舞子は一瞬呆然としたが、自分が口を滑らせたことに気づくと、目を泳がせ、とぼけたように言った。「え、ああ……そうだったかな?違ったかも。うん、たぶん記憶違い……かな?」かおるは目を細めて、じっと舞子を見つめた。その視線に舞子はますます目を逸らし、ついには彼女の顔すらまともに見られなくなってしまった。リビングの空気がぴんと張り詰める。かおるは一言も発せず、ただ舞子を見つめ続けた。その圧に耐えきれなくなった舞子は、とうとう両手を挙げて叫んだ。「あーあ、もう降参っ!ちゃんと話すから、そんな目で見ないでよ!パニックになりそうなんだから!」かおるは腕を組み、顎をしゃくって言った。「ありのままを言いなさい」「えっと……」舞子は小さく咳払いし、気まずそうに目を伏せた。「ん?」しかし、かおるの鋭い視線に触れた瞬間、舞子の語尾が震えた。「その……前に瀬名家のパーティーで、私……薬盛られちゃって……で、賢司さんが部屋まで運んでくれて……それで、なんとなく流れで……身を任せちゃって……うん……」一気に話してから、彼女はゴホンと咳払いし、視線を泳がせながら続けた。「で、そのあと『助けてやった恩返しに、十回抱かせろ』って言われて……まあ、そんな感じ」かおるは、まるで耳を疑うような顔をした。はぁ?あの瀬名賢司が?無愛想で、滅多に笑いもしない、あの堅物の賢司が?女の子にそんなこと言う!?それも……十回!?ふてぶてしいにもほどがある!あのとき、あいつだって絶対に楽しんでたくせに!人って、見かけによらないわね。かおるの中で積み上げられていた高潔な賢司のイメージは、ガラガラと音を立てて崩れ去った。舞子はそっとかおるを見やり、話を続けた。「それでね、うちがその後パーティーを二回開いたの。賢司さんも招待して、来てくれたんだけど……両親は私に『賢司に取り入れ』って圧かけてきてさ。でも、私は嫌だったの。彼のこと好きじゃないし……この件が終わったら関係も終わりだと思ってたから。だから、誕生日パーティーの夜に偽彼氏用意して親に紹介したの。でも、まさか殴られるなんて……しかも私の意思を完全に無視して、国外に送り出そうとして、無理やり賢司さんとくっつけようとしてきて……」話しながら、舞子の口元には苦笑が浮かんでいた。
まるで料理名を読み上げるかのように、かおるは自分の好物を一つひとつ挙げていった。舞子はそれを嬉しそうに聞きながら、ようやく満足したように部屋を出ていった。かおるは大きく息をつき、ようやく安堵の表情を見せた。そんな彼女の様子を見ていた綾人は、ふいに手を伸ばし、かおるの頬を軽くつまんだ。「あの子、お前の妹だろ?なんでそんなに緊張してんのさ?」かおるは無言で彼の手を払いのけ、ベランダへと歩いていった。ふっくらした唇はきゅっと結ばれたままで、その横顔にはまだどこか強ばった気配が残っている。綾人はそれを追いかけ、かおるの隣に立った。じっと彼女の横顔を見つめた。やがて、かおるは口を開いた。「自分でもよく分かんないの」少しの沈黙を挟んで、言葉を続けた。「両親のことは、本当に嫌い。でも舞子のことは……ちょっと違うの。最初は、舞子の顔を見るたびに両親を思い出して、どうしようもなくイライラしてた。でも、接していくうちに気づいたのよ。彼女も『桜井』の苗字を背負ってるけど、あの人たちとは違うって。表向きは大事にされてるように見えて、実はずっと、誰よりも苦しんでる」そう気づいてから、舞子のことが気になるようになった。ちゃんと生活できてるか、無理してないか。気がつくと、困ってそうなときは手を貸していた。けど、深く関わりすぎるのは怖いとも思ってる。矛盾ばかりだ。そんなかおるの手を、綾人はそっと取った。指先を優しくなぞるように撫でながら言った。「大丈夫。人には、段階ってもんがあるさ。お前の心はもう、ちゃんと妹として舞子を受け入れ始めてるよ」かおるは目を伏せたが、何も言わなかった。綾人はその手をそっと持ち上げ、甲に優しくキスを落とした。「もしお前が本気で、あの子を引き取りたいって思っても、俺は何も言わない。桜井家なんて、大した存在じゃないんだからさ」かおるは綾人をちらっと見た。その瞳の奥に宿る優しさと、情熱の色。次の瞬間、彼女はふいに身を寄せて、綾人の頬に軽くキスをした。綾人は少し眉を上げて、にやりと笑った。「ん?頬だけかよ?」「調子に乗らないでよね」かおるは顎を上げて、少しすましたように言い返した。それでも綾人はかおるを力強く抱き寄せ、その唇を奪った。「俺の嫁だぞ?調子に乗るなって、無理な話じゃね?」一
綾人は薄く笑いながら舞子を見ていた。手を差し伸べる気など、微塵も感じられない。かおるの視線は、ますます恨めしげになる。舞子はしばらくのあいだかおるを抱きしめていたが、彼女の身体が硬直しているのを感じて、ようやく腕を放した。目はほんのり赤くなっている。「ちょっと、部屋を見て回るね」「ど、どうぞどうぞ!」かおるは解放された安堵から、急いで手を振った。舞子は室内を歩き回る。広さはおよそ300平方メートル。家具も家電も一通り揃っており、食料品と日用品さえ買い足せば、すぐに生活が始められそうだった。リビングに戻ると、かおるが電話を切ったところだった。「もう買い出しの人を手配したから、今日はできるだけ外に出ないで」舞子はやや不安げに訊いた。「でも……あと数時間で飛行機が着くよね?向こうの人たち、何か変だって思わないかな?」かおるは首を振り、スマホの画面を開いた。「大丈夫よ。これを見て」1枚目の写真を指差しながら説明した。「この子が、あなたの代役の素顔」そして画面をスワイプして、2枚目の写真を見せた。舞子は思わず息を呑んだ。「これ、私?」写っていたのは、自分と見分けがつかないほど似ている女性だった。「メイクとウィッグで、ここまでそっくりにできるのよ。あちらの人たちが気づくことはまずないわ」かおるは自信たっぷりに言い切った。準備は万全。それが、彼女の口ぶりから伝わってくる。「すごい!こんな達人、どこで見つけたの?」舞子が思わず感嘆すると、かおるは肩をすくめて答えた。「最近は化粧が上手い人なんて山ほどいるでしょ。その中でも、最高に腕のいい子を選んだだけよ」「バックアップがあるって、こんなに心強いんだね」舞子が小さく呟くと、かおるはその言葉に反応せず、ふと黙り込んだ。1時間後。買い出し係が大量の荷物を抱えて部屋にやってきた。舞子はすぐに立ち上がって、一緒に片付けを始めた。「お昼は私が作るね。何か食べたいものある?」キッチンで袋を開けながら舞子が聞くと、かおるはそっけなく答えた。「私は、ここじゃ食べないから」「え?どうして?私の料理、美味しいんだよ?」「別に用事があるの」そのやり取りに、綾人が口を挟んだ。「用事?そんなの聞いてないけど」かおるが、ぎろ
「私もついて行くわ」幸美はそう言って、舞子の後を追った。舞子は無言のまま、トイレの方へ向かって歩き出した。トイレは広く、彼女は迷わず個室に入り、すぐにドアを閉めた。幸美は洗面台の前で待っていたが、五分経っても舞子が出てこない。眉をひそめながら声をかけた。「まだなの?舞子?」中から、かすかに答えが返ってきた。「ちょっとお腹の調子が悪いの……」「大丈夫?」「たいしたことないよ。すぐによくなると思う」「わかったわ。外で待ってる」VIPルームではないため、人の出入りが多く、幸美はわずかに顔をしかめた。そんなとき、空港のスタッフが近づいてきて、スマホの画面を見せながら訊ねた。「すみません、こちらに壊れたスーツケースがありますが、お心当たりは?」写真を覗き込んだ幸美は、眉をひそめた。「それ……私のです。どうして壊れたんですか?」「わかりません。突然バラバラになってしまって……ご確認いただけますか?」幸美はちらりとトイレの方を振り返った。少し心配だったが、そのスーツケースには重要な物が入っている。もしなくなれば、飛行機に乗れなくなるかもしれない。「舞子、出てきたらすぐ私のところに戻ってきてね」「うん、わかった」舞子はそう返事をすると、幸美はトイレを後にした。そして二分後、個室のドアが静かに開き、舞子がトイレから出てきた。ちょうどそのタイミングで、搭乗アナウンスが流れた。舞子は一切の迷いも見せず、まっすぐ搭乗口の方へ向かった。少し離れたところから、幸美が舞子を見つけた。「舞子?あなたの荷物は?」声をかけるが、舞子は手を軽く振って答えるだけだった。手に持った小さなバッグには、明らかに彼女の身分証明書類が入っている。それらはスーツケースには入れてなかったはずじゃ……?呆然としながら、もう一度顔を上げたときには、舞子はすでに搭乗口を通過していた。その後ろ姿を見つめながら、なぜか胸の奥にざらりとした不安が残った。なぜ、あの子は振り返りもしなかったの?怒っていたのだろうか。それとも、もうすべてを諦めていたのか。幸美は混乱したまま空港を後にした。三十分後、ひとりの華奢な人影が、空港ロビーから静かに出てきた。外に停まっていた一台の車の後部座席に乗り込んだ。「ふう」帽
まるで大スクープじゃないか!このことが社内に広まれば、大騒ぎになるに決まっている。きっとゴシップ好きの社員たちが湧き立つだろう。秘書は高鳴る胸を押さえつつ、スマートフォンを手に取って舞子の情報収集を始めた。十分も経たないうちに、険しい表情を浮かべながらオフィスのドアをノックした。「社長。桜井さんは現在ご自宅におられます。そして……明日の朝八時の便でF国に出発し、1年間の留学を予定しているようです」書類を読んでいた賢司は、その言葉に顔を上げ、眉をひそめた。「留学?」「はい、そのようです」秘書はうなずいた。「まだ正式に退院はしていませんが、ご家族がすでに航空券を手配しているのを確認しました」どうしてこんなにも急に、国外に……?秘書は、感情の読めない賢司の表情を恐る恐る見つめながら尋ねた。「社長、引き続き詳しく調査を……?」「必要ない」賢司は冷ややかにそう言い放ち、再び書類に目を戻した。秘書は軽く頭を下げ、部屋を後にした。だが胸の内では、ゴシップ魂がメラメラと燃え上がっていた。社長、本当に気にならないんですか?いや、自分は気になって仕方ない!だが、命令がなければ勝手な行動はできない。それがこの仕事だ。夜が更け、街に灯りがともる頃、高級住宅街は深い静けさに包まれていた。舞子はバルコニーに立ち、夜空を仰いでいた。煌めく星々を見つめながら、その胸には言いようのない重苦しさが広がっていた。そのとき、控えめなノックの音が聞こえた。「入って」扉がそっと開き、ひとりの使用人が果物の乗ったトレイを手に入ってきた。「お嬢様」彼女は舞子の前まで来ると、そっとスマートフォンを差し出した。舞子はじっと彼女を見つめながら訊いた。「お父さんたちに見つかっても、怖くないの?」使用人は小さくうなずいた。「怖いです。でも、お嬢様の力になりたいんです。クビになったとしても、それで済むなら構いません。お嬢様が、どんな状況にあるか分かってますから……これは、あのときの恩返しなんです。もしあのとき、お嬢様が助けてくださらなかったら、おばあちゃんは今も行方不明のままだったはずです」彼女の祖母は認知症を患っており、迷子になっていたところを、舞子が偶然見かけて連絡を取ったのだった。舞子にとっては、ちょっとした
やはり、そうだった。舞子はうつむきながら、まだ青ざめた顔で食卓の端に座った。細い身体で精一杯の抵抗を示そうとしたが、それはあまりにも無力だった。逃げられない。けれど、諦めることもできない。「別れないわ」舞子は顔を上げ、透き通った声で、はっきりとそう言った。裕之は冷ややかに笑った。「いい度胸してるな。さすがは俺の娘だ。その度胸が、どこまで保つか見物だな」そう言い残し、椅子を引いて立ち上がり、無言で食堂を後にした。残された幸美は眉をひそめ、静かに舞子を見つめた。「舞子、どうしてそこまで頑ななの?紀彦はあなたにふさわしくないのよ。なぜ私たちの言うことが聞けないの?まさか、私たちがあなたを傷つけると思ってるの?」舞子は静かに言い返した。「ふさわしいことが、正しいって意味なの?」幸美の声が少し鋭くなった。「当然でしょ。あらゆる面で釣り合う相手が、あなたにとっての正解なのよ」舞子は目を伏せながら、かすかに首を振った。「そうは思わない」その言葉に、幸美は苛立ちを隠せなかった。「あなたは、まだ分かっていないのよ。いつかきっと思い知る時が来るわ。私たちがやってきたことが、すべてあなたのためだったって」そう言ってため息をついたが、舞子はそれ以上何も言わず、無言で食事を始めた。その姿はまるで、魂の抜けたロボットのようだった。瞳には何の輝きもなく、ただ淡々と、目の前の皿を処理するだけ。舞子が退院したことを知ると、弘子はすぐさまその情報を賢司に伝えた。広いオフィスの中、賢司はデスクに座りながらスマートフォンを手に取っては置き、また画面をつけてはそのまま見つめ、やがて画面が自動で消えるのをただ黙って待っていた。それを、何度繰り返しただろうか。彼の眉間に、いつしか深い皺が刻まれていた。自分は……何を待っている?舞子からの連絡を?だが、あの夜、彼女ははっきりと自分を拒んだ。そしてこの一ヶ月、一度も連絡を取っていない。それでも、舞子の状況は常に耳に入ってくる。弘子が、まるで察したかのように毎日のように報告してくれるからだ。たとえば、今日何を食べたとか、怪我の回復具合、夜はよく眠れたか、テレビをどれだけ見たか、スマホを使った時間、訪ねてきた人物など。弘子の報告を通して、まるで舞子の存在がすぐそば