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第326話

Author: ちょうもも
伶の署名する手が一瞬止まり、鋭い視線が光紀を射抜いた。

光紀はびくりと首をすくめ、思わず後ずさる。

彼の漆黒の瞳は冷ややかな光を帯び、切れ長の目尻は描かれたかのように美しい。

その孤高な気配に、光紀はもう何も言えなかった。

寒河江社長が口に出さずとも、心の奥底では小林さんを思い続けていることを光紀は知っていた。

この数年、全国を飛び回っているのは表向きは事業拡大のため。

だが実際には、小林さんを探すためでもある。

小林さんに関する噂を耳にするや否や、彼は必ずその場へ飛んでいった。

そして、何度も落胆してきたのだ。

それが小林さんの母のためなのか、それとも別の理由なのか、光紀にも分からない。

寒河江社長という男は、心の内を決して明かさない。

長年そばに仕えてきた自分でさえ、その胸の裡を容易に測れはしなかった。

光紀は部屋を出る前、机の上の契約書に目を落とした。

それは寒河江社長と悠良が交わしたもの。

静かにため息をつき、そのまま部屋を後にした。

五年後。

雲城で重大なニュースが流れ、瞬く間にトレンドに躍り出た。

孝之が病に倒れ、命の危機に瀕しているというのだ。

余命は長くない。

そして孝之が生前に抱く最後の願いは、小林家の長女・悠良に会うこと。

だが、あれから何年も経ち、悠良はまるで蒸発したかのように行方不明。

生死すらわからない。

孝之は、このまま娘を待ちながら息を引き取るのだろうか――

そんな言葉が、ネットのトレンドに踊った。

――

孝之の病室前。

雪江と莉子は病床に寄り添う。

孝之の顔は蒼白で、全身が憔悴しきっている。

手術室から出たばかりで、いまだ意識は戻らない。

それでも、口から洩れるのは悠良の名ばかりだった。

莉子は思わず唇を歪める。

「......ほんと、お父さんは何考えてるのよ。こんな時まで悠良、悠良って......あの子、お父さんに何か魔法でもかけたの?」

雪江も、長年行方不明の悠良をここまで気にかける孝之に、やり場のない苛立ちを覚えていた。

全部、春代のせいだ。

「あなたもあなたよ。あれだけ苦労して寒河江と縁を結ばせたのに、悠良がいなくなった今、障害なんてもう無いじゃない。なんでまだ落とせてないの?」

伶の名を出され、莉子の表情は一気にしぼむ。

「言うのは簡単だけど。あの寒河江
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