Masuk結城正人(ゆうきまさと)だった。
会社の同期で、五年来の親友。
ジャケットを肩に掛け、ネクタイは少しだけ緩んでいる。
仕事帰りなのだろう。
それでも、不思議と疲れて見えない。
正人はとても整った顔をしている。
仕事もできる。
性格もいい。
社内でも、ちゃんと人気がある。
モテない理由がない。
でも私は、なぜか正人を異性として意識したことがなかった。
一緒にいて楽だからだと思う。
変に格好つけない。
変に距離も詰めてこない。
こちらが黙っていても、無理に踏み込んでこない。
だから、気を遣わなくて済む。
「疲れてる?」
席に着くなり聞かれた。
私は少し笑う。
「そんなに?」
「少し」
即答だった。
正人はビールを注文しながらも、一瞬だけ私の顔に視線を戻した。
確認するみたいに。
何かを測るみたいに。
「寝不足?」
その言い方が、妙に自然だった。
大丈夫?とも、無理してない?とも言わない。
ただ、気づいたことだけを言葉にする。
昔からそうだ。
正人は、人をよく見ている。
「聞いてよ正人」
さやかが口を挟んだ。
嫌な予感がした。
「やめて」
遅かった。
「愛子、引っ越したらさ。隣に元カレ住んでたんだって」
正人の手が止まった。
ビールへ伸ばしかけた指先が、ほんの少しだけ。
たぶん、私が見ていなかったら気づかなかったくらい。
そのあと、何事もなかったみたいにグラスを持つ。
「それは大変だね」
いつも通りの声。
変わらない。
でも、その一瞬だけ、何かを考えた気がした。
「しかも騒音クレーム言いに行ったら本人だったの」
さやかが楽しそうに付け足す。
「本当にやめて」
「いや、これは言うでしょ」
正人は少しだけ眉を上げた。
「騒音?」
「夜、いろいろうるさかったんだって」
さやかが濁しながら言う。
正人は一瞬黙ったあと、真面目な顔でグラスを置いた。
「それは普通に嫌だね」
その言い方が真面目すぎて、私は少し笑ってしまった。
「でしょ」
「管理会社案件じゃない?」
「それはそうなんだけど」
「入居早々言いづらい?」
「そう」
「続くなら言った方がいいよ。でも、今すぐ無理に動かなくてもいいと思う」
正論だ。
でも、押しつけない。
ちゃんと、私が自分で決める余白を残してくれる。
そういうところが正人だった。
***
店を出る頃には、二十三時近かった。
さやかは反対方向だった。
「じゃあね。元カレには、まあ、普通に気をつけな」
「何を?」
「距離感」
それだけ言って、さやかは軽く手を振った。
「正人、送ってあげて」
「言われなくても」
正人が普通に返す。
私は呆れたように笑って、さやかの背中を見送った。
夜風は少し冷たかった。
駅からマンションまでは十分ほど。
さやかと別れたあと、正人は自然に私の隣へ並んだ。
「送る」
当たり前みたいに言う。
私も、当たり前みたいに頷いた。
今さら遠慮する関係でもない。
仕事の話をして。
途中から、最近見たドラマとか、クライアントの癖とか、くだらない話になる。
コンビニの前を通り過ぎた時、正人がふと足を緩めた。
「何か買って帰る?」
「別に」
「夕飯」
そこで少し考える。
そういえば、昼からまともに食べていなかった。
「食べてないでしょ」
正人が言う。
責めるわけでも、呆れるわけでもない。
ただの事実確認みたいに。
私は少し笑った。
「なんで分かるの」
「分かるよ」
正人も笑った。
街灯の光が、その横顔を少しだけ柔らかく見せる。
「飲んでる時、そんな感じだったから」
さらっと言われて、少しだけ返事に困った。
たぶん、こういうところなのだと思う。
正人が一緒にいて楽な理由は。
気づく。
でも、踏み込みすぎない。
近いようで、ちゃんと距離がある。
その距離が、今の私にはちょうどよかった。
***
マンションへ着いた。
エントランスの前で、正人がドアを開けようとした時だった。
「あ」
声がした。
私の身体が反射的に強張る。
翔太だった。
片手にコンビニ袋を提げている。
黒髪。
白いシャツ。
ラフな格好なのに、夜の照明の下で妙に目を引く。
翔太もこちらに気づいた。
視線が、最初に私へ止まる。
次に、隣にいる正人へ移る。
ほんの一瞬。
長くはない。
でも、誰かを確認するには十分な時間だった。
そのあと、何事もなかったみたいに視線が戻る。
「こんばんは」
先に言ったのは、翔太だった。
正人も自然に返す。
「こんばんは」
二人とも普通だった。
普通すぎるくらいに。
なのに、私だけが妙に落ち着かない。
翔太は少し首を傾けた。
「昨日は、すみませんでした」
予想外だった。
「え?」
「うるさかったですよね」
申し訳なさそうに笑う。
昔から、こういう顔をする。
相手の警戒心を下げる顔。
知っている。
知りすぎている。
「気をつけます」
翔太はそう言って、軽く会釈した。
正人にも。
私にも。
そして、そのまま通り過ぎていく。
すれ違いざま、柑橘系の匂いがした。
知らない匂いだった。
エントランスのドアが閉まる。
静かになる。
その時、正人がふと翔太の背中へ視線を向けた。
ほんの一瞬だけ。
考えるみたいに。
何かを整理するみたいに。
でも、すぐに私へ視線を戻す。
「話してた、隣の人?」
いつも通りの声だった。
「……うん」
「例の元カレ?」
「たぶん、さやかの話で分かったよね」
「まあね」
正人は少しだけ笑った。
「感じは良さそうな人だね」
話した印象だけを、静かに口にする。
その言葉に、なぜだか返事が少し遅れた。
感じは良さそう。
確かに、今の翔太だけ見ればそうかもしれない。
でも、私は知っている。
あの顔の奥に、五年前の記憶があることを。
優しかったことも。
真っ直ぐだったことも。
最後に、私が逃げたことも。
エレベーターを待つ間、正人はそれ以上何も聞かなかった。
聞かなかったけれど。
一度だけ、私の顔を見た。
たぶん、翔太を見ていたんじゃない。
翔太を見た私を見ていた。
そんな気がした。
エレベーターの数字が、いつもよりゆっくり降りてきた気がした。
タクシーの後部座席は、冷房が少し効きすぎていた。運転手さんが行き先を確認し、車は静かに走り出す。窓の外で、丸の内の整った街路樹が流れていく。ガラス張りのビルが夕方の光を反射して、歩道を行く人たちの影が長く伸びていた。少し前なら、こういう移動時間は、たいていどうでもいい話をしていた。コンビニの新作。部内の誰かの癖。案件の愚痴。あるいは、何も話さないこともあった。でも、それが気まずいと思ったことはない。今は違う。会話がないわけじゃない。沈黙が苦しいわけでもない。ただ、お互い少しだけ言葉を選んでいる。その空気がある。正人が窓の外を見たまま、ふと口を開いた。「あの二人、イベント来てたんだっけ」声は自然だった。探る感じではない。ただ、今日の出来事を整理するみたいに。私は少しだけ間を置く。「あ、うん」窓の外へ視線を逃がす。「翔太が……来てくれて」“元彼”という言葉を飲み込む。なんとなく。まだ、正人の前では使いづらかった。「同僚の蓮くんもいて」「へえ」正人はそれ以上深く聞かなかった。ただ、小さく頷く。その反応が、逆に少しだけ気まずい。さっきの空気を、二人とも忘れていない。翔太の言葉。付き合ってた、というか。そして、正人の、感情を閉じたみたいな顔。私は無意識に指先をいじった。言わなきゃ。そう思っていたことがある。ずっと。今日じゃなくても良かったのかもしれない。でも、今日じゃないと、言えない気がした。「あのさ」声が少し小さくなる。正人が視線を向けた。私は一瞬だけ迷う。でも、逃げたくなかった。「私……ちゃんと考えてるから」言葉を探しながら、慎重に言う。「正人のこと」呼吸が少し浅くなる。窓に映る自分の顔が、少しだけ強張って見えた。「ただ……時間が必要で」指先が、スカートの生地を小さく掴む。自分でも、情けないくらい不器用な言い方だと思った。でも、期待だけ持たせるのも嫌だった。残酷になりたくなかった。「だから」少し視線を落とす。「待ってて、とは言わない」言葉を置くみたいに、ゆっくり言った。「正人は、正人の時間も大事にして」誰かと会ってもいい。前に進んでもいい。自分を優先してほしい。そう思う。本当に、そう思っている。でも、その未来を想像すると、少しだけ胸が苦し
エレベーターが一階に着き、扉が開いた。ロビーの高い天井から、午後の光が落ちている。人の靴音が硬い床に反射し、どこか遠くで受付の機械音が鳴っていた。媒体社の入るビルらしく、行き交う人たちはきれいに整った服装で、手にはPCバッグや紙袋を持っている。次のクライアント先へ向かうため、私と正人がエレベーターホールを抜けようとした時だった。「あれ?」先に気づいたのは、向こうから歩いてきた男の人だった。イベントで会った、翔太の同僚の....確か、蓮くんだ。「あ、イベントの時のお姉さん」蓮くんは私を見て、ぱっと表情を明るくした。その隣に、翔太がいた。黒いシャツに、細身のスラックス。片手にはPCバッグを持っている。仕事の途中なのか、少し疲れた顔をしていたけれど、それでもロビーの中で妙に目立っていた。背が高い。姿勢がいい。黒い服が似合う。何より、顔が整っている。本人は何もしていないのに、通り過ぎる女性が一瞬だけ視線を向ける。すぐに逸らす人もいれば、もう一度だけ見る人もいる。その目線を見て、私は思った。外で見る翔太は、少し違う。マンションの廊下で会う隣人でもなく、ジム帰りに少し話す元彼でもなく。ちゃんと社会の中に立っている大人の男だった。そして、普通に目立つ。そういう人だったのだと、今さら思い出す。翔太は私を見つけた瞬間、目元だけがほんの少し緩んだ。その変化は小さかった。でも、最近の私は、それが分かってしまう。「お疲れ」翔太の声はいつも通り低かった。でも、私に向ける時だけ、角が少し取れる。「お疲れ」私が返すと、蓮くんが楽しそうに笑った。「え、すごい。また会ったじゃないですか」それからロビーを軽く見回し、「あ、こっち来てたんですね」と言う。「媒体の打ち合わせで」私が答えると、蓮くんは納得したように頷いた。「なるほど。俺らこのビルなんですよ。たまに下でコーヒー買うくらいですけど」そう言いながら、自然に私を見る。視線がまっすぐだった。イベントの時にも感じたけれど、蓮くんは人との距離を詰めるのが早い。軽い。でも、悪い人ではない。「この後、時間あります?」少し明るい調子だった。「せっかくだし、ご飯でも」その瞬間。「蓮」翔太が静かに止めた。強くはない。でも、その一言で蓮くんの言葉が途切れた。
イベントの報告がすべて終わると、数週間ぶりに仕事の時間が通常の速度へ戻った。朝から鳴り続けていた通知も減り、会議室の予約にも少し余白が出てきた。誰かが「やっと息できる」と笑っていて、その声につられるように、オフィス全体が小さく緩んでいる。それでも、私の中だけはまだ少し落ち着かなかった。正人との距離は、前よりずっと丁寧になった。仕事では変わらず助けてくれる。資料の穴にも気づくし、先方との調整も早い。困った時には、必要なことを必要なだけ渡してくれる。でも、雑談の余白や、肩が触れそうな距離や。何も言わなくても隣にいる感じだけが、少しずつ消えている。消えたというより、正人が意識してそこに線を引いている。そのことが、私にはよく分かった。だからこそ、丸の内の媒体社へ二人で向かうことになった時、少しだけ息が詰まった。正人が関係を持っている媒体社で、私が担当するクライアント案件のクリエイティブ面を詰める必要が出た。正人がメディア側の調整役として入り、私がクリエイティブ営業として要件を握る。仕事としては、これ以上なく自然な同行だった。東京駅を出ると、丸の内のビル群が午後の光を反射していた。高いガラス壁。整えられた歩道。黒いスーツの人たちが、迷いなくビルからビルへ流れていく。その中を、正人と並んで歩く。「最後の資料、差し替えた?」正人が前を向いたまま聞く。「朝入れた。媒体別のクリエイティブ案も追加してる」「なら大丈夫。あそこ、最後に急に条件足してくることあるから」「それ先に言って」「今言った」私が少し睨むと、正人はかすかに笑った。そのやり取りは、昔の二人に似ていた。でも、完全には戻らない。信号待ちで立ち止まった時、正人は以前より半歩だけ離れていた。近すぎず、遠すぎず、仕事の相手として不自然ではない距離。たぶん、誰が見ても何も思わない。でも私は、その半歩の意味を知っている。媒体社の会議室は、窓から皇居側の緑が少し見える部屋だった。テーブルの上には水のペットボトルが並び、プロジェクターの光が白い壁に薄く滲んでいる。打ち合わせは、最初のうちは順調だった。媒体側の営業、三浦さんは愛想がよく、話も早い。正人とは以前から付き合いがあるらしく、軽口も多かった。問題が出たのは、最後のスケジュール確認に入った時だった。「追加の
いつも通りの夜。さやかとのご飯は、恵比寿の少し暗めのビストロだった。金曜の店内は、ほどよく騒がしい。なのに、私だけが少し落ち着かなかった。さやかは前菜を取り分けながら、じっとこちらを見る。「で?」「何」「最近、情緒どうなってんの」私は眉を寄せる。「壊れてない」「壊れてる人の返事だよ、それ」さやかが笑う。でも、笑いながらも目は優しかった。「正人?」フォークを持つ手が止まる。図星だった。「……まあ」さやかは「だよね」と言うように、小さく頷いた。「で、元彼?」「なんでそこまで分かるの」「顔」即答だった。「愛子、わかりやすくなったね」「やめて」私はワインをひと口飲む。喉を通る冷たさで、少しだけ呼吸が整った。その時、スマホが震えた。宮沢さんだった。『イベントも落ち着いたと思うので、よければ近々軽く飲みに行きませんか?』画面を見たまま、少し黙る。宮沢さん。マッチングアプリ案件で会った、大学の先輩。大人になって再会したら、印象が少し良い方に変わった人。仕事の話もできる。距離感も悪くない。好意も、たぶんある。でも、私の中で何かが大きく動いたことはない。さやかが画面をちらっと見る。「あ」「宮沢さん」「いい人?」「うん」「でも好きじゃない顔してる」否定できなかった。いい人。本当に。だけど、その“いい人”という感想の先に、何も続いていない。そのことを、自分でも分かっている。ふと、私は思った。自分が今感じているものは、特別なのだろうか。正人に対する苦しさも。翔太に対するざわつきも。ただ状況が重なっただけなのか。自分が混乱しているだけなのか。誰かから好意を向けられれば、同じように揺れるのか。それとも、違うのか。一度、ちゃんと確かめたい。「……会ってみようかな」さやかが少し眉を上げる。「へえ」「変な意味じゃなくて」私はグラスの中の赤を見つめる。「自分の気持ちが、よく分からないから」さやかは茶化さなかった。ただ静かに頷いた。「確かめたいんだ」「うん」たぶん、そういうことだった。***宮沢さんとは、その夜のうちに軽く会うことになった。さやかとのご飯を終えたあとに。駅から少し離れたバーで待ち合わせた。店内は落ち着いていた。暗すぎない照明。磨かれたカウン
金曜日。イベントの報告が終わった週の終わりに、ようやく日常が戻ってきた。数週間続いていた慌ただしさが嘘みたいに、オフィスには少しだけ緩い空気が流れている。大型案件が終わったあとの、独特な静けさ。誰もが少し疲れていて、でも少しだけ気が抜けている。会議室の予約もいつもより少なく、社内チャットの通知も、イベント直前の嵐みたいな勢いでは鳴らなくなっていた。窓の外では、夕方の光が高層ビルのガラスに反射している。私は会議室から戻る途中、給湯スペースでコーヒーを淹れた。紙コップを持つ手に、まだ少し疲れが残っている。けれど、疲れの種類は変わっていた。体力を削られるような忙しさではなく、少し時間ができたせいで、考えたくないことまで考えてしまう疲れ。正人のこと。翔太のこと。そして、正人との距離が変わってしまったこと。「愛子」呼ばれて、足を止める。振り返ると、正人がいた。少し疲れた顔。でも、いつも通りに見せようとしている声。それだけで、胸の奥が少しだけ揺れた。まだ慣れない。正人を、ただの正人として見られない自分に。「ちょっとタバコ行くけど」正人が言った。それは、昔からの言葉だった。何百回も聞いた気がする。私は煙草を吸わない。けれど、正人がタバコに行く時、なぜかついていくのが習慣になっていた。喫煙所の近くで、私は缶コーヒーを持って立っている。正人は煙草を吸いながら、仕事の愚痴を言う。どうでもいい話をする日もあれば、資料の相談をする日もあった。何も話さない日もあった。でも、それすら自然だった。だから私は、反射的に言いかけた。「あ、私も——」そこで止まった。空気が、ほんの少しだけ静かになる。正人も一瞬だけ止まった。たぶん、同じことを思い出している。前なら。何も考えなかった。「行く?」「行く」それだけで済んだ。正人が喫煙所へ向かう背中を、当たり前みたいに追いかけていた。エレベーターを待ちながら、くだらない話をした。外の喫煙スペースで、正人が煙を吐く横で、私は缶コーヒーを飲んでいた。寒い日には「中戻れよ」と言われて、それでも何となくそこにいた。そんな距離だった。でも今は違う。私は言葉を飲み込む。正人は少しだけ目を細めた。それから、困ったように笑った。「……いや」小さく首を振る。「今は、や
「え、顔の話じゃん」「顔の話でも」「昔から知ってるでしょ」「知ってるけど」翔太は視線を逸らした。けれど、耳のあたりがほんの少し赤いように見えた。それが意外で、私は少し笑ってしまう。「照れてる?」「照れてない」「嘘だ」「愛子が変なこと言うから」その言い方に、胸が少しだけ揺れた。愛子。名前を呼ばれることには、もう少し慣れてきているはずだった。でも、こういう会話の中で呼ばれると、まだ少しだけ昔の温度が混ざる。それでも私は、その言葉の危うさに気づいていなかった。本当に、ただ顔の話をしているつもりだった。翔太に意識が向いているわけではない。むしろ、向いていないからこそ言えた。安全な距離にいる人だと思っているから。終わった相手だと思っているから。今さらそんな言葉で何かが動くとは思っていないから。でも、翔太の表情は違った。一瞬だけ、嬉しそうに見えた。そのあとすぐに、困ったように笑った。何かを飲み込むみたいに、視線を夜道へ戻した。「愛子って、たまに本当に危なっかしい」「何それ」「褒めてるつもりで、普通に刺してくる」「刺した?」「だいぶ」翔太は軽く笑った。でも、笑いきれていないようにも見えた。その表情が、少しだけ胸に残る。マンションのエレベーターを待つ間、翔太がふと外を見た。「このマンション、ベランダからの景色いいですよ」「そうなの?」「出たことないんですか」「ない。正直、ベランダって何する場所か分からない」翔太が少し笑った。「夏は暑すぎて無理ですけど、今くらいなら気分転換になる」押しつけるでもなく、ただ知っていることを教えるみたいな声だった。「春とか秋は、夜風がちょうどいいです」「翔太、そういうのするんだ」「たまに。仕事が詰まった時とか」エレベーターが来る。二人で乗る。鏡に、少し疲れた自分と、隣に立つ翔太が映る。「仕事、忙しそうだよね」私が何気なく言うと、翔太は少しだけ考えてから答えた。「まあ、忙しいです」「外資系で働いてるんだっけ?」「うん」少し間。「転職も考えてます。ずっとこんな働き方できないし」その声は淡々としていた。でも、どこか現実的だった。私は少し驚く。知らなかった。この五年、翔太は翔太で、ちゃんと別の場所で戦っていた。忙しく働いて。自分の体力や将来







