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第338話

Author: ちょうもも
「でしょうね。無駄だってわかってるのに、横で叫んで運転手の気を散らしたら、命なんてもっと早くなくなるでしょ」

悠良はもう周囲の目など気にも留めず、地面にだらしなく腰を下ろした。

「それに、今の寒河江さんですら死を恐れないのに、私が怖がるわけないでしょ?」

伶はゆっくりと身を屈め、冷たい指先で彼女の顎を挟み、ぐいと持ち上げて視線を絡める。

悠良の絵のように整った目元には、どこか悪戯めいた光が宿り、唇の端がわずかに上がっている。

顔立ちはあの頃と変わらない。

けれど、五年前の彼女とは違った。

今の彼女の背後には、まるで覚醒したライオンのように、己の牙を知る強さが潜んでいた。

伶は見下ろしながら、ざらついた指先で顎の線をなぞり、口元に笑みを浮かべつつも声は淡々としていた。

「違約金を払って、この件を終わりにしたいってわけか」

「はい。あの契約には違約金の条項があったはず。原額で払うから、契約なんてなかったことにしましょう」

悠良は、伶がこの話題を自ら持ち出したことで、少しは望みがあるかと思った。

だが、伶はふいに手を離し、軽く舌打ちする。

「俺が、金で片付けられる男に見えるか?」

さっきまで緩んでいた眉が、悠良の顔で一気に寄せられる。

「どういう意味ですか?」

伶の唇に、冷ややかで傲慢な笑みが浮かぶ。

その圧迫感で、周囲の空気が一気に重く沈んだ。

「まだわからないのか?悠良ちゃん。

この契約は、一度交わしたら君の都合で終わらせられるもんじゃない。

終わりにするかどうか、決めるのは俺だ」

耳元にかかる彼の熱い吐息。

けれど悠良の全身には、逆に冷たいものが走り、頭のてっぺんから指先まで凍りつくようだった。

その声が呪いのように耳にこびりつく。

悠良は目を上げ、凛とした視線をぶつける。

「寒河江さん、私たち、何の因縁もないでしょ。

契約一枚のために、そこまで私を追い詰める必要あります?」

伶はマンションの方へ二歩進み、ポケットに両手を突っ込む。

姿勢は気だるげなのに、その目だけは刃のように鋭く光っていた。

「君が署名したんだ。そして俺は契約破りが嫌いだ。

交わした以上、最後まで果たしてもらうよ」

あの時、サインなんてしなければよかった。

悠良は心底そう後悔した。

厄介さで言えば、伶は史弥以上だ。

「どうして、よ
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