それにしても、三井鈴は足を捻挫する回数が少し多すぎた。あの日の座談会でも、ただ田中仁の同情を誘いたかっただけだったのに、本当に足をひねってしまい、そして本当に泣いてしまった。そのことを知った祖父は心配でたまらず、名医をいろいろと探していた。三井鈴がもう浜白に戻ってきていることなど知らずに、今も三井家中を探し回っていた。真理子は三井鈴の部屋で取り繕っていたが、すぐに三井正非に見抜かれた。「正直に言いなさい。鈴は一体どこに行ったんだ!」真理子は泣きそうな顔で答えた。「その……お出かけの用事があるって……」「足を怪我してるのに、運転手も護衛もつけずに、どうやって出かけるっていうんだ!」脅されて耐えきれず、真理子はついに泣き出してしまい、その泣き声は通り中に響いた。ちょうどそのとき、田中家の本宅近くを通りかかった田中仁は、その泣き叫ぶ声を耳にした。車に同乗していた菅原麗も聞いてはいたが、深く気に留めず、三井鈴の声だと思い込んでいた。「三井家は何をしてるの?もう大人なのに体罰なんて。ちょっと見てくるわ」菅原麗が車のドアに手をかけたそのとき、田中仁がそれを制した。「子供の頃からずっとだ。三井家が彼女に手をあげたことなんて一度もない」菅原麗は一瞬きょとんとして、すぐに納得した。ちょうどその時、後ろの車がクラクションを鳴らした。かなり急いでいる様子だったが、田中仁の車が動かないのを見て、運転席の窓を下ろし怒鳴った。「いつまで止まってるの?早く動きなさいよ!」それは、三井鈴の声だった。真理子から連絡を受けた三井鈴は、急いでフランスへ戻ってきた。あと少しで着くというのに、目の前で道を塞がれている。足を捻挫していなければ、とっくに車を降りて歩いて行っただろうに。「鈴ちゃんだわ!」菅原麗はうれしそうに声を上げた。田中仁はフランスではレクサスには乗らず、車を替えていたため、三井鈴は彼だと気づいていなかった。相手の無礼さに腹を立て、運転手に言い放った。「ぶつけていいわよ。壊れたら私が弁償する」運転手は驚いた。三井鈴に支払える力があることは疑っていなかったが、その車のナンバーは見覚えがあった。「前の車、田中家の長男の車ですよ」三井鈴はその言葉に固まった。そんなはずはと思いながらナンバーを確認すると、案の定、ゾロ目の「666」
フランス。豊勢グループ幹部会議室。「国内は今、大騒ぎです。安田悠叶が生きていた。それを知っていながら報告しなかったと、鈴木さんが上からひどく叱責されました」広く明るいオフィス。田中仁は赤司冬陽に背を向けたまま、本棚から一冊の本を取り出していた。驚いた様子はまったくない。「大崎家が裏で彼を匿っていました。もう二度と警察に戻ることはないでしょう。これからは恐らく実業家として生きていくはずです」赤司冬陽はそう分析した。田中仁はそれについて何も言わず、次の報告を静かに待った。「それと……三井さんが浜白に戻りました。この件、彼女がどこまで把握しているかは……」ときに、言葉を濁すことが一番雄弁な答えになる。田中仁の手がページをめくる途中で止まった。だが、それもさして驚いた様子ではない。「ここ数日、恋に傷ついて家にこもって出てこないなんて芝居をメディアの前で見せていたのは、すべてこの日のためだろう」赤司冬陽は一瞬きょとんとした。「どうしてです?」「そうでもしないと、彼女の安田悠叶は警戒を解いて法廷に姿を現さなかった」田中仁は本を閉じ、机の上を指先で軽く叩く。その唇にはかすかな軽蔑と自嘲が浮かんでいた。「分かっていても、結局その感情を利用せざるを得なかったんだよ」利用されたその感情は、一体誰のものだったのか。ただならぬ空気に、赤司冬陽はそれ以上突っ込んで聞けなかった。「会議の準備を」田中仁は手にしていた本をゴミ箱に放り投げた。険しい怒りを滲ませながら。赤司冬陽には、今日の会議がかなり厳しいものになると、嫌な予感がしていた。その予感は、見事に的中することになる――三井鈴は思ったよりも長く眠ってしまい、目を開けるとすでに朝日が差し込んでいた。ぼんやりしたままドアを開けると、ちょうど家政婦が食事の準備を終えたところだった。彼女はにこやかに言った。「お嬢さん、目が覚めましたね。ちょうどご飯ができました。今日は暑いですから、涼しくなるようにお粥を炊いておきましたよ」三井鈴は少し気まずそうに苦笑した。泊めてもらっただけでも十分なのに、食事まで世話になるなんて……「木村検察官は?」「書斎にいますよ。呼びに行きますか?」この立場で勝手に書斎に入るのは少し気が引ける。三井鈴はそう思って迷っていると、階段の
「空港まで送って」三井鈴は目を閉じ、車窓にもたれかかって、必死に感情を落ち着かせていた。その言葉に木村明は少し驚いた。「こっちに着いてまだ二時間も経ってないだろ。浜白からフランスまで、六時間はかかるんだぞ。体がもたないんじゃないか?」その口ぶりに心配の色がにじんでいるのを感じ取った三井鈴は、努めて冷静に答えた。「この業界、出張続きなんて普通なんですよ。十何時間飛びっぱなしなんてざらですよ。木村検察官、そんなに気にしないで」「でも顔色がひどい。少し休んだほうがいい」木村明は有無を言わせず、運転手にルート変更を指示した。三井鈴にはもう反論する気力もなかった。考えてみれば、それも悪くない。秋吉正男の正体が明るみに出た今、あちこちに情報が回り、いずれニュースにもなるだろう。木村明は彼女を自宅へ連れて行った。政府から支給された官舎で、二階建てのメゾネットタイプ、独立した庭があり、出入り口は警備員が見張っている。自分では手を貸せないため、彼は家政婦に彼女を下ろすよう頼んだ。「この部屋は来客用だ。しばらくここで休んでくれ。何か足りないものがあれば秘書に言って」きっちり四角く区切られた室内。家具はすべて赤木でそろえられているが、生活感はまったくない。三井鈴はドアの枠に寄りかかりながら、少しおかしくなって笑った。木村明はそれを誤解し、すぐに眉をひそめた。「三井家と比べたら、そりゃあ簡素すぎたな。ホテルを手配しようか?」三井鈴は少しだけ気分が和らいだ。「じゃあ、ペントハウススイートがいいわ。一泊160万」「それ、私の五ヶ月分の給料なんだけど」木村明はあっさりと言った。「無理だな、そんな出費は」「冗談よ」三井鈴は口元に笑みを浮かべて、部屋の中へ入った。「ここで十分。三時間ほど休むわ。起きたら声かける」木村明は一歩下がり、静かにドアを閉めた。その頃、山本哲は一本の電話を受けていた。少し疲れのにじんだ声で言う。「もう知ってる。彼らのほうが、あなたより一歩早かったな」書斎の中、木村明は携帯を握りしめたまま報告した。「当然ですね。本人が法廷で、自分が安田悠叶だと暴露した以上、誰かがすぐ先生に伝えると思っていました」浜白中の誰もが知っている。安田悠叶はかつて山本哲の最も優秀な教え子だった。その行方を彼はずっと密かに探し続け
肌が触れ合うほど近いのに、彼は熱く、三井鈴は冷たかった。「事情があって言えなかった、隠していた。それはいいわ。でもそのあと、あの茶屋であなたに会ったときだって、一度も本当のことを話そうとしなかった。これだけ会っていながら、そんな機会すら一度もなかったの?」三井鈴は彼の手を振り払って、身を小さく丸め、まるで敵を見るような構えで隅にうずくまった。何度も、もう少しで真実に手が届きそうだった。でも彼はずっと口を閉ざしたままだった。「昔、私が会おうって言ったとき、あなたは来なかった。あのあとも、私がどれだけ苦しんでいるか知っていながら、ずっと黙って見てた。私のこと、滑稽なバカだと思ってた?」何度も心の中で冷静でいようと繰り返した。でも、さっき電話の向こうで「俺私が安田悠叶だ」と聞いた瞬間、抑えていた憎しみは一気に噴き出してしまった。「あなたのことを、バカだと思ったことなんて一度もない」秋吉正男は一言一言、噛み締めるように言った。「そうじゃなきゃ、私はこんなに長くあなたのそばにはいなかった。あなたは何もかも持ってるお嬢様だ。私は何だ?孤児?警察を辞めさせられた人間?それとも、顔に傷を負った哀れな男か?教えてくれよ。どうやったら私みたいなのが、三井家のお嬢様にふさわしいって言えるんだ!」三井鈴の胸がきゅっと痛んだ。目の前の彼は、安田悠叶としての彼とはまったく違っていた。自信に満ちた安田悠叶ではなく、ここにいるのはひどく自分を卑下する秋吉正男だった。車内に満ちているのは、二人の抑え込まれた息遣いだった。しばらく沈黙が続いたあと、三井鈴は半身を起こし、彼の手をそっと握った。「私は気にしない。もし気にしてたら、あの時あんなふうに安田翔平に飛び込んだりしなかった」秋吉正男の目に浮かぶ涙がきらめいた。苦しげに問いかける。「じゃあ今は?今はどうなんだ?」三井鈴は何も答えず、ただ彼をじっと見つめていた。やがて、ぽつりと問いかけた。「あなたが安田悠叶だってこと、田中仁は最初から知ってたんでしょう?」その名前が出た瞬間、秋吉正男の胸がまた締めつけられた。「……ああ」「やっぱり、そうだったんだ……」三井鈴は呟き、次の瞬間、衝動に任せて本を掴み、車の窓に投げつけた。ガラスが粉々に割れた。秋吉正男は慌てて彼女が怪我しないようにと腕を
すべては計算済みだった。木村明は時間まで正確に読んでいた。秋吉正男は鋭い目つきで睨み、罠に嵌められたと直感した。「木村検察官もこんな不義理な真似をするんだな。噂とは随分違うじゃないか」「会ってみたら、案外感謝するかもしれないぞ」木村明は楽しげに意味深な笑みを残し、そのまま背を向けて去っていった。その言い方はあまりにも意味深で、不穏だった。秋吉正男はその場でしばらく足を止めたが、やがて観念したように歩き出し、停まっているレクサスの窓を軽く叩いた。木村明の愛車は質素な古い型のレクサスだった。長年乗り続けた車体には、ところどころ擦り傷が残っている。中からは何の反応もない。秋吉正男は眉をひそめ、少し苛立ちながら、もう一度ノックした。今度は、ウィンドウが静かに下がった。「こんにちは」秋吉正男は窓の内側を覗き込んだ瞬間、その場に凍りついた。そこに座っていたのは……三井鈴だった!彼女は特に着飾っているわけでもなく、控えめな落ち着いた服装に、まっすぐな黒髪を前に垂らしていた。表情は無機質で感情を読ませない。二人の視線が交わる。目に見えぬ激流がその間を走った。秋吉正男はまるで胸を強く殴られたような衝撃を覚え、思わず足元がふらついた。「どうして浜白に?あなたは……」「今ごろ私はフランスにいて、田中仁との破局に傷つき、静養してるはず、そう思ってたんでしょう?」三井鈴は静かにそう言い、無言で車のドアを開け、彼に乗るよう手で促した。二人の距離が縮まるたび、秋吉正男の全身は痺れるような感覚に包まれた。「ゴシップ記事には確かにそう書かれていた。それを信じたのも無理はないわ。でも、もし私が今日浜白にいると知ってたら、あなたはきっと裁判に出てこなかったでしょう?ねえ、秋吉店長」三井鈴は皮肉めいた笑みを浮かべ、口元をわずかに吊り上げた。「ああ、違った。呼び方を間違えたわ。安田さんだったわね、安田悠叶」その一言はまるで雷鳴のように響いた。彼が思い描いていた再会の光景とは、あまりにも違っていた。秋吉正男の目は血走り、ドアにかけた手は力みすぎて指の関節が白くなっていた。「いつから知っていたんだ」「もしかしたら、あの偶然を装った数々の出会いの中で。あるいは、あなたが何度も私を助けてくれた、その優しさの中で。それとも、安田家
裁判官は表情を曇らせ、弁護士の質問を制した。「事件と無関係な人間のことは、これ以上尋ねる必要はありません」弁護士が頷き、次の質問へ移ろうとしたその時、ひとつの声が響いた。「亡くなった大崎沙耶の実の息子です。訊く権利があるはずだ」木村明が振り向くと、そこに立っていたのは秋吉正男だった。白いシャツに黒のパンツ、派手な容姿ではないが、鍛え上げられた真っ直ぐな雰囲気をまとい、自然と周囲の空気を支配していた。それは長年の警察勤務で培われたもの、木村明はその見覚えのある感じの正体を理解した。大崎雅は彼の姿を確認すると、ようやく安心したように肩の力を抜いた。秋吉正男は身分証明書類を差し出した。裁判官はそれに目を通し、驚きの声を上げた。「あなたが安田悠叶?その後、秋吉正男と名を変えたのか?」彼は少しも動じず、潔くそれを認めた。小泉由香里はその場に崩れ落ち、信じられないものを見るような目で彼を睨んだ。「ありえない、私は安田悠叶に会ったことがある!あなたみたいな顔じゃなかった!」「最後の任務の時だ。車が爆発して、そのまま川に落ちた。顔は完全に焼け爛れて、別人になった。小泉さん、これで納得したか?」秋吉正男の笑みはどこか冷たく、じわじわとにじむ悪意に、小泉由香里はぞっとして身震いした。「安田翔平は知っているよ。あなたには教えてもらってなかったのか?」小泉由香里は完全に怯え、声を震わせた。「あなたは命を取りに来たのね……死神だわ……」彼女は悲鳴を上げ、看守たちがすぐに駆け寄り、押さえつけた。「この件を正式に調査しようとすれば、上層への申請が必要になるし、面倒なのは理解している。だから、その必要はないように、すべての証拠をここに揃えてきた。今ここにいる秋吉正男こそが、かつての安田悠叶だ。それを証明できる」そのすべての資料は、彼がすでに完璧に整えてあった。「あなたのお母さんが亡くなったとき、あなたはまだ生まれたばかりだった。本来なら、当時の事件とは無関係のはずだ」「だから私は、安田悠叶としてここにいるわけじゃない。大崎沙耶の息子として、今日ここに立っている。もし私が、小泉由香里のこれまでの数々の違法行為の証拠を持っていると言ったら?」人身の自由を奪ったこと、違法な取引への関与、秋吉正男はすでにそれらすべての証拠を押さえていた。
八月二十一日、月曜日。街を騒がせた安田家の裁判がついに開廷した。小野雪と小泉由香里は法廷内で向かい合う形でそれぞれ座り、審理を受けていた。安田翔平は今回の過去の因縁には直接関与しておらず、出廷はしていなかった。傍聴席の最前列、大崎雅は関係者としてじっとその様子を見つめていた。本来ならこの裁判は世間の注目を集めるべく、全てのメディアを招き入れて公にする予定だった。だが、秋吉正男はそれをきっぱりと拒んだ。「メディアがいなければ、あなたが大崎家の人間だって、誰が知るのさ?」「私はそんな血塗られた名声に乗っかる気はない」秋吉正男は顔色を曇らせた。「いつ公にするかは、私が別で決める」裁判は中盤に差しかかっていた。状況からして無期懲役が妥当と思われたが、大崎家は裏から圧力をかけ、小泉由香里に死刑判決を望んでいた。大崎雅は時計をちらりと見て、秘書に尋ねた。「彼はまだ来てない?」「おそらく道中で何かあったんでしょう」証人の証言と物的証拠が次々と揃う中、小泉由香里は法廷で声を荒らげた。「裁判長!彼らは嘘をついています!全部仕組まれた罠なんです!私は殺していません……大崎沙耶を殺したのは私じゃない!」その様子からは、彼女の精神がすでに限界に達していることが明らかだった。小野雪が横から強い口調で追い打ちをかけた。「あなたで間違いないわ。私に金を渡して大崎沙耶に薬を盛らせ、旦那の不倫を吹き込んで精神的に追い詰め、早産させた。出産したその日に沙耶は亡くなった。すべて、あなたが元凶なのよ!」「でたらめを言わないで!彼女が勝手に早産しただけじゃないの!私は無関係よ、いい加減にしなさい!」「私を陥れて、何が得られるっていうのよ?あなたも共犯じゃない!自分だけ助かるつもり!?」「私の娘はもう帰ってこない。この先、私が生きてても何の意味もないわ。でも、せめてこれだけははっきりさせたいの」小野雪の目には涙が溢れていた。「あなたみたいな人間をこの世にのさばらせておくわけにはいかない!」「あなたっ!」「静粛に!」裁判長がハンマーを打ち鳴らした。その後、弁護士が発言の場を得た。大崎雅は振り返り、秋吉正男の姿を探したが、まだ彼は現れていなかった。その代わりに、浜白の政財界の要人たちが多く傍聴に来ているのが目に入った。この裁判の影響の大き
「明日、安田家の件で裁判が開かれるわ。お母さんのことが関わっている。出席するかどうかは、あなたが決めなさい」花子が切った果物を運んできた。大崎雅はその一切れを無造作に口に運びながら、気にも留めない様子でそう言った。秋吉正男は席の中央に座り、沸かした湯をカップに注いでいた。それは、かつて三井鈴が贈ってくれたものだった。彼はそれを、公の場で使ったことは一度もなかった。「行くのか?」「私は大崎家の代表よ。もちろん行くわ」「お祖父さんは?」「お祖父さんはもう高齢で、こんな刺激には耐えられないわ」大崎雅は大きく息をつき、わずかに苛立ちを見せた。「三井鈴からメールが届いたときも、あの人はショックで脳梗塞を起こして入院したの。浜白まで連れてきて傍聴させるなんて、無理に決まってるでしょう」秋吉正男は何も言わず、テーブルの上のタブロイド紙に視線を落とした。そこには、フランスでの三井鈴の様子がいかに痛々しかったか、こと細かに書き立てられていた。彼は静かに眉をひそめた。大崎雅はちらりと彼を見て、皮肉げに言った。「どうりで最近顔を出さないと思ったら、男に捨てられたんですって。あれだけ気取ってたのに、大したことないわね」「もうやめろ」秋吉正男は低く鋭い声で言い、手にしていた茶杯を音を立てて置いた。大崎雅は驚いて目を見開き、すぐさま立ち上がった。「私に向かって声を荒げるなんてどういうつもり?大崎家はこれまであんたに衣食住を与えてきたのよ。何ひとつ不自由させなかったわ。それなのにあの茶屋は何?大崎家の人間がそんなところで客を迎えてるなんて知られたら、恥さらしでしょう!」秋吉正男は動じずに言った。「私が警察にいた頃、おばさん、あなたはそんな顔じゃなかった」かつて彼は公務員だった。しかもそれなりに名前の通った立場にいた。大崎雅は、その立場を利用して何度も「コネを使ってうまくやってほしい」とそれとなく持ちかけた。だが秋吉正男はそうした頼みごとを一切受け入れなかった。その話を持ち出されて、大崎雅はさらに怒りを露わにした。「よくもまあ、警察だったなんて言えるわね。たった一枚の証明書のためなのに、コネのひとつも使わず、私に600万円も払わせて正規ルートで通らせるなんて。大崎家の金はあなたの金でもあるのに!」秋吉正男はさすがに堪えきれず、うんざり
メディアは約束を守り、写真も記事も出さなかった。座談会の報道にも三井鈴の名前はなかったが、内部の人間たちにはこの出来事はそれなりに知れ渡っていた。上流社会の間ではこの話題が大きく広がり、田中仁と三井鈴は本当に終わったと、誰もがそう噂していた。この話を耳にしたのは、星野結菜がちょうどひとつのインタビューを終えた時だった。相手は離婚後に人生を立て直し、上場企業のトップに立った女性。カフェでの取材が終わり、二人は握手を交わしていた。「今日は楽しかったわ、星野編集長。この号の掲載、楽しみにしてる。また応援するわね」星野結菜は丁寧に頷いた。「あなたはとても考えがしっかりしています。またぜひご一緒しましょう」彼女が原稿をまとめていると、隣の席からひそひそとした会話が聞こえてきた。「田中仁がとうとう独り身になったんだって。ついに覚悟を決めたみたいね。栞里、これからはみんなあなたに注目するんじゃない?」「とうとうって、そんな言い方」「誰だって気づいてるでしょ。三井鈴があそこまでして座談会に現れたのに、田中仁は完全に無視。もう答えは出てるじゃない」雨宮栞里の向かいに座っていた美しい女性が、くすりと笑った。「三井鈴、一体どんな失態をやらかしたんだか……」雨宮栞里は一応その話には乗らず、口を閉ざしていた。あの日、田中仁が三井鈴を抱きかかえて連れ出した場面が脳裏に浮かんだからだ。もちろん、見ていて穏やかではいられなかった。でも、あの瞬間に無理をしても何も得られないことは、彼女自身よくわかっていた。案の定、その少しあと、田中仁は一人でその場から出てきた。隣に三井鈴の姿はなかった。それだけで、十分すぎるほどの答えだった。「彼女が何をしたかなんて関係ない。私は動くわ」雨宮栞里は眉を上げ、瞳の奥に強い野心を宿した。「栞里!」その声に気づいた女性経営者が、驚きとともに声をかけてきた。どうやら顔見知りのようだった。雨宮栞里も少し驚いて振り向く。「おばさま?どうしてここに?」星野結菜はその場に立ったまま一部始終を見ていた。雨宮栞里は礼儀正しく軽く会釈して声をかけた。「星野編集長」経済メディアの世界では、星野結菜の名を知らぬ者はいない。彼女が担当するインタビュー記事は常に注目を集め、出演希望者も多い。雨宮栞里が丁寧に接するのも当然だった。