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第7話

Author: ガブリン
その後の日々、夏希は静かに、しかし確実に旅立ちの準備を進めていった。

啓介との五年という歳月は、あまりにも多くの記憶を残していた。

彼は毎年、彼女の誕生日になるとトラック一台分のプレゼントを贈ってくれた。それらを自宅に置くわけにもいかず、ましてや家族に見られるわけにもいかないので、夏希は町外れのアパートを借りて、プレゼントの保管場所にしていた。

鍵を開けると、部屋いっぱいに詰め込まれた過去が目に飛び込んできた。

彼女は無言でスマホを取り出し、不用品回収業者に電話した。

「この部屋のもの、全部、ゴミとして処理してください」

業者の人たちは、部屋中に並んだ高級ブランドのドレスやバッグ、ジュエリーを見て目を丸くした。

「お、お嬢さん……これ、全部で一億円超えじゃないですよ?本当に捨てるんですか?」

そう、総額はゆうに一億円を超えているだろう。

啓介が、千春の身代わりである夏希に、結構惜しみなく費やした。

「もったいないですよ。これ全部中古サイトに出せば数千万円にはなります。捨てるなんて……」業者の人がアドバイスした。

「もうすぐこの街を離れるんです。一つずつ売る時間なんてありません」

業者の人たちは一瞬目を輝かせ、唇を舐めるようにして言った。

「じゃあ、こうしましょう。3000万円で、全部引き取らせてください。処分はこちらでやります」

夏希は計算していた。母に返すべき残りの借金は2100万円。

「……2500万で十分です。条件は一つ、三時間以内にすべて持ち出してください」

「了解っす!任せてください!」業者の人たちは予想外の収穫に顔をほころばせた。

結局、三時間もかからなかった。

わずか一時間半で、部屋中の「記憶」は跡形もなく消えていた。

がらんとした部屋を見つめ、通帳の残高に増えた2500万円を確認した夏希は、人生で初めて味わう「解放感」に、ほんの少し笑った。

彼女は二十二年間、ずっと「従順な娘」であろうと生きてきた。

でも本当は、手放せないものなんてひとつもなかった。

ただ、必要以上に気を遣い、弱さを見せたことで、周囲に好き放題やられていただけだった。

もう何もいらない。

だから、誰にも傷つけられない。

その足で夏希は市役所へ向かい、名前の変更手続きを済ませた。

新しい名前は――向坂遥(さきさか はるか)。

遥か遠い海の向こうへ飛び立つように、誰にも縛られず、自由に。

新しいパスポートを手に、市役所を出る彼女の顔には、心からの笑みが浮かんでいた。

自由な未来・無条件に愛される生活。その日が、もうすぐそこまで来ていた。

その夜、啓介から電話がかかってきたが、彼女は今では穏やかに応じることができた。

「叔父さん、何かご用ですか?」

電話越しの啓介は、どこか歯切れが悪かった。「……夏希、来月ラスベガスで籍を入れるって言ってた件だけど、少し予定が変わるかもしれない」

「そうなんですか?じゃあ、仕事を優先してください」

「いや、仕事じゃなくて……千春が、首都に開催される宴会に一緒に来てほしいって」

夏希は、微笑みすら浮かべながら、静かに答えた。「わかりました。行ってきてください」

「彼女が帰国したばかりで、宴会でエスコート役をやってあげる人がいないらしくて……」

宴会のエスコート役――なるほど、そういうこと。

夏希は小さく笑った。

「千春なら、SNSで『エスコート役募集』って一言つぶやくだけで、H市からフランスまで人が並びますよ」

「……」

千春がエスコート役の人選に困るわけがない。

それを承知で、啓介は千春の願いを受け入れた。

それが彼の答えだ。

「楽しんできてくださいね、二人とも」

「……夏希、そんな言い方やめてくれないか?怖いよ」

「何が怖いのですか?」

「怒っていい。拗ねていい。怒鳴ってもいい。そのほうがまだ、お前の気持ちが分かる。

でも今のお前は、まるで――俺から完全に離れていこうとしてるみたいで……」

「……私がどこに行くっていうのですか?」

啓介は、安堵するように言った。「……そうだよな。仕事もない。高峰家を離れられない。だから俺からも離れられない」

その言葉は、逆に夏希の背中を押すことになった。

すべての借金を清算した今、夏希の通帳には400万円だけ残っていた。

電話を切ると、彼女は銀行へ向かい、残りのお金をすべてドルに両替した。

トリスタン・ダ・クーニャ島は南米に近い。あちらで生活するなら、現金のドルが必要になる。

銀行を出たところで、彼女のスマホが鳴った。

「南条様、アンドロイド三体すべて完成いたしました。三日後には、トリスタン・ダ・クーニャ島へお届け可能です」

「わかりました、ありがとうございます」

誰にも疑われないように、その夜も、夏希はいつも通り家に帰った。

夕食時には、母、継父、千春、そして啓介が食卓を囲んでいた。

夏希はいつも通りに微笑み、言った。「お父さん、お母さん、千春、そして叔父さん――こんばんは」

千春がにやりと笑って言った。「夏希、なにかいいことでもあった?顔がにやけてるよ。まさか……例の桐山くんにプロポーズでもされた?」そう言いながら、彼女はわざとらしく目を細め、啓介の反応を盗み見た。

啓介の表情が一瞬で強張った。「千春、その話はやめろ。夏希はそんな人、知らないって言ってただろ」

「ええ〜叔父さん、明日は私の親友の結婚式に、私のエスコート役として出席してくれるんだよね。夏希にはもう話したの?」

啓介の顔色が一瞬に曇った。

……そういうことか。

「宴会」じゃなくて「結婚式」。

しかも千春のエスコート役として。その意味を、夏希はよく理解していた。

「……楽しんできてね、お二人とも」

「ねぇ、叔父さん、私もラスベガス行きたいな。十分で入籍できるんだよ?いいでしょ?

私の親友、絶対ブーケを私に投げるって言ってたんだから」

千春が独占するかのように、啓介の腕をしっかり抱きかかえた。

啓介は千春の腕を振り払わなかった。それどころか、そのままラスベガス行きを黙認した。

その様子を見ても、夏希の心はもう何も感じなかった。まるで、退屈なドラマを眺めているようだった。

「夏希、喜びのおすそ分けしてあげるね。帰ってきたら、ちゃんとおみやげあげるから」

「ありがとう、お姉さん。私、ちょっと疲れたから、先に部屋に戻るね」

「明日は千春の誕生日よ!早起きして、家政婦さんの手伝いするの忘れないでね!」琴子が後ろから声をかけた。

「わかってる」

夏希はいつも通り、静かに自室に戻った。

誰にも気取られることなく。

五時間後――深夜。

高峰家はすでに静まり返っていた。

夏希は動きやすい服に着替え、準備していたスーツケースを手に、ゆっくりと屋敷を抜け出した。

屋敷の外には、すでに呼んでおいたタクシーが待っていた。

「向坂様ですね?」

「はい」

荷物を運転手に渡し、彼女は後ろの席に乗り込んだ。

「空港までお願いします。急いでください」

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