綿は炎からのメッセージを見つめていた。彼が直接目の前にいるわけではないのに、その真摯でまっすぐな気持ちが画面越しに伝わってくるようだった。 「冬の初雪にピンクのバラ。君が幸せでいてくれるように」 そんなロマンチックな言葉と行動に、心が少し震えた。 「この子は本当に素晴らしい。けれど、自分と彼が出会ったタイミングが良くなかった。 よく考えれば、自分の周りにいる男性たちはどれも輝明よりずっと良い人ばかりだ。 それなのに、どうして当時あんなに輝明に執着してしまったのだろう?なぜあれほど彼以外は目に入らなかったのか……」 綿は炎に返信した。【花をありがとう。近いうちにお礼に食事をご馳走するわ】 【いやいや、そんなこと言うなら近いうちじゃなくて、今夜どう?午後の仕事が終われば俺は空いてるよ】 綿は思わず笑ってしまった。 この子は本当に行動力のあるタイプだな、と彼女は心の中で思った。こちらが少しでも機会を与えると、すぐにそれを掴み取る。ためらうことなく、自信を持って進んでいく。 【いいわ】 彼女はあっさりと了承した。 捨ててしまった花のことを思うと、炎の気持ちも一緒に無下にしてしまったようで気が咎めた。だからこそ、食事くらいはご馳走したいと思ったのだ。 しかし、彼にもう一つ伝えたいことがあった。 【次からは花を買わなくていいわ。花が好きじゃないの】 炎からすぐに返信が返ってきた。 【え?女の子が花を嫌いなんて珍しいな。女の子は花とロマンで育つものだと思うけど】 綿は思わず口元を緩ませた。 彼は本当に女の子を喜ばせるのが得意だ。 その時、再びスマホに新しいメッセージが届いた。送り主は輝明だった。 【花を贈った人は分かった?】 綿は簡潔に返信した。【分かったわ】 【商崎さん?】 綿は少し笑いながら返信を打った。【そんなに気になるなら、自分で商崎さんに聞いたら?】 【綿、彼は君に似合わない】 輝明からの言葉に、綿は眉をひそめた。 彼女は自分と炎が合わないことは分かっている。でも、それを輝明に指摘される筋合いはない。 そういう態度で遠回しに文句を言う輝明よりも、実際に行動する炎の方が、よほど彼女には心地よかった。 …
炎は綿を不思議そうに見つめた。「どうして謝るの?」と。 彼はただ「花」と言っただけだ。それに対する「ごめんなさい」は唐突すぎて、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。 綿は少し困った表情で、ようやく口を開いた。「……その花、最初は高杉が送ってきたものだと思ったの。それで……一目見ただけで……」 彼女は手のひらを擦り合わせ、鼻に手を当てて、気まずそうに視線を逸らした。その様子は、この話題についてとても居心地の悪さを感じていることを物語っていた。 「それで?」炎は続きを促すように問いかけた。「ただ、彼が送ったと思っただけ?」 綿は唇を軽く噛んだ後、炎の目をまっすぐに見つめて正直に答えた。「だから捨てたの」 炎は沈黙した。 彼はもっと酷い結果を想像していた――例えば、綿が輝明に感謝の言葉を伝えたとか。でも、まさか捨てられていたとは思わなかった。それはそれで意外だった。 「輝明からのものだと思ったから捨てたの?」炎は慎重に問い直した。もし彼が綿を怒らせてしまった結果ならどうしよう、と少し不安に思ったのだ。 綿は真剣な顔で頷いた。「そうよ。ただそれだけの理由」 炎は2秒ほど黙った後、小さく「ああ」と返事をした。そして、意を決してさらに聞いた。 「でも、もし最初から俺が送ったって分かってたら?」 その言葉を口にした時、彼の目には微かな緊張が浮かんでいた。 「もちろん捨てないわ」綿は両手を広げて答えた。 その瞬間、炎はほっと安堵の表情を浮かべた。緊張も疲れも一気に消え去ったようだった。 彼が最も恐れていたのは、「誰が送ったものであっても捨てる」と言われることだった。それを考えただけで悲しくなってしまうからだ。 「週末、ソウシジュエリーの展示会には行くの?」綿がふと思い出したように尋ねた。 炎は肩をすくめながら答えた。「いや、創始者とは知り合いじゃないし、特に関わりもないから行かないよ。それに週末はちょうど出張が入ってるんだ」 「出張?どこか遠くへ?」綿は少し意外そうに聞いた。 「うん。一週間くらいかかる予定。でも早く戻れるかもしれないけどね」 綿は軽く頷いた。 炎がふと彼女を見て尋ねた。「行きたいの?展示会は招待状がないと入れないらしいけど。もし必要
「もちろん。君がこんな場所に来るのを嫌がらないっていう前提だけどね」炎は冗談っぽく言いながら、綿を見つめた。 綿はすぐに首を振った。嫌がるわけないでしょ?こんな場所、すごくいいじゃない。 大学時代、友達とよくこんな火鍋の店に来ていたことを思い出した。 外の冷え込みと、店内の暖かい雰囲気が対照的で、客たちの笑い声が聞こえてくる。みんなのんびりと楽しんでいる様子が伝わってきて、どこか心が安らぐ。 綿は豆乳を一口飲んで辛さを和らげた。そしてその瞬間、一日の疲れがすっかり消えた気がした。 こういう場所には何とも言えない魅力がある。 でも、これが炎だから楽しめるのだろう。もし相手が輝明だったら……いや、そもそも彼がこんな場所に来ること自体あり得ない。 彼なら首を硬くしてこう言うだろう。 「そんなジャンクフード、どこが美味しいんだ?」 綿は視線を炎に戻した。 恋愛において、愛しているかどうかが本当にそんなに重要なのだろうか?もしかしたら、「相性がいい」ことの方が大事なのでは? でも、愛が前提となるからこそ、お互いが相手のために変わり、相性が良くなっていくのではないか? 彼女はふと目を伏せ、心の中でため息をついた。 どうやって炎に伝えればいいのだろう。 私に時間を使わないでって。 炎はとてもいい人だ。だからこそ、傷つけたくない。希望を与えてから失望させるのは、彼女自身が経験したことでもあり、二度と誰にもそんな思いをさせたくないのだ。 「これ、あんまり美味しくない?」炎が菜箸で火鍋から具材を取り、彼女のお皿に入れながら尋ねた。 綿はすぐに首を振った。「そんなことない」 炎は微笑みながら、特に何も言わなかった。 彼女が食べ続ける様子を見つめていたが、ふと彼女の気持ちが沈んでいるのに気付いた。 そして、何を言おうとしているのかすぐに察した。 「また俺に断ろうとしてるでしょ?好きになるなって」 炎は気楽そうに話しながら、箸を動かしていた。 綿は彼の目を見た。 彼女には分かっていた。お互い賢い人間なのだから、言葉にしなくても心の内は分かる。 「あなたはどう思ってるの?」彼女が逆に問い返した。 炎はさらりと答えた。 「できる限り
火鍋を楽しんでいる店内で、突然外からざわめきが聞こえてきた。 「え、本当に彼なの?」 「まさか!あんな人がこんな場所に来るなんてあり得ないでしょ?あの人が食べてるのはいつも高級料理だよ。ここみたいな庶民的な店なんて……」 綿はコップを持ち上げ、水を一口飲みながら視線を入り口に向けた。 周りの客たちも一斉に首を伸ばして入り口を覗き込んでいた。次に入ってくるのは一体誰なのか、皆が気になって仕方がない様子だった。 綿が視線を戻そうとしたその瞬間、興奮した声が聞こえてきた。 「うわ、本当に高杉輝明だ!」 綿は驚き、目を上げた。そして目に入ったのは、店のドアをくぐる輝明の姿。そのすぐ隣にはキリナも一緒だった。 炎も彼らを見た瞬間、驚きを隠せない様子だった。 輝明とキリナ? これは仕事の話でもするために来たのか?火鍋の店は輝明のスタイルではない。むしろキリナの趣味なのだろうか? キリナは輝明と笑いながら話しており、店員の案内で2階席へと向かって行った。 綿は平静な表情でその様子を見届け、二人が視界から消えると、何事もなかったかのように飲み物を口に運んだ。 「もしかして黒崎キリナが輝明を展覧会に招待したいんじゃないか?それで彼をここに誘ったとか」炎は興味深そうに推測を口にした。 綿は炎に一瞥をくれたが、特に何も言わなかった。 輝明とキリナが何をしているのか、それほど気にならなかった。むしろ驚いたのは、輝明がキリナに付き合ってこんな場所に来たことだ。 炎は綿が何も言わないのを見て、小声で尋ねた。 「綿、大丈夫?」 綿は眉を上げ、炎を見返した。え?何が?もちらん大丈夫だよ。 「大丈夫って」彼女は笑って答えた。 炎は半信半疑のように目を細めた。「本当に?」 「炎、勝手に私の心を読まないで」綿は呆れたようにため息をついた。 彼女は感情を隠すタイプではない。もし本当に気分が悪かったら、顔にすぐ出るはずだ。今、彼女の表情は平静そのもので、特に何の感情もない。 炎は肩をすくめ、少しがっかりしたような表情を見せた。 綿は彼をからかうように言った。「もしかして、高杉が他の女性と食事してるのを見て、私が嫉妬するのを期待してたの?」 「期待し
森下が少し意外そうに立ち止まり、ドアを押さえたまま綿を見た。わずかに固まった後、軽くうなずき、そのまま手にしていたギフトボックスを持って急いで2階へと上がっていった。 綿はすぐに視線を戻したが、内心では少し不安がよぎった。 森下が輝明に自分がここにいることを知らせるのではないか? もしそうなれば、輝明が下に降りてきて自分に挨拶をしに来るかもしれない。それは避けたかった。しかし彼がキリナと一緒に来ている以上、キリナを一人にして降りてくる可能性は低い。そう思うと少し安心した。 「今週末、予定ある?」突然、炎が声をかけた。「近くのスキー場がオープンするんだけど、一緒に行かない?」 綿は顔を上げ、「スキー?」と少し意外そうに返した。「いいわね」 彼女はスキーが好きだったが、玲奈は忙しいし、雅彦は滑れない。結局一人で行く気にもなれず、しばらく足が遠のいていた。誰かと一緒なら行きたいと思える。 「じゃあ、土曜日に?」炎が確認するように言った。 綿は首を振った。「土曜日は予定があるの。日曜日にしよう」 土曜日はソウシジュエリーのイベントに出席する予定だった。あのジェイドジュエリーを見に行きたいと思っている。 「了解、日曜日にしよう」炎は素直に頷いた。 綿は彼の従順さに軽く笑いながら言った。「あなたって本当に素直ね」 「女の子を口説くなら素直でなきゃ。口説くのくせに反抗的だったり、格好つけたりする奴なんて、病気だと思わない?」 彼の言葉に綿は笑い、「確かに」と答えた。 その笑顔を見ると、炎は相手の好きな男のタイプは分かるそうだ。その時、ウェイターが一皿のデザートを持ってやって来た。「こんばんは。こちら、あるお客様から追加されたデザートです」 綿は驚きつつ礼を言い、デザートをじっと見つめた。 炎はそのデザートを見ながら「誰から?」と聞こうとしたが、綿の沈黙を見てすぐに察した。 輝明だ。 直接挨拶に来ることは避けても、こうして存在感を示さずにはいられないのだ。 綿はデザートを軽く押しのけ、手を付けることなくそのままにした。 しばらくすると、また別のウェイターがデザートを持って現れた。 「お客様、先ほどのお客様から、さらに追加のデザートです」 今度もまた
「やめておけ」炎は綿を静かに制した。 「あの男がこんなことをする資格があるの?」綿は怒りを隠さず問い詰めた。 炎は眉をひそめながら言った。「わざとだ。君も分かっているだろう。ここで怒って突っ込めば、彼の思うツボだ」 だが綿の心はどうしても収まらなかった。 なぜ彼の送ってきたデザートを食べなければならないのか?食べなかったらどうなる?帰らせてもらえない?こんなの横暴じゃないか。 「これ、全部片付けてちょうだい」綿は冷たい声でウェイターたちに命じた。 しかし、ウェイターたちはお互いを見やるだけで誰も動かなかった。 苛立ちが頂点に達した綿は、テーブルに置かれたデザートを指差し、その手を強く握り締めた。 炎が代わりに片付けようとした瞬間、綿は彼の手を制し、きっぱりと言った。「いいの。私がやる」 綿は炎の手からデザートを受け取り、それを手に持って階段へ向かった。 炎は慌てて追おうとしたが、綿は振り返りながら鋭い声で言った。「炎、止めるつもりならついてこないで」 その言葉に炎はその場で足を止めた。確かに、彼女を止めたい気持ちがあったからだ。 綿はそのまま階段を上がり、ウェイターたちが慌てて制止しようとするのを無視して、勢いよく輝明たちの個室の扉を押し開けた。 部屋には火鍋のスパイシーな香りが充満しており、輝明はキリナと向かい合って座っていた。二人の会話はやや重苦しい雰囲気を帯びており、綿の登場でさらに場の空気が張り詰めた。 デザートを手に持った綿は部屋の入り口に立ったまま、ちらりとキリナに一瞥をくれた後、輝明に目を向けた。 輝明は綿がやって来ることを予想していたが、デザートを持ってくるとは思わなかった。 彼女はここで食べるつもりなのか? 輝明はわずかに眉を上げ、淡々とした目で彼女を見つめていた。 綿は一歩一歩彼に近づき、テーブル越しに向き合った。 その目は驚くほど冷静で、何を考えているのか全く分からなかった。 キリナはその様子に不穏なものを感じたが、どう振る舞えばいいのか分からず、席に座ったまま様子をうかがっていた。 「これ、あなたが送ったの?」綿は静かだが低い声で尋ねた。その場の空気はさらに冷え込んだ。 輝明は目を細め、問いに答える前に少し間を置
綿は少し申し訳なく思いつつも、片付けはそっちでやってもらうつもりだ。 そう言い捨てると、振り返ってその場を立ち去ろうとした。 だが、背後から伸びてきた手が、彼女の手首をがっちりと掴んだ。 「!」 綿は驚いて振り返った。 輝明だった。 彼の手の力は強く、綿は思わず息を飲むほどの痛みを感じた。 輝明はキリナに視線を向け、不機嫌そうに言った。「先に帰れ。契約の話はまた後で」 キリナは気まずそうに頷いた。彼女はこの場に留まるべきではないと察し、何も言わずに席を立った。 ドアが閉まると、個室の中は二人きりになった。 綿は手首を振りほどこうと試みたが、力では到底敵わない。 彼女は心の中で確信した。 忍耐を重ねてきた輝明が、ついに怒りの爆発点に達したのだ。 だが、彼女は怯えなかった。彼が明らかに「越えてはいけない一線」を越えていることに、綿は強い反発心を抱いていた。 「綿、君は本当にいい度胸だな」 彼の声は低く冷たかったが、その裏に抑えきれない怒りが感じられた。 彼は綿を一気に自分の方に引き寄せ、片手を彼女の腰に回した。その手は驚くほど強く、彼女は否応なしに彼の胸に押し付けられた。 彼との距離はわずか数センチ。綿のつま先は自然と浮き、背伸びする形になった。 輝明の身長は高く、彼女は全体重を彼に預ける形になってしまった。 彼が一歩下がると、綿も自然と後退させられ、背中が冷たい壁にぶつかった。 孤狼のような鋭い目つき。 彼の瞳には抑えきれない怒りが渦巻いていた。 彼女の背中は壁に押し付けられ、全身が冷たく震えてい。「あなたが贈ることができるなら、私が断ることは許されないの?」「炎とあんなに楽しそうに食事していたのに、俺が贈ったデザートを一口食べるのがそんなに嫌なのか?」彼は問い詰めた。普段はどんなことにもそれほど執着しない彼だったが、この件だけは異常なほどに執着していた。 「炎とは友達。友達と食事をすることの何が問題なの?でも、高杉社長、あなたはどう?」 綿の声は冷たく鋭い。彼女は言葉を選ばず、彼を容赦なく追い詰めるように問い詰めた。 彼が一番聞きたくない言葉をあえて口にして、彼の怒りを煽るかのように。 輝明は冷笑を浮かべた
「この問題が大したことじゃないって思ってるのは、傷つけられたのがあんたじゃないからよ!」 綿は目を赤くしながら、強い口調で言い返した。 輝明は苦笑を浮かべ、一歩前に出た。彼の瞳には狂気じみた感情が揺れている。「俺が傷ついてないとでも思うのか?綿、君だけが傷つけられたって思ってるのか?俺はバカみたいに振り回されていた。俺だって、どれだけ傷ついてるか分かるか?」 彼は声を低く抑えたが、その口調には疑問と怒りが滲んでいた。 彼も被害を受けたのだ。彼の生活は本来ならもっと穏やかであるはずだった。成功したキャリア、温かい家庭――その全てが台無しにされたのだ。 重い沈黙が流れる中、綿は彼を見つめ、言葉を失っていた。 彼も傷ついている?でも、もっと傷ついているのは彼女だ! 輝明は彼女の視線を避けるように顔を伏せた。その目には、自分の行動が行き過ぎたことへの自覚が見える。 彼は眉を伏せ、綿は彼の垂れたまつげをじっと見つめていた。二人の間には緊張した空気が漂い、息遣いが重く響き渡る。 個室は静まり返り、二人の激しい心音だけが聞こえていた。窓の外に舞い落ちる雪が、妙に物悲しさを添えていた。輝明は考えずにはいられなかった。本来なら互いに支え合い、温もりを分け合うはずの二人が、三年間の結婚生活の末に離婚し、いずれ互いを忘れ去る他人同然の関係になってしまったなんて。綿はじっと彼を見つめ続けている。その視線を、彼は確かに感じ取っていた。 輝明はふと頭を上げ、綿の赤く潤んだ瞳に目が合った。 綿は唇を噛み締め、黙って彼を見つめていた。 彼はゆっくりと手を離し、壁に手のひらをつけながら深い息を吐いた。そして、彼女を見つめたまま聞いた。 「綿、俺たちはこんなにいがみ合うしかないのか?」 綿の目には冷たい光が宿っていた。「すべては、あんたのおかげよ」 輝明は首を振り、まるで全てを投げ出したかのように無力な表情を見せた。 「どうしたら君に許してもらえる?教えてくれ、俺に何をすればいい?せめて炎にするように俺にも向き合ってくれないか?」 一緒に食事をするだけでもいい。 彼が送ったものを受け取るだけでもいい。 彼をまともに見てくれるだけでもいい。 だが、綿は一切それをしない。
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか
綿は陽菜を意味ありげに一瞥した後、何も言わずに出口へ向かった。駅の外に出ると、手にプレートを持った若い男性が立っているのが目に入った。プレートには「LK研究所」と書かれている。綿は眉を上げ、その研究所がベテラン教授のものであることを確認すると、歩み寄った。若者も彼女に気づき、急いで手を振りながら笑顔を向けた。「こんにちは、私は桜井綿です」綿が自己紹介すると、彼はすぐに応じた。「お噂はかねがね伺っております!写真よりもさらにお美しいですね!」彼は照れくさそうに頭を掻いた。確かに綿は目を引く存在だった。――多くの人がいる駅の出口でも、ひときわ目立つのは彼女だった。服装は特に派手でもないのに、その独特の雰囲気が際立っていた。陽菜も美しいが、綿の隣に立つと、どこか見劣りしてしまう。まるで飾り物のようで、存在感が薄い。綿はその場の空気に何か違和感を覚えた。駅の外に出た瞬間、多くの人々が一斉に彼女をじろじろと見てきたのだ。ただ見るだけならまだしも、彼らの視線には好奇心や賞賛の色ではなく、どこか露骨で嫌らしいものが含まれていた。まるで何かを企んでいるかのような視線に、綿は不安を覚えた。若者が話しかけた。「桜井さん、お疲れ様でした。これからお昼を一緒にいかがですか?」綿は視線を戻し、微笑みながら答えた。「ご丁寧にどうも。迎えに来てくださってありがとうございます。実は、幻城に来るのは初めてで……正直、どっちが東でどっちが西かも分からなくて」若者はすぐに首を振った。「僕を山下と呼んでください」綿は軽く頷き、陽菜を指差して紹介した。「この子は私の助手の恩田陽菜です」陽菜は山下を上から下まで値踏みするように眺めた後、心の中で呟いた。――なんて地味な人なんだろう。黒い服をきっちりと着こなし、どこか老けて見えるその姿に、陽菜は興味を失ったようだった。山下はそんなことを気にする様子もなく、にこやかに手を差し出して挨拶した。「初めまして、恩田さん。幻城へようこそ」その場の空気が一瞬凍りついた。綿は陽菜をじっと見つめ、軽く咳払いして彼女に合図を送る。――握手しないの?何をボーッとしてるの?陽菜は綿の無言の圧力を感じ、不機嫌そうに手を差し出した。「どうも」形だけの握手
陽菜はスマホのメッセージを見ただけで、徹が怒っていることを察した。徹は温厚なことで有名だが、今回の文章には明らかに怒りが滲み出ていた。彼が本気で怒っているのだと分かり、陽菜はそれ以上何も言わず、ただ「ごめんなさい」とだけ返信しておとなしく座り直した。一方、綿はグランクラスの静けさを楽しんでいた。彼女はスマホを取り出してツイッターを開いた。今日は「クインナイト」の開催日だ。ツイッターには今夜のイベントに出席する予定のスターたちのリストがすでに掲載されている。玲奈は海外にいるため、今回のイベントには参加していない。その中で恵那の名前はひときわ目立っていた。――クインナイトに加え、今日はクリスマス。特別な一日になるだろう。綿はバッグから紙とペンを取り出し、ふとジュエリーデザインのアイデアが浮かんできた。――彼女にとってクリスマスは一番好きなイベントだ。けれどここ数年、ちゃんとお祝いした記憶がない。玲奈が早朝にわざわざ電話をかけてきて「メリークリスマス」と言ってくれたのは、彼女が綿のことを本当に気にかけてくれている証拠だった。綿は顔を手のひらに乗せ、窓の外を流れる景色を眺めた。――クリスマスとジュエリーが融合したら、どんな化学反応が生まれるのだろうか?彼女はノートにペンを走らせ、思いつくままに線を引いていった。その時、スマホに新しいメッセージが届いた。恵那:「どう?きれいでしょ?」続いて恵那から、カメラマンが撮影した大量の写真が送られてきた。綿は目を細めた。写真の中で、「雪の涙」は数多くのクローズアップショットが撮られており、その美しさが際立っている。恵那は純白のドレスを身にまとい、小さな羽飾りを背につけていた。まるで天から舞い降りた雪の妖精のようで、ジュエリーとの組み合わせが絶妙だった。綿:「きれいだね」恵那:「当然でしょ!」綿:「どうやら今日は、誰もあなたの輝きを超えられないみたいね」恵那:「森川玲奈がいないから、私にチャンスが回ってきたのよ!」綿は思わず笑みを浮かべた。――玲奈は本当に恐ろしい存在だ。どんなイベントに出席しても、彼女がそこにいるだけで視線を集めてしまう。綿はスマホをしまい、再び窓の外を眺めた。この静かな朝を、彼女はとても心地よく感じて
綿は顔を洗い、簡単にメイクを整えた。盛晴が用意してくれた朝食の香りが漂う中、彼女はバッグを手に階段を下りてきた。今日の綿は黒と白をベイスとしたセットアップに、上からコートを羽織っている。髪は上品にまとめ、淡いメイクに赤いリップが映える。どこか優雅で、まるで清らかな白い薔薇のようだ。しかし、その美しさには棘があり、誰も近寄ることを許さないような雰囲気を纏っている。昨夜、天河は酒を飲みすぎたせいで、まだ目を覚ましていなかった。それでも庭に飾られたクリスマスツリーはすでに見事に装飾され、煌めいている。綿はその様子を見て微笑んだ。――残念ながら、今日は出張だ。夜に帰ってきてから、このツリーを楽しもう。「ママ、今日出張に行ってくる。帰りは夜の12時くらいかな」綿はキッチンに向かって声をかけた。「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい。何かあったらすぐに電話して」盛晴が答えた。綿は小さく返事をして、パンをひとつ袋に入れると、そのまま家を出た。盛晴が玄関に出てきた時には、綿の車はすでに遠ざかっていった。……新幹線駅。綿は時計を確認し、ふと顔を上げると、遅れて陽菜がやってくるのが見えた。陽菜は派手な服装をしており、短いスカートに白いフェイクファーのショールを羽織っている。綿は無言で見つめた。――出張だというのに、まるでファッションショーにでも行くかのようだ。こんな格好で仕事ができるのか?「初めての出張?」綿は控えめに尋ねた。陽菜は顔を上げて答えた。「違うよ」「じゃあ、前回もこんな服装だったの?」陽菜はにっこり笑った。「どういう意味?今どき、他人の服装に口出しするつもり?私たち、同じ女性でしょ?さすがに、それはないんじゃない?」綿は呆れたように目を伏せた。「そう。余計なこと言ったわ」綿は微笑みながら答えた。――こう言われてしまっては、それ以上何も言えない。陽菜は軽く鼻を鳴らした。――そもそも、余計な口出しをする方が悪い。ちょうどその時、乗車券のチェックが始まった。綿は今回、必要最低限の荷物しか持っていない。メイク道具と柏花草関連の資料を詰めた少し大きめのバッグだけだ。首枕を持って行こうか迷ったが、結局かさばるのでやめた。本来なら、こういっ
綿は沈黙した。母が言葉にしなかった「その道」が何を指しているのか、彼女にはわかっていた――それは「死」だ。「まあ、それでいいんじゃない?外でまた悪事を働くよりマシでしょ。あんなに心が歪んだ子、少し苦しんで当然よ」盛晴は嬌について語るとき、綿以上に感情をあらわにしていた。――もし嬌がいなければ、娘の結婚生活がこんなにめちゃくちゃになることもなかったはず。これこそ、恩を仇で返されたということだ。綿は窓の外に目を向けた。煌めく街の夜景が、彼女の胸中の空虚さとは対照的だった。後部座席では、天河が半分眠りながら、彼女の名前を呟いていた。「綿ちゃん……」「綿ちゃん、パパの言うことを聞いて……」「やめろ、やめろ……」その声を聞きながら、盛晴は深いため息をついた。「お父さんがこの人生で一番心配しているのは、あなただよ。綿ちゃん、これ以上お父さんを悲しませることはやめなさい」綿は目を上げ、かつて父親と喧嘩をしたあの日々を思い出した。――父はこう言った。「お前がどうしても高杉輝明と一緒になりたいなら、この家には二度と帰ってくるな!」あの時、彼女は振り返ることもなく家を出た。三年間、一度も帰らなかった。その後、遠くから父の姿をそっと見守ることしかできなかった。綿は天河の肩に頭を寄せたまま目を閉じ、一粒の涙が頬を伝った。――自分がどれほど親不孝だったか、彼女にはわかっている。……あっという間にクリスマスが訪れた。朝、綿がまだ眠っていると、スマホの着信音で目を覚ました。ベッドで寝返りを打ち、スマホを手に取ると、画面には玲奈の名前が表示されていた。電話に出ると、玲奈の弾むような声が響いてきた。「メリークリスマス、ベイビー!!」綿は大きなあくびをしながら答えた。「そっちは今何時?」「夜の10時よ!こっちは大盛り上がり中!」綿は目を開け、軽くため息をついた。「私はまだ寝起きだよ。こっちは朝の6時」「知らないわよ!私は楽しむからね!綿ちゃん、メリークリスマス!ずっとあなたを愛してるわ!」そう言い残して、電話は切れた。綿は呆然としながら、スマホを見つめていた。ゆっくりと起き上がり、両手で頭を抱えた。その時、また新しいメッセージが届いた。送信者は徹だった。徹
「まあ、幸いなことに、今のところ復縁するつもりはないけどね」綿は肩をすくめながらさらりと言った。恵那はグラスに口をつけ、微笑みを浮かべた。その表情は、まるで未来を予測しているかのようだった。「ここまで来るのに本当に大変だったんだよ。一度あの泥沼から抜け出したのに、またすぐに戻るなんてあり得ないでしょ」綿は食事をしながら、どこか気だるげな声で続けた。「分かってるよ。お姉ちゃんはすごく冷静だ。ただ、ときどきボケるだけ」恵那は笑いながら返した。「いいえ、私はただ、輝明に関してはよくボケるだけなの」綿は正直に認めた。かつて自分がいかに恋愛ボケだったかを。――だから、傷つけられたのも自業自得。でも、今は違う。――今の彼女にとって、自分自身と家族以上に大事なものなんてない。20歳の綿は、狂ったように輝明との結婚を望んだ。21歳の綿は、彼のために命さえ捧げる覚悟だった。けれど、もうすぐ25歳になる綿は、もうそんなことはしたくない。「次はどんなイベントに参加するの?」話題を変えたくて、綿は軽く尋ねた。「『クインナイト』よ」恵那が答えた。「さっき電話で、ずっと誰かにライバル視されてるって言ってたけど、どういうこと?助けが必要なら言って」綿は眉を上げ、少し真剣な口調になった。その言葉に、恵那は思わず笑い出した。綿の言い方が、まるで「姉ちゃんがその相手をやっつけてやろうか」とでも言っているように聞こえたからだ。「同じタイプの女優で、最近ネットドラマで大ヒットした人がいてさ。その勢いで私を押さえつけようとしてるの。正直、面倒くさい」恵那はため息をつきながら続けた。「でも、大丈夫。今は『雪の涙』があるからね。『クインナイト』の話題は、絶対に私が持っていく!」「それは楽しみだね。トレンドで恵那の名前を見るのが待ち遠しい」綿は軽く微笑んだ。「ありがとう、お姉ちゃん」恵那は頷き、感謝を伝えた。「いいのよ。家族だから」綿は恵那の肩を軽く叩いた。彼女は恵那を完全に自分の妹として接してきた。ただ、もっとこういう温かい瞬間が増えればいいのにと願っている。夕食後、時間はすでに夜10時を過ぎていた。天河は上機嫌で天揚と何杯か飲み交わした後、車に乗り込んだ。車が走り
天揚もすぐに状況を理解したようだった。――やっぱり輝明が話を通したんだな。輝明の言葉は、まるで古代の皇帝のような絶対的な力を持っている。彼と友好関係を築きたい人間は山ほどいるだろう。「桜井グループはやっぱり権威があるよな。今日の入札に参加していた森川グループなんて、少し頼りない感じだった」天河は満足げに胸を張り、成功を自分たちの実力だと信じて疑っていなかった。天揚は微笑みながら黙っていた。誰もその場で真実を指摘する者はいなかった。「さあ、今日はいいこと尽くしだ!みんなで乾杯しよう!」天河が立ち上がり、楽しそうに提案した。綿も茶を手に立ち上がった。昨夜に飲みすぎたせいで、今日は酒を飲む気分ではなかった。「もうすぐ年末だし、無事に新年を迎えられるよう願おう!」天揚も軽く挨拶を述べた。全員が笑顔で杯を上げ、一口で飲み干した。その後も賑やかな雰囲気の中、食事が進んでいった。食事中、綿のスマホが何度も鳴った。メッセージの中に、輝明からのものが二通あった。輝明:「家にいると退屈だ」輝明:「綿」綿はその名前をじっと見つめ、少しの間動きを止めた。彼女の頭に、2年前のある記憶が蘇った。その日は輝明の誕生日だった。彼の誕生日を祝ってあげたかった。でも――彼は、嬌のもとへ行った。綿はそのとき、ただ二通のメッセージを彼に送っただけだった。「輝明」「誕生日おめでとう」しかし彼からの返信はなかった。彼女が電話をかけると、出たのは嬌だった。嬌が発した最初の言葉を、彼女は今でも鮮明に覚えている。「明くんの誕生日を祝ってるところだけど、綿、何か用?」その時の気持ちは、今思い出しても滑稽だと思う。――自分は彼の妻だった。なのに、妻が夫に電話するのに、他人の許可を得る必要があるなんて。綿は静かにスマホを閉じた。しかし、またもや画面が点灯し、輝明からのメッセージが表示された。輝明:「綿、俺は少しずつ君になっている」――綿、俺は少しずつ君になっている。彼女はそのメッセージを見つめ、返事をどうすればいいか分からなかった。「また彼から?」耳元で恵那の声が聞こえた。綿が顔を上げると、恵那が彼女のスマホ画面を覗き込んでいた。「うん」綿は軽く答えた。「ただ
綿はスマホを握りしめながら、再び輝明にメッセージを送った。綿「幻城、予定はまだ未定」輝明「幻城?一人で?」綿「多分、助手と一緒」輝明「幻城は危険だ」綿「もう子供じゃないから大丈夫」輝明「俺も一緒に行けるよ」そのメッセージを見て、綿は目を細めた。彼女は一口水を飲み、ゆっくりと返信した。綿「高杉社長には自分の仕事がないの?」輝明「綿、こういうチャンスは大事にしたいんだ」綿「無理。私は一人で行くから」輝明「俺は研究院の投資者だよ。不便なんてあり得ない。スケジュールが決まったら教えてくれ。一緒に行く」綿は言葉を詰まらせた。――やっぱり、研究院に投資した肩書を、こういう時に容赦なく使ってくるんだ。彼女はもう返信しなかった。その頃、父親と伯父が食事の準備が整ったと呼びに来た。ダイニングには、桜井家の全員が揃っていた。祖父は祖母の袖を直してあげ、箸を渡した。最近の祖母は調子が良く、祖父の顔にも笑みが戻っていた。恵那は今日、特に上機嫌だった。何と言っても「雪の涙」を手に入れたからだ。彼女のツイッターのコメント欄やDMはすでに大騒ぎとなっており、「雪の涙」のおかげで彼女の名前は一気にトレンドのトップに躍り出ていた。しかもツイート数もかなり多く、注目を集めていた。食事中、天揚は会社からのメッセージを受け取った。内容は恵那がトレンドに入ったというものだった。最初、彼はまた恵那がわがままを言ったか何かで問題を起こしたのだと思い、怒る準備をしていた。場合によっては会社の面倒を見て後始末をしなければならないと覚悟していたのだ。しかしトレンドを開いてみると、そこには意外にもポジティブな話題が載っていた。「どこから手に入れたんだ、この『雪の涙』?」天揚は驚きを隠せなかった。「お姉ちゃんがくれたの」恵那は食事をしながらさらりと答えた。天揚は驚きの目で綿を見た。――綿?綿は軽く頷いた。天揚は何か言いたそうに口を開いたが、考え直してそのまま閉じた。そして最終的に親指を立てた。すごい。――「バタフライ」の復帰作が発表されて以来、会社では誰もが「雪の涙」を手に入れようと躍起になっていた。――まさか綿が手に入れるとは。しかも。「お前、それを玲奈に渡さなかったのか?」天揚は感心
綿はツイッターを見て、口を尖らせながらつぶやいた。「ディスるのはもう終わり?」「それとこれとは別!」恵那はそう言いながらも、礼儀正しく感謝の意を伝えた。「とにかく、ありがとう。ちゃんと大事に保管するよ。レッドカーペットが終わったら、ちゃんと返す」「返す必要はないよ。必要になったら展示用に貸してくれればいいだけ。普段は使って構わない」綿はソファに腰を下ろし、無造作に柿の種をつまみ始めた。恵那は目をぱちぱちさせた。「お姉ちゃん。これ、『バタフライ』の『雪の涙』だよ?なんでそんな軽い感じで言えるの?」「何か問題でも?」「こんな貴重なジュエリー、普段からつけるなんてあり得ないでしょ!壊したり、無くしたりしたらどうするのよ!?」恵那は持ち帰ったとしても、きっと大事にしまい込むつもりだった。綿はしばらく黙り込んだ後、軽く肩をすくめた。「好きにすれば」それだけ言うと、再び柿の種を手に取り、スマホに目を落とした。……キッチンでは、天揚と天河が何か話しながら笑い合っている。「そういえば、お祖母ちゃんはどこにいるの?」綿は立ち上がりながら尋ねた。「二階で休んでるよ。さっき体調が悪いって言ってたけど、食事の時には降りてくるって」恵那が答えた。綿は二階に上がり、祖母の様子を見に行くことにした。扉をノックしようとしたその時、中から祖父母の会話が聞こえてきた。山助「痛い時はちゃんと言わなきゃ。無理して我慢するな」千恵子「だから痛くないって言ってるでしょ!それに、子供たちの前では黙ってて。心配させたくないから」山助「はあ……お前は本当に、人生を全部捧げてきたな」千恵子「誰かが捧げなきゃいけないなら、それが私でいいじゃない」山助「お前、そんな状態でも他人のことばかり考えて……馬鹿だな」綿は黙って視線を落とした。中が静かになったのを確認し、ノックした。「どうぞ」祖父の山助が声をかけた。綿はドアを開け、明るい笑顔を浮かべて部屋に入った。「おばあちゃん、おじいちゃん」「綿ちゃんか」山助は微笑んで、手招きした。「さあ、座りなさい」「立たせときな!」千恵子が、綿が腰を下ろそうとしたところで声を上げた。綿は動きを止め、驚いたように尋ねた。「おばあちゃん、私何か悪いことした?」「よく言うわ