LOGIN訴えを起こしてきた女性は、音声データの存在を告げられると、その態度を一変させたらしい。電話口での声も弱々しく、言葉に詰まり動揺の色が明らかだったという。そして、数日後、彼女の方から「訴えを棄却したい」と連絡を寄こした。
理由を尋ねると、彼女は涙ながらに語ったという。
「退職後に色々なことがうまくいかなくて、自分を嫌になっていました。そんな時に子会社へ出向したはずの相原さんが、退職理由を尋ねてきて私の話に真剣に耳を傾けてくれたんです。」
「その時、勝手に相原さんが自分と同じ境遇を味わった仲間のように感じました。でも、その後、元のポジションよりも昇格して親会社に華々しく戻っていることを知り、一向にうまくいかない自分と比べてしまい、とても羨ましかった。その羨む気持ちが、いつしか恨みに変わってしまったんです。……本当に申し訳ありませんでした」
(彼女の証言が真実かどうかは分からないが、完璧で人望の厚い空のような人物でもこんな風に恨みを買うことがあるんだなんて……)
一連の騒動はすぐに解決し会社への影響もなかった。だが、俺は今回の件に少なからず動揺していた。空の人間性に対する信頼は揺るがないが、人の心の脆さや嫉妬という感情の恐ろしさを改めて痛感した。
「全員分の録音データを残しておいたなんて、さすがだよ」
数日後、空と二人きりで事業の打ち合わせを終えたタイミングでそう話しかけた。しかし、空は今回の件にショック
瑛斗sideこの日、俺は海外の協力企業の会長夫妻を接待するため都内の高級ホテルにいた。午前は、ホテルへ迎えに行った後に会社に来てもらい打ち合わせをする予定だ。昼間は和食か鮨を食べたいという夫妻の希望で、懐石料理の食べられる料亭を予約している。コース料理の締めのごはんを鮨に変更してもらい、夫妻が喜ぶように周到に準備をしていた。この会社と取引の契約を締結するために、社員が何度も現地に足を運び交渉を続けてきた。一条グループの信用をかけた重要な接待だ。ホテルのロビーで夫妻の到着を待っていると、入口から着物を着た女性がぞろぞろと連なって中にはいってきた。(今日は何かの集まりか?着物を着ている人がやけに多い気がする。)そんなことを思っていると、会長夫妻がロビーに到着をしてこちらに気がついて近付いてきた。「一条社長、アリガトウゴザイマス」日本語でお礼を言う夫妻に笑顔で微笑むと、会議までに少し時間はあるかと尋ねられた。「スケジュールには余裕があるので大丈夫です。どこか行きたい場所でもあるのですか?」「いや、ホテルに到着した時に一階のギャラリーで絵画展をやっているというポスターを見てね。少し見たいと思ったんだ」
華side「華さん、来週の火曜日ですが協会の懇親会があるのですが良かったら参加してみませんか?」「私が行ってもいいのですか?是非参加してみたいです。茶道界の皆様にご挨拶させていただきたいです」「ええ、もちろん。それでは一緒に行きましょう。昼前には終わるのですが、この後、どこかでランチでもしませんか?」「大丈夫です。楽しみにしています」「良かった。それではよく行く店があるので聞いてみますね」講師となって一か月が経ち、北條先生に誘われて懇親会に参加することになった。協会の集まりで、茶道界のトップを君臨する人たちも参加するらしく、茶道の講師として、その場に居合わせることが出来ることに私は心から感謝をしていた。――――当日、懇親会の会場である都心の高級ホテルのロータリーで待ち合わせをしていると、たくさんの着物をきたご婦人たちがタクシーから降りて来ている。その中に、茶色の落ち着いた訪問着姿の北條先生の姿があった。男性というだけで珍しいが、若くてモデルのようなルックスの北條先生は、有名人のようで到着するや否や多くの人に囲まれていた。「華さん、お待たせしました。お着物素敵ですね、よく似合っ
華side「実は、事前に師匠に神宮寺さんの印象を尋ねたんです。事前に伺っていた通りの方だ。あなたの指先と背筋から並々ならぬ『気品』と『優雅さ』を感じます。この気品と優雅さは、茶室でお客様を魅了するための神宮寺さんだけが持つ魅力になります。」「気品と優雅さですか?恐れ多いですが、先生にそう言っていただけると大変嬉しいです。ありがとうございます」ハンカチで口元を隠し少し俯いた私に、北條先生は再びにこやかに笑いかけた。そして、今度は緊張をほぐすかのように明るい口調で言った。「あとずっと気になっていたのですが、そのほくろ……」「え?」北條先生は私の目元をじっと見つめている。「神宮寺さんも目元にほくろがあるなと思いまして。私も左目のここらへんかな、ほくろがあるんです」彼は、微笑みながら指で指した。その辺りを見ると、彼の穏やかな目元に小さな黒いホクロが見える。「私も左目の下にあるので、場所も同じですね。」「奇遇ですね。左目下のホクロは、『泣きぼくろ』と言って、人を引きつける力があって、感情表現が豊かで相手の気持ちに寄り添う優し方が多いようですよ。神宮寺さんは、
華side「神宮寺華さんですか?はじめまして、北條湊(ほうじょう みなと)です。」「初めまして。本日はお忙しい中、ありがとうございます」この日、茶道の師匠の弟子である北條先生とホテルのラウンジで顔合わせをした。北條先生は、艶のある黒髪と、微笑むと左頬に出来るえくぼ、甘いルックスと周囲の喧騒を和らげるような穏やかな雰囲気が印象的な男性だった。男性で茶道の道を選ぶ人は少なく、師匠曰く、茶道会の将来を担う期待の新星として注目されているらしい。(師匠は、私にピッタリだと言っていたけれど、何を持っていっているんだろう?年齢?)北條先生の方が二つ年上だが、茶道は年齢層も幅広いため同世代と会うことは珍しい。歳が近くて話が合うと言いたかったのだろうか。注文したコーヒーが届いて一口飲んでから、北條先生はゆっくりと口を開いた。彼の所作一つ一つが無駄なく洗練されていて美しく、私は先生の動き一つ一つに見惚れていた。「最近、茶道に興味を持ってくれる方が増えたのは嬉しいのですが、自分ひとりでは手が回らなくなってきまして。神宮寺さんを紹介してもらって、本当にありがたいです」北條先生は言葉を選びながら謙虚に話す。教室が盛況なのは単に技術だけでなく、この人柄によるところが大きいのだろう。
華side子どもたちが小学校に入学し生活のリズムが整ったことで、私も週に数日仕事をするようになった。小さい頃からずっと習っていた茶道は、大学在学中に講師の資格を取得しており、教室を開いて教えることが出来る。茶室は静かで心が落ち着く空間だ。将来は、独立して茶道教室を行うことも可能で、子どもを育てながら自分のペースでキャリアを築きたい私にはぴったりだった。しかし、茶道の道から離れて十年以上が経っており、いきなり教室を開くことは躊躇したため、まずは現状を知ろうと習っていた師匠に久々に連絡を入れた。「まあ、華さん。お久しぶりね。お元気だったかしら?どうされているか心配していたのよ」「ご無沙汰しております。連絡が遠のいてしまってすみません。実は、結婚して子どもが産まれまして……」「そうなの、おめでとう!お子さんはおいくつになられたの?」「はい、今年七歳になり、四月から小学校に入学しました。それで、茶道をまた再開したいと思いまして。先生のお教室は今もやっていらっしゃいますか?」「それがね、三年前に引退したの。今でも趣味で楽しむことはあるけれど、教室はやっていないの。でも、良かったら今度子どもたちを連れて遊びに来て頂戴。お茶をたてるわ」教室のことを尋ねる
瑛斗side「え、ちょっと、おい!今日だったのか!」「瑛斗、何?どうしたの?」朝一番で空に用事があって社長室に来てもらっていたが、華から届いた子どもたちのランドセル姿に、思わず大きな声で独り言を放った。「ちょっとこれ見ろよ。華から連絡来たんだけど、今日、子どもたち入学式のようだ」空は驚いた顔で俺を見てきたので、自慢げに慶と碧の顔を拡大して見せつけた。「本当だ。二人とも大きくなったね。華さんに似て美男美女だ」「おい!!俺にも似ているだろ。碧なんて、俺が小さい頃にそっくりじゃないか!」華に一緒に暮らすことを断られたのはショックだったが、まだ諦めていない。父に言われた会社のことなどすべての問題を片付けたら、俺からもう一度華のところへ行って、想いを告げるつもりだ。「瑛斗も諦めが悪いね、『一緒になることは望んでいない』って華さんに断られたんじゃないの?」「それは、華の本心じゃない!……少なくとも俺はそう思ってる!」「それを諦めが悪いって言うんだけどな…







