ログイン夫に裏切られ、冤罪で刑務所へ送られた。それが桜庭凜華のすべてを奪った結婚生活の結末だった。 天才外科医として名を馳せていた彼女は、夫・直哉の証言により有罪判決を下され、地位も名誉も、人生そのものを一瞬で失う。 絶望の獄中で、誰にも知られぬまま娘の日葵を出産。 出所した瞬間、彼女は決断する。すべてを捨てると。 「もう二度とあの男には関わらない」 しかし運命は彼女を許さなかった。 「やっと見つけた」 後悔に狂った夫が、再び彼女の前に現れる。 かつて兄のように慕っていた幼なじみまでもが、愛という名の執着で彼女を縛り始める。 逃げたい女と手放せない男たち。 壊れた真実の果てで、再び交わる運命は――救いか、それとも地獄か。
もっと見る駅から徒歩十分とは思えないほど、静かな環境に佇んでいる女性刑務所がある。
刑期を終えた女性が一人、晴れ晴れとは言えない表情をし、静かに門を通り過ぎた。空は薄暗く曇り、冷たい風がバサッと吹く。肩までいかないくらいの彼女の短い髪の毛を揺らした。
彼女の名前は、桜庭 凜華《さくらば りんか》。年齢は、三十二歳。
彼女は今、一年ほどの刑期を終えて出所をした。
見送る刑務所職員は冷ややかな目で彼女を見つめ、その目線に気づいたためか、彼女は深くお辞儀をしている。模範のような態度であるのに、軽蔑ともとれる眼差しを向けられ、彼女は目線を逸らした。「刑務所なんて、縁がないと思っていたのに」
ぽつり呟いた本音は、風の音とともにかき消される。
彼女はかつて名医だった。だが、わずか一夜にして、その地位も名誉も奪われ、囚人の身となった。屈辱にまみれた刑務所での一年の間に、彼女はひとりの子を産んだ。そして、その子の父親こそが、彼女を刑務所に送り込んだ張本人だったのだ。
頭の中でその事実がぐるぐると回る。胸が締めつけられ、目の前の世界がわずかに揺れた。その時、遠くから見覚えのある人物が手を振る姿が目に入る。
「日葵《ひまり》……!」
思わず彼女は声をあげた。
駆け寄り、その存在を確かめるようにふわっと抱きしめる。
「うー。あー」喃語しかまだ発することのできないわが子に向かい
「ごめんね。ごめんね」
涙を流しながら頬を擦り付けた。
乳児は自分の母親だということを理解しているのか、少し強引に頬を擦り付ける彼女に泣き叫ぶこともなく「ううー」と上機嫌に瞳を大きく輝かせている。「これからはずっと一緒だよ」
彼女は大切なわが子に言葉を伝え、子どもを連れてきた使用人に向かい「ありがとう。あとは大丈夫」
覚悟を決めたかのように力強く告げる。
「はい」使用人は頭を下げ、その場を去った。
五分後、彼女はわが子を抱えたままバスの後部座席に腰を下ろし、目立たない隅の席に座った。周囲の冷たい目線は、もはや彼女の視界には入らない。今の彼女にとって、自分の身なりや匂いなどどうでもいい。
ただ、目の前の小さな命をしっかりと抱きしめたい――。
その思いだけだった。
一時間後――。
刑務所の前には似合わない漆黒の限定ロールロイスが静かに停まっていた。
後部座席の男は眉をひそめ、冷え切った眼差しで、近寄りがたい威圧感を纏っている。 その男、桜庭 直哉《さくらば なおや》は無言のまま、ずっと刑務所の門を見つめていた。直哉は求めている人物が現れないためか、腕時計に一瞥を投げ、再び前方に視線を戻す。「まだ出てこないのか」
重低音の声音、その声は氷のように冷たく、車内の空気を凍らせた。 長い付き合いである運転手は「手続きに少し時間がかかっているようです」
直哉を逆なでさせないよう、慌てながらも言葉を選び答えている。「旦那様が自ら迎えに来てくださったと知れば、奥様もきっと喜ばれるはずです」
「……。そうか」
直哉は顔も上げず、淡々と呟く。
「一年前、あいつがライバル企業へ機密を流した時点で、こうなる覚悟くらいしていたはず」「何不自由ない立場を捨て、あいつは自ら地獄へ落ちた。全部、自業自得だ」
冷え切った声音に恐怖を覚え、運転手はそれ以上何も言えなくなった。しばらく沈黙が続き、運転手は窓を開けて外の空気を入れようとした時、すれ違うバスに目が留まる。「あれ?あの方は奥様では……」
後部座席の直哉はこめかみを押さえた。
昨夜は医学会に徹夜で臨み、深夜まで仕事に取り組み、今は強い疲労感に襲われている。彼は目を閉じたまま問いかける。
「誰のことだ」「あ、申し訳ございません、見間違えです」
運転手は慌てて頭を下げ、謝罪した。「奥様が出所されたのかと思いましたが、赤ん坊を抱いていた女性でした......」
(旦那様と奥様は結婚後三年も夫婦の仲は冷え切っていて、そんなことをした経験など一度もないはずだ。あの女を奥様と見間違えるなんて......)運転手がそんなことを考えていると、
直哉は静かに目を開けた。ちょうどその時、横を走り抜けたバスの窓に、一瞬だけ女性の横顔が映る。
――今のは。 直哉は無意識に目で追っていた。すぐに視線の端を過ぎていく。 それなのに、妙に胸の奥に引っかかる。「カメラだと映像が小さい。モニターに映し出せ」 直哉は書斎に設置してあるスクリーンを出すよう指示を出す。「かしこまりました」 涼真と琥珀に見つかってしまった動揺をまだ隠しきれない使用人は、いつものスムーズな対応ができず、さらに焦る。(まずい。落ち着け。きっと大丈夫だ) 書斎にミニシアターほどのスクリーンが現れ、直哉は凝視する。「これが……。凜華か」 モニターに移されたのは、凜華と小さな乳幼児、琥珀の姿。「こいつは……」 凜華の隣で仲睦まじい様子で話す医師の姿が直哉は気になった。「仁王氏です」(これが、仁王琥珀か。まだ子どもみたいな奴じゃないか) 年下、それに童顔の琥珀を見て、どこかで見たことがあると直哉は思い返す。「あの時の男か!」 思わず声を大きくした。「あの時、凜華から離婚届けを預かり、俺へ届けた男。凜華は友達の弟などと嘘をついていたが、今は宗像の病院に勤める医師だな」 直哉は、はじめて面会室で会った時、たしかに来客者に<仁王>と名前の記載があったのを思い出す。(凜華はこいつをかばっていた。友達の弟だと関係に嘘をついていたな。俺にこいつの身分がバレてしまうのが怖かったのだろう)「それほどまで大切にしたい相手か」 琥珀が柔らかい表情で凜華へ話している姿を見て、腹の奥底から何か湧き上がるものがあった。 が、凜華の腕の中にいる乳幼児へ目線が行く。「まだこの赤ん坊を預かっているのか。入院しても尚、ともにいなければならない存在なのか?」 凜華が大事そうに抱いている乳幼児、子どもなど興味はないのに。なぜかその子から直哉は目が離せなくなった。 琥珀に抱いた真っ黒い感情も薄れ、その子を見ていると心が少しだけ和む気がする。(やはり凜華に似ている……。まさか……) 直哉が考えないようにしていた可能性。その子どもが<預かっている子ども>ではなく、凜華の子どもだとしたら――? そう思った瞬間、画面は切り替わり、映像が終わってしまった。「以上になります」 そそくさとカメラを片づける使用人に、直哉は違和感を覚える。(おかしなところで映像が切れている。最後、一瞬だけあの男が映ったような気がした)「最後の部分だけ、もう一度映せ」「へっ?」「命令だ」 使用人の手が止まる。 しぶしぶと映像を再び流した。最後の一分間は直哉の指示通
琥珀の緊迫した声を聞き、指示通り病室の中で避難していた凜華の心臓の音は速い。 病室の外では、涼真と琥珀の声が聞こえ、その声は病室内にはわずかにしか聞こえてこない。 そんな中、中年の男性の声も同時に聞こえてきた。(何が起こっているの……?) 日葵を巻き込みたくはない凜華は、物音が収まるまでその場を動かずにいた。 その時、涼真の声で<桜庭直哉>という名前が聞こえる。(まさか、直哉が関わっている?) 凜華は直哉が何を仕掛けてきたのかはわからなかったが、二人が心配になり、スッと日葵をベッドの上に横にさせ、出口近くまでゆっくりと歩き、聞き耳を立てていた。 聞き取れなかった男の声が、わずかに聞こえてた。<直哉様は奥様のことを……> その続きは聞こえない。 チラッと外を見ると、涼真と琥珀二人だけの姿がそこにある。 警備という声も聞こえたが、警備スタッフもどこかに行ってしまったようだ。(さっきの男性は、警備の人に連れて行かれたのかしら?) 涼真と琥珀は落ち着いて会話をしており、危険そうな気配はない。 恐る恐る扉を開けようとした時、琥珀の声が聞こえた。「桜庭さん、凜華さんがここにいるってわかったんですね」(えっ……)(直哉が私がここにいるってわかって、誰かを送り込んできたの?)(何のために?) 落ち着くために、凜華はベッドへ戻り、日葵を抱き上げる。 不穏な空気を感じていないのか、日葵は、きゃっきゃっと声をあげるだけだ。 日葵の顔を見ていると、涼真と琥珀の二人が部屋に入ってきた。「直哉が……。何をしてきたの?」 思わず、聞いてしまった。 何が起こったのか真実を聞きたかったから。 涼真と琥珀は、顔を見合わせるも、口を開いたのは涼真だった。「隠していても仕方がない。桜庭直哉が凜華の様子を探るために、使用人か密偵を送り込んできたんだ」(私の様子を探るために……?)「直哉さんは奥様を心配して……。なんてさっきの男は言っていましたが、正直、信じられません」 琥珀も事実を述べた方が凜華のために良いと考え、男の発言をそのまま伝えた。「そんなこと、ありえないわ。直哉が私のことを心配するなんて」(私を心配しているなんて嘘よ。きっと何か裏があるんだわ)「病室がわかってしまった。凜華も体調が良くなっているから、病室を変えるか」「そうですね
「宗像……!」 帽子の男は涼真に気づくと、慌てて出口へ走り去ろうとした。「ちょっと待て!」 涼真が機敏に対応し、男の腕を掴む。 左右に動き、ジタバタと男は必死に抵抗をしている。「何の騒ぎですか?」 物音を聞きつけた琥珀は、凜華の病室から出てきた。 一瞬で不審者がいることを理解した琥珀は、涼真に加勢し、男の腕をとる。「凜華さんと日葵ちゃんは、危ないんで出てこないでください!」 病室の中から心配そうに見つめる凜華に気づいた琥珀は、声をかけ指示をした。「やめろ!離せ!俺は何も悪いことはしていない!」 涼真と琥珀、二人がかりで床へ押さえつけられた男は、息を切らしている。 だが、抵抗することを止めなかった。「今、俺が押さえているから。仁王は病院の警備へ連絡をしろ!」「わかりました」 琥珀は、携帯を取り出し、電話をしている。 数分後、警備がかけつけ、男は取り囲まれた。「何をしていた? カバンのものを出せ」 涼真が指示をするも、男は何も言わず、カバンだけは頑なに渡さなかった。「埒が明かないな。面倒なんで、警察へ通報しますか?」 琥珀が男の様子を見て、ため息をこぼす。 警察という言葉を聞き、男が肩を震わせたように見えた涼真は、この男が何が目的で凜華の部屋をのぞいていたのかを考察していた。(凜華の病室はVIP対応の特別な病室だ。金目当ての強盗の犯行か?)(いや。凜華は一人ではなかった。仁王が病室にいたにも関わらず、こいつは逃げていない。盗み目的ならすぐに隠れるはず)(まさか……。こいつは……)「お前。桜庭直哉の密偵か?」 直哉が男に視線を合わせそう告げると、男は瞳孔を大きくさせた。 びくっと身体が反応したようにも見える。「違う」 何も言葉を発しなかった男が、わざわざ否定をした。「何を指示されてきたんだ。言え。言わないと、本当に警察に引き渡すぞ」「お前が警察に引き渡されたら、桜庭涼真にだって捜査の手が伸びる。それでも良いのか? まだここで俺に正直なことを話した方が楽だぞ」 涼真が揺さぶりをかけると、男は眉を動かしながら、悩んでいるようだった。 涼真は琥珀に向かい、スマホへ目線を送る。 琥珀は男にわからないように頷いた。「直哉様は奥様のことを心配されていて。私が代わりにただご様子を伺いに来ただけです。受付で確認をしても
「患者情報にないだと!?」 休日だった直哉は、自宅書斎にいた。 確認しなければならない書類を持っていた直哉だったが、その手が止まる。「はい。運ばれそうな周囲の病院を十か所調べましたが。情報にありません」(いや、こんなことができるのは……)「宗像涼真のいる病院を調べろ。あの病院には、仁王もいるんだろう? あいつらが関わっている可能性が高い」「宗像涼真氏がいる病院も調べましたが、情報にはなく……」「情報に載せないよう、病院内部に指示を出しているはずだ。あいつの力ならできるだろう」 院長及び経営者としてカルテを隠している可能性もある。 偽名で入院させていることも考えられる。 凜華の保険料が滞納されているとしたら、自費診療にもなる。 さまざまな可能性を考えても、凜華がそこにかくまわれている確率が高いと直哉は考えた。「かしこまりました。内部から調べてみます」 使用人は深く頭を下げ、書斎から出て行く。「くそ。使えない奴ばかりだ」 ドンっと直哉は机を叩く。「俺から逃げて、幸せになれるなんて思うなよ」・・・「うーー。あーー」「日葵、会いたかった!」 凜華は変わらず入院をしていたが、快方に向かっていた。 ゆっくりではあるが、身体を動かすこともできる。 血液検査の結果、値も正常値に近いものになったため、久しぶりにわが子、日葵と会えることになった。「良かったですね」 日葵を連れてきたのは、今凜華から一番信頼をされている琥珀だ。 短時間であれば、病室の中に連れてきて良いという許可が涼真から下りた。「きゃっ、きゃっ」 日葵は久しぶりの母親に抱かれ、嬉しそうに声をあげている。「ごめんね。日葵、ダメなママで……」 凜華は感情が高ぶり、涙を流す。(私が健康的な身体だったら、日葵とずっと一緒に居ることができたのに)「凜華さんのせいじゃないですよ。自分を責めないでください」 日葵を抱きかかえている凜華の背中を優しく琥珀が擦っていた。「日葵ちゃんも元気そうで良かった。きちんとした専門職がいるベビーホテルです。それに、宗像先生が圧をかけているので、さらにしっかりとした体制で見てくれているみたいですよ」(宗像涼真が……? 日葵を気にしてくれているというの?)「宗像先生とは一時険悪な雰囲気になりましたが、仕事上では普通に接してくれます。さ