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第4話:親友の同期

last update Veröffentlichungsdatum: 02.07.2026 19:08:59

結城正人(ゆうきまさと)だった。

会社の同期で、五年来の親友。

ジャケットを肩に掛け、ネクタイは少しだけ緩んでいる。

仕事帰りなのだろう。

それでも、不思議と疲れて見えない。

正人はとても整った顔をしている。

仕事もできる。

性格もいい。

社内でも、ちゃんと人気がある。

モテない理由がない。

でも私は、なぜか正人を異性として意識したことがなかった。

一緒にいて楽だからだと思う。

変に格好つけない。

変に距離も詰めてこない。

こちらが黙っていても、無理に踏み込んでこない。

だから、気を遣わなくて済む。

「疲れてる?」

席に着くなり聞かれた。

私は少し笑う。

「そんなに?」

「少し」

即答だった。

正人はビールを注文しながらも、一瞬だけ私の顔に視線を戻した。

確認するみたいに。

何かを測るみたいに。

「寝不足?」

その言い方が、妙に自然だった。

大丈夫?とも、無理してない?とも言わない。

ただ、気づいたことだけを言葉にする。

昔からそうだ。

正人は、人をよく見ている。

「聞いてよ正人」

さやかが口を挟んだ。

嫌な予感がした。

「やめて」

遅かった。

「愛子、引っ越したらさ。隣に元カレ住んでたんだって」

正人の手が止まった。

ビールへ伸ばしかけた指先が、ほんの少しだけ。

たぶん、私が見ていなかったら気づかなかったくらい。

そのあと、何事もなかったみたいにグラスを持つ。

「それは大変だね」

いつも通りの声。

変わらない。

でも、その一瞬だけ、何かを考えた気がした。

「しかも騒音クレーム言いに行ったら本人だったの」

さやかが楽しそうに付け足す。

「本当にやめて」

「いや、これは言うでしょ」

正人は少しだけ眉を上げた。

「騒音?」

「夜、いろいろうるさかったんだって」

さやかが濁しながら言う。

正人は一瞬黙ったあと、真面目な顔でグラスを置いた。

「それは普通に嫌だね」

その言い方が真面目すぎて、私は少し笑ってしまった。

「でしょ」

「管理会社案件じゃない?」

「それはそうなんだけど」

「入居早々言いづらい?」

「そう」

「続くなら言った方がいいよ。でも、今すぐ無理に動かなくてもいいと思う」

正論だ。

でも、押しつけない。

ちゃんと、私が自分で決める余白を残してくれる。

そういうところが正人だった。

***

店を出る頃には、二十三時近かった。

さやかは反対方向だった。

「じゃあね。元カレには、まあ、普通に気をつけな」

「何を?」

「距離感」

それだけ言って、さやかは軽く手を振った。

「正人、送ってあげて」

「言われなくても」

正人が普通に返す。

私は呆れたように笑って、さやかの背中を見送った。

夜風は少し冷たかった。

駅からマンションまでは十分ほど。

さやかと別れたあと、正人は自然に私の隣へ並んだ。

「送る」

当たり前みたいに言う。

私も、当たり前みたいに頷いた。

今さら遠慮する関係でもない。

仕事の話をして。

途中から、最近見たドラマとか、クライアントの癖とか、くだらない話になる。

コンビニの前を通り過ぎた時、正人がふと足を緩めた。

「何か買って帰る?」

「別に」

「夕飯」

そこで少し考える。

そういえば、昼からまともに食べていなかった。

「食べてないでしょ」

正人が言う。

責めるわけでも、呆れるわけでもない。

ただの事実確認みたいに。

私は少し笑った。

「なんで分かるの」

「分かるよ」

正人も笑った。

街灯の光が、その横顔を少しだけ柔らかく見せる。

「飲んでる時、そんな感じだったから」

さらっと言われて、少しだけ返事に困った。

たぶん、こういうところなのだと思う。

正人が一緒にいて楽な理由は。

気づく。

でも、踏み込みすぎない。

近いようで、ちゃんと距離がある。

その距離が、今の私にはちょうどよかった。

***

マンションへ着いた。

エントランスの前で、正人がドアを開けようとした時だった。

「あ」

声がした。

私の身体が反射的に強張る。

翔太だった。

片手にコンビニ袋を提げている。

黒髪。

白いシャツ。

ラフな格好なのに、夜の照明の下で妙に目を引く。

翔太もこちらに気づいた。

視線が、最初に私へ止まる。

次に、隣にいる正人へ移る。

ほんの一瞬。

長くはない。

でも、誰かを確認するには十分な時間だった。

そのあと、何事もなかったみたいに視線が戻る。

「こんばんは」

先に言ったのは、翔太だった。

正人も自然に返す。

「こんばんは」

二人とも普通だった。

普通すぎるくらいに。

なのに、私だけが妙に落ち着かない。

翔太は少し首を傾けた。

「昨日は、すみませんでした」

予想外だった。

「え?」

「うるさかったですよね」

申し訳なさそうに笑う。

昔から、こういう顔をする。

相手の警戒心を下げる顔。

知っている。

知りすぎている。

「気をつけます」

翔太はそう言って、軽く会釈した。

正人にも。

私にも。

そして、そのまま通り過ぎていく。

すれ違いざま、柑橘系の匂いがした。

知らない匂いだった。

エントランスのドアが閉まる。

静かになる。

その時、正人がふと翔太の背中へ視線を向けた。

ほんの一瞬だけ。

考えるみたいに。

何かを整理するみたいに。

でも、すぐに私へ視線を戻す。

「話してた、隣の人?」

いつも通りの声だった。

「……うん」

「例の元カレ?」

「たぶん、さやかの話で分かったよね」

「まあね」

正人は少しだけ笑った。

「感じは良さそうな人だね」

話した印象だけを、静かに口にする。

その言葉に、なぜだか返事が少し遅れた。

感じは良さそう。

確かに、今の翔太だけ見ればそうかもしれない。

でも、私は知っている。

あの顔の奥に、五年前の記憶があることを。

優しかったことも。

真っ直ぐだったことも。

最後に、私が逃げたことも。

エレベーターを待つ間、正人はそれ以上何も聞かなかった。

聞かなかったけれど。

一度だけ、私の顔を見た。

たぶん、翔太を見ていたんじゃない。

翔太を見た私を見ていた。

そんな気がした。

エレベーターの数字が、いつもよりゆっくり降りてきた気がした。

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  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第244話:そっか

    「本当に、何もない?」正人の声は低かった。強いわけではない。責めているわけでもない。でも、さっきまでの柔らかさとは違う、静かな重さがあった。私はグラスを置いたまま、しばらく何も言えなかった。ジャズバーの低い照明。グラスの氷が溶ける音。煙草の残り香。ピアノの音。全部が少し遠くなる。胸の奥に、あの日の記憶がまだ残っていた。翔太の部屋。近すぎた距離。逃げるなら今だと言われた声。触れた唇。私は、その全部を正人に言えていない。だから、本当に何もないのかと聞かれた時、すぐに答えられなかった。でも。今ここで、その記憶を言葉にすることもできなかった。正人と付き合うと決めたばかりで。正人が私を信じようとしてくれているこの夜に。私は、喉の奥に残っている罪悪感を押し込めるようにして、静かに答えた。「……ないよ」声は思ったより小さかった。でも、ちゃんと聞こえたと思う。正人はすぐには返さなかった。グラスに添えていた指を少しだけ動かして、それから、ゆっくり私を見る。その目は、優しかった。優しいのに、少しだけ探っていた。たぶん、私の声が完璧ではなかったことに、気づいている。でも、正人はそこを追わなかった。少しだけ間が空く。その沈黙が、胸に触れる。やがて、正人が小さく息を吐いた。「そっか」こぼれるような声だった。信じる、と決めた人の声に聞こえた。全部を分かったわけではない。完全に安心したわけでもない。でも、今はそれ以上踏み込まない。私がそう答えたなら、そこに立つ。そんな声だった。その大人っぽさが、また胸に痛かった。私は少しだけ視線を落とした。言えなかった。また、ひとつ。言えないものが増えた。正人はそれ以上、その話をしなかった。灰皿の上の煙草は、もう消えていた。彼はグラスの底に残ったカクテルを少しだけ飲んで、店内の奥へ視線を流す。その横顔は、いつも通り落ち着いているように見えた。けれど、さっきまでより少しだけ口数が減った。それは怒っているからではなく、きっと考えているからだった。私も、うまく話せなかった。付き合い始めたばかりなのに。本当なら、もっと浮かれてもいい夜のはずなのに。私たちの間には、甘さと同じくらい、慎重さが残っていた。それでも、正人は最後に店員を呼び、いつものように会計を

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