Masuk華side
「妊娠中は、三上くんから大変な状況だと聞いて心配していた。……心配していたと言いながら、自分の近くで華を守ってやれなかった。華にはなんと言っていいか……」
父は、私を強く抱きしめ言葉を詰まらせた。その声は震え、深い後悔と愛情が伝わってきて私の胸は熱くなった。私は、父の背中に手を回し、涙をこらえていた。
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました。お父様が私のことを考え、この別荘を用意して下さったおかげで、今があります。ありがとうございます。三上先生も、妊娠から今に至るまで、サポートしてくださって、感謝の気持ちでいっぱいです」
「そうか、三上くんが。……もしかして三上くんとは交際しているのか」
『今に至るまで』という言葉が引っかかったようで、父は私の顔をまじまじと見つめてから尋ねてきた。その問いかけに、私は少し照れながら答えた。
「……はい。公私ともによくしてもらっています」
一瞬、父は考え込むように指を顎にあてて黙り込んだ。その表情は、何かを深く思案しているようにも見えた。しかし、私が不思議がっているのを察したのか、すぐに表情を緩めて私の方を向いて笑顔で返してきた。
「そうか。三上くんのお父さんも神宮寺家に仕えてくれてね。三上家には、随分昔から世話になって
瑛斗side「まあ、あの方たち着物だわ。着物で絵画を鑑賞なんて風情があって素敵ね」会長夫妻の視線の先には、着物姿で鑑賞をする若い男女二人組が見えた。綺麗に整えた髪に淡いブルーの着物を着た女性が、茶色の落ち着いた着物の男性を見つめている。男性も穏やかに微笑んでおり、仲睦まじい姿が見られた。「ええ、粋でいいですね」会長夫妻と同じように着物の男女を見ていると、女性は後ろ姿しか見えないが、男性は穏やかな顔立ちと着物を着慣れているようで、その着こなしに品格が感じられた。二人の後ろで幼稚園児くらいの男の子が走り回っていることに気がついた男性は、女性の肩に手をかけて、優しく自分の方へと引き寄せていた。その自然なエスコート慣れした仕草が、二人の親密な関係を匂わせていた。しかし、女性の横顔が見えた次の瞬間、俺は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。(華……?あの着物の女性は華なんじゃないか?なんでこんなところに、着物なんか着ているんだ?しかも、あの男は誰だ?)一瞬にして、冷静なビジネスモードから元夫としての嫉妬と混乱が激しくぶつかっている。冷静さを保とうとするが、心臓が激しく脈打っている。「美しい女性だ。社長もそうは思いませんか?」
瑛斗sideこの日、俺は海外の協力企業の会長夫妻を接待するため都内の高級ホテルにいた。午前は、ホテルへ迎えに行った後に会社に来てもらい打ち合わせをする予定だ。昼間は和食か鮨を食べたいという夫妻の希望で、懐石料理の食べられる料亭を予約している。コース料理の締めのごはんを鮨に変更してもらい、夫妻が喜ぶように周到に準備をしていた。この会社と取引の契約を締結するために、社員が何度も現地に足を運び交渉を続けてきた。一条グループの信用をかけた重要な接待だ。ホテルのロビーで夫妻の到着を待っていると、入口から着物を着た女性がぞろぞろと連なって中にはいってきた。(今日は何かの集まりか?着物を着ている人がやけに多い気がする。)そんなことを思っていると、会長夫妻がロビーに到着をしてこちらに気がついて近付いてきた。「一条社長、アリガトウゴザイマス」日本語でお礼を言う夫妻に笑顔で微笑むと、会議までに少し時間はあるかと尋ねられた。「スケジュールには余裕があるので大丈夫です。どこか行きたい場所でもあるのですか?」「いや、ホテルに到着した時に一階のギャラリーで絵画展をやっているというポスターを見てね。少し見たいと思ったんだ」
華side「華さん、来週の火曜日ですが協会の懇親会があるのですが良かったら参加してみませんか?」「私が行ってもいいのですか?是非参加してみたいです。茶道界の皆様にご挨拶させていただきたいです」「ええ、もちろん。それでは一緒に行きましょう。昼前には終わるのですが、この後、どこかでランチでもしませんか?」「大丈夫です。楽しみにしています」「良かった。それではよく行く店があるので聞いてみますね」講師となって一か月が経ち、北條先生に誘われて懇親会に参加することになった。協会の集まりで、茶道界のトップを君臨する人たちも参加するらしく、茶道の講師として、その場に居合わせることが出来ることに私は心から感謝をしていた。――――当日、懇親会の会場である都心の高級ホテルのロータリーで待ち合わせをしていると、たくさんの着物をきたご婦人たちがタクシーから降りて来ている。その中に、茶色の落ち着いた訪問着姿の北條先生の姿があった。男性というだけで珍しいが、若くてモデルのようなルックスの北條先生は、有名人のようで到着するや否や多くの人に囲まれていた。「華さん、お待たせしました。お着物素敵ですね、よく似合っ
華side「実は、事前に師匠に神宮寺さんの印象を尋ねたんです。事前に伺っていた通りの方だ。あなたの指先と背筋から並々ならぬ『気品』と『優雅さ』を感じます。この気品と優雅さは、茶室でお客様を魅了するための神宮寺さんだけが持つ魅力になります。」「気品と優雅さですか?恐れ多いですが、先生にそう言っていただけると大変嬉しいです。ありがとうございます」ハンカチで口元を隠し少し俯いた私に、北條先生は再びにこやかに笑いかけた。そして、今度は緊張をほぐすかのように明るい口調で言った。「あとずっと気になっていたのですが、そのほくろ……」「え?」北條先生は私の目元をじっと見つめている。「神宮寺さんも目元にほくろがあるなと思いまして。私も左目のここらへんかな、ほくろがあるんです」彼は、微笑みながら指で指した。その辺りを見ると、彼の穏やかな目元に小さな黒いホクロが見える。「私も左目の下にあるので、場所も同じですね。」「奇遇ですね。左目下のホクロは、『泣きぼくろ』と言って、人を引きつける力があって、感情表現が豊かで相手の気持ちに寄り添う優し方が多いようですよ。神宮寺さんは、
華side「神宮寺華さんですか?はじめまして、北條湊(ほうじょう みなと)です。」「初めまして。本日はお忙しい中、ありがとうございます」この日、茶道の師匠の弟子である北條先生とホテルのラウンジで顔合わせをした。北條先生は、艶のある黒髪と、微笑むと左頬に出来るえくぼ、甘いルックスと周囲の喧騒を和らげるような穏やかな雰囲気が印象的な男性だった。男性で茶道の道を選ぶ人は少なく、師匠曰く、茶道会の将来を担う期待の新星として注目されているらしい。(師匠は、私にピッタリだと言っていたけれど、何を持っていっているんだろう?年齢?)北條先生の方が二つ年上だが、茶道は年齢層も幅広いため同世代と会うことは珍しい。歳が近くて話が合うと言いたかったのだろうか。注文したコーヒーが届いて一口飲んでから、北條先生はゆっくりと口を開いた。彼の所作一つ一つが無駄なく洗練されていて美しく、私は先生の動き一つ一つに見惚れていた。「最近、茶道に興味を持ってくれる方が増えたのは嬉しいのですが、自分ひとりでは手が回らなくなってきまして。神宮寺さんを紹介してもらって、本当にありがたいです」北條先生は言葉を選びながら謙虚に話す。教室が盛況なのは単に技術だけでなく、この人柄によるところが大きいのだろう。
華side子どもたちが小学校に入学し生活のリズムが整ったことで、私も週に数日仕事をするようになった。小さい頃からずっと習っていた茶道は、大学在学中に講師の資格を取得しており、教室を開いて教えることが出来る。茶室は静かで心が落ち着く空間だ。将来は、独立して茶道教室を行うことも可能で、子どもを育てながら自分のペースでキャリアを築きたい私にはぴったりだった。しかし、茶道の道から離れて十年以上が経っており、いきなり教室を開くことは躊躇したため、まずは現状を知ろうと習っていた師匠に久々に連絡を入れた。「まあ、華さん。お久しぶりね。お元気だったかしら?どうされているか心配していたのよ」「ご無沙汰しております。連絡が遠のいてしまってすみません。実は、結婚して子どもが産まれまして……」「そうなの、おめでとう!お子さんはおいくつになられたの?」「はい、今年七歳になり、四月から小学校に入学しました。それで、茶道をまた再開したいと思いまして。先生のお教室は今もやっていらっしゃいますか?」「それがね、三年前に引退したの。今でも趣味で楽しむことはあるけれど、教室はやっていないの。でも、良かったら今度子どもたちを連れて遊びに来て頂戴。お茶をたてるわ」教室のことを尋ねる