LOGIN他人の浮気は見抜けても、夫だけは調べない。浮気調査員の柚木千景に、十五歳の時のトラウマがそうさせていた。 ところが依頼人の写真に写っていたのは、夫へ贈った結婚記念の腕時計。依頼人はピアノ調律師の桐生朔。彼の妻と千景の夫が不倫していたのだ。 千景は担当を外れ、正規の方法で証拠を集める。だが夫は彼女を「不倫妻」と告発し、職場まで奪おうとする。 夫の狙いは、千景に会社の機密情報を私的流用させること。 ――けれど、彼女は一度も覗かなかった。 嘘に奪われた名誉と人生を取り戻す千景。そして同じ裏切りに傷ついた朔との間に、もう一度誰かを信じたいと思える恋が芽生えていく。
View More「ご主人が提出されたというこの新幹線の予約確認票ですが、記載されている到着時刻と、こちらのカフェのレシートの打刻時間には、物理的な矛盾が生じています」
横浜・関内にある株式会社岬リサーチの応接室で、柚木千景はテーブルの上に二枚の紙片を並べた。結婚後の戸籍上の姓は早瀬だが、仕事では旧姓の柚木を使っている。
向かいに座る依頼人の女性が、食い入るようにそれらを見つめる。
「新幹線が東京駅のホームに滑り込んでから、改札を抜け、地下鉄に乗り換えてこのエリアのカフェに到着するまで、どう計算しても四十分はかかります。ですが、レシートの時刻は新幹線到着のわずか十五分後です。つまり、ご主人は出張先から戻ってきたのではなく、最初から都内に滞在していた可能性が高いと推測されます」
千景の声は、淡々としていて抑揚がない。同情も、過剰な寄り添いもそこにはない。ただ、客観的な事実と数字だけを積み上げ、嘘の輪郭を浮き彫りにしていく。
依頼人の女性は、震える手で二つの時刻を何度も見比べ、やがて顔を覆って小さく泣き始めた。
九年半、千景はこの仕事をしてきた。対象者がどれほど巧妙に嘘を取り繕おうとも、行動の痕跡には必ず綻びが生じる。そのわずかな糸口を見逃さず、徹底的に引いて事実を暴き出すのが、浮気調査員としての彼女の職能だった。
ふと、紺色のステンカラーコートのポケットの中で、千景のスマートフォンが短く震えた。
画面は見なくてもわかっている。夫婦で設定している共有家計アプリからの、自動通知だ。千景はスマートフォンを取り出すことも、画面を確認することもなく、ただ静かに依頼人の嗚咽が収まるのを待った。
他人の些細な矛盾や嘘は、一瞬で見抜くことができる。それなのに、自分の夫のこととなると、途端に見えないふりをしてしまう。
十五歳の時、父親の携帯電話の画面から不倫を知り、それを母親に告げた。その結果、家族は壊れた。両親の離婚は自分のせいだという思いが、千景の心の奥底に重くこびりついている。だから、自分の家族だけは絶対に調べない。疑念が湧いても、決してその先へは踏み込まない。それが、千景が自分に課した絶対の掟だった。
午後になり、新たな相談者が応接室に通された。
「桐生朔と申します」
名乗った男性は、三十代半ばほどに見えた。黒い工具鞄を椅子の脇に置き、少し癖のある髪を無造作に流している。千景と、同席した代表の岬達郎が名刺を差し出すと、桐生朔は丁寧にお辞儀をして受け取った。
「本日はどのようなご相談でしょうか」
岬が穏やかな声で促すと、朔は膝の上で両手を軽く組み、ゆっくりと口を開いた。彼はこちらの言葉を聞くとき、わずかに左耳を向けるような仕草をする。音を拾い集めるようなその独特の所作から、彼が音に関わる仕事をしていることが窺えた。
「妻の奈緒のことで、調査をお願いしたいんです」
朔は静かに言い、持参した茶封筒から数枚の写真をテーブルの上に並べた。
「最近、様子がおかしい日が続いていて。これは、私が自分で尾行して撮ったものです。プロの方から見ればお粗末なものかもしれませんが」
千景は調査員の目になり、並べられた写真に視線を落とした。
ピントが甘く、構図も不自然なものが多い。素人がスマートフォンのカメラで焦って撮影したことがありありとわかる。だが、その中の一枚に、千景の視線は縫い付けられた。
公開されたカフェのテラス席らしき場所。向かい合って座る男女の姿。女性の方は顔の輪郭がなんとなくわかるが、男性の方は背中越しであり、おまけにブレていて顔はまったく見えない。
問題は、テーブルの上に置かれた男性の左腕だった。
シャツの袖口から覗く腕時計。紺色の革ベルト。そして、光を反射する文字盤の縁にある、ほんの数ミリの小さな欠け。
千景は息を呑んだ。
昨年の二月、夫の早瀬拓真との結婚記念日に、千景自身が選んで贈った限定品の腕時計だった。どこかの角にぶつけてしまったという文字盤の縁の欠けの形まで、完全に一致している。
心臓が、肋骨の内側を激しく打ち据え始めた。耳の奥で、嫌な耳鳴りが響く。千景は無意識のうちに、左手の親指で人差し指の爪をなぞっていた。考えをまとめるとき、あるいは強い緊張を強いられたときに出る癖だった。
目の前にいる桐生朔の妻の浮気相手は、自分の夫である可能性が高い。
千景の脳内で、冷徹な調査員としての思考が瞬時に状況を計算した。もしこのまま自分が担当者としてこの案件を受任すれば、どうなるか。会社の権限を使い、正当な業務という名目で、夫の不貞の証拠を徹底的に集めることができる。会社の経費で、夫の裏切りを隅々まで調べ上げることができるのだ。
だが、千景は爪をなぞる指を止め、きつく手を握りしめた。
「桐生様」
千景は写真から視線を外し、まっすぐに朔の顔を見た。
「申し訳ありませんが、私はこの案件を担当することができません」
突然の申し出に、朔がわずかに目を見開く。隣に座る岬も、怪訝そうな顔で千景を見た。
「柚木、どういうことだ」
岬の問いかけに対し、千景は感情を完全に押し殺した声で答えた。
「写真に写っている男性が、私の夫である可能性が高いからです」
応接室の空気が、一瞬にして凍りついた。
朔が息を呑む音が聞こえた。千景は手元のメモ帳を閉じ、ペンを胸のポケットに仕舞った。
「私と対象者との間に、重大な利益相反が生じます。業務の適正を保つため、私はこれ以上の資料閲覧、ならびに本件への関与を控えさせていただきます」
嘘を見抜くプロとして、調査員としての矜持だった。自分に有利な情報を、会社のシステムを使って私的に引き出すような真似はしない。そして何より、見ないふりをしてきた自分の家族の問題を、他人の依頼に乗じて覗き見るようなことはしたくなかった。
朔は千景の言葉を、やはり左耳を少し向けて、一言も漏らさずに聞き取ろうとするように受け止めていた。責めるでもなく、哀れむでもない、ただ静かな眼差しだった。
「失礼いたします」
千景は深く一礼し、応接室を後にした。背中の後ろの扉が閉まると同時に、彼女はこの案件のすべてから手を引いた。
以降、岬がどのような判断を下し、朔への説明や他社への紹介、あるいは別の調査員への引き継ぎをどう行うか、千景は一切関知しない。社内のシステムから、桐生朔のファイルを開くこともない。
その日の夜。
関内からほど近い自宅のマンションに帰ると、部屋は真っ暗だった。拓真はまだ帰っていない。
リビングの照明をつけ、コートを脱ぐこともせずに、千景はソファに座り込んだ。
静かすぎる部屋の中で、今日見た写真の腕時計が何度も脳裏にフラッシュバックする。傷の形。ベルトの色。見間違えるはずがない。
千景は鞄の中からスマートフォンを取り出した。
画面には、日中放置していた共有家計アプリからの通知が残っている。夫婦の口座やクレジットカードの利用履歴を互いに確認できるよう、結婚当初に二人で設定したものだ。
十五歳の時の記憶が蘇る。父親の携帯電話を盗み見してしまった時の、あの胸のざわめき。その後の、崩壊していく家庭の風景。
調べれば、壊れる。知らなければ、家は保たれる。
ずっとそう信じてきた。だから夫の言葉を信じ、出張だと言われれば疑わずに送り出してきた。
だが、千景は深く息を吸い込み、震える指でアプリのアイコンをタップした。盗み見ではない。これは自分に閲覧権限のある、正当な共有情報の確認だ。
読み込まれた画面をスクロールしていく。
数日前、拓真が出張だと言って朝早く出かけていった日付。
その日のクレジットカードの請求履歴に、見慣れないホテル名が記載されていた。
金額とプラン名。それはどう見てもビジネス利用ではなく、二名分の宿泊料金の請求だった。
十一月二十一日、土曜日の午前。 拓真が休日出勤だと偽って家を出たのを見計らい、千景は自室から旅行用のボストンバッグを引っ張り出した。 数日分の衣服と洗面用具。そして、手提げ金庫に保管しておいた自分名義の通帳や、結婚時に交わした賃貸・保険関係の書類のコピー。持ち出すのはそれだけだ。 四日前の夜、拓真は「男の方にも慰謝料を請求してやる」「お前の職場はどうなるだろうな」と明確な脅迫を口にした。もはやこのマンションで寝食を共にすることは、精神衛生上も、今後の交渉上も危険だと篠原弁護士とも合意し、別居へと踏み切ったのだ。 千景は拓真の書斎や、彼が普段使っている引き出しには一切手を触れなかった。 密室の中で相手の私物を物色すれば、後になって「不当な証拠収集だ」「自分の大切なものを盗まれた」と相手に言いがかりをつける隙を与えることになる。調査員として、守るべき手続きの境界線は絶対に越えない。 千景は別居する旨の書き置きをテーブルの上に置き、母・静江が暮らす実家へと向かった。 その日の午後。千景は横浜市内にある篠原法律事務所の応接室に座っていた。 四日前の会話は録音してある。拓真は千景を不倫妻と決めつけ、その相手として桐生朔を名指しし、さらに職場への告発をほのめかした。千景は録音を篠原に渡し、自分が朔に直接連絡するべきか相談した。『あなた一人で会いに行く必要はありません。ご主人は、二人が接触したという事実そのものを利用するおそれがあります』 篠原はそう言って、別の方法を提案した。拓真が実際に朔へ請求や告発を行う前に、何を告げられたのかを双方で確認し、警告を伝えた経緯を第三者の立ち会いのもとに記録しておく。後になって「密かに口裏を合わせた」と言われないための措置だった。 電話やメールだけでも警告はでき
十一月十七日、火曜日の夜。 拓真が帰宅してリビングのソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めるのを待ってから、千景は対面の椅子に座った。 千景の手には、仕事で使う黒い小型のICレコーダーが握られている。彼女はそれをローテーブルの中央に置き、拓真の目を真っ直ぐに見据えた。「これからの会話は、記録します」 千景ははっきりと告知し、録音ボタンを押し込んだ。レコーダーの赤いランプが点灯する。 拓真は目を丸くし、次いで鼻で笑った。「はっ。なんだそれ、刑事の真似事か? 夫婦の会話を録音してどうするつもりだ」「一昨日、あなたは私に向かって『離婚の理由は私の不倫だ』と断言しました。もはや、夫婦として通常の対話ができる状態ではありません。言った、言わないの水掛け論を防ぐため、そして今後の代理人間の交渉のために、発言はすべて客観的なデータとして残させてもらいます」 隠し録りではない。これは、自分が理不尽な攻撃に対して正当に防衛しているという、調査員としての明確な意思表示だった。 拓真は忌々しそうに舌打ちをしたが、レコーダーを取り上げるような力行使には出なかった。「好きにしろよ」「では、まず確認します」 千景は手元のノートを開いた。「十一月十五日、あなたは私の同意なく共有家計アプリの閲覧権限を解除し、十一月六日には、婚姻中の貯蓄口座から四百万円をご自身の別口座へと移動させています。これは事実ですね?」「ああ、事実だ」 拓真はソファの背もたれに寄りかかり、ふんぞり返るような姿勢をとった。「お前が俺
十一月十五日、日曜日の午後。 拓真は朝から「ゴルフの打ちっ放しに行ってくる」と出かけており、マンションには千景一人だった。 千景はダイニングテーブルにノートパソコンを開き、手元のスマートフォンで夫婦の共有家計アプリを立ち上げた。来たるべき離婚協議と財産分与に向けて、現状の金融資産の正確な数字を洗い出しておく必要があった。 六日の金曜日、アーク調査事務所の千田から「対象者と女性が宿泊施設から出てくるところを撮った」という報告を受けて以来、千景の心は奇妙なほど凪いでいた。事実が確定したことで、調査員としての合理的な思考回路が完全に優位に立っているのだ。 アプリの画面をスクロールし、口座の残高推移を確認していく。 その指が、ある日付の項目でピタリと止まった。『十一月六日 振替・出金 四百万円』 出金元は、拓真名義になっている婚姻中の貯蓄口座。振替先は、千景が見たことのない拓真の別口座だった。十一月六日といえば、あの「おとりの予約」を使い、拓真が横浜の施設に奈緒と泊まっていた翌日だ。 千景は即座にスマートフォンの電源ボタンと音量ボタンを同時に押し、画面のスクリーンショットを保存した。 その数秒後のことだった。 アプリの画面が突然フリーズし、「権限がありません」というエラーメッセージがポップアップした。何度リロードしても、過去の履歴も現在の残高も一切表示されない。 拓真が、千景の閲覧権限を一方的にシャットアウトしたのだ。 結婚以来、お互いの透明性を保つために設定していた共有の窓が、今、完全に閉ざされた。 普通なら「財産を隠された」「お金を持っていかれる」とパニックになってもおかしくない状況だ。だが、千景の頭
十一月五日、木曜日の夜。 拓真が「大阪出張」と称して家を出てから半日が過ぎていた。 静まり返ったリビングで、千景はダイニングテーブルに座り、スマートフォンを見つめていた。画面は真っ暗なままだが、千景の神経はいつ鳴るかもしれない着信音に向けて極度に張り詰めていた。 午後九時を回った頃、ようやく画面が発光し、短いバイブレーションが鳴った。表示された発信者は、社外のアーク調査事務所の代表、千田剛だった。「もしもし、柚木です」 千景が電話に出ると、千田の声が少しだけ硬いトーンで響いた。『対象者ですが、例の横浜の予約ホテルには現れません。ダミーの可能性があります』 千田の報告は簡潔だった。アークの調査員がホテル周辺で張り込みを続けているが、拓真がチェックインする形跡は一切ないという。 千景は小さく息を吸い込んだ。驚きはなかった。むしろ、冷たい泥水の中に足を踏み入れたような、じっとりとした納得感が胸に広がった。 昨夜、拓真がボストンバッグに荷物を詰めながら浮かべていた、あの不気味な薄笑いが脳裏に蘇る。『俺の足取りなんて、お前の会社なら簡単に調べられるじゃないか?』 あの異様な挑発。 千景の頭の中で、調査員としての冷徹な思考がフル回転し、拓真の思惑の全貌を解体していく。 これではっきりした。あの予約履歴は意図的に残された「おとり」だ。拓真は、自分が朔の案件で岬リサーチに相談に行ったことを、妻である桐生奈緒からすでに聞いているのだろう。だからこそ、自分の行動が「妻の会社の調査」と交差する危険性を十分に認知している。 拓真の狙いは明確だった。 まず、共有ア