琴乃には分かっていた。史弥が悠良を全く想っていないわけではない。ただ、いくつかのことを彼自身が見えていないだけなのだ。少しでも史弥の心が軽くなるよう、琴乃はわざと悠良の悪口を口にした。「もういいじゃない、史弥。今さら彼女が離婚したいかどうかなんてどうでもいいのよ。彼女がもういないんだから、行方不明で、生きてるか死んでるかも分からない。いないものだと思いなさい。幸い、少しは良心があるみたいね。身一つで出ていくなんて、自分があんたに釣り合わないって分かってたのよ。外の女みたいに財産を奪おうともしないで――」「母さん!」史弥が突然、声を荒げた。「そんなことを言うな!」琴乃は不満そうに唇を尖らせた。「わかったわよ......でもあなたもどうかしてるわね。玉巳と一緒になるって決めたんでしょ?悠良がいなくなった途端、また彼女のことを良く思うなんて......本当に、何考えてるのか分からないわ」史弥は離婚協議書を琴乃に差し出した。「母さん、これを公表してくれ。そうすれば今の窮地を打開できるかもしれない」琴乃は怪訝そうに彼を見た。「どういう意味?これを出したら、悠良が前から離婚したがってたって証拠になるだけじゃない?そうしたら、もっとネットで叩かれるわよ?」「今だって十分叩かれてるさ。でも、これを出せば、俺から離婚を望んだんじゃないって証明できる。悠良が最初から計画してたんだってな。たとえ見つからなくても、彼女が自分の意志で出ていったって言える。誘拐じゃない、って警察にも説明できる。そうしないと、見つかるまでずっと疑われ続ける。その間にも、会社の問題が山積みなんだ」失うものはあるが、少なくとも一つは守れる。琴乃はまだ迷っていた。この離婚協議書を公表すれば、別の火種になるかもしれないからだ。「本当に出していいのね?」「ああ」「......わかったわ」琴乃は素直に史弥の意向に従うことにした。二人が離婚できるなら、それでいい。「それと、離婚協議書だけじゃ足りない。以前の悠良と寒河江、それに西垣の関係を匂わせる写真も探し出して流せ。ゴシップをよく扱う人間にやらせろ。そうすれば、わざとらしく見えない」琴乃はその言葉
史弥はその紙を広げた瞬間、目に飛び込んできた「離婚協議書」の五文字に思わず息を呑んだ。最初は自分の目を疑った。だが、改めて確認すると、それは紛れもなく離婚協議書であり、末尾には悠良の署名がしっかりと記されていた。財産分与に関しては何も要求せず、全てを捨てて身一つで出ていくという内容だった。さらに中からもう一枚紙が出てきた。そこには、たった一言だけが残されていた。【史弥、私は聞こえるよ】その瞬間、史弥の黒い瞳孔が大きく見開かれ、指先が震え、紙はするりと落ちていった。どれほどの時間が経ったのか分からない。我に返った時、頭の中では過去の光景が映画のフィルムのように次々と再生されていた。悠良との日々――そして、悠良の目の前で、玉巳と通話し、言葉を交わした数々の場面。全て、彼女は聞いていたのだ。史弥の体から一気に力が抜け、その場に崩れ落ちるように座り込む。頭が割れるように痛み、今にも爆ぜそうなほどだった。彼は苦しげに頭を抱えた。まさか、悠良がすでに聴力を取り戻していたとは。そして、これまでずっと隠していたということは......玉巳との関係も、とうの昔に知られていたということになる。何も知らないふりをし、理解ある妻を演じ、彼の言い訳を信じるふりまでしていた。史弥は離婚協議書を握りしめ、胸の奥から燃え上がるような怒りがこみ上げた。彼女は、最初から自分の世界から姿を消すつもりだったのだ。直接伝えることすらせずに。結婚記念日には一緒に過ごすと、あれほど約束していたのに。震える指先、浮き上がる青筋、血走った眼。胸が引き裂かれるように痛む。そのとき、扉が開く音が耳に届き、史弥の全身がびくりと跳ねた。彼は慌てて立ち上がり、足早にリビングへ向かう。そこで目にしたのは――琴乃だった。胸の奥で僅かに灯った希望が、一瞬で灰となって崩れ落ちた。琴乃は史弥の様子がおかしいことにすぐ気付いた。その顔色は、紙のように真っ白だった。彼女は駆け寄り、声を上げる。「なんで電話に出ないのよ!」史弥の目は虚ろで、返事すらしない。琴乃は彼の目の前で手を振った。「史弥?どうしたの?」彼女の視線がふと下へ落ち、史弥の手に握られた紙に気付いた。魂が抜けたような様子で、その
伶が警察に通報したことで、悠良を故意に殺害しようとした者がいる――その事実はもはや隠しきれなくなった。事件に関係のある人物は全員、警察署へ呼び出され取り調べを受けたが、結果は依然として何の手がかりも得られないままだった。そしてさらに史弥を悩ませたのは、事件の発覚とともに会社「白川社」にも危機が訪れたことだった。まるであらゆる不幸が洪水のように押し寄せ、彼を押し潰そうとしていた。会社の対応を終えたときには、すでに深夜になっていた。疲れ切った体を引きずりながら家へ戻った史弥は、そのまま床に崩れ落ちるように座り込み、頭を仰け反らせて壁に凭れた。その姿からは、やり場のない虚脱と倦怠が滲み出ていた。部屋は濃い煙草の煙に満ち、重苦しく息が詰まるほどだった。悠良は、果たして目を覚ましたのか。頭の中では、その問いが何度も繰り返される。どこかに手がかりがあるような気もするが、深く考えれば考えるほど、どこかがおかしい気がしてならなかった。そのとき、杉森から再び電話が入った。「白川社長、取引先から立て続けに連絡が入っています。皆、今回の件で契約を打ち切りたいと......ネット上では、あなたと奥様に関する噂が飛び交い、もしこのまま収拾できなければ、会社は危機に陥る恐れが......」最後の一滴まで耐えていた忍耐が、その瞬間に音を立てて崩れ去った。史弥は手にしていた灰皿を壁に叩きつけ、鋭い破砕音とともに怒号を吐き出した。「メディアには手を回せって言っただろ!まだやっていないのか!」電話の向こうで杉森はしばし黙り込み、やがておずおずと口を開いた。「白川社長......すでに動いてはいます。ですが、向こうが言うには――誰かが『撤回するな』と命令を出しているらしく......」史弥の指が膝の上で止まり、眉間に深い皺が刻まれた。「......どういう意味だ?」「撤回するな、と言われているんです」「調べたのか?」「はい......寒河江社長です」「寒河江だと?」声が一段と高くなる。「メディア側の話を総合すると......恐らく彼の指示かと。直接は言っていませんが」史弥の唇から、冷たい嗤いが漏れた。「雲城でこんな真似ができるのは、あいつ以外にいない」杉森は訝しげに問いかける。
しばらくの沈黙の後、伶の口から低く絞り出されたのは、ただ一言だった。「生きていようが死んでいようが、必ず見つけ出せ」「はい!」病室の中では、史弥と孝之が悠良の件について話し合っていた。孝之はいまだ通報するべきだという考えを捨てきれずにいた。「俺たちだけで探して、本当に見つかるのか?もし手遅れになって命を落としたら、どうするつもりだ」史弥は孝之をなだめるように言った。「お義父さん、安心してください。もう人を派遣して四方八方探しています。必ず見つけますから。今通報すればメディアを刺激して、騒ぎが大きくなる。そうなれば、悠良を探すのが余計に難しくなるじゃないですか」「本当は白川家の評判や株価への影響を恐れてるだけだろ?白川、人命ってお前にとってそんなに軽いものなのか?」そのとき、伶が病室に入ってきた。二人の男の視線が空中でぶつかり合い、火花が散る。史弥は眉間に深い皺を刻み、声を張った。「寒河江社長、それはどういう意味?悠良は俺の妻、生死不明で一番焦っているのは俺のほうだ!」「そうか?本当に焦ってるなら、今すぐ通報するべきだろ。大事にすればするほど世間の目が集まる。ネットの注目が集まれば、彼女を見つける可能性だって高くなる」その言葉に、孝之はハッと気づかされた。「そうだぞ!史弥君、伶君の言う通りだ。今すぐ通報しよう。警察は専門家だ。俺たちが手当たり次第に探して、最良のタイミングを逃したら......悠良の命に関わる。俺は、あの子の死んだ母親に顔向けできない」焦りで冷静さを失った孝之は、他人の言葉にすがるしかなかった。だが、史弥の態度は頑なだった。「駄目です!通報なんてしたら......もし悠良が誘拐されていて、犯人が金だけを求めているなら、いずれ向こうから連絡が来るはずです。金を渡せば、自然と悠良は戻ってくる。今通報すれば、事態が複雑化して......彼女の命を危険に晒すことになります!」孝之は再び迷い、焦りで心臓が焼けつくように熱くなる。「じゃあ、どうすれば......」「もう少しだけ、待つべきだと――」その言葉に、伶の冷ややかな声が割り込んだ。「白川......君は父親の娘への心配を利用してるんだな?」伶はドア枠に身を預け、細く長い双眸
琴乃はそれを聞くと、勢いよく何度も頷いた。「ありがとうね、玉巳ちゃん。あなたはここで史弥のそばにいて、何か手伝えることがないか見ててちょうだい」「うん、任せて」玉巳は素直に頷いた。伶は顎に手を当て、深い瞳に鋭い光を宿しながら、何気ない口ぶりで呟いた。「演技うまいな。もし今回の件、収拾つかなかったら......まとめて役者にでもなれば?」伶の言葉はいつも直球だった。だからこそ、その一言で病室の空気はさらに冷え込んだ。三人の顔色はそれぞれ違う。琴乃は肩を小さく震わせ、咳払いしながら伶に言った。「伶、これは白川家と小林家の問題よ。悠良のお母さんがあなたに恩があるのは分かってるけど......でも、よその家のことに、そこまで首突っ込む必要ないんじゃない?それに......あなた、他人のことに無関心じゃなかったの?」伶は手を伸ばし、前髪を無造作に払うと、喉の奥から低くかすれた笑い声を漏らした。「俺はただ見物しに来ただけだ。なんだ?この茶番、見せ物にもしちゃいけないのか?」「......っ」琴乃はその言葉に詰まり、言い返せなかった。玉巳が琴乃の肩を軽く叩いた。「もう行こう、おばさん。史弥に解決すべきことがまだまだ山ほどあるから」琴乃も、自分が伶の相手にはならないことを分かっていた。彼にとっては年長だの年少だの関係なく、もし逆鱗に触れれば、たとえ実の父親だろうと容赦しない男なのだ。琴乃と玉巳が病室を出て行くと、伶は孝之に向き直った。「少し席を外す。煙草を吸ってくる」そう言って廊下に出ると、煙草の箱から一本くわえ、光紀が差し出したライターで火を点けた。骨ばった指先で煙草を挟み、ゆっくりと吸い込む。そして、悠良の病室に視線を送ったまま、低く問う。「調査はどうだ?」光紀が即座に答える。「小林さんの命を狙った者がいるようです。医者に成りすまし、注射器で薬を打ち込もうとした形跡が......ただ、実際に注射されたかどうか、彼女の現状がどうなのかまでは、まだ掴めていません」伶は袖をまくり上げ、逞しい腕に浮かぶ血管があらわになった。鋭い視線で光紀を射抜き、圧のこもった低音が波のように打ちつける。「こんだけ調べて、死んでるのか生きてるのかも分からないと言うのか?
一同にいた人々も思わず動きを止めた。その静けさを破ったのは、伶の低い声だった。「白川、君は本当に底なしのクズだな。ネットの連中がお前を叩き潰すの、むしろ正解だ」孝之は一瞬、意味が飲み込めずに聞き返した。「伶君、それはどういう意味だ?」「白川家は、通報したら事が大きくなり、白川家の評判や会社に影響が出るのを恐れているんだ。今でさえネット上での彼の評価は最悪だ。もしさらに『昏睡状態の妻すら守れず、失踪させた』と知れ渡ったら――ネットの連中はきっと彼を生きたまま食い殺すだろう」伶の言葉は鋭く核心を突き、史弥の顔は一瞬で強張り、険しい表情へと変わった。孝之もその言葉でようやく事の深刻さを理解し、史弥をまっすぐ見据え、信じられないという色を浮かべる。「史弥君......それは本当か?これは一体......」史弥は反射的に言い訳する。「お義父さん、違います!説明させてください!」「悠良はお前の妻だぞ。七年間もお前と一緒にいたんだ。あの時、もし彼女が砕け落ちる椅子からお前を庇わなければ、今耳が聞こえなくなっていたのはお前の方だった。ネットでお前が褒め称えられているのを見て、ずっと安心していた......悠良は幸せに暮らしているんだと。まさか裏ではこんな自分勝手な男だったなんて......お前にはガッカリしたぞ!」琴乃はすぐさま息子を庇い、鋭い声を張り上げた。彼女の年齢特有の甲高い声は、病室だけでなく廊下にまで響き渡った。「孝之!あんたの娘がいなくなったからって、なんでもかんでもうちの息子のせいにしないでくれる?大体、誘拐したのはうちの息子じゃないわ!息子は心血を注いであの子に尽くしてきたのよ!高価なウェディングドレスまで仕立ててやったのに、あの子はそれを売り払ったじゃないの!それでも息子は責めなかった!本来なら、白川家は悠良みたいな家柄を相手にするつもりはなかった!史弥が何度も頼み込んで、絶食までして抗議したからこそ仕方なく認めたのよ?あんたらみたいな貧しい家が、白川家に入れるとでも思ったの?」孝之は怒りに震え、胸を押さえながら声を震わせた。「お前......!悠良が嫁ぎたいと言ったわけじゃないんだぞ!そっちの息子が無理やり娶ったんだろうが!」「それは、あんたの娘がうち