒いコートに、細身のスーツ。

片手で腕時計を確認しながら、ドアへ鍵を掛けている。

昨日まで見たラフな姿とは違う。

仕事へ向かう顔だった。

「あ」

ほとんど同時に声が出た。

「おはようございます」

先に言ったのは翔太だった。

「……おはよう」

それだけ。

翔太は私の持っているゴミ袋へ一度視線を落としたあと、エレベーターへ向かった。

昔の話もしない。

昨日一緒にいた正人についても聞かない。

私も何も言わなかった。

エレベーターを待つ間、少し距離を空けて隣に立つ。

鏡面の壁に、二人の姿が映った。

翔太はスマホを確認している。

英語のメッセージが並んでいるのが、視界の端に入った。

何の仕事をしているのだろう。

そう思った直後、自分で驚いた。

私は、今の翔太について何も知らない。

知る必要もない。

そう思い直して、正面を見る。

エレベーターが来る。

乗り込む。

一階へ着くまで、会話はなかった。

「じゃあ」

エントランスで翔太が軽く手を上げる。

「うん」

別々の方向へ歩き出した。

振り返らなかった。

それなのに。

朝から翔太と顔を合わせたという事実だけが、その日ずっと頭の片隅に残っていた。

***

その二日後。

帰宅途中に寄ったコンビニで、また翔太を見かけた。

冷蔵棚の前。

片手に買い物籠。

仕事帰りらしく、ネクタイを少し緩めている。

翔太もこちらに気づいた。

「こんばんは」

「こんばんは」

また、それだけだった。

翔太の籠には、水とコーヒーと、簡単な食事が入っていた。

誰かと暮らしているような買い物には見えない。

そんなことを考えている自分に気づき、すぐに視線を外した。

関係ない。

誰と暮らしていようが。

誰を部屋へ呼ぼうが。

本当に、関係ない。

私は自分の買い物を済ませ、先に店を出た。

数分後。

マンションのエレベーターで、また翔太と一緒になった。

「よく会いますね」

翔太が言う。

「隣だからでしょ」

「便利ですね、隣って」

ちょっと前に言われた言葉を思い出す。

便利ですね、隣人って言葉。

少しだけ腹が立った。

「何」

「別に」

翔太は口元だけで笑う。

昔なら、もっと追及した。

私が不機嫌なら、理由を聞いた。

今は少しからかって、すぐに引く。

その距離の取り方が、妙に慣れている。

私の知らない五年間で身につけたものなのだろうか。

そう思うと、また少し落ち着かなかった。

***

金曜日。

仕事は案の定、長引いた。

会社を出たのは二十二時半を過ぎてからだった。

スマホには、宅配便の通知が届いている。

水と日用品。

今日、宅配ロッカーへ入ったらしい。

明日に回してもいい。

でも、明日の自分に押しつけるのも嫌だった。

駅前のコンビニでおにぎりとお茶を買い、マンションへ戻る。

エントランスは静かだった。

宅配ロッカーの番号を入力する。

扉が開いた瞬間、嫌な予感がした。

段ボールが大きい。

引き出そうとした途端、重さが腕に掛かった。

「……何買ったんだっけ」

水。

洗剤。

レトルト食品。

保存食。

数日前の自分は、なぜこれを一箱にまとめたのだろう。

バッグを肩へ掛け直し、両腕で段ボールを抱える。

持ち上がらなくはない。

でも、歩くには少し厳しい。

私は一度床へ置き、息を吐いた。

その時だった。

「重そうですね」

後ろから声が落ちる。

振り向かなくても分かった。

翔太だった。

黒いコートを片腕へ掛けている。

ネクタイは緩み、髪も少し乱れていた。

仕事帰りなのだろう。

疲れているはずなのに、力の抜けた姿の方が妙に目に残る。

「……こんばんは」

「こんばんは」

翔太の視線が、段ボールへ落ちる。

それから、私の顔へ戻った。

「持ちます」

「大丈夫」

考えるより先に答えていた。

翔太の眉が、少しだけ上がる。

「それ、大丈夫な人の顔じゃないですよ」

「持てるから」

「持てるかどうかじゃなくて」

翔太は段ボールを見たあと、もう一度私を見る。

「まだ、大丈夫じゃない時ほど大丈夫って言うんですね」

胸の奥が、わずかに止まった。

昔。

仕事で疲れている時。

眠れていない時。

会いたいと言われても、時間が作れなかった時。

私はいつも同じことを言っていた。

大丈夫。

平気。

気にしないで。

翔太は、その癖を覚えていた。

「……五年前の話でしょ」

私が言うと、翔太は少しだけ目を細めた。

「変わってないので」

言葉が返せなかった。

翔太は無理に荷物を奪わない。

ただ、私の返事を待っている。

断れば、そのまま引くだろう。

そういう顔だった。

私は段ボールへ視線を落とした。

腕はすでに少し痛い。

「……じゃあ、お願いしてもいい?」

翔太が一瞬だけ目を瞬く。

そのあと、口元がわずかに緩んだ。

「分かりました」

翔太は身を屈め、段ボールの下へ手を差し入れた。

私も反対側を持ち上げようとする。

「愛子、いいから」

低い声が、あまりにも自然に落ちた。

手が止まる。

翔太はそのまま、一人で段ボールを持ち上げた。

表情は変わらない。

言い直しもしない。

まるで昔と同じように、当たり前に私を呼んだ。

愛子さんではなく。

愛子。

胸の奥が、強く鳴る。

翔太は数歩進んだところで、ようやくこちらを見た。

私が動いていないことに気づいたらしい。

「どうしました?」

「……今」

「何ですか」

本当に分かっていないような顔だった。

わざとなのか。

無意識なのか。

見分けられない。

「何でもない」

私は視線を逸らした。

指摘したら。

今度から、また愛子さんに戻される気がした。

それが嫌なのかどうかも、自分では分からなかった。

「代わりに、これ持ってください」

翔太が差し出したのは、コンビニ袋だった。

中には水とコーヒー、それからサンドイッチが入っている。

「軽い方だけ渡すんだ」

「重い方を持たせたら、また大丈夫って言うでしょ」

さっきまでの敬語に戻っている。

それなのに、耳の奥にはまだ、愛子、と呼ばれた声が残っていた。

「言わない」

「言いますよ」

「決めつけないで」

「五年前から変わってないので」

あまりにも自然に返される。

一瞬だけ。

五年前と同じ会話をしているような気がした。

そのことに気づいたのは、たぶん同時だった。

翔太の口元にあった笑みが、少しだけ薄くなる。

私も視線を逸らした。

エレベーターの到着音が鳴る。

二人で乗り込む。

扉が閉まった。

***

静かな箱の中に、二人きりになる。

翔太は私の荷物を抱え。

私は翔太のコンビニ袋を持っている。

ただ、それだけだった。

なのに、妙に落ち着かない。

壁の鏡に、二人の姿が映る。

仕事帰りの私。

疲れた顔。

その隣に翔太。

コートを脱いだ白いシャツ。

少し緩んだネクタイ。

段ボールを支える腕。

二十一歳の頃より、肩の線が広くなっている。

学生だった頃の柔らかさは消え、大人の男の身体になっていた。

私は慌てて視線を上げた。

階数表示を見る。

まだ三階。

自分の部屋は、もっと上だ。

長い。

翔太が片手を段ボールから離し、ネクタイを少し緩めた。

喉元がわずかに覗く。

その仕草が妙に目に入った。

見ない方がいい。

そう思うのに、視線が一瞬だけ戻ってしまう。

翔太は前を向いたままだった。

気づいていない。

そう思った。

けれど。

数秒後。

翔太がゆっくり顔を向ける。

黒い目と、鏡越しに視線が重なった。

逃げるのが遅れた。

翔太の口元が、ほんの少しだけ緩む。

見ていたことを分かっている顔だった。

それでも、すぐには何も言わない。

私が視線を逸らすのを待つみたいに。

沈黙が、妙に長く感じられた。

「何ですか」

低い声が落ちる。

少しだけ、面白がっている。

私は反射的に正面を向いた。

「別に」

翔太が小さく息を吐く。

笑ったのかもしれない。

エレベーターの数字が、また一つ上がった。

さっき。

翔太は、私を愛子と呼んだ。

たった一度だけ。

本人が意識していないような自然さで。

それなのに。

私はまだ、その声を忘れられずにいた。

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  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第244話:そっか

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