綿の心臓が大きく跳ね上がり、瞳孔がわずかに縮まる。――今、彼はなんて言った?「彼女の夫だ」と?信じられなかった。輝明は、いつだって自分たちの結婚を認めようとしなかったはずだ。綿の驚いた表情を見た輝明は、心の奥に小さな苛立ちを覚えた。――彼女の夫だと言っただけで、なぜそんなに驚く?ジョンが戸惑いながら指をさし、驚いた様子で口を開いた。「……あなたたち、夫婦だったんですか?」綿は、すぐにジョンに目を向けた。彼を欺いていたことに、申し訳なさがこみ上げる。ジョンの瞳には、明らかな失望と怒りが滲んでいた。彼は、この二人に振り回され、適切な敬意を払われていないと感じているのだろう。しかし、彼の口から出た言葉は、そんな感情とは裏腹に、どこまでも誠実だった。「綿さん、僕は本当に君のことを尊敬している。君のことを詮索するつもりはない。でも、もし助けが必要なら、いつでも言って」その言葉に、綿は胸が締め付けられるのを感じた。家族以外で、こんなにも自分を気にかけてくれる人がいたのは、どれくらいぶりだろう。感謝の言葉を口にしようとした、その瞬間――ガシッ。突然、手首が掴まれた。振り返るまもなく、冷たい声が響く。「ジョンさん、ありがとう。でも、俺の妻に他人の助けは必要ない」輝明が、鋭い目でジョンを一瞥し、そのまま綿の腕を引いた。「――ッ!」ジョンは一瞬呆然とし、次に何かを言いかけたが、言葉にならなかった。綿は眉をひそめ、声を荒げる。「高杉輝明、放して!何をしているの?」だが、彼は振り返らず、まるで彼女の抵抗など気にも留めていないかのように、足を速める。綿は、素足のまま冷たい地面を踏みしめる。硬い石に足をぶつけた瞬間、鋭い痛みが走り、「痛っ!」と息を飲んだ。その小さな声に、輝明の足が止まる。ゆっくりと振り返ると、綿の目はわずかに赤くなっていた。「……輝明、痛い」声が掠れ、喉の奥で詰まるような、滲んだ音を帯びていた。彼は一瞬言葉を失い、ふっと視線を落とす。裸足になった彼女の足元を見つめると、かすかに腫れ始めているのがわかった。――もし、これが嬌だったら?彼は、こんなに乱暴に扱うだろうか?いいや、絶対にそんなことはしない。ふと胸の奥が、理由もなく強く引き裂か
輝明は、綿の言葉に驚きを隠せなかった。彼女と祖母の関係は非常に良好で、祖母は実の孫娘のように綿を可愛がっていた。輝明が少しでも彼女に冷たくすれば、祖母はすぐに綿をかばい、何度も会社まで乗り込んできては、彼を叱りつけたほどだった。そんな彼女が、祖母の誕生日に出席しないと言うなんて――信じられなかった。「綿、嬌の件はもう済んだことだ」眉をひそめ、穏やかな口調で言う。「済んだ?じゃあ何、私が突き落としたってことで終わらせる気?」綿は間髪入れずに反論した。輝明はこれ以上、この話を続けるつもりはなかった。不快感を隠そうともせず、低く言い放つ。「わがままなことを言うな」綿は彼を睨みつけた。失望の色が、瞳の奥にじんわりと広がっていく。――わがまま、だって?ふっと笑いが漏れる。「結婚したばかりの頃は、確かにわがままだったかもしれない。でも、その後は? 私がどれだけ駄々をこねた?」「あなたが言ったでしょ?『お前を甘やかすことはできない』って。そんなの、とっくにわかってるよ」「今さら私がわがまま言ったって、誰か構ってくれる?」綿は靴を履きながら、静かに言った。その声には、怒りもなければ、涙もない。ただ、静かで、どこか空虚だった。目を上げると、輝明に包帯を返す。だが、その瞳は正直だった。どれだけ平静を装っても、憎しみでも、失望でも、彼に向ける視線の奥には、拭いきれない想いが滲んでいた。「もし私が嬌だったら、きっとあなたにしがみついて、思いっきりわがまま言ったのに」目を細めて微笑む。その笑顔は明るく見えるけれど、どこか苦い。彼女は嬌ではない。その資格はなかった。他人が持っているものは、彼女も持っていた。他人が持っていないものも、彼女は持っていた。それなのに、今――彼女は初めて、誰かを羨ましいと思った。――嬌は、輝明の愛を手に入れた。喉の奥で小さく音を鳴らしながら、輝明は目を細める。胸の奥で、じわりと得体の知れない熱が広がっていくのを感じた。「時間ができたら、連絡して。役所で離婚手続きをしよう」綿は微笑みながらそう言った。その目は澄んでいて、明るく、美しく輝いていた。――もう、泣いてすがる綿ではない。本当に、手放す覚悟を決めたのだ。輝明は眉をひそめる。胸の奥に、鈍く引き
綿は指輪を取りに別荘へ向かった。パスワードを入力し、ドアノブに手をかける。しかし――「パスワードが違います」無機質なエラーメッセージが響いた。綿は一瞬驚いたが、すぐにもう一度入力する。しかし結果は同じ。三度目の試行も失敗し、指紋認証すら弾かれた。電子ロックの警告音が鳴り響く。――パスワードが変更されている。さすがは高杉輝明。手が早いこと。そんなに私に来てほしくなかった?たった二日で、もうパスワードを変えたなんて。綿はスマホを取り出し、輝明に電話をかけようとした。その時、ガチャリとドアが開く音がした。「……綿ちゃん?」呼びかけられた声に振り向くと、そこにいたのは、ゆったりとした白いシャツ一枚を身に纏った嬌だった。シャツの下は、何も履いていないように見える。頬は赤く染まり、首筋には鮮やかな紅が差していた。髪は無造作に乱れ、艶めいた雰囲気を纏っている。 綿の目がわずかに揺れた。「誰?」奥から聞こえた低い声に、綿の体が硬直する。視線を奥へ向けると、バスローブ姿の輝明が、タオルで髪を拭きながらこちらを見ていた。嬌は微笑みながら彼の元へと歩み寄り、細い腕を彼の腰に回した。「綿ちゃんが来たわよ」親密に絡む二人を前に、綿は拳を握りしめた。彼らがここで何をしていたのか――想像するまでもない。結婚してから、輝明はほとんど家に帰らなかった。仕事が忙しいと言い訳していたが、本当の理由は、自分の存在がこの家にとって、彼にとって、何の意味もなかったからだ。「指輪を取りに来たのか?」冷ややかな声が、彼女の思考を遮る。綿は、ただ静かに頷いた。「上にある。自分で取りに行け」それだけ言い捨て、輝明は部屋の奥へと消えていった。綿は唇を噛みしめた。嬌は輝明が去ると、まるで家の主のような顔をし、「綿ちゃん、私が案内するわ」と微笑んだ。綿は冷ややかな目で彼女を一瞥し、「自分で探せるから、余計なお世話よ」と言い放った。「余計なお世話?」嬌は小さく笑い、もう隠す気もないように冷たく言い捨てる。「この家の本当の妻は最初からあたしよ。あんたなんて、所詮ただの身代わりよ」身代わり――その言葉を聞いても、綿の表情は変わらなかった。今さら、何を言われようと心が動くことはない。何も言わずに階段を
綿は、目の前で輝明が嬌の手を掴み、自分を見捨てる瞬間を見届けた。落下する感覚と共に、心の奥がじわじわと冷たくなっていく。結局のところ、彼は一度も自分を選んだことがなかった。どんなに傷ついても、どんなに痛みをこらえても——「綿ちゃん!」嬌の声が遠くで響く。しかし、綿の意識は次第にぼやけ、階段の途中で身体を打ちつける激しい衝撃とともに、全身に鋭い痛みが走った。うっすらと目を開くと、視界の端に輝明と嬌の姿が映る。見下ろしてくる二人の表情は冷たく、まるで関係のない他人を見るような無関心さがあった。胸が苦しい。痛いのは、身体よりも、心のほうだった。どんな言葉よりも、この光景がすべてを物語っていた。「嬌ちゃんは数日前、お前に水に突き落とされたばかりなのに、今度は殴って階段から突き落とすつもりだったのか」輝明の低い声が、冷たく響く。「桜井綿、お前は本当にひどい女だな」綿はまつげを震わせ、無意識に笑った。——笑うしかなかった。次の瞬間、涙が静かに頬を伝う。ほら、やっぱりそうだ。彼は、どんな時でも嬌を信じる。どんな時でも、悪いのは自分。理由なんてどうでもいい。ただ、嬌が傷つけば、彼にとっての答えは決まっていた。「明くん……綿ちゃんも、きっとわざとじゃなかったの。ただ、きっと……つらかっただけ……」嬌が、泣きそうな顔で言う。まるで彼女がこう言うことで、綿の罪が少し軽くなるとでも言うように。「だからって、お前を傷つけていい理由にはならないだろう?」輝明の声がさらに冷たくなる。「嬌、お前は優しすぎる。そんなことじゃ、あいつはどこまでもつけ上がる」嬌は涙を拭いながら、俯いた。「明くん、ごめんなさい……迷惑をかけちゃって……」彼女の言葉を聞き、輝明は自分の声が厳しすぎたことに気づく。すぐに表情を和らげ、「嬌ちゃん、お前が悪いわけじゃない。お前は、俺にとって決して迷惑なんかじゃない」と、優しく言った。――当然だろう。あの日、輝明が誘拐されたとき、嬌は彼を救うために命を懸けた。彼にとって嬌は「どんなことがあっても守るべき存在」だった。たとえ何をしても、どんなことがあっても、彼は嬌を守る。それが彼の「ルール」。嬌はまだ涙の跡を残したまま、彼を見上げる。「じゃあ……綿ちゃんのこと、もう責めないであげてくれる?」
高杉グループ本社ビル輝明がオフィスに到着すると、森下がすぐに駆け寄ってきた。「社長、陸川様が体調を崩し、病院へ搬送されました。それと、別荘の監視カメラの映像をメールでお送りしています」輝明は「わかった」とだけ返し、椅子に深く腰掛けると、すぐにPCを開いた。未読のメールに添付された動画ファイルが目に入り、指が一瞬止まる。脳裏に蘇るのは、綿の震える声だった。「何度同じことを繰り返すつもり?いつもちゃんと確かめもしないで、最初から私を悪者にする。あなたの『大事な人』が本当はそんなに優しい人じゃないって知るのが怖いの?それとも、私を誤解していたって気づくのが嫌なの?」マウスを握る手に力がこもる。迷いが生じた。――まさか、自分が綿を誤解していた?そんなはずはない。あいつは冷酷で、どんなことでも平然とやる人間だ。これはただの泣き言だろう。そう思い直し、ファイルをクリックした。画面に映し出された映像を目にした瞬間、輝明の顔色が変わる。*病院・033号室前病室の前に立つと、中から女性の小さな声が聞こえてきた。「お母さん、どうしよう……監視カメラがあるなんて知らなかった……」「何を慌てているのよ。誰が見たって、綿に突き飛ばされたって言えばいいの!」輝明の顔色はさらに冷たくなる。静かにドアを押し開け、大股で部屋に入った。嬌が驚いた表情で息をのむ。「……明くん……」彼は何も聞かなかったかのように、陸川嬌の母・陸川恵子に軽く会釈する。そして、いつもと変わらない穏やかな声で嬌の頭を優しく撫でた。「どうした?なんで泣いてる?」嬌の目から、次々と涙がこぼれ落ちる。その代わりに、恵子が答えた。「あなたの奥さんのせいよ。彼女と嬌ちゃん、一緒に階段から落ちたのに、あなたは彼女を助けなかった。嬌ちゃんは優しいから、罪悪感を抱いてるのよ!」「そうだな、嬌ちゃんは本当に優しすぎる」輝明はそう言い、指先で嬌の頬にそっと触れた。嬌は微かに身を強張らせた。――何かがおかしい。いつもなら、この瞬間に安心できるのに。彼の優しさが、今はまるで冷たい刃のように感じられる。「輝明、嬌はこんなにもあなたのために尽くしてきたのよ。それなのに、いつまで待たせるつもり?」恵子が強い口調で言った。輝明は黙って恵子を見た。陸川
夜、沁香園古風な趣のある高級レストラン、静かな雰囲気が漂い、どこか雅やかな空気が広がっていた。綿は深い緑色のチャイナドレスを纏い、手には折りたたみ式の扇を持って、少し遅れて個室へと足を踏み入れた。彼女がドアを押し開けると、中で茶を飲みながら談笑していた人々が、一斉に彼女の方を振り向いた。ライトが当たると、綿の肌は透き通るように白く、チャイナドレスのスリットから覗く足は長くすらりとしていた。その姿は、華やかさと品の良さを兼ね備えていた。髪は精巧にまとめられ、簪で軽く飾られている。額にできた傷は、前髪でさりげなく隠されていた。部屋の空気が一瞬静まり、誰もがその美しさに息を呑んだ。「おや、これは桜井のお嬢さんじゃないか?」五十代の男性が、にこやかに声をかける。木村恒――綿の父である桜井天河の親友。今日のこの集まりを主催したのも彼で、ここにいるのは業界でも名の知れた大物ばかりだった。「おいおい、『桜井のお嬢さん』なんて他人行儀な呼び方をするなよ。天河さんの大事な一人娘の綿ちゃんだろ?」別の男が笑いながらそう言うと、周囲の空気がさらに和やかになった。綿は部屋をぐるりと見渡し、穏やかに微笑むと、軽やかな足取りで歩み寄り、一人一人に挨拶をしていった。「皆さん、遅れてしまって、本当に申し訳ありません!」「いやいや、いいものは遅れてくるものさ」「久しぶりだね。ますます美しくなったじゃないか!」「昔、息子と綿ちゃんの縁談をどうにか決めようと、何度も足を運んだものさ。で、結局どうなったと思う?」皆が笑いながら興味を示した。「どうなった?」「うちに生まれたのは娘だったんだよ!」場内はまたしても笑いに包まれた。綿は促されて席につき、料理が次々と運ばれてきた。彼女の隣にはまだ二つの空席があり、誰かがまだ来ていないことに、ほんの少し安堵した。そんな中、誰かがふと話題を変えた。「そういえば、もうすぐ高杉家の奥様の誕生日だが、皆はどんな贈り物を用意しているんだ?」綿はお茶を飲もうとしたが、その言葉を聞いてふと顔を上げた。すぐに、周囲から軽妙な声が上がる。「今年もまたプレゼント合戦か?」「毎年、奥様の誕生日では、どんな豪華な贈り物が出てくるのか楽しみだよな」「一番いいものを持ってきた人が、最も高
夜、沁香園男はにやりと笑い、綿の腕をぐいっと引き寄せた。「一億?そんなの、俺にとっちゃ小銭みたいなもんだ!」綿はわずかに目を細めた。冷ややかに男を見つめた。「へえ、そんなにお金持ちの方だったんですね。どちら様でしたっけ? お見かけしたことがないような……」意地の悪い笑みを浮かべながら問いかけると、男は鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張った。「田中グループの総裁、田中隆司だ!」綿は思わず吹き出しそうになった。田中隆司?あの田中家の無能な二代目?ネットで女装詐欺師に騙されて、八百万を巻き上げられたことで有名な、あの男?まさに、救いようのないバカそのものじゃないか。「何笑ってるんだ!俺をバカにしてるのか?」田中隆司は顔をしかめ、不快そうに睨みつけた。「お前が俺の女になれば、一億なんてはした金だ。金山でも銀山でも、好きなだけ持ってこさせてやるぜ!」綿はため息をつきたくなった。言葉だけ聞けば魅力的かもしれないが、あいにく興味はない。「田中さん、申し訳ありませんが、私はあなたに興味がありません。どうか手を放していただけますか? 今夜のことはお互い忘れましょう」綿は穏やかな口調で言った。今日は父の名義で参加した会食だ。下手に騒ぎを起こせば、後々面倒になる。できるだけ穏便に済ませたかった。だが、田中隆司は不機嫌そうに鼻を鳴らした。「なんだ? 俺をその気にさせといて、欲しくないなんて言うつもりか?」綿は呆れて心の中で白目をむいた。どこをどう解釈したら「その気にさせた」ことになるのか。どうやら、この男は「自分が欲しいと思った女は当然、自分を欲しがるはず」などと本気で思っているらしい。とんでもない自信家だ。綿は彼を強く突き放し、その場を離れようとした。しかし、隆司は酔っていた。綿の冷淡な態度が、かえって彼の劣情を煽った。――断るのなら、力ずくでも手に入れるまでだ。そう思った瞬間、彼は綿の腕を掴み、強引に壁に押し付けた。「そんな態度で俺を挑発するつもりか?」耳元で低く囁くと、隆司は満足げに笑った。「今夜はたっぷり可愛がってやるよ」綿は歯を食いしばり、鋭く叫ぶ。「離して!」だが、隆司は聞く耳を持たない。 「普通の女なら、俺のベッドに上がれるだけで光栄に思うんだぜ?
休憩室で綿は少し驚いた。彼が本当に監視カメラを見たなんて――それは、彼女の予想外だった。けれど、今の彼女にとって、それはもうどうでもいいことだった。「終わったよ」淡々と言いながら、彼女はバンドエイドを貼り、医薬箱を閉じた。輝明は眉をひそめる。彼女の無関心な態度に、苛立ちを覚えた。「綿、監視カメラを見たって言ったんだぞ」彼はもう一度、強調するように言った。綿はふと目を上げ、微笑む。「聞こえたわ」――それだけ? 輝明の眉間にしわが寄る。彼女は謝罪や他の何かを期待していないのか?綿は彼の困惑を見抜いたように、立ち上がると医薬箱を元の場所に戻しながら淡々と言った。「昔はあなたを愛していて、あなたの言葉ひとつひとつに傷ついていたわ。でも今は……」彼女は扇子を広げ、優雅にほほ笑んだ。「もうどうでもいいの」――どうでもいい。その言葉が、鋭い刃のように彼の胸を貫いた。輝明は唇を舐め、黒い瞳に微かな光を宿しながら微笑む。「もう、俺を愛していないのか?」「高杉さん、本当に賢いわね」綿はキャビネットにもたれかかりながら、余裕の笑みを浮かべた。その笑顔は美しく、どこか残酷だった。彼を愛することで、自分はすでに半分命を削られていた。それでも、彼はまだ自分に愛を求めるのか?階段から落ちていく自分を、彼がただ静かに見ていたあの瞬間。それすらも、彼を諦める理由にはならないというのだろうか?もしそれでも彼に執着し続けるなら――それこそ愚か者だ。輝明の黒い瞳が一瞬だけ揺れる。そして、ゆっくりと歩み寄った。綿はその動きを静かに見つめる。――何をしても、もう私は揺るがない。彼は彼女の目の前で立ち止まり、長い腕をキャビネットの両側に置いた。「お前は、本当に心変わりが早いな」近くで囁く低い声。しかし、綿は余裕の笑みを浮かべたままだった。「高杉さん、私があなたを七年も愛して、やっと心変わりしたのよ。早いとは言えないでしょう?」彼の目が細められ、無言のまま彼女を見つめる。そして、ふと唇を舐め、喉を鳴らした。「……愛したことを、後悔しているのか?」綿は彼の眉間を見つめた。迷いも、揺らぎもなく――「ええ、後悔しているわ」.輝明の瞳孔が一瞬だけ縮まった。心臓が、痛む。「
彼は生き延びたい。生きていたい。そのためには奪うしかないのだ。「さっさと金目の物を出せ!」男は手にした猟銃を再び綿の方に突きつけた。綿の心拍が早くなる。男が一歩近づいたその時、背後のもう一人の男のスマホが突然鳴り響いた。彼はスピーカーモードに切り替え、通話内容が聞こえるようにした。電話の向こうの声が響く。「あの女、腕時計を持ってる。すごく高価なやつだ!その腕時計を奪え!!」綿の顔色が徐々に冷たくなっていく。陽菜への嫌悪感が一気に頂点に達した。彼女はこれまで、嬌以外にこれほど誰かを憎んだことはなかった。女の子同士は助け合うべきだと信じていたが、こういう酷い相手に対してはどうすればいいのか。親切心なんて、ただ踏みにじられるだけではないか。さらに電話の向こうから男の声が続く。「それと、その女のブレスレットは俺が手に入れた。時計さえ渡せば、すぐに解放してやる!」猟銃を持つ男が急いで顔を上げ、綿に向かって言った。「聞いたな?お前の時計はどこだ?さっさと答えろ!」綿はもう我慢するつもりはなかった。近くにあった茶碗を手に取り、思い切り机の上で叩き割った。男たちは即座に警戒態勢に入り、二人で綿の動きを注視する。割れた碗の破片を手にした綿に、猟銃を持つ男は焦りながら銃口を再び彼女に向けた。その銃は簡単に命を奪えるものだ。「その手を下ろせ!」彼は引き金を引きたくなかった。たかが少しの金のために、そこまでする価値なんてない。もしこんなことで捕まったとしても——たったの十五日で出てこれるのだから。発砲すれば状況は一変し、警察に捕まった場合は一生ものの罪を背負うことになる。「あなたに言われて下ろす理由なんてないでしょ?」綿は目を細め、一歩前へと進んだ。男は怯んで後退する。綿は確信していた。彼は銃を撃つ度胸がない。「銃を下ろしなさい」綿は鋭い目つきで彼を見据え、態度をさらに強硬にした。男は何も言わず、ただ唾を飲み込みながら後退し続ける。個室の外に追い出されそうになるのを見たもう一人の男が、その場を打開しようと、突然綿に飛びかかった。彼は綿の手から破片を奪おうとしたが、綿は素早く反応し、破片を振りかざして相手の顔を斬りつけた。鋭い破片が男の顔に深い傷を作り、血が頬を伝い流れ出す。
次の瞬間、部屋の扉が突然蹴り開けられた。綿はすぐに後退した。和也と宗一郎は同時に顔を上げ、綿が両手を挙げたまま、慎重に後退していくのを目にした。彼女は穏やかな声で相手を宥めていた。「まず、その銃を下ろして」和也は目の前の男が手に猟銃を持っていることにようやく気づいた。「金目の物を出せ。さもなくば、こいつを殺す」男は和也を睨みつけた。綿と和也が目を合わせる。和也はどうすればいいのか分からず困惑した。こんな状況に遭遇するのは初めてだった。綿は軽く首を振った。「何のこと?俺たちはただご飯を食べに来ただけ。何が欲しいんだ?」和也がそう言いながら問いかけると、宗一郎は黙って綿の椅子に置いてあったバッグをゆっくりと机の下へ蹴り込んだ。その動きは非常に慎重で、音を立てないように配慮していた。しかし、強盗たちは完全に和也と綿に注意を集中させていた。「さっさと金目の物を出せ!価値のあるものをだ!」男は怒鳴った。綿は冷静な声で答える。「金目の物なら、さっきの女の子が持ってたでしょ?彼女を連れて行ったんじゃないの?」その口調は驚くほど落ち着いていた。「本当にあの女の命が惜しくないのか?」男は怒りを露わにした。和也は困惑しながら言った。「どういうことだよ!物を奪っただけじゃ済まないのか?まさか人を殺すつもりか?お前ら、やりすぎだろ!」男は鼻で笑いながら言った。「お前らみたいなよそ者は、いつも不誠実だ」そう言うと、男は手に持った猟銃を綿の頭に向け、こう付け加えた。「400万円だ。この女を解放してやる」綿はふっと笑みを浮かべた。400万円ごときで銃を持ち出すなんて、馬鹿げている。「その女なんていらないわ。さっさと消えなさい」綿の冷淡な一言が響く。男は眉をひそめた。「仲間を見捨てるのか?」「仲間?聞こえはいいけど、ただの知り合いにすぎないわ。悪く言えば、赤の他人。彼女がどうなろうと、私には関係ない。彼女を使って私を脅すつもり?それはあなたたちの甘さね」そう言いながら、綿は一歩前に踏み出した。男はすぐさま後退し、怒鳴り声を上げた。「動くな!」「怖いの?銃を持ってるくせに、私みたいな女一人を相手に怯えるなんて」綿は目を細め、冷たい視線で男を見つめた。その目には計算するような鋭い光が宿ってい
たとえ母親でも、子どもが言うことを聞かない時には、平手打ちをするべきだろう。綿はじりじりと後退した。男たちはそれを見て察した。陽菜と一緒にいる相手なら、間違いなくただ者ではないはずだ。しかも、この高級なレストランで食事をしている以上、金に困っているわけがない。男たちは薄く笑い、綿に尋ねた。「何か値打ちのある物を持ってるか?」綿は首を振った。「持ってないわ」彼女の持ち物で一番価値があるのは、父親からもらった腕時計だ。しかし、その時計だけは絶対に手放すわけにはいかない。幸いなことに、その腕時計は個室に置いてあり、今日は持ち出していない。男は目を細めた。「ないだと?」「自分で差し出すのか、それとも俺たちが探すか?」「私に触れる勇気があるなら、試してみなさい」綿は口元に笑みを浮かべ、気迫で二人を退けようとした。和也たちも言っていたが、こちらが譲歩すれば、相手はつけあがるだけだ。ならば、最初から強気に出た方が良い。彼女は試してみることにした。このやり方で二人を退けられるかどうか。男は冷静な口調で言った。「女一人に、男二人だぞ。お前に何ができる?」「俺たちは今まで欲しいものを手に入れられなかったことなんて一度もないんだ」「さっさと渡せ!」男の一人が前に出てきた。綿はすっと両手を挙げてみせた。その手首には何もついていない。さらに首元を見ても、今日はネックレスさえつけていなかった。「私、何も持ってないわ。あなたたち、何が欲しいの?」綿は笑みを浮かべた。男たちの顔色は険しくなった。彼女の身には、確かに目立ったものは何もない。「じゃあ、スマホだ!金を振り込め!」男たちは声を荒げた。綿は冷たく微笑む。「銀行口座には1円も入ってないわ。現金も持ち歩いてない。ポケットの中身なんて、顔よりも空っぽよ」「信じるかどうかは、そっちの勝手」綿は穏やかに微笑んだ。すると、男の一人が口を開いた。「覚えてるぞ。2202号室だ。あいつらの個室だ。彼女の荷物はあそこに置いてあるに違いない!さっきの間抜けが言ってただろう?荷物が個室にあるって。解放してくれるなら取りに行くってな!」綿「……」ああ、陽菜、本当に大したもんだ。綿は呆れた顔を浮かべた。強盗に「間抜け」と呼ばれるなんて、陽菜は間抜けの定義そのものを侮
綿は陽菜が自分を差し出す可能性について考えたことはあった。しかし、こんなにも早く自分を見捨てるとは思わなかった。この女、本当に役立たずな仲間で、救いようがない。数人の男たちが綿に視線を向ける。彼女は眉をひそめた。彼らは彼女をただの若い娘で簡単に扱える相手だと思っているのだろう。だからこそ、あの二人の四十代の男は全く警戒せず、綿に向かって近づいてきた。綿は冷ややかな目で彼らを見つめ、垂らしていた手をゆっくりと拳に握りしめた。幸いなことに今日はラフな服装で、ヒールも履いていない。一方、スカート姿の陽菜に比べれば、こちらはまだ動きやすい状況だ。「あの女はお金を持っている。彼女を相手にすれば、私を見逃してくれる?」陽菜は必死に綿を差し出し続けた。彼女は綿が自分を見捨てるはずがないと思い込んでいるので、遠慮なくそう言い放つ。若い男が笑いながら言った。「助けに来てくれた相手にそんなことを言うなんてね」「わかってなら、早く私を解放してよ!」陽菜は怒りを露わにしつつも内心は恐怖でいっぱいだった。綿は陽菜を睨みつけ、冷たく言い放った。「恩知らず」陽菜は叫ぶ。「綿、助けて!」その声は怒鳴り声ではあったが、どこか命令するような響きがあり、綿の怒りをさらに煽った。陽菜の中では、綿が絶対に自分を助けてくれる存在として位置づけられていたのだ。「綿、彼らはお金が欲しいだけよ!お金を渡せば済む話じゃない!でも、私のブレスレットだけは駄目!これを渡したら二度と手に入らないものだから!」陽菜はブレスレットを守り続けた。綿は、このままだと相手が怒り狂って陽菜の腕を切り落とし、ブレスレットを奪う可能性すらあると思った。「陽菜、もし私が今日あなたを助けなかったらどうする?」「それなら私の叔父さんに言いつけるわ!そしたらあんたは——」「助けるのは好意、助けないのは当然の権利。私はただの二十代の女の子よ。こんな状況で怖くて逃げ出したって、あなたの叔父さんが何を言うの?」綿は目を細めた。陽菜は言葉を詰まらせる。周りの男たちも、ただこの口論を眺めていた。綿は続けた。「陽菜、あなたの命は大事でも、私の命は大事じゃないとでも?」陽菜は申し訳なさそうに沈黙した。「本来、他の人は助けない方がいいって言ってたの。でも、あなたがそこまで悪い
「もし本当に強奪されたら、どうすればいいんですか?」綿は興味津々に尋ねた。男なら抵抗できるかもしれないが、陽菜のようなお嬢様なら一人でも危ないのに、複数相手ならなおさら無理だ。「本当に強奪に遭った場合、一番いい方法は素直に渡すことです。命の方が大事ですからね」和也はそう答えた。「彼らも誰にでも強奪するわけじゃない。まず観察して、この人が本当に金持ちなのかどうかを見極めるんですよ」「なんて怖いの……」綿は首を振り、信じられない様子だった。なんて無秩序な場所なんだろう。どうりで徹が陽菜を同行させたわけだ。一人では確かに心細い。とはいえ、陽菜もそれほど頼りにならないし、こんな状況ならむしろ屈強な男を連れてくるべきだったと綿は思った。綿が食事を続けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。その声は耳障りで恐怖に満ちている。この声は……「いやあああ!助けて!」その悲鳴を聞いた瞬間、綿はすぐに分かった。陽菜だ!綿は立ち上がり、個室の扉を開けようとした。しかし和也が彼女の手を掴み、首を振った。「今出て行っても彼女を助けられません。彼らが欲しいのは物だけで、危害は加えませんよ」綿は動揺した。どういう意味だろう?陽菜が危険な目に遭っていると分かっていて、何もせずにここで待てというの?陽菜が少々苦手だとしても、何もしないわけにはいかない。「ダメです。陽菜は私が連れてきた人です。彼女を連れて来た以上、ちゃんと連れて帰らないと」もし陽菜に何かあったら、徹にどう説明したらいいか分からない。「桜井さん、相手は複数いますよ」和也は慎重に警告した。綿は和也が本気で彼らを恐れているのを見て取った。「あなたたちは姿を見せないでください。私は何とかしますから、警察を呼んでください」綿は和也に頼んだ。和也は少し躊躇したが、頷いた。しかし、この辺りでは警察に通報しても役に立たない可能性が高い。ここは無法地帯で、毎日何人もの人間が強奪に遭っており、全てを取り締まるのは不可能なのだ。それでも、綿は扉を押し開けた。「桜井さん、どうか気をつけてください!」宗一郎は心配そうに声を掛けたが、助けることはできなかった。彼がこの幻城で身を立てていられるのは、低姿勢を保っているからだった。階段の下で陽菜は男に引きずられていた。「
「この辺りの人って、いつもこんなに乱暴なんですか?」綿は不思議そうに尋ねた。和也は頷き、答えた。「これでもまだマシな方です。中には平気で唾を吐いてくる奴もいますよ」唾を吐くなんて、確かに竜頭のポーズよりもはるかに不快だ。それが自分の汚さや病気を気にせずに行われるというのだから、想像しただけでうんざりする。綿は唇を噛んだ。「ここ、どうしてこんなに荒れているんですか?誰か取り締まらないのですか?」「取り締まってはいますよ。ただ、追いつかないんです。流れ者が多すぎて。街も大きいし、人も多い。全員を一人ずつチェックするなんて無理です」綿は顔を手に支えながら考え込んだ。一部の都市はこういう性質を持っているのだろう。これが幻城に人が溢れている理由なのかもしれない。ただ、綿は信じていた。この街がいつか必ず整えられ、秩序を取り戻す日が来ると。車はやがて比較的高級なレストランの前で停まった。このエリアは静かで、不審者もいないようだった。車を降りると、宗一郎は再びSH2Nや柏花草について自分の考えを熱心に語り始めた。綿は静かに耳を傾け、時折頷いていた。レストランのスタッフが一行を案内し、席に着いたところで、綿のスマホが鳴った。輝明「どこにいる?誰と一緒だ?無事なのか?」綿「うん」彼女は短い返信を送り、スマホを閉じた。和也が尋ねた。「こちらのご当時料理をいくつか注文しておきましたが、お嫌いなものはありませんか?」言いながら、和也はメニューを綿に差し出した。「桜井さん、他に何か追加したいものがあれば、どうぞ」「結構です。ありがとうございます」綿は首を振り、陽菜の方を見た。陽菜はテーブルを拭いていた。ここは高級店ではあるが、環境はやはり雲城ほど整ってはいない。それが不満なのか、陽菜の表情には嫌悪感が浮かんでいた。おそらく幻城への出張など、もう二度と来るつもりはないだろう。和也は陽菜にウェットティッシュを差し出した。「どうぞ」「ありがとう」陽菜はお礼を言ったが、その手首には、いつの間にかまたキラキラと光るアクセサリーが戻っていた。綿が目線を向けると、陽菜は眉をひそめた。「何よ?もう夜なのに、誰が懐中電灯を持って照らしてまで盗むって言うの?」綿は何も言わなかった。「それでは柏花草の件、教授にお任せします。
雲城に足を踏み入れるような人物であれば、この爺さんも間違いなく一流の人だろう。その後も会話が弾み、気がつけば時刻は既に夕方。昼食を取るのも忘れて話し込んでしまった。6時を過ぎた頃、和也がようやく口を挟んだ。「そろそろ夕食に行きませんか?場所はもう予約してあります」綿は時計を見て、驚きと共に宗一郎に微笑みかけた。「教授、私ったらつい夢中になりすぎて、食事の時間をすっかり忘れてしまいました」「話が弾んでいたようだね」宗一郎は私的な場面では寡黙だが、的確な一言を返した。「行きましょう。今日は僕たちがご馳走します。幻城へようこそ!」和也は笑顔で綿たちを招いた。その表情は温かく、どこか優しげだった。綿は彼を少しじっと見つめた。――快活でハンサムな青年だ。外に出て和也たちと一緒に車に乗り込む前、綿のスマホ電話が鳴った。輝明「どこにいる?今日はクリスマスだ。昼間は一切邪魔しなかったけど、夜は一緒に過ごせないか?」綿は眉を上げ、メッセージを打った。綿「出張中」輝明「出張?なぜ一言教えてくれなかった?」綿「アシスタントと一緒。徹さんはあなたの友達だから、もう聞いてると思ってたのに?」綿は心の中でつぶやいた。――私の行動を知りたければ、いくらでも手を回せるくせに……何を今さら。輝明「何時に帰る?もう遅い時間だ」綿「順調なら夜8時の新幹線で戻る予定」輝明「順調じゃない可能性もある?」綿「わからないわ」話が弾んでいることに加え、せっかくの機会なので、あと2日ほど滞在してもっと議論を深めたいと綿は考えていた。だが、今日がクリスマスであり、父が自分のために飾り付けたツリーのことを思うと、心が揺れる。輝明「迎えに行くよ」そのメッセージを見た綿は即座に警戒し、慌てて返した。綿「来なくていい!」――何で彼に迎えに来てもらう必要があるの?自分で新幹線で帰ればいいじゃない。綿「仕事で来てるの。邪魔しないで」輝明「君が心配なんだ」綿「あなたがいなかった3年間も、私はちゃんとやってたわ。あなたの心配なんて必要ない」輝明「それは過去の話。今は違う」綿「何も変わらないわ」輝明「俺に3か月の猶予をくれたじゃないか」綿「猶予を与えたからって、あなたの望むままに付き合わなきゃ
目の前に広がるのは、これ以上ありふれたものはない、普通の店構えだった。外壁には「LK研究所」と書かれた小さな看板が掛けられているが、ぱっと見ただけでは、まるで路上の軽食店のようだった。山下はまたも気まずそうに笑いながら言った。「お恥ずかしい話ですが、僕たちの研究所は予算が少ないんです。でも技術だけは確かですので、どうかご安心を!」「では、どうぞこちらへ」彼は綿たちを中へ案内した。綿は無言のまま、周囲を見渡した。――このベテラン教授が信頼できる人だと知っているからこそついてきたものの。もし彼のことを知らなかったら、こんな場所、絶対に罠だと疑ったに違いない。「腎臓を売られるんじゃないか」とさえ思うほどだった。陽菜もおそらく、さっき目撃した事故の光景が頭に焼き付いているのだろう。妙におどおどしていて、綿のすぐそばから離れようとせず、以前のような口数の多さもすっかり影を潜めていた。綿にとっては、ようやく訪れた静けさだった。二人は山下の後について店の中に入った。外見はみすぼらしいが、内装は意外にも新しさがあり、ここ数年で改装されたようだった。綿はちらりと室内を見渡し、山下の後についてさらに奥へ進んだ。応接間を通り抜けると、そこは研究所の核心部である研究室だった。外観がボロボロなのは、わざと目立たないようにしているのかもしれない。派手に飾ってしまったら、盗みに入られるリスクが高まるからだ。そんなことを考えていたその時、後ろから年配の男性の声が聞こえた。「お待ちしていましたよ」綿と陽菜は声のする方を振り向いた。そこに立っていたのは、70代と思しき白髪の紳士。彼は白い着物を身にまとっていて、威厳が感じられる。山下は彼を見てすぐさま駆け寄った。黒服の山下と白服の紳士――二人の対比はとても目を引いた。しかし、綿はすぐに妙なことに気づいた。この二人、顔つきがあまりにも似ているではないか。それだけでなく、二人の姓も同じ「山下」だった。紳士は名乗りながら言った。「山下宗一郎です」綿は再び山下に目を向けた。すると、老紳士は山下を指差して続けた。「こちらは私の孫、山下和也です」綿は思わず息を飲んだ。――なるほど、親族だったのか……「この研究所にはお二人しかいないんですか
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか