LOGIN桑原琴葉(くわばら ことは)と結城碧斗(ゆうき あおと)が結婚して2年。あの日、琴葉は偶然にも、彼の妹が彼にこう問い詰めているのを立ち聞きしてしまった。「もしお義姉さんと雪乃が同時に目の前に立って、選べって言われたら、どっちを奥さんにするの?」 碧斗は答えた。「雪乃だ」 その答えを聞いた琴葉は、冷静に離婚を切り出した。だが、離婚手続きに必要な1ヶ月の、まさに最終日――予期せぬ妊娠が発覚し、あろうことか碧斗にその現場を押さえられてしまう。 彼女はその場で子供をおろすと宣言したが、医師からは「身体的な理由により、中絶はできません」と告げられてしまった。 碧斗は彼女に2つの選択肢を突きつけた。 1つ目は離婚の取り消し。 2つ目は最後の離婚手続きを完了させ、親権も彼女に渡すが、妊娠期間中は彼と同居すること。 琴葉は後者を選んだ。 こうして、彼女と元夫との離婚後の同居生活が幕を開けた…… 同居後、琴葉はあることに気がついた。年中無休の仕事人間だった彼が、まるで別人のようになり、毎日きっちりと定時に帰宅するようになった。用もないのに彼女にまとわりつき、「お腹の子供のため」という口実で、何かと甲斐甲斐しく尽くしてくる。 やがて、無事に子供が産まれた。 赤ちゃんを腕に抱く琴葉を、碧斗は優しくその腕の中に抱きしめた。彼は彼女の額に愛情深く口づけを落とし、優しく囁いた。「子供はお前のものだ。そしてお前は、俺のものだ」
View More「こんなに若いお姉さんだったなんて思わなくて……あ、すみません!ええと、なんてお呼びしたらいいですか?」「そんなに畏まらなくていいわよ。それに私たちの仕事って守秘義務があるから、余計な注目を集めないためにも、外では素性を出さないようにしてるの。私は桑原琴葉。普通に名前で呼んでくれていいわ」櫂は目の前の、静かで上品な雰囲気をまとい、絵画のように美しい女性を見つめた。自分より年下なのではないかと錯覚するほど、その肌はみずみずしく透き通っている。「あの、失礼ですが、おいくつですか?」琴葉は答えた。「25よ」「僕より三つ上なんですね。じゃあ、これからは琴葉さんって呼びますね」櫂はにっと笑った。「呼び捨てなんて失礼すぎますし」琴葉は頷いた。「ええ、それでいいわ」櫂は嬉しそうに手元のコーヒーカップを掲げた。「それじゃあ、これから1ヶ月間、ご指導よろしくお願いします、琴葉さん」琴葉もカップを持ち上げて彼と軽く合わせた。「こちらこそ、よろしくね」翌日、琴葉はさっそく櫂を釣りに誘った。櫂は意気揚々と待ち合わせ場所にやって来たが、木陰一つない川辺に連れて行かれ、呆気にとられた。「琴葉さん、真夏の炎天下ですよ。本当に……ここで釣りをするんですか?」「そうよ」かがんで釣り竿の準備をしている琴葉を見て、櫂は額に汗をにじませた。「いやいや、琴葉さん、釣りが好きなら、もっといい場所に案内しますよ。そこなら木陰もあって涼しいし、絶対に……」「ここがいいの」琴葉は立ち上がって大きな麦わら帽子を彼の頭に被せると同時に、1本の釣り竿を彼に握らせ、川辺にある大きな石を指差した。「あそこに座って釣るわよ」櫂は炎天下で焼け焦げそうになっている石を見てごくりと唾を飲み込み、琴葉を振り返った。「琴葉さん、やっぱりもっと夏らしい遊びに行きません?ここの環境と天気、どう考えても釣りには向いてないですよ」琴葉は自分の釣り竿を持ってそこへ歩いていき、二つの石の上にそれぞれ熱を遮る布を敷いた。その片方に座ってから、彼女は櫂の方を見た。「遊びじゃないわ。これはあなたの忍耐力を鍛える訓練の一つよ」あえてこのような過酷な環境で釣りをすること自体が訓練の要素であり、忍耐力と持久力を試すためなのだ。櫂は同じように大きな麦わら帽子を被った琴葉をポカンと見つめた
琴葉の師匠は国内トップクラスの古美術修復師であり、業界で「修復の神の手」と讃えられる白石宗正(しらいし むねまさ)である。2年前、宗正は文化財局の特別招聘を受け、文化財修復チームを結成して八雲という古都へと向かった。それ以来、琴葉は宗正と一度も顔を合わせていない。宗正は一度仕事に没頭すると自室にこもりきりになり、外の事には一切関知せず、携帯電話すら手元に置かなくなることがよくあった。そのため、昨晩電話が繋がらなかった琴葉は、自分の近況と今後の考えをメッセージに残しておいた。早くても返信が来るまで数日はかかるだろうと思っていたが、思いがけず、帆夏が帰った直後に先輩の水瀬光莉(みなせ ひかり)から電話がかかってきた。「先輩」電話に出るなり、光莉は単刀直入に尋ねてきた。「あなた、離婚したの?」琴葉は目を伏せ、「……はい」と答えた。「八雲のプロジェクトが終わるまでに、あの男を落としてみせるって言ってなかったっけ?」琴葉は絶句した。八雲での修復プロジェクトは3年がかりの予定だった。当時、琴葉がプロジェクトへの参加を辞退して結婚を選んだ際、光莉は彼女にこう問いかけた。「男を落とす方が、文化財の修復より簡単だとでも思ってるわけ?」その時の琴葉は自信満々にこう答えていた。「先輩たちが役目を終えて帰ってくる前に、絶対に彼を振り向かせてみせますから」だがその結果は――2年後、彼女の敗北に終わった。「彼から切り出されたの?」と光莉が尋ねる。「いいえ」琴葉は答えた。「私から言い出しました」光莉の声が一段低くなった。「彼、あなたに酷いことでもしたの?」「そういうわけではないんですけど、ただ……」琴葉は密かに息を整え、できるだけ平静なトーンを保って言った。「結婚したときは、彼も過去にケリをつけていると思っていたんです。でも……彼の心の中にはずっと昔の恋人がいたみたいで。心に決めた人がいるなら、私が2人の間に割り込む筋合いもありませんから」光莉は沈黙した。「離婚なんて別に大したことじゃないんですけど……ただ」琴葉は自嘲気味に笑った。「先輩や師匠のお顔に泥を塗ってしまったなって」「どうしてそれが顔に泥を塗ることになるのよ?」光莉は毅然と言った。「愛や幸せを追求する権利は誰にでもある。大胆に愛を追うのは勇気だし、
琴葉にはさっぱり意味が分からなかった。「何か問題でもあるの?」「琴葉、あの結婚写真は俺のものでもある。俺に一言も聞かずに処分するなんて、どういうことだ?」「じゃあ、どうしろって言うの?」琴葉は言い返した。「離婚したのに、あんなものを残しておいたら、次に結婚する奥さんがいい気しないでしょ?」「お前は……」碧斗は深く息を吸い込んだ。「めちゃくちゃな言い分だ」「あなたこそ、言いがかりもいいところよ」「とにかく、お前のやったことは間違っている」わけもなく説教されて、琴葉もカチンときた。「私のどこが間違ってるって言うの?」結婚写真に写る彼の姿を思い出し、余計に腹が立ってきた。「写真の中のあなたなんて、無理やり結婚させられたみたいに酷い仏頂面だったじゃない。あんなの、もっと早く捨てておくべきだったわ」「琴葉」いつもは滅多に感情を表に出さない碧斗の声に、明らかな苛立ちが滲んでいた。「なんでそんなにキレてるのよ?」財産分与の時には二つ返事だったというのに、今さら結婚写真ごときでわざわざ喧嘩を吹っかけてくるというのか。一体何のつもりかしら。わざと難癖をつけているの?まさか財産を多く渡しすぎて、後から惜しくなったとか?いや、彼はそこまでケチな男ではないはずだ。琴葉が彼の真意を頭の中でぐるぐると巡らせていると、電話の向こうの碧斗はいつの間にか元の冷静さを取り戻していた。「……もういい」彼はそれだけ言い捨てて、一方的に通話を切った。琴葉は完全に呆気に取られた。何かに取り憑かれでもしたの?何を血迷っているのかは知らないが、万が一に備え、琴葉はすぐさま彼にメッセージを送信した。【ジュエリー類は一切持ち出してないわ。全部ウォークインクローゼットのアクセサリーケースに残してあるから、確認して】結婚写真など金銭的な価値がないからまだいい。だが、彼が買ってくれたジュエリーの数々はどれも目の飛び出るような値段のものばかりだ。もしそのことで難癖をつけられたら、それこそ大問題である。しばらく待ってみたが返信はこない。彼がどういう腹積もりだろうともう知ったことではないと、琴葉は鍵とスマホを掴んで、腹ごしらえのために部屋を出た。……深夜。会員制ラウンジのVIPルーム。一条海翔(いちじょう かいと)は、隣で一晩中飲
朝食を済ませると、2人は揃って家を出た。琴葉は碧斗の後について外へ歩きながら、手元の離婚手続きに必要な書類をもう一度入念にチェックしていた。書類に気を取られていたせいで、不意に硬い胸板に頭をぶつけてしまった。「痛っ……」と小さく声を漏らして顔を上げると、男の深く漆黒の瞳と視線が交錯した。「どうして黙って急に立ち止まるのよ」「琴葉、本当に離婚する気か?」碧斗は彼女を見下ろして言った。「よく考えろ。一度この家のドアを出たら、俺たちは……」「決めているわ」琴葉はきっぱりと彼の言葉を遮った。碧斗は微かに息を呑み、「後悔しないな?」と念を押した。「後悔なんてしない」いつもは即断即決の男が、今日に限ってどうしてこうもくどいのだろう?「安心して。離婚した後は絶対に付きまとったりしないから。何度も確認しなくていいわよ」琴葉は自分よりずっと背の高い男を見上げて言った。「これでいい?行きましょう」碧斗は唇を真一文字に結んだまま押し黙り、険しい顔で踵を返してドアの外へ向かった。ずっと車のそばで待機していた潤也は、2人が出てくるのを見ると、その姿に視線を向けた。昨夜、碧斗から離婚協議書を作成しろと電話を受けたとき、潤也は自分の耳を疑った。あんなにもお似合いの夫婦だというのに。社長は一昨日の夜も、わざわざ奥様のためにプレゼントを買って急いで帰宅したばかりではないか。どうして急に離婚などという話になるのだろうか。そんな考えを巡らせているうちに2人が目の前まで来ており、潤也はハッと我に返ると、一歩歩み寄って恭しく頭を下げた。「社長、奥様、おはようございます」琴葉は礼儀正しく頷いた。「おはよう、高橋さん」潤也は前に出て、2人のために後部座席のドアを開けた。琴葉が礼を言って乗り込むと、碧斗もすぐ後に続いて車に乗り込んだ。車が走り出すと、助手席の潤也が後ろを振り向き、1部の書類を碧斗へ差し出した。「社長、ご指示の書類です」碧斗はそれを受け取り、表紙の「離婚協議書」という大きな文字にさっと目を通すと、隣に座る琴葉に手渡した。「見ておけ。何か付け足す条件はあるか」彼がすでに離婚協議書を用意していたとは思いもよらず、琴葉は一瞬虚を突かれた。男の顔をちらりと見てから、書類を受け取って開く。そこに書か





