Share

第984話

Author: 似水
早織は病院を出るとすぐ、正面に見える小さな食堂のような店に入り、空いた席に腰を下ろした。ラーメンを注文したものの、箸をつける気にもなれず、丼はほとんどそのままだった。

日が傾き、空に夕闇が滲み始めるころ、星野と聡はようやく建物の中から姿を現した。すでに二人で二時間近くも過ごしていたのだ。

その姿を見つけた早織は、すぐに立ち上がり、いつでも駆け寄れるように身構えた。

向こう側に並んで歩く二人。その親密そうな雰囲気に、早織の目は嫉妬で赤く染まり、星野を見つめる視線には、悔しさと痛みが渦巻いていた。

この男……絶対に許せない!

星野が聡に何か言葉をかけたかと思うと、くるりと背を向け、少し離れた方向へ歩き出した。

その瞬間を逃さず、早織は目を輝かせ、急いで駆け寄ると、聡の手をつかんで反対方向へ引っ張り、勢いよく走り出した。

不意を突かれた聡は体勢を崩し、転びかける。

相手の顔を確かめた聡は、眉をひそめ、ぐいっと手を引き抜いた。

「何すんのよ」

早織は真剣な目で聡を見つめながら言った。

「星野さんのこと、少しお話があるんです。聞いていただけますか?」

「だったら普通に言えばいいじゃない。引っ張る必要なんてないでしょ」

「……彼の顔なんて、見たくないんです!」

その言葉を聞いた聡にはっきりと見えた。早織の目に浮かぶのは、星野への強い憎しみ。以前は自分に向けられていた敵意さえも、今はすっかり彼に向かっているようだった。

なんで?どうしてこんなに気持ちが変わるのが早いの?

聡は首を小さく横に振った。

「一緒に行く気なんてないわ。話したいならここで話しなさい。したくないなら、それでも結構」

そう言い終わると、踵を返し、星野のほうへと歩き出した。

「……あの男、最低なクズですよ!」

背後から、早織の叫ぶような声が響いた。

聡の足が一瞬止まり、彼女を振り返った。街灯の下、早織の瞳は底知れぬ闇を宿し、まるでその闇が光すら吸い込んでしまうようだった。

一歩前に出た早織は、じっと聡を見つめながら静かに言った。

「……私がどうして彼と知り合ったか、知ってます?あの人が私に近づいてきたんですよ。仕事の悩みだって聞いてくれて、助けてくれた。ぶどう園で会ったときも、彼のほうから『手伝いますよ』って言ってきたんです」

そこまで話すと、早織の目に淡い哀しみの
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 離婚後、恋の始まり   第985話

    「あら? そうなの?でも彼女は、あなたがサインを送ったから自分からアプローチしたって言ってたわよ」そう言いながら、聡は手にした小さなケーキの箱を軽く揺らし、ゆっくりと車の方へ歩いていった。その一言に、星野の身体がぴんと緊張をはらんだ。彼女の背中を追いながら、真っ直ぐな瞳でその横顔を見つめた。「聡さん、僕は本当に、何のサインも送っていません。白石さんと知り合ったのは、完全に母の意思なんです。彼女のことは好きじゃないって、はっきり伝えました。その後付き合ったように見えたのは、彼女がクライアントを紹介してくれたからで……その恩に報いようと、少し手伝っただけなんです。本当に、それだけです」言葉を選びながらも、星野の声はどこまでも誠実で、澄んだ目には一点の曇りもない。あの時、レストランで彼が早織と会ったのは、彼女がクライアントを紹介し終えた後だった。ささやかな礼として食事をご馳走した、それだけのこと。その席には、偶然にも聡と隼人の姿があった。当時の星野は、自分の本当の気持ちにまだ気づいておらず、聡があんなにも整った顔立ちで、しかも優秀な男と並んでいるのを見て、胸の奥がざわついた。ただの嫉妬だとやり過ごそうとしたが、どこか心に引っかかるものがあった。けれど、後になってようやく彼女への思いに気づいた時には、なぜあの時きちんと気持ちを伝えなかったのかと、深く後悔するようになっていた。あの時一歩踏み出せていれば、こんなにも回り道をしなくて済んだのかもしれないのに。星野の説明はどこまでも真剣で、迷いの色は微塵もなかった。そんな彼の様子を見つめながら、聡はふと唇の端を緩め、ほんの少しだけ笑みを深めた。「彼女には、『気にしない』って言ったわ」その言葉を聞いた瞬間、星野は息を呑んだ。追及された時の緊張より、今の方がずっと胸に堪えた。まるで大きな手で心臓をぎゅっと掴まれているようで、呼吸さえ忘れそうになる。気にしない、ということは、自分に対して特別な感情もないということだ。もし、心の中に自分の居場所があるのなら、気にしないはずがない。……そう、例えば、自分が隼人の存在をどれほど気にしているように。隼人が聡のそばに現れるだけで、耐え難いほどの危機感を覚えてしまう。星野は静かに深呼吸をし、「……気にしていないなら、よかったです

  • 離婚後、恋の始まり   第984話

    早織は病院を出るとすぐ、正面に見える小さな食堂のような店に入り、空いた席に腰を下ろした。ラーメンを注文したものの、箸をつける気にもなれず、丼はほとんどそのままだった。日が傾き、空に夕闇が滲み始めるころ、星野と聡はようやく建物の中から姿を現した。すでに二人で二時間近くも過ごしていたのだ。その姿を見つけた早織は、すぐに立ち上がり、いつでも駆け寄れるように身構えた。向こう側に並んで歩く二人。その親密そうな雰囲気に、早織の目は嫉妬で赤く染まり、星野を見つめる視線には、悔しさと痛みが渦巻いていた。この男……絶対に許せない!星野が聡に何か言葉をかけたかと思うと、くるりと背を向け、少し離れた方向へ歩き出した。その瞬間を逃さず、早織は目を輝かせ、急いで駆け寄ると、聡の手をつかんで反対方向へ引っ張り、勢いよく走り出した。不意を突かれた聡は体勢を崩し、転びかける。相手の顔を確かめた聡は、眉をひそめ、ぐいっと手を引き抜いた。「何すんのよ」早織は真剣な目で聡を見つめながら言った。「星野さんのこと、少しお話があるんです。聞いていただけますか?」「だったら普通に言えばいいじゃない。引っ張る必要なんてないでしょ」「……彼の顔なんて、見たくないんです!」その言葉を聞いた聡にはっきりと見えた。早織の目に浮かぶのは、星野への強い憎しみ。以前は自分に向けられていた敵意さえも、今はすっかり彼に向かっているようだった。なんで?どうしてこんなに気持ちが変わるのが早いの?聡は首を小さく横に振った。「一緒に行く気なんてないわ。話したいならここで話しなさい。したくないなら、それでも結構」そう言い終わると、踵を返し、星野のほうへと歩き出した。「……あの男、最低なクズですよ!」背後から、早織の叫ぶような声が響いた。聡の足が一瞬止まり、彼女を振り返った。街灯の下、早織の瞳は底知れぬ闇を宿し、まるでその闇が光すら吸い込んでしまうようだった。一歩前に出た早織は、じっと聡を見つめながら静かに言った。「……私がどうして彼と知り合ったか、知ってます?あの人が私に近づいてきたんですよ。仕事の悩みだって聞いてくれて、助けてくれた。ぶどう園で会ったときも、彼のほうから『手伝いますよ』って言ってきたんです」そこまで話すと、早織の目に淡い哀しみの

  • 離婚後、恋の始まり   第983話

    夕暮れが空を茜に染め始めるころ、星野が部屋へ戻ってくると、聡はさっそく話を切り出した。その内容に、星野は目を見張った。思いもよらない人物――雅之からの贈り物だったからだ。彼と雅之のあいだには、過去に少し因縁がある。特に、里香との関係が微妙だった頃には、互いに何かと牽制し合っていた。まさかそんな彼から、祝いの品が贈られるとは夢にも思わなかった。あまりに意外で、言葉も出ない。だが、聡は嬉しそうに笑いながら言った。「社長からの贈り物だもの、受け取らないわけにはいかないわよ。ねえ、明日休みでしょ?別荘、見に行こうよ」もし気に入ればそのまま引っ越せばいいし、もし合わなければ売って別の場所に住めばいい。それだけの話だ。「……いいですよ」胸の奥に湧き上がる複雑な感情を押し殺し、星野は静かに頷いた。その夜、ふたりとも落ち着かなかった。翌日、昼も近くなってようやく出発し、車を走らせ別荘地に到着すると、入り口には厳重な警備が待ち構えていた。警備員に登録を求められ、さらに身分証明の詳細情報まで入力させられるほどの徹底ぶりだった。だが、聡はこういう厳しさがむしろ気に入った。車の窓を少し開けて、「顔認証にしたら?登録した所有者だけが出入りできるように。顔認証なら便利だし、余計な人も入れないでしょ」と提案した。警備員はそのアイデアを気に入り、すぐに管理会社に報告すると応じた。手続きを終えると、ようやく通行が許可された。別荘の立地は申し分なかった。小区画の中央に位置し、周囲の敷地も広々としている。聡はひと目見ただけで心を奪われた。「ここがいい!ここを、うちらの新婚のおうちにしようよ!」くるりと振り返り、そう言って笑う。星野は小さく笑いながら頷いた。「全部、君の好きにしてください」聡は嬉しそうに彼の頬に軽くキスをして、別荘の中をくまなく見て回りながら、あちこちで「ここには何を置こうか」と想像を巡らせていた。一日中、ふたりはまるで夢の中にいるかのように過ごした。陽が西の空に沈みはじめた帰り道、星野がぽつりと口を開いた。「俺たちのこと……母に話しました。すごく、喜んでくれてました」運転席の横で、聡はシートベルトをぎゅっと握りしめた。「……ほんとに?」「はい。本当に。ようやく、息子を引き受けてくれ

  • 離婚後、恋の始まり   第982話

    「今、今すぐ行くの?」聡はわずかに緊張した面持ちで尋ねた。その様子を見て、星野は少し驚いた。あの聡でも、緊張することがあるんだそんな発見に、胸の奥でふっと温かいものが湧き上がる。「お母さんにはもう会ったことありますよね。すごく優しい人だって、知ってるでしょう。きっと、よくしてくださいますよ」「……知ってる」聡は小さく頷いた。尚子が優しい人だということは、もちろんわかっていた。いつも笑顔で話しかけてくれる、穏やかで包み込むような雰囲気の女性だ。彼女と話していると、自然と心が和らぎ、言葉にできないぬくもりに包まれる。そんな人だった。けれど今はもう、あの頃とは立場が違う。それが、どうしても緊張を呼び込んでしまう。怖気づいている自分を、聡は自覚していた。「ちょっと、準備が必要だわ」そう言った聡に、星野は優しく頷いた。「急がなくても大丈夫ですよ。まだ、時間はたっぷりありますから」その言葉に、聡はほんの少し肩の力を抜いた。帰宅すると、身体の芯から疲れを感じた。シャワーを浴び、ベッドに身を沈めても、頭の中はざわざわと雑音のような思考が渦巻いていた。やがて星野がベッドに入ってくる。そっと腕を伸ばして彼女を抱き寄せると、熱を帯びた吐息が肌に触れた。彼はそっと頬にキスを落とし、やがて唇の端に移っていく。静かな室内に、次第に二人の呼吸音が交差していく。翌日。聡のスマートフォンが鳴り、画面に「桜井」の文字が表示された。「聡さん、ご結婚おめでとうございます。末永く、お幸せに。実は、社長から預かっているものがありまして、ぜひお渡ししたいのですが」「えっ、何?」「どちらにいらっしゃいますか?できれば直接お会いしたいのですが」待ち合わせ場所を伝えると、二人は近くのカフェで会うことになった。聡が到着すると、桜井はすでに席に着いており、彼女の姿を見つけると笑顔で立ち上がり、一通の茶封筒を手渡してきた。受け取った封筒を開け、中身を目にした瞬間聡は目を見開いた。「……これ、何?」「社長からの新婚祝いです」その言葉に、聡の胸の内で驚きが炸裂する。やっぱり、金持ちってスケールが違う。封筒の中にあったのは、なんと別荘の譲渡書類だった。場所は冬木でも屈指の高級住宅地。文字通り、一寸の土地にも

  • 離婚後、恋の始まり   第981話

    竹本と円華は目を合わせた。目的が露見した以上、もはや芝居を続ける必要はない。竹本は顔を引きつらせながら、ストレートに切り出した。「もう知ってるなら、姉として弟を助けるべきだろ。六千万出して弟に渡せば、お前が今まで俺たちを見捨ててきたことは水に流してやる」「はははっ!」聡は、まるで妙な冗談でも聞いたかのように声を上げて笑った。そして、隣の星野に視線を向けた。「笑えるでしょ?あの人たち、昔、私を孤児院の前に捨てたのよ。女の子だからって嫌がってさ。それなのに、今になってお金を無心しに来るなんて」星野の表情はすっと冷えた。聡にそんな過去があったとは、想像もしていなかった。彼はしばらく考えた後、静かに口を開いた。「警察に通報して、遺棄罪で告訴できます」その言葉を聞いて、聡は瞬きをした。「あ、そっか。じゃあ、通報しようか」「はい」星野はためらいもなくスマートフォンを取り出し、警察へと通報を入れた。竹本は、事態がこんな展開になるとは夢にも思っていなかった。この厄介者が金を出さないどころか、警察にまで通報するとは――まったくもって、けしからん!「この厄介者め……お前なんか産まなきゃよかった!産んだ時に溺れさせておけばよかったんだ、こんな不孝者になるくらいならな!」怒鳴りながら袖をまくり、竹本は今にも殴りかかろうとしていた。その腕を、円華が慌てて押さえた。「大介、なに言ってるの?あの子は私たちの長女よ。そんな衝動的にならないで、ちゃんと話し合いましょう?」彼女は聡に向き直って、必死に言った。「希嗣、早くお父さんに謝りなさい。お父さんはただ焦ってるだけなの。本気で殴ろうなんて思ってないわ」焦りを隠しきれない口調だった。聡は二人をじっと見つめ、小さく鼻で笑った。「お前たち、芸能界に入ればよかったのに」一人は悪役を演じ、一人は善人の仮面をかぶる。そうして自分の情を引き出そうとしているのだろう。だが、そんな浅はかな演技に、心は動かない。ちょうどその時、警備員が駆けつけてきて、二人を制圧した。「どうやって入った?ついて来い!」竹本と円華は強制的に引き離され、星野も通報を終えていた。地下駐車場に、ひととき静寂が戻った。聡はうつむき加減に立ち尽くし、余計な感情を顔に出さなかった。そん

  • 離婚後、恋の始まり   第980話

    聡はしばらく星野の眉目をじっと見つめていた。ふっと微笑むと、彼に近づき、そっと口角にキスを落とした。「星野くんって、こういう人だったんだ」不意にキスを受けた星野の瞳は、わずかに色を濃くした。そして小さく問いかける。「僕って、どんな人ですか?」「満足しやすい人」聡はそう言い切った。星野は多くを求める人間ではなかった。少なくとも、聡が妻になった今となっては、他人の挑発など取るに足らなかった。その言葉を聞いて、星野は静かに聡を見つめ返した。けれど何も言わない。どうやら、彼女は少し勘違いしているようだった。自分は、決して「満足を知る人間」なんかじゃない。むしろ、もっと欲しいと思っていた。ただ、今の彼女の前では、まだそれを表に出せずにいる。もし逆効果になったらどうしよう?そんな不安が喉元までせり上がる。後悔で死んでしまいそうだ。だから、ゆっくりと進めばいい。二人はもう夫婦になったのだ。これからの時間は、長いのだから。やがて二人は車を降り、エレベーターへと向かっていく。そのとき、不意に二つの人影が飛び出してきて、彼らの行く手を塞いだ。聡の口元に浮かんでいた微笑みが、さっと消えた。竹本と円華。どうやって中に入ったのか。このマンションの警備と管理会社は、一体何をしているんだ。星野は即座に聡の前に立ち、彼女をかばいながら目の前の二人をにらみつけた。「あなたたちは、どなたですか?」竹本は聡を指さし、声を張り上げた。「俺たちは彼女の親だ!これが親子鑑定書だ!」そう言って、親子鑑定書を取り出し、聡に突きつけた。円華も言葉を重ねた。「希嗣、前は信じてくれなかったけど、今は信じるでしょう?私たちは本当に、あなたの両親なのよ」その言葉に、星野は眉をひそめながら聡に目を向けた。彼女の表情には、冷え冷えとした感情が浮かんでいた。星野は毅然とした声で言った。「親?聞いたこともありません。勝手に侵入したのなら、すぐにでも警備員に追い出してもらいます」星野はスマートフォンを取り出し、警備室へと電話をかけた。その動きに竹本の顔色が変わり、星野の手元に伸ばそうとした。だが、星野は素早く一歩引いて、距離を取った。「何をされるつもりですか?手を出すなら、すぐに警察を呼びますよ」「くそっ、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status