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第277話

Auteur: 知念夕顔
承平が何度も願いと繰り返すたびに、郁梨の胸の奥が一瞬だけ揺れた。けれど、その温もりはほんの刹那のことだった。すぐに彼女は理性を取り戻す。

信じてはいけない。もう二度と、彼を信じてはいけない。自分にそう言い聞かせた。

今さらそんな言葉を並べたって、もう遅い。

郁梨はうつむき、彼を見ようともしなかった。承平はそれを、心が動いたのだと勘違いし、彼女の顎をそっと持ち上げて唇を重ねようとした。

紅い唇がすぐそこにあった。あと少しでその甘さに触れられる――そう思った瞬間、郁梨は顔をそむけた。

承平の温かい唇は、彼女の頬に落ちた。

拒まれた承平は、顎を強くつかみ直し、無理やり顔をこちらに向けさせた。それでも郁梨は目を伏せ、彼を見ようとしなかった。

二人の距離はこんなにも近いのに、承平には彼女がどこまでも遠くに感じられた。郁梨はもう彼を求めていない。受け入れてもくれない。たった一度の、やり直す機会さえも与えてくれなかった。

この現実を突きつけられ、承平の指先がかすかに震えた。

どうして、こんなことになってしまったんだ。なぜ彼女は、こんな仕打ちをするんだ。

「郁梨、俺から逃げられないこと、わかってるだろ?」

その言葉に、郁梨はようやく彼を見た。そして、静かにうなずいた。「ええ、わかってるわ」

承平は彼女の顎をつかむ指にわずかに力をこめ、低く問い詰める。「俺を拒めばどうなるか、わかってるはずだ。それでも、その態度を俺に見せたいってわけか?」

郁梨はもう一度、はっきりとうなずいた。「ええ」

「……いいだろう、上等だ」承平は口の端を引きつらせ、無理に笑みを作った。その笑みには怒りと痛みが混じっていた。「郁梨、たいしたもんだな。お前はいつだって、俺の優しさを徹底的に壊してくれる」

郁梨は静かな目で彼を見つめ、淡々と口を開いた。「本当の優しさは、壊れたりしないわ。あなたの優しさが壊れるのは、それが最初から偽物だから。承平、あなたの言うチャンスをくれなんて、結局は私を縛るための罠でしかない。二人の結婚を支えるのは、愛だけ。あなたは、私を愛してるの?」

愛?

その言葉は、承平にとってあまりにも遠いものだった。今まで一度も、まともに向き合ったことのない領域。

彼は口を開いた。けれど、喉の奥に何かが詰まったように、声が出なかった。

郁梨は静かに笑った。「ほらね。あ
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