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第0007話

Author: 龍之介
――それは、綿だった。

嬌は強く押され、そのまま床に倒れ込む。すぐさま、輝明が彼女を支えた。

その間、綿は膝をつき、素早い手つきで韓井社長のネクタイを外し、脇へと放る。

嬌は驚き、輝明に支えられたまま綿を見つめた。

「綿ちゃん、何をしてるの?大丈夫なの?」

周囲も呆然とし、ざわめきが広がる。

「陸川お嬢様でもどうにもできなかったのに、彼女に何ができる?」

「しかも、こんなに体面を重んじる韓井社長の服を勝手に脱がせるなんて……一体何を考えてるんだ?」

疑念と非難の声が次々と上がる。

嬌は唇を結び、優しく語りかけるように言った。

「綿ちゃん、無理しなくていいのよ。みんなが何か言ったからって、気にすることないわ」

「普段は桜井家の皆さんが甘やかしてくれるかもしれないけど、今は家でふざけてるときじゃないの。命に関わることなんだから――」

焦った嬌は手を伸ばし、綿の腕を引こうとする。

しかし――

「黙ってて」

冷たく、鋭い声が嬌の動きを止めた。

綿は彼女の腕を振り払い、目を細める。

嬌は言葉を失う。

――その視線に、背筋が凍るような感覚を覚えた。

綿はふと輝明を見やる。

彼は、今も嬌を抱きしめたまま、戸惑ったような表情を浮かべていた。

綿は冷たく言い放つ。

「高杉さん、あなたの「大切な人」を、ちゃんと見張ってて」

輝明は綿の冷淡な態度に、わずかに眉をひそめる。

「綿、嬌はお前を心配してるんだ。彼女の善意を無視するな」

綿は、ふっと笑った。

――それは本当に「心配」なのか?

それとも、韓井社長を助けた「手柄」を奪われることが怖いのか?

彼女は、嬌の本性を知っている。長年の友人だからこそ、誰よりもその本質を見抜いている。

嬌が涙を流せば、周りは皆彼女を庇い、誰もが彼女の味方になる。綿自身も、ずっとそうやって彼女に尽くしてきた。

――だが、もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。

そんな思いを抱えながら、綿はゆっくりと輝明を見上げる。

「綿、俺たちが長年夫婦だったんだ。そのよしみで忠告しておく。余計なことには首を突っ込むな」

輝明の低い声が、静かに響く。

綿は、じっと彼を見つめ、苦笑した。

「……あなたも、私を「無能な役立たず」だと思ってるの?」

輝明は、無言だった。その沈黙が、答えだった。

綿は鼻をすすり、どこか無力な声でつぶやく。

「残念だわ……私たち、何年も夫婦だったのに、あなたは私のことを何もわかっていない」

輝明は喉を鳴らし、複雑な表情を浮かべながら綿を見つめる。だが、その感情が何なのか、自分でも分からなかった。

綿は、静かにペンを取り出した。

――その瞬間、場内に緊張が走る。

「……何をするつもりだ?」

「この状況で、まさか……?」

「桜井綿、お前は狂ってるのか?」

人々の疑惑と怒りが入り混じる。

――しかし、次の瞬間。

綿は、ペンの先端を取り外した。そして、躊躇なく、韓井社長の首に突き刺した。

動きは一瞬。無駄がなく、正確だった。

大広間が、再び騒然となる。

「……何てことを!」

「もし韓井社長がこのまま亡くなったら、お前はどう責任を取るつもりだ!」

嬌は、輝明の腕を強く掴み、目を見開いた。

これは……?

――緊急気道確保?

なんて大胆な……!

綿は身を伏せ、露出したペンの部分にそっと息を吹きかけると、そのまま韓井社長の胸部を押し続けた。

その表情は、真剣そのものだった。

どれほどの時間が経っただろうか――

ふと、韓井社長の指が微かに動き始めた。

その瞬間、疑念に満ちたホール内が静寂に包まれる。

誰かが、小声で呟いた。

「……助かったのか?」

「そんなわけないだろ。陸川お嬢様でさえ無理だったのに、あんな無茶なやり方で助かるはずがない」

そう言い合う声が交錯する中――

「救急車が到着しました!」

外から駆け込んできたスタッフの声が響いた。

綿は深く息を吐き、韓井社長を担架へ移すのを手伝いながら、冷静な声で医師に引き継ぎを行った。

「患者は先天性の心疾患を持っています。最初の意識喪失時に速効性の心臓薬を服用しました。一時的に意識を取り戻したものの、その後、再び昏睡状態に陥りました」

「また、患者が重度の喘息を患っている可能性があり、気道閉塞のリスクを考慮し、緊急措置として即席で人工気道を確保しました」

その場で見守っていた人々は、最初の説明には納得したように見えた。

しかし、後半の説明を聞くと――

「……は?韓井社長は喘息持ち?そんな話、聞いたことがないぞ!」

一人がそう言うと、すぐにざわめきが広がる。

「まるで本物の医者みたいに話してるが、でたらめじゃないのか?」

「私も韓井社長とは長年の付き合いがあるが、喘息なんて聞いたこともないぞ」

年配の男性が腕を組み、疑わしげに言った。

「へっ、もし本当に彼女が助けたというのなら、この場で三回土下座して、三回『神様』って拝んでやるよ!」

その言葉を皮切りに、人々の視線が一斉に綿へと向けられる。

その目には、「見ろ、やっぱり無能だ」と言わんばかりの軽蔑の色が滲んでいた。

綿は唇を引き結び、じっとその場の様子を見つめる。

しかし、彼女の目には――どこか、楽しげな光が宿っていた。

――土下座?それはちょっと面白そうね。

そんなことを思いながら微かに微笑んだその時――

「父は確かに重度の喘息持ちです!」

ホールの入り口で、はっきりとした声が響いた。

驚いた群衆はそちらを振り返る。

そこに立っていたのは、韓井社長の息子、韓井司礼だった。

スーツに身を包み、眼鏡をかけた彼は、理知的で礼儀正しい雰囲気を漂わせていた。

彼は綿の方へ歩み寄り、軽く会釈をする。

「……ありがとうございます」

そう言って、静かに綿に礼を述べると、今度は年配の男性に向き直った。

「秦川叔父さん、父は確かに喘息を患っています。ただ、それを公にはしていませんでした。あまり良い印象を与えないためです」

その言葉を聞いた瞬間、秦川と呼ばれた男性は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。

その頃――

綿はふと、手のひらに鋭い痛みを感じた。何かと思い、そっと手を開く。

――そこには、細い赤い線が刻まれていた。

ペンの先端が鋭すぎたせいか、急いで処置を施した際に、自分の手を切ってしまったようだ。

場内は、静寂に包まれた。

針が落ちる音すら聞こえそうなほど、張り詰めた空気が漂う。誰もが凍りついたように、動きを止めていた。

「……そんなバカな!桜井綿が、本当に韓井社長を助けたのか?」

「ただの幸運だろ。たまたま上手くいっただけだ」

そんな声がちらほらと上がる中――

「処置は完璧でした!」

医師の力強い言葉が、大広間の空気を一変させた。

「あなたの判断は正確で、大胆かつ見事な処置でした。貴重な時間を稼いでくれて、本当にありがとうございます。あなたがいなければ、患者は恐らく……」

言葉の続きは不要だった。一瞬にして、ホール内ざわめきは消え去る。

まるで、大損をしたかのように、人々は沈黙し、硬直した表情のまま言葉を失っていた。

桜井家の「役立たず」と呼ばれた女が、実際にはこんな腕を持っていたとは――

誰もが、信じられないという顔をしていた。

だが、輝明は、それほど驚いていなかった。

綿は確かに医学に熱心で、これまで無数の医学書を読み、多くのSCI論文を発表していた。

彼女の医術が疑われるべきではないことは、知っていたはずだった。

――それなのに。

いつの間にか、自分も、彼女を何の役にも立たないと思うようになっていた。

先ほど、綿が言った言葉を思い出し、輝明は、何とも言えない後ろめたさを感じた。

その時――

綿がふらりと後ろに揺れた。足元が不安定になり、一歩、よろける。

――低血糖か?

彼女はこの二日間、ほとんど休んでいなかった。極度の集中の中で、長時間しゃがんでいたせいもあり、頭がくらくらしていた。

輝明は反射的に前へ踏み出す。

――だが、その瞬間。

一人の手が綿の腰を支えた。それは輝明ではなかった。

「桜井さん、大丈夫ですか?」

優しく穏やかな声が耳元に響く。

綿が顔を上げると、そこには、韓井司礼がいた。司礼は、彼女をしっかりと支えながら、静かに彼女を見つめていた。

綿は無意識に、輝明の方を見た。

嬌が彼に何かを言っているらしい。それを聞いた途端、輝明は何の迷いもなく、嬌を抱えてホールを後にした。

綿は、静かに目をそらした。

――心臓が、一瞬止まるような感覚。

――針で刺されたような痛み。

だが、何もなかったように微笑むと、淡々と言った。

「大丈夫です」

司礼は、スーツのポケットから金箔の名刺を取り出し、綿に手渡した。

「父を救ってくださり、本当に感謝しています。これは僕の名刺です。後日、韓井家がお礼に伺います」

「韓井さん、お気遣いなく。病院に急いでください」

綿は冷静そうに言い、司礼も軽く頭を下げ、その場を後にした。

綿は、ゆっくりと視線を巡らせる。

――先ほどまで、彼女を役立たずと嘲笑していた人々の顔が、どれも引きつっていた。

彼女が韓井社長を救ったことで、彼らは沈黙し、気まずさを隠しきれないようだった。

さらに辺りを見渡すと――

たった今まで、神のように崇められていた嬌の姿は、どこにもなかった。

綿は、無言のまま、消毒綿でそっと傷口を拭った。端正な目元を上げ、疲れた声で言った。

「……さっき、誰が私に土下座して『神様』って呼ぶって言ったんだっけ?」

――ピタリ、と。

そっと立ち去ろうとしていた人々の足が止まる。

綿は、バーの前のハイスツールに座り、長いドレスの裾を美しく流しながら、セクシーに後ろへ寄りかかる。白くしなやかな脚が、ちらりと覗いた。

場内は静まり返る。

目に見えない圧力が、人々の言葉を奪っていく。

――すると。

誰かに背中を押されるようにして、一人の三十代の男が、震えながら前に出た。

綿は、ゆっくりと彼見つめる。上目遣いに、美しい顔を僅かに傾け、冷たい光を宿した瞳を向ける。

そして、微笑みながら、

「――跪きなさい」
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