登入美代子は車海老の変わり揚げが盛られた小鉢を自ら手に取ると、琴葉の目の前にそっと置いてやった。琴葉はそれに気づくと、礼儀正しくお礼を口にした。「ありがとうございます、美代子さん」今の彼女は、油っこいものを体がまったく受け付けない。だが、目上の方から自ら差し出された料理に手をつけないのは失礼にあたる。琴葉は食卓を囲む一同の視線を受けながら、椀の海老を箸で挟み、そっと一口かじった。途端に、揚げ油の重たい匂いと、甘辛く濃厚な特製だれの風味が、むわっと口いっぱいに広がった。「どう、お義姉さん?美味しい?それ、私が最近すっごく気に入ってるお料理なんだよね!」陽葵は、美味しいものを勧めたくてうずうずしているといった様子で目を輝かせている。琴葉は無理やり喉の奥へ飲み込んだ。途端に胃の底から激しい吐き気が込み上げてきたが、何人もの目に見つめられている手前、顔に出すわけにはいかない。不快感を必死に抑え込み、陽葵に向かって作り笑いを浮かべた。「ええ、美味しいわ」その時、碧斗がさっぱりとした酢蓮の小鉢を彼女の手元へ寄せ、何食わぬ顔で琴葉の皿に残っていた海老を自分の皿へと引き取った。琴葉の吐き気は、いよいよ限界に達しようとしていた。口を開けばそのまま吐いてしまいそうで、じっと唇を噛み締め、声を発することもできない。碧斗は彼女の異変にいち早く気づき、すぐさま箸を置くと、彼女の体を支えながら声を潜めた。「まだ腹が減ってないなら、後で食べるか?」それを聞き、美代子が2人の様子を見た。眉をひそめて必死に耐えている琴葉の顔を見て、初めはきょとんとしていたが、すぐにハッとして目を輝かせた。だが、美代子が口を開くより早く、理恵が不満げに咎めた。「席についたばかりでもう食べないなんて、行儀がなっていないんじゃなくて?」理恵は、先ほどの雪乃の件で、琴葉がわざと機嫌を損ねたふりをして当てつけがましく振る舞っているのだと思い込んでいた。「うっ……」琴葉はついに耐えきれなくなり、慌てて口を覆うと、立ち上がってトイレへと駆け込んだ。碧斗は顔をこわばらせ、すぐさま席を立ってその後を追った。理恵は駆け出していった琴葉の背中を指さした。「お義母さん、あの子をご覧になりましたか!一体あれは何様のつもりでしょう。お義母さんの前でまであんな風に癇癪を起こすな
碧斗は顔を上げ、美代子を見つめ返した。「何の話だ?」「仕事のことなら、私に心配をかけたことなど一度もないでしょう」美代子は彼をじっと見据えた。「私が言っているのはもちろん、あなたの夫婦仲のことよ」すべてを見透かすような眼差しに射すくめられ、碧斗は少しバツの悪そうに視線を逸らした。「話す気はないと?」「お祖母さん、俺のことは俺自身で何とかする」「本当にそう言い切れるの?」「ああ」「まあいいわ。理恵にはきつく釘を刺しておいたから、もう雪乃を担ぎ出してあなたに余計な厄介事を持ち込むこともないでしょうしね」美代子はそれ以上問い詰めることはせず、立ち上がって部屋を出ようとした。だが、碧斗の横を通り過ぎるすれ違いざま、彼の身なりを一瞥した。「悪くないわ。奇策に打って出るのも手というわけね」彼女は感心したように碧斗の肩をぽんと叩き、面白がるようにからかった。「そのイケメン作戦、案外、琴葉には効果てきめんかもしれないわよ」その言葉に、碧斗の顔はたちまち朱に染まった。一方、リビングでは。2階から降りてきてからずっと、ソファに座って上の空で黙り込んでいる琴葉を見て、陽葵が隣にすり寄り、慰めるように声をかけた。「お義姉さん、あんまり思い詰めないで。お祖母さんが味方についてくれてるんだから、結城家でお義姉さんの居場所を脅かせる人なんて絶対にいないよ。お兄さんだって言ってたじゃない、『ずっと俺の妻だ』って。だから安心してて。雪乃が結城家の敷居を跨ぐことなんて、金輪際ありえないんだから」そもそも、今日の兄の態度を見ても、雪乃に未練があるようには到底見えなかった。もし少しでも気があったら、あんなにも惨めに追い返すような真似をするはずがない。雪乃が結城家に嫁ぐかどうかなど、琴葉の知るよしもない。唯一確かなのは、今の自分はもう結城家の人間ではないということだけだ。結城家の内情など、もはや彼女には何の関係もないことだった。それでも琴葉は、必死に励ましてくれる陽葵に向けて小さく微笑みを返した。「ええ、わかっているわ。ちょっとお手洗いに行ってくるわね」そう言って、琴葉は席を立ち、トイレへと向かった。用を済ませてドアを開けると、目の前に碧斗が立っていた。琴葉は一瞬足を止めたが、彼もトイレに来たのだろうと思い直
やはり、かつて帝都の財界にその名を轟かせた「アイアンウーマン」の異名は伊達ではない。美代子が放つこの圧倒的な気迫には、琴葉もどこか見覚えがあった。少し考えてハッと気づく。碧斗の纏うあの冷徹な佇まいの中に、美代子の影が色濃く重なっていたのだ。「浅はかにもほどがあるわ」美代子は理恵を見据えた。その眼差しには、ふがいなさを責めるような色が浮かんでいる。理恵の浅知恵など、美代子から見れば取るに足らないものだった。問い詰めるまでもなく、雪乃を屋敷に呼び寄せたのが理恵であることなど、とうにお見通しだった。「周防家が、かつて我が家と縁続きになる話があったと分かっていながら、あの娘を屋敷に引き入れて何を企んでいたの?琴葉の顔に泥を塗るつもり?誰が身内で、誰がよそ者か、その区別もつかないのかしら?」美代子のその言葉を聞いて、琴葉の胸は小さく震え、目頭がじわりと熱くなった。美代子がここまで自分のために怒ってくれるとは思いもしなかったからだ。以前、実家で虐げられていた頃、こんなふうに自分を庇ってくれる人など1人もいなかった。叱責を浴びた理恵はすっかり首をすくめ、これ以上ないほど深くうつむいている。琴葉の前で見せるような、あのふんぞり返った態度は微塵もなかった。「お義母さん、そういうわけでは……」理恵は消え入りそうな声で弁明した。「私はただ、うちの碧斗の身分や条件を考えれば、もっと相応しい妻を迎えるべきだと思っただけです。それに雪乃は、以前こちらから見込んだお相手でしたし……」「碧斗は今、独り身とでも言うの?」美代子の声が一段と低く沈んだ。「相手を探すですって?碧斗に重婚罪を犯させようというの、それとも妻を捨てて別の女を娶らせようとでも?そもそも結城家には、妻を捨てるような破廉恥な真似をする人間など1人もいない。それに百歩譲って、仮に琴葉がいなかったとしても、あの雪乃が結城家の敷居を跨ぐことなど二度とあり得ないわ」これには理恵も腑に落ちないらしく、戸惑ったように美代子を見上げた。「ですがお義母さん、周防家は以前、ご自身でお選びになったお相手では?」「確かに、数ある名家の中から周防家へ機会を与えたのは私よ。けれど、先に恩義を裏切ったのはあちらのほうでしょう」美代子は吐き捨てるように言った。「周防家が何ほどのものだというの?あの娘
美代子は客あしらいの礼儀こそ重んじていたが、一度口にしたことは絶対に曲げない人でもあった。お茶を一杯飲んでから帰るようにと言った以上、本当に一杯分の時間しか与えるつもりはなかったのだ。雪乃がお茶を飲み干すのを見計らったかのように、美代子が口を開いた。「雪乃さんのお気持ちは、しっかりと受け取ったわ」そう告げると、美代子はふっと表情を改め、言葉を継いだ。「もうすぐお昼の時間ね。今日は琴葉がわざわざ、私と食事をするために帰ってきてくれたの。だから雪乃さん、これ以上のお引き留めはしないわね」それは単なる暗黙の帰れという合図であるだけでなく、誰の目にも明らかなほど、露骨に琴葉の顔を立ててみせた言葉だった。その真意は琴葉はもちろんのこと、雪乃にも痛いほどはっきりと伝わっていた。雪乃はすがるような目で理恵を見た。だが、今の理恵が美代子の意向に逆らえるはずもなく、早く帰るようにと目配せで促すのが精一杯だった。雪乃がちらりと碧斗に視線を向けると、その横顔は美代子よりもさらに冷え切っていた。もはや黙って立ち上がるしかない。「……はい。それでは、また改めてお伺いいたしますわ」言い残し、彼女は逃げるように足早に結城家を後にした。リビングは水を打ったような静けさに包まれた。「誰か」ふいに美代子が声をかけた。すぐさま執事が進み出る。「大奥様、何かお申し付けでしょうか」「あの手土産を外へ持って行って、彼女にお返しなさい。結城家には不要なものよ」「かしこまりました」執事は雪乃がテーブルに置いていった品々を手に取ると、身を翻して追いかけていった。屋敷内は再び静寂を取り戻した。「琴葉」美代子は琴葉を振り返り、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。「あなたは陽葵とここで少しゆっくりしていなさい、いいわね?」何が始まるのかわからなかったが、琴葉は慌てて頷いた。「はい、美代子さん」続いて、美代子は理恵と碧斗に鋭い視線を向けた。「あなたたち2人は、私についてきなさい」言い捨てるなり立ち上がり、自身の書斎へと向かっていった。碧斗の祖父や父親が他界して以来、結城家を当主として女手一つで支え続けてきたのは美代子だった。今はすでに当主の座を退いているとはいえ、一族の長としての絶対的な威厳はいささかも衰えていない。彼女の言葉は、この結
陽葵が碧斗に向かってぷっと唇を尖らせてみせた。理恵は、碧斗が琴葉を庇って口出ししたことが不満げに眉をひそめた。「碧斗、あなたは……」「もういいでしょう」美代子が理恵を真っ直ぐに見据えた。「あなたは結城家に嫁いできて何年にもなるのに、私という姑に贈り物を手配してくれたことなど一度もないわ。それなのに、琴葉がたった一回用意しなかったからといって、文句を言うつもりかしら?」思わぬ藪蛇をつついてしまった理恵は、たちまち居心地悪そうに顔を引きつらせた。後ろめたさから声もすっかり弱々しくなってしまう。「お、お義母さん、そういう意味では……」美代子はそれ以上彼女を取り合おうとはせず、自分のポケットから赤いお守りを一つ取り出すと、琴葉の手にそっと握らせた。「受け取って。お寺であなたのためにいただいてきたお守りよ」「ありがとうございます、美代子さん」琴葉は両手でそれを受け取った。陽葵が横からひょいと首を伸ばして覗き込んだ。「あれ?お祖母さん、私にくれたのと、お義姉さんのが違うよ」「あなたのは『厄除け』、琴葉のは『夫婦和合』のお守りだから、違って当然でしょう」美代子はそう言いながら、琴葉のものと全く同じお守りをもう一つ、碧斗に向かって差し出した。「はい、これはあなたよ」陽葵が尋ねる。「夫婦和合のお守りって何?」「夫婦の絆を深め、円満を祈願するものよ」美代子のその言葉を聞いた瞬間、琴葉は手の中にあるお守りをどう扱っていいのか分からず、掌の中でひどく持て余してしまった。対する碧斗は、嬉しそうにそのお守りを自分のポケットに収めた。「ありがとう、お祖母さん」琴葉がお守りを持ったまま固まっているのを見て、美代子はニコニコと笑いかけた。「このお守り、とてもご利益があるのよ」それまで言われては、なおのこと手の中で持て余してしまう。嘘をついて受け取ることの罪悪感に、琴葉はますます居心地の悪さを募らせた。どうやって処分すべきか頭を悩ませる暇もなく、手の中のお守りは大きな手にすっと抜き取られた。「カバンにしまっておいてやる」碧斗は彼女に口を挟む暇も与えず、そのままお守りを彼女のバッグの内ポケットへと滑り込ませた。その時、1人の使用人が歩み寄ってきた。「大奥様、お客様がお見えです」美代子は怪訝そうに眉を寄せた。「私が戻ってき
本家へと向かう車中。琴葉の視線は、再び隣の男へと注がれていた。どう見ても、今日の彼は意図的にお洒落をしてきている気がしてならない。「今日、本家に誰かお客様でも呼んでいるの?」彼女は唐突に尋ねた。碧斗は不思議そうに彼女を見た。「誰も呼んでいないが。どうしてそんなことを聞くんだ?」「……ただ聞いてみただけよ」――これまで本家に帰る時だって、彼がこんなふうにわざわざ着飾ることなんて一度もなかったのに。今日は一体どういう風の吹き回しかしら。ふと、彼が「今日は休みだ」と言っていた言葉が頭をよぎり、途端に嫌な予感が胸を突いた。「もしかして私たち、今日は本家で1日中過ごすつもりじゃないわよね?」「ああ」碧斗はかすかに口元を緩めた。「お祖母さんには電話で、今日は俺も休みだから、1日中一緒にいられると伝えてある」琴葉の顔色が一瞬にして変わった。――本家に丸1日だなんて!万が一、偽装夫婦だってボロが出たらどうする気なの?「あなた、どうしてそんな……」「お祖母さんは、お前のことをずっと気に掛けていたんだ。お前が1日付き合ってくれると知って、本当に喜んでいたよ」琴葉が言いかけていた文句は、その一言で見事に封じ込められてしまった。……車は結城家の広大な本家の敷地に滑り込み、2人は車を降りた。碧斗は琴葉のそばに歩み寄り、彼女の手を引こうとしたが、琴葉が身をかわすのを見て、彼女の耳元に身を寄せて低く囁いた。「お祖母さんは昔から勘が鋭いんだ。もっと親密そうに振る舞わないと、すぐにバレてしまうぞ」長年ビジネスの世界で辣腕を振るってきた美代子は、頭の回転も早く、決して誤魔化しが利く相手ではない。琴葉がほんの一瞬ためらったその隙に、彼女の手は碧斗にしっかりと握られていた。碧斗は彼女の細く柔らかい指先を軽く握ると、言った。「行こうか」呆れ半分に息を呑みながらも、琴葉は彼に手を引かれたまま、静かに屋敷へと足を踏み入れた。リビングでは、理恵が1人掛けのソファに居住まいを正して座っていた。長ソファには美代子が腰掛け、その横には陽葵が親しげに寄り添い、スマートフォンを手にして何かを見せている。2人とも楽しそうに笑っていた。陽葵が言った。「すごく面白いでしょう?これ、クラスメイトが撮った動画なの」美代子は笑いながら答