やはり血縁というものは簡単には断ち切れない。親族を手放すというのは、伶のようにきっぱり割り切れる人間でなければ、まずできることではない。けれど彼はそれをやってのけ、しっかりと線を引いた。そこが悠良にとって最も尊敬できる部分だ。誰にでも真似できることではない。伶も、悠良の思いを理解し、尊重していた。温かな掌で、そっと彼女の肩を撫でる。「そうか。でも、大丈夫だ」さっきまで固く寄っていた悠良の眉間は、ようやくふっと緩む。胸の奥につかえていたものが、この瞬間すっかり溶かされたようだった。彼女は彼の胸にもたれ、腕を回して腰に抱きつく。馴染みのある彼の匂いを吸い込みながら、不思議なほど心が安らいでいく。少しして、光紀がこちらへ歩いてきた。今回は空気を読んだのか、二人に声をかけず、そのまま踵を返して去ろうとしたが、悠良に呼び止められた。「光紀」光紀は足を止め、振り返る。先日の一件もあってか、先に口を開いた。「お二人を邪魔するつもりは......」悠良は唇を結んで微笑む。「ちゃんと分かってるわ。それより、一つ聞きたいんだけど。飛行機のチケット、もう取れたの?」「ええ、もう手配済みです。ただ、鳥井社長の分は取ってません。身分証明書がありませんから」その言葉に、伶の長身がくるりと向きを変えた。「彼女の分はもう取らなくていい。しばらく戻れないはずだ」「了解しました」さきほどの様子を見て、光紀も大体察していたのだろう。近づいてきて口を開く。「寒河江社長、実はひとつ......以前、松倉の件を調べている時に、私も鳥井社長を疑ったことがあります。ただ、当時は事態が緊急で、お伝えする機会がなくて......今思えば、確かにいくつか不審な点はありました。夜になると、鳥井社長の部屋に誰かがノックしに来ていました。監視カメラも確認しましたが、相手はかなり用心していて......それに女性だったこともあって、まさか繋がりがあるとは考えが及ばず......」伶の鷹のような瞳に、暗く鋭い光が走る。低い声はさらに低く沈んだ。「前にも言ったはずだ。どんな状況であっても、何か動きがあれば、すぐに報告しろと」その瞬間、廊下の空気が凍りついたようになる。光紀はその場で固まり、伶のこわばった顎のラ
若菜もすっかり怯えていた。もともと留置所や警察沙汰には強い恐怖心があるタイプだ。伶が通報したと聞いた瞬間、足の力が抜けて崩れ落ちそうになる。彼女はほとんど反射的に伶へ縋りつき、震える手で彼の服の裾を掴んだ。「伶、私はあいつの言葉を信じただけで、本当はそんなつもりじゃなかったの。小林さんを傷つける気なんてなかった、全部千景に唆されたのよ......」伶は片手を軽く上げ、明らかにもう聞く気がない様子だった。「これ以上言わなくていい。君はどう考えてたか、自分が一番分かってるだろ」大人同士だ。いちいち言葉にするまでもないこともある。若菜も、自分に私心があったことは理解していた。伶が悠良を好きなのはとうに気づいていたし、自分では勝てないとも分かっていた。人間は、手に入らないなら他人にも渡したくないと思うものだ。ほどなくして警察が到着した。偶然にも、昨夜松倉の件を担当した二人の警官だった。伶、悠良、若菜の顔を見るなり、二人とも思わず身がすくむ。昨夜、磯崎の話から伶の素性をある程度知っており、自分たちでは逆らえない相手だということも理解していた。仕事を失わずに済んでホッとした矢先、また同じ顔ぶれに遭遇するとは思わなかった。二人は条件反射のように背を向けかけたが、伶に呼び止められる。「通報は受けてないのか?」仕方なく足を止め、彼の顔をうかがいながら気まずそうに笑う。「通報されたの、あなた方でしたか。えっと......この二人、ですよね?」状況を読む目はあるらしく、伶の隣の女性を捕まえるはずがないと分かっていた。昨夜の様子からも、この二人の関係は明らかだ。恋人を警察に突き出すなんてあり得ない。若菜は青ざめ、後ずさりしながら慌てて手を振る。「私じゃない!私は関係ない、捕まえるなら他を――」「関係あるかどうかは調べれば分かる」そう言うが早いか、彼らは若菜に手錠をかけた。千景も逃げられなかった。連れて行かれながら、千景はなおも叫ぶ。「お兄ちゃん、ひどいわ!こんなことしたら、お母さん絶対許さないから!彼女の娘は私だけなのよ!私に何かあったらきっと倒れるわ、そしたらあんた一生後悔するからね!」伶は一言も返さず、視線すら向けなかった。二人が連れ去られるのを見届け、悠良は
「でもまさか小林さんが私を助けるために、自分の身を危険にさらすなんて思わなかった。これだけで、小林さんが千景の言うような人じゃないって分かるわ」「ちょっと、彼女と知り合ってまだ数日しか経ってないでしょ。騙されるちゃだめだよ」千景は焦ったように言い、顔には慌てた色が浮かんでいた。だが、今の若菜は、かつてないほど冷静だった。「確かに、さっき千景が全責任を私に押しつけたときは、小林さんを少し疑った部分もあった。でも今は、完全に自分の判断を信じられる。小林さんは、いい人よ。でも千景は違う。最初から最後まで、今夜だって私を友達扱いなんてしてない。あなたはただ私を利用しただけ」千景はもはや若菜の考えなど気にしていなかった。そう、彼女にとって若菜は道具に過ぎない。悠良を壊すための道具だ。だが、残念ながらその道具は全く役に立たなかった。今、彼女が優先すべきは、自分を守ることだった。千景はすぐに視線を伶に移し、必死の形相で訴える。「お兄ちゃん、お願いだから信じて。この件は本当に私とは関係ないの。知ってるでしょ、若菜が小林を妬んでるの。手を貸したのも、それが原因なんだよ。それに私は手伝っただけで、あとは全部彼女が勝手に......」「黙れ。もう警察には通報済みだ。これから二人の問題は警察が処理する。言い訳する必要はもうない。磯崎は裏で誰が真犯人か知りたくて仕方ないはずだ。松倉を牢屋から出したいからな」伶のあまりにも決然とした態度に、悠良は少し驚いた。彼を見つめる目に、ほんのわずかな戸惑いがあったが、すぐに冷静さを取り戻した。もちろん自分でも直接通報することはできた。だが、伶と千景の関係を考えれば、以前千景の母が伶を助けたことも知っている。もし自分だけで行動すれば、伶への配慮が足りないと映るかもしれない。だから、この判断は彼に任せた。そして、どんな決断を下しても、自分は従うつもりだった。彼が自分のためにYKを諦めてくれたことに応えるためでもある。誰にでもできることじゃない。悠良は心の中で自分勝手に思った。もし伶が、自分が一生懸命作り上げた仕事を捨てて、未知の街で彼と再スタートすることを望むなら、絶対に従いたくない。自分は、恋愛のためにキャリアを捨てるタイプの女ではない。以前に一度それを
「でも、この件については、いずれちゃんと清算させてもらうから」悠良は、自分の手を千景の手からすっと抜いた。千景はまだ止めようと一歩出ようとしたが、悠良は素早く指を向けて警告した。「これ以上近づいたらもう容赦しない。今度こそ警察に通報するよ」その一言で、千景は本当に動けなくなった。悠良はそのまま伶に電話をつなぎ、氷のように冷たい目で千景と若菜を見据えながら言った。「面白い人に会ったの。寒河江さん、今すぐ来てくれる?」「今行く」伶は余計なことは聞かなかった。悠良の声色だけで、何か厄介な相手が現れたと察したのだろう。やがて彼が到着すると、千景の姿を目にして、眉間が反射的に深く寄り、顔つきが一気に険しくなった。鷹のように鋭い眼差しを向け、低くしわがれた声で不機嫌さを隠そうともしない。「どうして君が」千景は伶の顔を見た瞬間、謎の恐怖が込み上げてくる。怯えた声で小さく呼んだ。「お兄ちゃん......」「その呼び方はやめろ。俺たちの縁はもう切れてること、忘れたのか」彼の姿を見るなり、千景の目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。唇を強く噛み、悔しさと悲しさを混ぜたように首を振る。「違うの、信じてよ、お兄ちゃん。本当に私と関係ないの。全部若菜がやったの。彼女はお兄ちゃんのことが好きで、私に頼んできたのよ。小林悠良の人生を壊してほしい、そうすれば、お兄ちゃんは彼女だけのものになるからって」千景が一瞬で全責任を自分に押しつけてきたのを聞いて、若菜は驚きを通り越して呆れと失望に染まった。「千景......なんで?事が大きくなったからって、全部私のせいにするわけ?松倉を呼んだのは千景でしょ?今夜起きたことだって、本来はあんたの問題だってのに!どうして全部私に被せるの?バレた途端これ?私、あんたのためにどれだけリスク背負ったと思ってるの。私たちは『一番の親友』だって言ってたじゃない!」それを聞いても、悠良は感動するどころか、失笑しか出なかった。「何それ、ただの安っぽい仲良しごっこじゃない。鳥井さんの仕事の能力は確かに優秀よ。真っ当にやれば将来だって悪くなかった。でも、漁野さんに巻き込まれて、自分の人生ごと台無しにしてる。頭は回るんだから少し考えたら?漁野さんは寒河江さんのことが好き。鳥井さんも寒河江さ
若菜と千景は、驚いた目で同時に悠良を見た。まさか、こっそり聞いていたところをいきなり見つかるとは、悠良自身も思っていなかった。三人が一瞬だけ視線を交わしたあと、若菜が慌てて口を開く。「えっと......この人は漁野さん、小林さん、知ってるよね?伶の従妹」悠良は腕を組み、そばのテーブルに体を預けながら、千景を頭からつま先までじっくりと眺めた。「当然。でも、漁野さんはもう寒河江さんとは何の関係もないんじゃなかっかっけ?それとも、西垣にもらったお金がもう尽きたの?」悠良は、自分でもわかるくらい皮肉混じりにそう言った。広斗のために偽証までした女だ。あの件はまだ決着がついていないけれど、いつか必ず真相は明らかになると彼女は信じていた。千景は鼻で笑い、相変わらず悠良を見る目に露骨な敵意を浮かべる。「いちいち嫌味言わなくていいわよ。西垣とはもうとっくに切れてるの。あの愚か者。だから私の従兄の足元にも及ばないのよ。器も小さいし、どうせそのうち終わるわ。見る目ない男なんて興味ないからね」悠良はそんな話に付き合う気もなく、黙ってスマホを取り出す。千景に向ける視線すら惜しんでいた。「漁野さんの将来なんて私の関知することじゃないけど、従兄に確認してみたほうがいいんじゃない?それと今回の松倉って男の件も──」淡々とした口調にもかかわらず、悠良の目には妙な圧が宿っていた。悠良が伶に電話をかけようとするのを見た途端、千景は血相を変えて彼女の手を掴んだ。「待って!彼には言わないで!結局あんたは無事だったんだし、そこまでする必要ないでしょ?」あまりにも軽い口ぶりに、悠良の胸の奥で何かが燃え上がる。その声音には、思わず嘲笑が混じった。目には露骨な軽蔑が走る。「はあ?何考えてんの?私の頭がお花畑だと思ってる?二人でわざわざ茶番まで用意して、狙いは私の命だったんでしょ?まだ通報してないだけでも十分大目に見てる方なのに、黙っとけって?ふざけないで」千景自身、焦りで頭が回っていなかったのか、悠良に隠してくれと頼んでしまったことに気づいて顔を歪める。本当なら今すぐ伶に全部ぶちまけて、自分のライバルを一人減らしたかったはずなのに、追い詰められた彼女にはそれすらできない。今となって頼れるのは若菜だけだ。千景はそっと若
光紀は伶の説明を聞いて、ようやく状況を理解した。悠良は横目で光紀に向き直り、こう言った。「でも別にいいわ。ここにはもう十分長く滞在したし、そろそろ帰る頃よ」帰れば帰ったで山ほど問題が待っていることを考えると、悠良は頭が痛くなった。それでも、この地に居続けるよりはずっとマシだと思い直す。何せ磯崎や、あの松倉とかいう男を敵に回してしまったのだ。ここに一日長くいれば、その分危険が増す。伶もとっくにそう考えていて、振り返ると光紀に指示を出す。「手配しておけ」そのまま二人は病院で点滴を受け続け、朝の七時になった。悠良は伶の目の下に濃く浮かぶ隈を見て、首を傾けながら言った。「まだ少し時間あるし、ホテル戻って少し寝たら?」「いや、先に荷物をまとめる。悠良は鳥井を起こしてこい」伶は眉間を揉む。眠いには眠いが、やるべきことが片付いていないのに休むのは性に合わない。そこで悠良もようやく若菜の存在を思い出した。二人は手分けし、伶は部屋へ戻って荷造り、悠良は若菜を呼びに行く。部屋の前まで来てノックしようとしたその時、中から誰かと話している声が聞こえた。「千景、小林さんのこと誤解してない?この期間でちゃんと観察したけど、あの人は千景が言ってるような人じゃなかったの」「私が見間違えるわけないでしょ?若菜、何年も付き合ったけど、まさか私より彼女を信じるわけ?」「千景」という名前を耳にして、悠良は一瞬固まる。若菜に、千景?一見なんの接点もなさそうな二人が、なぜ知り合いなのか。しかも今の口ぶり、随分親しげだ。それに、千景がどうしてこんな場所に?そこまで考えた瞬間、千景の声が悠良の疑問に答える。「言ったでしょ?私のやり方なら彼女なんて松倉の手から逃げられるはずないって。もうちょっとで殺したのに!彼女さえ死ねば、私はまたお兄ちゃんとやり直せる。彼と一緒になるのは私の夢よ。その夢、絶対に壊さない」悠良は目を大きく見開き、反射的に口元を押さえた。今、自分は何を聞いたのか。今夜起きたことは偶然なんかじゃない。最初から仕組まれていた罠だった。松倉という男が若菜に「偶然」会ったわけでもない。すべては千景が裏で糸を引いていた。思わず二歩ほど後ずさりし、今日の出来事を頭の中で繋ぎ合わ