尚子は一瞬、ぽかんと口を開けた。「新婚の家?それはだめよ。あなたたちは夫婦なんだから、二人きりで暮らしなさい。お母さんは一緒には住まないわ」すると、聡が一歩前に出て、尚子の手をそっと握った。「お義母さん、どうか一緒に住んでください。私たち、普段は忙しくて、何もかも適当に済ませがちなんです。ちゃんと監督してもらえたら、すごく助かるんです」その一言で、尚子の話題は自然と逸らされた。「そうね……最近の若い子たちは、みんな頑張りすぎて、自分の体を大事にしないものね。それはいけないわ」聡は柔らかく笑みを浮かべた。「だからこそ、そばにいて見守ってほしいんです。心配しないで、新婚の家は広すぎるくらいですから。中でサッカーだってできちゃいますよ」尚子は吹き出した。「もう、こんなおばあちゃんがサッカーなんてできるわけないでしょう?」すると星野が口を挟んだ。「お母さん、聡さんがそこまで言ってくれてるのに断ったら、彼女の顔に泥を塗ることになりますよ。つまり、嫁さんが気に入らないってことですか?」尚子は呆れたように息子をぴしゃりと軽く叩いた。「このバカ息子、何を言ってるの?私は聡のこと、大好きよ!嫁姑の仲を裂こうなんて、もってのほか!」聡も声を上げた。「そうです。仲を裂かないで。お母さんはきっと一緒に住んでくれますよね?」星野は口元に穏やかな笑みをたたえながら、そんな二人のやり取りを見守っていた。こうして話は決まった。新婚の家はすでに業者に掃除を頼んであり、その日の午後には車で尚子を先に連れていく段取りになっていた。広々とした別荘を目にしたとき、尚子は完全に言葉を失った。「こ、これがあなたたちの新婚の家……?」「ええ」聡が頷いた。「これから、ここで暮らします」尚子はしばらく言葉を発することができず、ただ呆然と立ち尽くした。彼女はこれまで、苦労の連続だった。こんな贅沢な家など、生まれてこのかた見たことがない。もちろん星野には将来性があると信じていたが、今はまだ事業を立ち上げたばかりのはず。こんな家を持てる余裕などないと、尚子は思っていた。ぎゅっと星野の手を握ると、その手は少し冷たく感じた。星野はそんな彼女の手を軽く叩き、何も心配はいらないと目で合図した。その時、少し離れたところで、聡の
星野は浴槽にもたれかかり、腹筋が引き締まった。二人の体はびしょ濡れで、彼は彼女の腰を握り、喉仏が上下に動いた。「気に入りました?」聡はもう力がなく、そのまま彼の胸に覆い被さった。耳元では彼の力強い鼓動が聞こえる。なぜか、彼女の心拍も速くなっていた。「うん」星野はまた尋ねた。「じゃあ、速いのが好きですか?それともゆっくりがいいですか?」聡は全身が赤くなり、顔を上げて彼を見た。彼の深い黒い瞳は真剣に彼女を見つめ、答えを待っていた。次の動作には移らない。中途半端な状態は、あまり気分の良いものではなかった。「星野くん、いつからそんなに意地悪になったの?」と聡が言うと、星野は平静な顔で答えた。「意地悪なんじゃありません。ただ君の意見を聞いてるだけです」まだ動かない。浴槽の水は次第に静まっていった。しかし聡はそんな状態に耐えられず、両手で彼の肩を押し、上半身を起こした。すぐに水が揺れ、浴槽からこぼれた水が床に散らばった。星野の喉仏が締まり、もう少しで我慢が限界だった。聡の得意げな笑みを含んだ目を見て、彼は深呼吸し、主導権を取り戻した。「言わないなら、僕の好きなようにしますよ」聡が返事をする間もなく、声は途切れた。彼女は海に浮かぶ孤独な小舟のようで、突然の嵐に翻弄され、意識は完全に奪われていった。浴室は湯気で仙境のようにぼんやりしていた。星野は聡を抱きしめ、赤らんだ頬にキスをし、彼女が震えるのを感じながら、瞳には満ち溢れる想いがあった。聡、いつか君の心に僕の居場所ができるはずだ。星野の結婚を知り、尚子は上機嫌で、病状も安定していた。彼女は退院をせがみ始めた。何日も星野に電話をかけ、仕方なく星野は病院に行き、尚子の全身検査をして問題ないことを確認し、退院手続きをした。聡が手伝いに来たが、尚子の荷物はわずかで、数着の服をまとめ、車を手配しただけだった。尚子はアパートに戻ると主張した。聡は困った様子で、「あの部屋、住み心地はあまり良くないし、私たちが会いに行くにも遠すぎます。一緒に住みましょう」と言った。しかし尚子は手を振り、「いやいや、長い間戻っていないから、見に行かないと」と答えた。星野が言った。「わかった、じゃあ見に行こう」聡は困惑していると、星野は続けた。「そのうち一緒に
「あら? そうなの?でも彼女は、あなたがサインを送ったから自分からアプローチしたって言ってたわよ」そう言いながら、聡は手にした小さなケーキの箱を軽く揺らし、ゆっくりと車の方へ歩いていった。その一言に、星野の身体がぴんと緊張をはらんだ。彼女の背中を追いながら、真っ直ぐな瞳でその横顔を見つめた。「聡さん、僕は本当に、何のサインも送っていません。白石さんと知り合ったのは、完全に母の意思なんです。彼女のことは好きじゃないって、はっきり伝えました。その後付き合ったように見えたのは、彼女がクライアントを紹介してくれたからで……その恩に報いようと、少し手伝っただけなんです。本当に、それだけです」言葉を選びながらも、星野の声はどこまでも誠実で、澄んだ目には一点の曇りもない。あの時、レストランで彼が早織と会ったのは、彼女がクライアントを紹介し終えた後だった。ささやかな礼として食事をご馳走した、それだけのこと。その席には、偶然にも聡と隼人の姿があった。当時の星野は、自分の本当の気持ちにまだ気づいておらず、聡があんなにも整った顔立ちで、しかも優秀な男と並んでいるのを見て、胸の奥がざわついた。ただの嫉妬だとやり過ごそうとしたが、どこか心に引っかかるものがあった。けれど、後になってようやく彼女への思いに気づいた時には、なぜあの時きちんと気持ちを伝えなかったのかと、深く後悔するようになっていた。あの時一歩踏み出せていれば、こんなにも回り道をしなくて済んだのかもしれないのに。星野の説明はどこまでも真剣で、迷いの色は微塵もなかった。そんな彼の様子を見つめながら、聡はふと唇の端を緩め、ほんの少しだけ笑みを深めた。「彼女には、『気にしない』って言ったわ」その言葉を聞いた瞬間、星野は息を呑んだ。追及された時の緊張より、今の方がずっと胸に堪えた。まるで大きな手で心臓をぎゅっと掴まれているようで、呼吸さえ忘れそうになる。気にしない、ということは、自分に対して特別な感情もないということだ。もし、心の中に自分の居場所があるのなら、気にしないはずがない。……そう、例えば、自分が隼人の存在をどれほど気にしているように。隼人が聡のそばに現れるだけで、耐え難いほどの危機感を覚えてしまう。星野は静かに深呼吸をし、「……気にしていないなら、よかったです
早織は病院を出るとすぐ、正面に見える小さな食堂のような店に入り、空いた席に腰を下ろした。ラーメンを注文したものの、箸をつける気にもなれず、丼はほとんどそのままだった。日が傾き、空に夕闇が滲み始めるころ、星野と聡はようやく建物の中から姿を現した。すでに二人で二時間近くも過ごしていたのだ。その姿を見つけた早織は、すぐに立ち上がり、いつでも駆け寄れるように身構えた。向こう側に並んで歩く二人。その親密そうな雰囲気に、早織の目は嫉妬で赤く染まり、星野を見つめる視線には、悔しさと痛みが渦巻いていた。この男……絶対に許せない!星野が聡に何か言葉をかけたかと思うと、くるりと背を向け、少し離れた方向へ歩き出した。その瞬間を逃さず、早織は目を輝かせ、急いで駆け寄ると、聡の手をつかんで反対方向へ引っ張り、勢いよく走り出した。不意を突かれた聡は体勢を崩し、転びかける。相手の顔を確かめた聡は、眉をひそめ、ぐいっと手を引き抜いた。「何すんのよ」早織は真剣な目で聡を見つめながら言った。「星野さんのこと、少しお話があるんです。聞いていただけますか?」「だったら普通に言えばいいじゃない。引っ張る必要なんてないでしょ」「……彼の顔なんて、見たくないんです!」その言葉を聞いた聡にはっきりと見えた。早織の目に浮かぶのは、星野への強い憎しみ。以前は自分に向けられていた敵意さえも、今はすっかり彼に向かっているようだった。なんで?どうしてこんなに気持ちが変わるのが早いの?聡は首を小さく横に振った。「一緒に行く気なんてないわ。話したいならここで話しなさい。したくないなら、それでも結構」そう言い終わると、踵を返し、星野のほうへと歩き出した。「……あの男、最低なクズですよ!」背後から、早織の叫ぶような声が響いた。聡の足が一瞬止まり、彼女を振り返った。街灯の下、早織の瞳は底知れぬ闇を宿し、まるでその闇が光すら吸い込んでしまうようだった。一歩前に出た早織は、じっと聡を見つめながら静かに言った。「……私がどうして彼と知り合ったか、知ってます?あの人が私に近づいてきたんですよ。仕事の悩みだって聞いてくれて、助けてくれた。ぶどう園で会ったときも、彼のほうから『手伝いますよ』って言ってきたんです」そこまで話すと、早織の目に淡い哀しみの
夕暮れが空を茜に染め始めるころ、星野が部屋へ戻ってくると、聡はさっそく話を切り出した。その内容に、星野は目を見張った。思いもよらない人物――雅之からの贈り物だったからだ。彼と雅之のあいだには、過去に少し因縁がある。特に、里香との関係が微妙だった頃には、互いに何かと牽制し合っていた。まさかそんな彼から、祝いの品が贈られるとは夢にも思わなかった。あまりに意外で、言葉も出ない。だが、聡は嬉しそうに笑いながら言った。「社長からの贈り物だもの、受け取らないわけにはいかないわよ。ねえ、明日休みでしょ?別荘、見に行こうよ」もし気に入ればそのまま引っ越せばいいし、もし合わなければ売って別の場所に住めばいい。それだけの話だ。「……いいですよ」胸の奥に湧き上がる複雑な感情を押し殺し、星野は静かに頷いた。その夜、ふたりとも落ち着かなかった。翌日、昼も近くなってようやく出発し、車を走らせ別荘地に到着すると、入り口には厳重な警備が待ち構えていた。警備員に登録を求められ、さらに身分証明の詳細情報まで入力させられるほどの徹底ぶりだった。だが、聡はこういう厳しさがむしろ気に入った。車の窓を少し開けて、「顔認証にしたら?登録した所有者だけが出入りできるように。顔認証なら便利だし、余計な人も入れないでしょ」と提案した。警備員はそのアイデアを気に入り、すぐに管理会社に報告すると応じた。手続きを終えると、ようやく通行が許可された。別荘の立地は申し分なかった。小区画の中央に位置し、周囲の敷地も広々としている。聡はひと目見ただけで心を奪われた。「ここがいい!ここを、うちらの新婚のおうちにしようよ!」くるりと振り返り、そう言って笑う。星野は小さく笑いながら頷いた。「全部、君の好きにしてください」聡は嬉しそうに彼の頬に軽くキスをして、別荘の中をくまなく見て回りながら、あちこちで「ここには何を置こうか」と想像を巡らせていた。一日中、ふたりはまるで夢の中にいるかのように過ごした。陽が西の空に沈みはじめた帰り道、星野がぽつりと口を開いた。「俺たちのこと……母に話しました。すごく、喜んでくれてました」運転席の横で、聡はシートベルトをぎゅっと握りしめた。「……ほんとに?」「はい。本当に。ようやく、息子を引き受けてくれ
「今、今すぐ行くの?」聡はわずかに緊張した面持ちで尋ねた。その様子を見て、星野は少し驚いた。あの聡でも、緊張することがあるんだそんな発見に、胸の奥でふっと温かいものが湧き上がる。「お母さんにはもう会ったことありますよね。すごく優しい人だって、知ってるでしょう。きっと、よくしてくださいますよ」「……知ってる」聡は小さく頷いた。尚子が優しい人だということは、もちろんわかっていた。いつも笑顔で話しかけてくれる、穏やかで包み込むような雰囲気の女性だ。彼女と話していると、自然と心が和らぎ、言葉にできないぬくもりに包まれる。そんな人だった。けれど今はもう、あの頃とは立場が違う。それが、どうしても緊張を呼び込んでしまう。怖気づいている自分を、聡は自覚していた。「ちょっと、準備が必要だわ」そう言った聡に、星野は優しく頷いた。「急がなくても大丈夫ですよ。まだ、時間はたっぷりありますから」その言葉に、聡はほんの少し肩の力を抜いた。帰宅すると、身体の芯から疲れを感じた。シャワーを浴び、ベッドに身を沈めても、頭の中はざわざわと雑音のような思考が渦巻いていた。やがて星野がベッドに入ってくる。そっと腕を伸ばして彼女を抱き寄せると、熱を帯びた吐息が肌に触れた。彼はそっと頬にキスを落とし、やがて唇の端に移っていく。静かな室内に、次第に二人の呼吸音が交差していく。翌日。聡のスマートフォンが鳴り、画面に「桜井」の文字が表示された。「聡さん、ご結婚おめでとうございます。末永く、お幸せに。実は、社長から預かっているものがありまして、ぜひお渡ししたいのですが」「えっ、何?」「どちらにいらっしゃいますか?できれば直接お会いしたいのですが」待ち合わせ場所を伝えると、二人は近くのカフェで会うことになった。聡が到着すると、桜井はすでに席に着いており、彼女の姿を見つけると笑顔で立ち上がり、一通の茶封筒を手渡してきた。受け取った封筒を開け、中身を目にした瞬間聡は目を見開いた。「……これ、何?」「社長からの新婚祝いです」その言葉に、聡の胸の内で驚きが炸裂する。やっぱり、金持ちってスケールが違う。封筒の中にあったのは、なんと別荘の譲渡書類だった。場所は冬木でも屈指の高級住宅地。文字通り、一寸の土地にも