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第337話

Author: ちょうもも
悠良は絶望的に目を閉じた。

やはり伶は、簡単には自分を許さない。

何せ、彼を騙したのは自分だ。

ここは下手に出て、話し合うしかない。

悠良は身体の向きを変え、無垢な光を帯びた瞳で伶を見上げた。

190センチの男が、まるで鶏でも持ち上げるかのように彼女を掴んでいる。

彼女は交渉するような口ぶりで言った。

「寒河江社長、こうしましょう。あの契約の違約金、私が払います。

それで、契約をなかったことにしませんか?」

伶は意外そうに眉をわずかに上げた。

「ほう......今の君、そんなに金があるのか?」

「お金の問題じゃありません。悪いのは、間違いなく私ですから」

伶の性格を考えれば、強引に出ても無駄だ。

話し合うしかない。

悠良はそう悟っていた。

伶はそれを聞くと、ようやく彼女を地面に降ろした。

そして、ゆったりとした動作で腕時計を指先でなぞりながら言う。

「俺は立ち話が嫌いだ」

「はい?」

顎を軽く上げ、車の方向を示す。

「乗れ」

悠良は咄嗟に孝之のことが頭をよぎる。

「でも寒河江さん、私まだ大事な用が――」

しかし、伶は一切耳を貸さず、すでに車の方へと歩き出していた。

その姿を見て、悠良は悟る。

この男は一瞬たりとも、時間を無駄にさせてくれない。

車の助手席のドアが開かれる。

何も言わずとも、そこから伝わる強烈な圧迫感。

もう、腹を括るしかない。

悠良は小さく息を吐き、スマホで時間を確認すると、観念したように車へ乗り込んだ。

シートベルトを締めた瞬間、車が急発進する。

凄まじい加速に身体が前へ投げ出され、次の瞬間には背もたれへと叩きつけられた。

「ちょ、寒河江さん!な、何するんですか!」

悠良は悲鳴を上げ、隣を見やる。

しかし、ハンドルを握る伶は無言。

地獄の底から現れた閻魔大王のように、冷たい顔をしたままアクセルをさらに踏み込んだ。

心臓が喉までせり上がり、呼吸すらままならない。

悠良はドアを必死に掴み、前方を凝視する。

万が一、目の前の車に衝突したら......

こんな感覚、五年前にも味わった。

あの時も伶と広斗が公道で競り合い、死神とすれ違うような恐怖を覚えた。

二度目は、植物状態の時だった。

冷たい薬液が点滴から体内にゆっくり流れ込み、目を覚まさなければ、そのまま死ぬはずだった。
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