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5.元夫の苛立ち

作者: 紡里
last update 公開日: 2026-08-26 08:18:07

「お前は、倫子の愛人なのか?」

 桐生智也きりゅうともやの声に、周囲のざわめきがぴたりと止まった。

 特に、朝倉倫子あさくらりんこのいるテーブルに同席している人たちの視線が、険しくなる。

 イーサン・タンは、感情の読めない目で智也を見た。

「違います」

 智也は、わずかに表情を緩めた。

「ですが、元夫だからといって、朝倉先生に何をしても許されるわけではありません」

 低く、はっきりとした声だった。

「何だと?」

 智也の眉が跳ね上がる。

「俺は倫子の夫だったんだぞ」

「元、ですよね」

「だから何だ!」

 思わず声を荒らげると、桐生美琴みことが慌てて駆け寄ってきた。

「あなた。こんな所で大きな声を出さないで」

 智也はそれに構わず、イーサンを睨みつける。

「俺たちの問題に、部外者のお前が口を出すな」

「朝倉先生が不快な思いをされている以上、部外者ではありません」

「昔は医者になりたいって騒いでいたくせに。今じゃ男に囲われているのか?」

 倫子は、無言で智也を蔑むように見た。

「その男に毎月いくらもらっているんだ?」

 智也の発言に、イーサンのこめかみに青筋が浮かんだ。

「俺なら倍出してやる。お前、養生食の腕はよかったからな」

 そのテーブルの周囲に沈黙が降りた。

 倫子は小さく息を吐いた。

「あなたは六年経っても、何も変わっていないのね」

 智也の顔が引きつる。

「……何だと?」

「人の話を聞かない。相手が何を望んでいるのか考えない。そして、自分が与えてやれば、誰もが喜ぶと思っている」

「俺はお前のためを思って――」

「頼んでいないわ」

 静かな一言だった。

 智也はその拒絶に、言葉を続けられなくなった。

「倫子。あなたってひどい人ね」

 美琴が智也の腕に手を添えて、涙ぐんでみせる。

「桐生様ご夫妻」

 イーサンが一歩前に出る。

「これ以上、朝倉先生に絡まれるようでしたら、会場から退出していただきます」

「俺を追い出す?」

 智也が唇の端を上げて笑った。

「俺が誰だか分かっているのか? 大手IT企業の社長だぞ。医学会の重鎮にも知り合いがいる」

「そうですか」

「俺を追い出したら、お前の方が···ぞ」

 その台詞を聞いて、倫子がくすりと笑った。

「もういいわ、イーサン」

「……朝倉先生」

「いい加減、わかってもらった方がいいと思うの」

 倫子はスマートフォンを取り出した。

 そして、一人の人物へ電話をかける。

「もしもし」

 短いやり取りを交わした後

「少しお願いできます?」

 それだけ言って、電話を切った。

 智也は怪訝けげんそうに眉をひそめる。

「何だ? 誰か呼んだのか?」

「ええ」

 倫子は微笑んだ。

「あなたが呼びたい人も、呼べばいいわ」

「は?」

「せっかくですもの。あなたが頼りにしている方にも、状況を知っていただきましょう」

 智也は鼻で笑った。

「いいだろう」

 そして、医学会の副会長へ連絡を入れた。

 恰幅のいい紳士が、スタッフ用の出入り口から現れた。

「朝倉先生」

 医学会と医療関係者の親睦を深めるこのパーティーの主催者――藤堂だった。

「この度は、不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」

 藤堂は、倫子へ頭を下げた。

 美琴の顔から、笑みが消える。

「藤堂さん……?」

 藤堂は顔を上げると、スタッフへ告げた。

「桐生様には、ご退場いただいてください」

「待って」

 倫子が藤堂を制した。

「彼が呼べる人を、呼んでもらっているの」

「しかし……」

「ちょうどいい機会ですから」

 その言葉の意味を、智也は理解できなかった。

 数分後。

 息を切らしながら、一人の男性が会場へ入ってきた。

「桐生君!」

「副会長!」

 智也は安堵した。

「助かりました。実は、この女が――」

「一体、誰と揉めているんだ」

 副会長は苛立った様子で言いながら、智也の視線の先を見る。

 そして、ぴたりと動きを止めた。

 倫子ではなく、その隣を見ている。

「……藤堂様?」

 副会長の声が震える。

 藤堂は表情を変えずに言った。

「副会長が、このお若い方々を支援されているのですか」

 副会長は、困惑したように智也と美琴、そして藤堂を見比べた。

 藤堂は医療、製薬、金融など幅広い分野で日本国内に大きな影響力を持つグループの、医療分野を統括する理事だ。

 副会長の顔色が変わった。

「副会長、どうしたんですか?」

 智也が戸惑ったように呼ぶ。

 副会長は答えられなかった。何を言えばいいのか分からない。

 ただ、反射的に藤堂へ頭を下げた。

「この度は……大変申し訳ございません」

 藤堂は静かに首を振る。

「何に対する謝罪ですか。あなたがすべきなのは、そちらの男性をおいさめすることではないですか」

 次に、その視線を倫子へ向けた。

「迷惑をこうむっているのは、こちらの朝倉先生です」

 智也は、倫子を見た。

 自分が六年前に捨てた女。

 医学部を辞めたと思っていた女。

 何者でもなかったはずの元妻。

 その女の周囲に、なぜこれほど多くの人間が集まっているのか。

「……お前は」

 智也の唇が震える。

「一体、何者なんだ?」

 そのとき、会場にアナウンスが流れた。

「皆様、お席に着いてください」

 壇上に立った司会者が、マイクを握る。

「お時間になりましたので、パーティーを始めさせていただきます」

 会場が静かになった。

「本日は、海外で数々の難治症例を成功へ導いてきた医師の、関係者をお招きしております」

 ざわめきが広がる。

「その名も――『再生の魔術師』」

 智也が息を呑んだ。その隣で美琴は唇を噛んだ。

「その方は日本で、世界初となる手術を執刀することが決定しております」

 会場中が騒然となる。

「まさか、本人がここに?」

「『再生の魔術師』が来日しているという噂は、本当だったのか?」

 智也は周囲を見回した。

 そして、視線が一人の男のところで止まる。いつも倫子のそばにいた男。

「……まさか」

 周囲からも囁き声が聞こえてくる。

「あの男性じゃないか?」

「海外の医療グループの人間だと聞いたぞ」

 そのとき、イーサンが主催者側から呼ばれた。

「イーサン・タン様」

 智也は確信した。

「やっぱり、あの男だったのか」

 藤堂が頭を下げた理由。

 倫子を特別扱いしていた理由。

 すべてが繋がった気がした。

「……そうか」

 智也は、自分に言い聞かせるように呟く。

「結局、お前は男に取り入るしか能がないんだな」

 その暴言は、離れたテーブルにいる倫子の耳には届かなかった。

 倫子は智也の方を見ることもなく、壇上へ向かうイーサンの背中を、静かに見つめていた。

紡里

朝倉倫子:奨学金で医師を目指すが、妊娠により休学。夫・桐生智也に冷遇されて離婚し、復学して医師となる。 白木美琴:医療法人の理事長の娘。広告塔になるべく「天才外科医」を名乗る。 桐生智也:美琴の恋人だったが、倫子と結婚した。離婚して、美琴と再婚。IT企業の二代目社長。

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  • 離婚?上等!――クズ夫と裏切った親友を捨てた私は、世界一の外科医になって御曹司に溺愛されます!   38.出立する準備

     朝倉倫子は故郷から東京へ戻った。 まずは大学病院で、西園寺澄子の予後を確認する。彼女は食事もしっかり取れるようになっていた。「いい感じね」 倫子がそう言うと、山本准教授が嬉しそうにうなずいた。「医者の指示をよく聞いてくれる、いい患者さんです」「早く、良くなりたいですから」 澄子はゆっくり、口をあまり動かさないようにしゃべった。 病室を出ると、山本准教授は改まって言った。「とても見事なオペだったと、蒲田から聞きました。今回私は主治医として全体を見ていましたが、次はぜひ、ご一緒したいと思っています。 中井教授も、また新たな可能性が見えてきたとおっしゃっていましたよ」「光栄です」 倫子はにこやかに応じた。 そんな挨拶を交わしていると、イーサンがスマートフォンを操作しながら口を挟んだ。「マスコミの取材希望が、こんなに来ています。主治医は山本准教授だと返していいですか?」「大半が『再生の魔術師』か『美人女医』を取材したいんじゃないですかね。本当に医学の話を聞きたい人は、引き受けますよ」 山本准教授がそう請け負ってくれたところで、倫子たちはホテルに帰ることにした。 ホテルの上層階にあるティールームで一休みする。「一度、記者発表をしたから、必要がなければ私は前面に出なくていいわよね」「そうですね。軽々しく露出を増やして、桐生美琴と『美人女医』の称号を争い、安っぽくなったら困ります」「それは絶対に嫌だわ。今まで以上に難癖を付けられるわよ」 倫子は即答した。 少し前までは美人と言われるのに抵抗があったが、プロにメイクしてもらうとそれなりに見られると認識を新たにした。「美琴はバイタリティがすごいと思うわ。私は、あんなにエネルギッシュに活動できないもの」 倫子はこってりしたベイクドチーズケーキをフォークで口に運んだ。「ドクター・リンは、仕事に全精力を傾けていますからね」 イーサンは珈琲を飲みながら、笑っている。「……医学以外のことにも力を注いでいるのに『天才』と呼ばれるんだから、美琴はすごいわね」 どうしても、美琴に負けたという記憶が倫子を弱気にさせる。 おしゃれをして、デートをして、それをSNSに投稿して、取材を受けて……。倫子にはとても真似できない。「SNSで見

  • 離婚?上等!――クズ夫と裏切った親友を捨てた私は、世界一の外科医になって御曹司に溺愛されます!   37.倫子の研修医時代

    「倫子、病院に来てたんだってな。リハビリルームまで会いに来てくれればよかったのに」 三枝哲郎が、仕事帰りに朝倉家に来て、そう言った。「……哲郎はどうせ家に来ると思ったから」 朝倉倫子は、少し素っ気なく答える。「来るけどさ。冷たいなぁ」 哲郎は笑いながら、温かい室内で曇った眼鏡を拭いた。 病院長から哲郎がいろいろと手を回してくれていたと聞いて、倫子はどんな顔をすればいいのかわからなくなったのだ。「皆揃ったなら、ご飯にするわよ」 母の声がして、みんなで居間に移動した。懐かしい家庭料理が並んでいる。「お母さん。明日、お父さんのお墓参りに行ってくるわ」「もう、急に言うんだから。明日はシフトが入っているから休めないわよ」「一人で行けるわよ。お墓の場所を忘れたりしなし、大丈夫よ」「そういうことじゃないでしょ。一匹狼な体質は相変わらずね」 母との言い合いに倫子は顔をしかめながらも、心の中は弾んでいた。「明日だったら、俺が付き合うよ」「哲郎だって、患者さんとの予定があるでしょう」「いや、元々休む予定だったんだ」「何か用があるからでしょ?」 倫子は煮浸しを箸で摘まんだ。「……倫子が来てるから。お土産を買うとか、手伝ってやろうと思ってさ」「まあまあ。哲郎君ありがとうね。ほら、倫子お礼は?」「お母さん、ご厚意に甘えすぎ。図々しいよ」「遠慮して断る方が失礼なこともあるでしょ。ねぇ?」 そんな光景をイーサン・タンは微笑ましく眺めていた。 翌日、本当に哲郎がやって来た。「ふむ。まあまあ、かな」 倫子の顔を見ながら、哲郎はそう言った。「何が?」「寝不足チェック」 哲郎が自分の目の下を指でトンと叩く。「隈ができてるかってこと?」「哲郎さん、ファンデーションの威力ですよ」 イーサンが横から告げ口をする。 そんな二人のやり取りを眺めながら、家の中が賑やかなのはいいなと改めて思った。 哲郎に車を出してもらい、お寺へ向かう。 代々の墓石を掃除した。母がまめに来ているのか、土埃を拭うくらいですぐ終わる。花立てに花を挿し、線香に火をつけて静かに手を合わせた。 心の中で、海外に渡ってからのことを父とご先祖様に報告した。 線香の煙が空に昇っていく。そんな中で、イーサンが言った。「ドク

  • 離婚?上等!――クズ夫と裏切った親友を捨てた私は、世界一の外科医になって御曹司に溺愛されます!   36.研修をした病院

     朝倉倫子は、研修医時代に最初の一年間を過ごした病院に挨拶に来た。「病院長、その節はお世話になりました」「朝倉君の活躍は聞いている。医師を続けていることが、なにより嬉しいよ」 初老の病院長は、にこやかに席を勧める。「こちら、オーレリア・メディカル・グループのイーサン・タンです」「秘書業務をしておりますので、手術依頼などは私の方へご連絡ください」 イーサンが名刺を差し出した。「朝倉君は人が好いから、こういう窓口になってくれる人がいるなら安心だ」 病院長は、まるで孫の心配をするような口調で言った。「作業療法士の三枝君とは結婚しないのかね?」「そのような関係ではないですよ」 倫子は軽く受け流した。こういう質問には、もう慣れた。「だが、今も仲がいいのだろう?」「三枝君は面倒見がいいですから……」 倫子の言葉を、病院長は遮った。「いや、彼は患者にはフレンドリーだが、基本的に人付き合いは悪い方だろ。仕事が終わったらすぐに帰って、ゲームをやっているそうじゃないか」「高校時代もそうでした。……そういえば女子生徒とは距離があったかもしれません」 華やかで中心になるグループでなければ、そんなものだろうと思うが。「お節介を一つ焼こうか」 病院長が、意味ありげに倫子を見る。「もう七年ほど前になるか。朝倉君が専業主婦をやっている頃に、手の再手術をやっただろう?」「はい。突然の話でしたが……あれから人生が好転したんだと思っています」 倫子は右手の手術痕をそっと撫でた。「執刀した五味常子先生は、そちらの国際医療グループの医師だ。そうだな?」「はい。ドクター・ツネコの強い希望で、日本の病院へ派遣しました」 イーサンが肯定した。「最初に手術をしてくれた医師から連絡があって、最新の術式を受けてみないかと……。まだ成功率が低い手術で、症例を集めたいと――」 倫子は話の流れが読めず、戸惑っていた。「ああ、ずいぶん脅されたんだね。数少ない成功例が、ドクター・ツネコのオペだった。 五味家は、三枝の本家筋だ。三枝君が、親戚の五味医師に頼み込んで手を回した。彼は自分からは言わないだろうが、知っておいてほしい」 病院長が、さらりと言った。「……どうして?」 それが倫子の正直な気持ちだった。 三枝哲郎は高校時代の同

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