LOGIN夜更けだった。陣内皐月は眠っていた......陣内杏奈はガウンを羽織ってベランダに出た。目の前に広がる夜景を眺めている。C市はB市ほど賑やかではない。マンションのベランダからは遠くの山々まで見渡せる。そして、その山の向こうには、服役中の中川直美がいる。彼女は模範囚として、3ヶ月の減刑をもらっていた。陣内杏奈は手に持った、一度破って貼り合わせた招待状に目を落とした。【九条津帆、桐島優】【末永くお幸せに】......九条津帆が結婚する。わざわざ招待状を送ってきたということは、きっと彼は自分を恨んでいるのだろう。宮本翼の子供を妊娠したと言ったことを。あの頃の感情や結婚生活は、もう過去のことなのに、この招待状は心に波紋を広げる石のようだった。まるで、この破れて修復された招待状のように。忘れようとしても、記憶の断片が繋がる。陣内杏奈は夜の闇の中、長い時間立ち尽くしていた。翌朝早く、陣内皐月は出発した。陣内杏奈は彼女を見送った。陣内皐月は黒い車の後部座席に乗り込んだものの、堪らず再び車を降りてきた。そして、陣内杏奈の膨らんだお腹に優しく触れながら、穏やかに言った。「出産予定日の1週間前にはこっちに来るから。赤ちゃんが生まれたらお母さんも喜ぶわ。2ヶ月経ったら一緒にお母さんに会いに行って、赤ちゃんを見せてあげよう」陣内杏奈もお腹に手を当てた。そして、しばらくして小さく「うん」と答えた。......5月20日。九条津帆と桐島優の結婚式当日。陣内杏奈は3日早く出産を迎えた。C市第一産婦人科病院。高級出産室には陣内皐月がB市からわざわざ呼んだ優秀な産科医がいた。しかし、それでも陣内杏奈の出産には予期せぬ事態が起こった――難産。そして大量出血。陣内皐月は廊下に立ち、血の混じった洗面器が次々と運ばれてくるのを見て、目の前の光景に言葉を失った。彼女は医師の腕を掴み、必死に叫んだ。「杏奈に最高の薬を使って、お金ならいくらでもあります!最高の薬を使ってください!」医師は陣内皐月が取り乱しているのを見て、「最善の治療を施しています。今はショック状態を防ぐために輸血が必要です」と落ち着かせようとした。陣内皐月はかすれた声で言った。「私の血を使ってください」500ミリリットルの採血を終えた陣内皐月の顔色は悪
一瞬、空気が凍りついた。桐島優は内心穏やかではなかった。しかし、今日は父親の誕生日で、親戚一同が九条津帆との顔合わせを待っている手前、彼に文句を言うわけにはいかない。桐島優は優しく微笑んで言った。「着いたのに、どうして入らないの?みんな待ってるのよ」九条津帆は我に返った。夕暮れの中に立っているのは、自分を気遣う婚約者の桐島優であり、陣内杏奈ではない。自分の元妻ではない......自分が気にしている女性ではない。彼は気分が優れず、何も言わずに車から降りた。二人は夕暮れの中を並んで歩き、まさに絵になる光景だった。道行く桐島家の使用人たちが次々に挨拶をする。「優様、九条様」九条津帆は気高く、返事をしなかった。桐島優の心は甘い喜びで満たされた。彼女は思わず九条津帆の腕に自分の腕を絡ませ、彼の肩に頭を寄せた。繊細な肌が上質な生地に触れる。長い髪を下ろした桐島優は、幾分物憂げに見えた。しかし、九条津帆は相変わらず優しさを見せなかった。彼女は落胆したが、気にしなかった。九条津帆は女心に疎いかもしれないが、それはどの女性に対しても同じこと。こんな夫なら出張に出しても安心だ。桐島優にとって、夫婦はべったりしていなくてもいい。彼女が理想とする愛は、彼と頂点で出会うことだった。リビングに入るとすぐ、桐島勉が近づいてきて言った。「津帆くん」こう呼べるのは桐島優の両親だけだ。他の親戚は九条津帆を見ると「九条社長」と呼ぶ。一つは九条津帆がビジネスの世界で特別な地位にあるから。もう一つは、彼が誰にでも親しくするタイプではないからだ......誕生日パーティーは終始、温かいとはいえない雰囲気だった。......九条津帆は桐島家の宿泊の申し出を断り、車で家に向かった。車から降りると、言いようのない疲労感に襲われた。桐島家では手厚くもてなされ、普段の接待に比べればずっと楽だったはずなのに、今夜はなぜか気分が沈んでいた。彼自身もその理由が分からなかった。もうすぐ夏。あたりにはセミの鳴き声が響いていた。九条津帆はジャケットを手に玄関を通り、リビングに入った。すると、使用人たちがまだ忙しそうに働いている。荷造りをする者、掃除をする者。まるで引っ越し騒ぎのようだ。九条津帆はシャンデリアの下に立ち、眉をひそめた。「これは一体何をしているんだ?」
伊藤秘書はすぐに事の顛末を簡潔に説明した。もちろん、陣内皐月が招待状を破り捨て、社長を罵ったことは伏せた。そして小声で尋ねた。「社長、まだ陣内さんの行方を捜しますか?」九条津帆は背を向けた。夕焼けを見ながら、伊藤秘書が戻る前の高揚感はすっかり消え失せていた。陣内杏奈がB市にいないということは、きっとH市へ行って宮本翼と暮らしているのだろう。しかし、なぜ結婚しないのか......もしかしたら、宮本家の反対にあっているのかもしれない。九条津帆はずっと立ち尽くしていた。目がかすんでくるまで立ち続け、そして低い声で言った。「もういい」伊藤秘書は九条津帆の背中を見つめた。孤独な背中は、もうすぐ結婚する新郎とは思えなかった。まるで失恋した男のようだった。この半年間、社長と桐島優の交際を思い返しても、恋心は感じられなかった。伊藤秘書は何か言いたげだったが、口を閉ざした。彼女が去った後も、九条津帆は一人で長い間立ち尽くしていた。デスクの上のスマホが鳴って、ようやく我に返った。電話に出ると、桐島優からだった。今夜は彼女の父親・桐島勉(きりしま つとむ)の誕生日で、婚約者である九条津帆にも顔を出してほしいと言われた。九条津帆は桐島優の話を聞いて、淡々と、「わかった」と言った。一時間後、彼は車で桐島優の家に向かった。桐島勉と一杯飲むために、高級なワインを二本持参した。黒いロールスロイスを停め、桐島家を見上げた。そして、元妻の家庭を思い出す。桐島優の家は陣内杏奈の家よりずっと裕福だった。彼女は一人娘で、両親も仲が良い。そんな家庭で育った子供は、きっと精神的にも強いだろう。九条津帆は思った。桐島優と結婚するのは悪くない、と。九条津帆はすぐに車から降りず、運転席でタバコに火をつけた。薄い青色の煙が立ち上るにつれ、九条津帆の頭には美しい桐島優の姿ではなく、雪の日に陣内杏奈が大きなお腹を抱え、肩を落としていた後ろ姿が浮かんだ......口の中のニコチンの味が苦くなった。桐島家の使用人は彼の車を見つけ、急いで桐島優に知らせに行った。「九条様がいらっしゃいました」桐島家のリビングには親戚一同が集まっていた。今夜は九条津帆の財力にあやかろうという魂胆もあったのだろう。使用人の知らせを聞くと、女性陣はすぐに桐島優に言った。「早く九条さんを迎えに行って
社長室のドアをノックする音が響き、伊藤秘書の声がした。「社長、お呼びでしょうか?」九条津帆は視線を落とし、招待状を見つめたまま伊藤秘書に言った。「この招待状を陣内家に届け、直接、杏奈に渡してほしい......これは、彼女との約束なんだ」招待状を受け取った伊藤秘書は、内心、驚いていた。社長と陣内杏奈が離婚してから、すでに8ヶ月。もう終わったことなのに、社長はまだ未練があるのだろうか。結婚式の招待状を送るなんて、嫌がらせとしか思えない。男女の間で、勝ち負けにこだわったら、負けだ。しかし、部下である伊藤秘書は、何も言えず、招待状を持って陣内家に向かった。陣内姉妹が今、住んでいる家の場所を知っていたので、簡単に見つけることができた。しかし、家の使用人は、陣内杏奈は数ヶ月前に引っ越し、お正月にも帰ってきていないと告げた。それを聞いて、伊藤秘書は呆然とした。数ヶ月前に引っ越し、お正月にも帰ってきていない?陣内の使用人は親切に教えた。「皐月様の会社に聞いてみてはどうですか?彼女なら、杏奈様の居場所を知っているはずです。そうでなくても、招待状を預かってくれるでしょう」伊藤秘書は、その提案を受け入れた。陣内皐月の会社に行くと、彼女は面会に応じてくれた。陣内皐月は忙しそうで、伊藤秘書が入室した時も書類に目を通していた。足音を聞いても顔を上げず、「津帆さんに言われて来たの?」と単刀直入に尋ねた。伊藤秘書は恥ずかしそうに、「はい」と答えた。陣内皐月はようやく顔を上げて彼女を見た。伊藤秘書は隠し立てすることもなく、鞄から結婚式の招待状を取り出して陣内皐月に渡した。しかし、彼女はすぐには受け取らず、冷ややかに言った。「わざわざ知らせに来たの?杏奈は彼と離婚したんだから、もう関係ないわ」陣内皐月の手強さは噂で聞いていたが、今日、ついに実感した。伊藤秘書は意を決して、「これは、社長の結婚式の招待状です」と言った。陣内皐月は興味深そうに招待状を受け取り、軽く目を通してから、そっけなく言った。「二人はすでに離婚しているんだから、関係ないわ。招待状一枚で杏奈が動揺すると思ってるの?彼は自分のことを過大評価しすぎよ。あなたから伝えて。派手に式を挙げるのは結構だけど、また離婚でもしたら、毎年招待状を送られても、お祝いなんて贈れないわよ」
藤堂群は車に乗り込んだ。バタンと車のドアを閉めると、九条津帆が住む別荘を後にした......藤堂群が去った後、別荘の使用人たちは慌ただしく動き始めた。二日酔いスープを作る者、顔を拭く者、九条津帆が少しでも楽になるようにと、使用人たちは慎重にコートを脱がせ、リラックスさせた。山下は九条津帆の首筋を拭きながら、説教じみた口調でまくし立てた。「お酒を飲みすぎですよ。元の奥様がいらっしゃらないと、しまりのないことこの上ありません。元の奥様は、本当によくできた方でしたのに。家庭的でいらっしゃいますし、旦那様のことをあれだけ気遣って......本当に素晴らしい奥様でした」「元の奥様」とは、陣内杏奈のことだろうか?九条津帆はソファに仰向けに倒れていた。周りのすべてが揺れ動いているようで、特に頭上のシャンデリアは激しく揺れ、ひどくめまいがした......そばでは、山下がまだ何かぶつぶつと言っていた。九条津帆はうるさく感じていた。今はただ二階に上がり、陣内杏奈と寝ていたベッドに横になりたいと思っていた。彼女の匂いはもう残っていないだろうが、二人の思い出はまだそこにある。九条津帆はふらつきながら立ち上がり、階段の手すりにつかまりながら二階へ上がった。山下は下から声をかけた。「二日酔いスープができましたよ。飲んでから寝なさい」しかし、九条津帆は手を振り、構わないと合図した。そして、うわごとを言った。「妻がいるから大丈夫だ!先に寝てくれ」使用人たちは顔を見合わせた。妻なんていない。二人はとっくに離婚している。しかし、すぐに彼女たちは気がついた。九条津帆は妻を恋しがっているのだ............九条津帆は二階に上がり、寝室のベッドにたどり着いた。そして、力なく倒れ込んだ。電気を点けていなかったため、あたりは真っ暗だった。それでも、彼はまぶしくて目が痛むような気がした。手で目を覆っても、熱い涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。頭の中は陣内杏奈のことでいっぱいだった。まだ彼女がここにいるような気がした。夢と現実の狭間で、陣内杏奈がまだ去っていないような錯覚に陥った。九条津帆が最も苦しいと感じた時、彼女が枕元で優しく自分の名前を呼び、シャツのボタンを外して楽にするように言ってくれる気がした......「杏奈」そ
陣内杏奈は九条津帆とよりを戻すつもりはなかった。実際、彼もその機会を与えようとはしなかった。皮肉を言うだけでなく、新しい彼女もできていたのだ。新しい彼女は九条津帆によく似合っていた。陣内杏奈は去年の会社の忘年会を思い出した。彼は自分を連れて行きたがらなかった。きっと九条津帆は、ああいう頭の回転が速くて、仕事ができる女性が好きなのだろう、と陣内杏奈は思った。彼女は冷静さを保った。二人は既に離婚しており、その関係は過去のものだった。陣内杏奈は桐島優に丁寧に会釈をして立ち去ろうとした。しかし、次の瞬間、九条津帆に腕を掴まれた。強く握りしめた。陣内杏奈の腕は激痛が走り、うっすらと青あざが浮かび上がってきた。思わず小さな悲鳴を上げ、彼を見上げた。陣内杏奈の瞳には、警告の色が浮かんでいた――九条津帆、私たち、もう離婚したの。新しい彼女がここにいるのに、こんな風に腕を掴むなんて、適切だと思ってるの?しかし、陣内杏奈はこれらの言葉を口にしなかった。そうすれば、惨めな思いをするのは彼女だけになってしまうからだ。九条津帆は当然、不適切だと分かっていた。それでも陣内杏奈の細い腕を掴んだまま、彼女の心に突き刺さる言葉を吐き捨てた。「陣内さん、安心してくれ。俺がいつか結婚する時は、真っ先に招待状を送るよ!」陣内杏奈は彼の目を見つめた。漆黒の瞳には、冷たさしか映っていなかった。陣内杏奈は痛々しく笑った。「陣内さん」か。あんなに好きだったのに、結婚生活の末に残ったのは、結局、「陣内さん」という他人行儀な響きだけだった。陣内杏奈は泣かなかった。離婚までしたのに、今さら何をくよくよするの?彼女はむしろ微笑んで言った。「楽しみに待ってるね。九条さん、もう手を離してもらえる?」「ああ」九条津帆は陣内杏奈の手を離すと、一歩下がった。そして、最後に彼女の少し膨らんだお腹に視線を落とした。この時、あらゆる言葉は色あせてしまい、何も言う必要はなかった。二人はついに終わりを迎えたのだ。陣内杏奈には他の人の子供がいて、自分にはお似合いの相手がいる。真冬。あたり一面には、真っ白な雪が残っていた。九条津帆は陣内杏奈の後ろ姿を見送った。妊娠した体。丸みを帯びた腰。少し肩を落とした、すっかり母親らしい姿。しかしこれからは、陣内杏奈は宮本家の







