華が産んだ子と俺に血縁関係がないと分かり、離婚届を出して正式に離婚が成立した。そして、俺は言われるがまま玲と再婚した。しかし、玲が一条家に入り込み、裏の顔を目の当たりにするにつれて俺の心には少しずつ「本当にあの時の判断は正しかったのか」という迷いが芽生え始めた。
玲は、俺の両親の前では完璧な嫁を演じる一方で、俺には冷たく、会社では社員を追い詰める。その二面性に俺は絶えず疑念を抱いていた。
玲は一条家という家柄が欲しいがために俺に近づいたのではないかと思うような言動が増えるにつれ、俺の心に重くのしかかる後悔の念は増すばかりだった。(華は本当に俺を裏切ったのか?あのDNA鑑定の結果は本当に真実だったのか?)玲の巧妙な立ち回りを見ていると、玲から聞いた「華の不貞」という言葉が、玲によって作り上げられたものではないかと感じるようになっていった。
華が姿を消した直後、彼女の居場所を探すために空が一度探偵を雇っていた。そして、その時に華の妊娠を知ったのだった。玲への不信感が募るにつれて、俺は再びあの時の探偵に連絡を取ることを決意した。
「神宮寺華さんの捜索を再度してほしい。どんな些細な情報でもいい徹底的に調べてくれ。」
探偵
「止めろ!いますぐ止めてくれ!!」俺の突然の叫びに、運転手は驚いて背筋を伸ばし肩を大きく揺らした。ルームミラー越しに見た彼の顔には、困惑とほんのわずかな恐怖が浮かんでいた。「え?いますぐですか……。すみません、社長。ここは一本道で、後続の車がすぐ後ろに接近しており、急には停められません。」運転手は申し訳なさそうにバックミラーを指差した。ミラーの中にはぴったりと張り付くように後続車が迫っており、道幅も狭く追い越してもらうこともできそうにない状況だった。俺の焦燥をよそに、車は前へと進んでいく。視界の隅で対向車線を歩いていた親子の姿が次第に小さくなっていくのが見えた。車は、俺の募る焦りを無視するかのようにゆっくりと500メートルほど走り、ようやく安全に停車することができた。だが、その時にはあの親子の姿はどこにも見当たらなかった。周囲を見渡しても、静かな避暑地の風景が広がるばかりで、あの女性と子どもたちの面影は、もはや幻だったかのようだ。「華……。今のは、華だったのか……?」降りしきる陽光の下、俺は呆然と立ち尽くしていた。胸の中で、確信と絶望が入り混じった感情が渦巻く。(もし今のが華だったとしたら、二年間、どんなに探しても見つからなかった華が、こんな形で、こんな場所で会えるなんて……。そして、そんなチャンスを俺はみすみす逃してしまうなんて。)
新規事業の視察のために長野を訪れた俺は、この日午前と午後に一軒ずつ訪問が組まれており、慌ただしくスケジュールをこなしていた。昼食を終え、午後の予定された場所へ向かおうと車を走らせている時だった。窓の外に広がる、長野の澄んだ空気と、どこまでも続く青い空。その景色を眺めながらふと華のことを考えていた。遠くの対向車線側を、つばの広い麦わら帽子を深くかぶり、上品なワンピースを纏った女性がこちらに向かって歩いているのが見えた。その女性の両隣には小さな子どもが二人。背格好から子どもたちは同い年、おそらく双子だろう。スキップをする子どもたちと手を繋ぎ、楽しそうに歩く女性の姿は、俺の脳裏に焼き付いている華と、もし華が産んでいたらと想像していた子どもたちの姿と重なった。車が近付くにつれて、親子の姿は次第に大きく鮮明になっていく。「華が産んだ子どもたちも、あの子たちと同じくらいに大きくなっているのかな」そんなことを考えながら親子に視線を向けた次の瞬間、その女性の横顔があまりにも華に似ていて、そのまま言葉を失って身動きが取れなくなってしまった。いや、そっくりというレベルではない。歩き方や後ろ姿、そして横をすれ違った時に一瞬だけ見えたあの横顔は、記憶に焼き付いて何度も思い出している華そのものだった。(まさか、こんなところに華がいるわけない……。)そう思っているのに、心臓は跳ね上がり呼吸が早まるのを感じた。俺は間違いなく本人だと強い確信のようなものを
玲の本性が露わになるにつれて、俺の後悔は日ごとに膨れ上がっていった。玲から見せられた、華が自身の海外口座へ大金を送金している画像。そして、華が産んだ子が俺との血縁関係が認められなかったとされたDNA鑑定の結果。かつては疑う余地のない「物的証拠」だと思い込んでいたそれらが、玲の冷酷な支配を目の当たりにした今となっては、なぜか胡散臭く思えて仕方なかった。あの完璧すぎるまでの証拠がかえって不自然に見えて、実は何者かによって巧妙に作られたものではないかと勘ぐってしまうのだ。(玲ならば裏でどんな手も使うだろう。華を追い出すためにどんな嘘もつき通すかもしれない。)その思考が一度芽生えるともう止まらなかった。探偵に再依頼しても華の行方は依然として掴めない。その報告を聞くたびに、俺の自責の念をより一層強くするばかりだった。(俺のせいで華はどこか分からない場所で一人で苦しんでいるのかもしれない……。俺のせいで……。華は孤独の中で俺に助けを求めているかもしれない。)その想像が俺を蝕んでいた。そんなある日だった。一条グループの新規事業視察のため、俺は長野へ訪れていた。
特集:一条グループ初の女性幹部 一条 玲さん玲は、副社長としてメディア露出を増やし華々しく改革を謳っていた。しかし、玲に脚光が当たるほど、その裏で俺の実権は巧妙に削られていく。重要なプロジェクトの責任者は次々と外部の人間や玲の息のかかった者にすり替わり、俺の承認なしに大規模な組織改編が断行されることもあった。会議で意見を述べても、玲は冷静な顔で「瑛斗さんのご意見ももっともですが、現状にはふさわしくないかと」と切り返し、最終的な決定権は彼女が握っていた。俺は、会社でお飾りの社長になりつつあった。家庭でも状況は変わらなかった。父とは華との一件依頼確執が生まれ、その空気を察した玲が上手く父の懐へと入っていった。父と母は、玲の献身的な態度にすっかり心酔していた。「玲さんがいてくれるから助かるよ」という父の声を聞くたび、俺の胸には冷たい風が吹き抜けた。「お父様、瑛斗さんはこのところずっと疲れているようで最近は顔色も優れません。私が会社でのサポートをより深めるようにしたいのですが……」「そんなことはない、大丈夫だ」「瑛斗さん、無理をしないでください。本人が気がついていない状態が一番危険なのよ。夜中、いつもうなされているんです。」玲は俺を庇うような体裁を取りながら、あたかも事実のように話をしている。実際は不眠に悩まされており玲の横でまともに寝ることが出来ず悪戯に時間ばかりが過ぎている。玲のいない時間が俺がゆっくりと休める時間だった。
訪問のたびに貰う、可愛らしいお菓子。控えめな甘さで過度なラッピングがされていないその姿は、謙虚で健気な彼女の姿を映し出しているようだった。(彼女が私のためにお菓子を作ってくれていたらいいのに。)しかし、その希望はあっけなく打ち砕かれた。私のためではなく、別に思いを寄せる相手のために作ったと教えてくれた。作った中で一番うまくできたものを好きな人用にラッピングをし、残りをいつも私にくれたのだろう。そして、数年後に華の結婚が決まってから、学生時代にお菓子を渡していた相手が夫となる一条瑛斗だということを知った。彼女には言えなかったが、長年、神宮寺家の専属医として仕え、父の件もあったため、私は密かに華と縁談の話が私の元へ来ることを願っていた。神宮寺家と一条家、この二つの名家が結ばれることは、政略結婚の意味合いが強いことは承知していた。政略結婚という形は好きではなかったが、華が初恋の人と結ばれ、幸せそうに笑っている姿を見て、私は無理に自分自身を納得させて祝福することにしたのだ。結婚後も、華はつらい妊活にも笑顔で耐え、三年もの間、決して弱音を吐
(父の代わりに神宮寺家の専属医として仕え、どれほどの歳月が流れただろうかーー)幼い頃に父を亡くした私は、父の背中を追い医師になることを決意した。もっとも、先祖代々医者の家系だったので、それ以外の選択肢はなかった。しかし、父のことを心から尊敬していた私は、一般的な内科医の道だけでなく繊細な命と向き合う産婦人科医としての道も選んだ。父が亡くなったあの時、神宮寺家との間に生じた言葉にはできないわだかまりは、私の心に深く刻まれていた。神宮寺家に仕えたばかりの頃、華はまだ高校生だった。目を見張るような美少女だったが、家柄や年頃なのか、男性への免疫が低いようだった。訪問時に私が笑顔で挨拶をすると、華は顔を赤らめ視線を逸らし恥ずかしそうに言葉を返してくる。しかし、何度か訪問して会話を交わすようになるといつからか華は手作りのお菓子をプレゼントしてくれるようになった。「三上先生、もしよかったら少しですが……。」そう言ってラッピングが施された可愛らしいカップケーキをもらった。最初はたまたまかと思ったが、頻繁に受け取るようになり、もしかしたら、という微かな期待が胸に芽生え始めた。(もしかしたら、私に恋心を抱いているのではないか。)