綿は口角を上げ、静かに、そして確かに落ち着きを取り戻していた。この銃声……間違いない、桜井輝のものだった。「クソッ、やりやがって!」宏は素早く立ち上がり、綿のそばへと駆け寄った。彼の手が綿の腕を掴んだ。だが、綿はちょうど背後の縄を解き終わっていた。彼女は宏を振り払うと、椅子を振り上げ、勢いよく宏の背中に叩きつけた。宏は一瞬、何が起こったのかわからず呆然とした。綿が縄を解いているとは、思いもよらなかったのだ。綿は宏にじりじりと迫った。手首を軽く回し、体がまだぎこちないことを感じながらも、微笑みを浮かべた。「ゲームの始まりも終わりも、今は私が決める番よ」綿の声は穏やかだったが、冷たく響いた。宏は慌てた様子もなく、ピエロの仮面の下で顔を歪めた。三秒後、綿の足が止まった。宏はゆっくりと手を上げた。その瞬間、綿の身に装着されていた赤いタイマー爆弾が点滅を始めた。「綿、もう一歩でも近づいたら、吹っ飛ぶぞ」宏はニヤリと笑い、一歩踏み出した。「俺と一緒に死にたかったら、素直に言えばいいのに……何をこんな面倒なことをする?」綿は右手を握りしめた。「相変わらず、気持ち悪いわね」彼女の瞳に怒りが宿った。脚を触られたあの感覚が脳裏に蘇り、綿はついに我慢の限界に達した。彼女は一歩踏み出し、宏の腕をつかんだ。宏は腕を高く上げ、再び赤いボタンに指を伸ばした。「綿!」彼は叫んだ。「一緒に死ぬなら、それも悪くないわ。誰が怖がるものですか」綿は微笑みながら答えた。本当に怖がっているのは、きっと彼の方だった。倉庫内は混乱に満ちていた。宏の部下たちと、外から突入してきた者たちとの激しい交戦が続いていた。宏と綿は、倉庫の片隅に追い詰められた。一台のカメラが、その様子を鮮明に映し出していた。ライブ配信の画面には、二人の姿だけが映っていた。綿の身に取り付けられた爆弾は、赤い光を激しく点滅させ、緊張感を煽った。宏は後ずさりし、指が震え、何度もボタンに触れかけた。視聴者たちは息を呑んで画面を見つめた。「動くな!お願いだから!」「刺激しないで!あいつは狂ってる!!」「なんて恐ろしい……どうしてここまで憎まれることに?」「神様、どうか櫻井さんを助けてください!この悪党は滅びろ!
宏は挑発され、その威厳を踏みにじられた。彼は怒りに任せ、振り向きざまに嬌の頬を平手打ちした。パシン——鋭い音が倉庫内に響き渡った。その一撃で、ライブ配信のコメント欄は一気に炎上した。ネットユーザーたちの書き込み速度は一層激しくなった。この様子を見た陸川夫人は、心臓を鷲掴みにされたような苦しみを覚えた。彼女は育恒の腕を握りしめ、泣き続けた。「私に手を挙げたわね?あんた、気でも狂ったの!どうしてそんなことができるの!」嬌は宏に向かって叫んだ。だが、宏は何も答えず、冷酷な目で彼女を見下ろした。そして次の瞬間——再び、容赦ない平手打ちが嬌の顔を襲った。宏にとって、嬌など最初から「共犯」などではなかった。ただの……身代わりだった。二発の打撃を受け、嬌の顔は真っ赤に腫れ、涙が頬を伝って流れた。歯を食いしばる音が、かすかに聞こえるほどだった。綿は全てを黙って見守っていた。誘拐されているというのに、まるで他人事のようだった。彼の視線は綿に向けられた。綿の目は澄み切っていて、一点の恐怖もなかった。それが宏には、耐え難かった。彼は手を伸ばし、綿の顎を掴んだ。綿は顔を上げ、微笑んだ。「あなたのゲーム、もうすぐ終わるわね」「俺を挑発してるのか?」「その台詞、何回目?語彙が乏しいわね」綿は悠然と答えた。彼女には確信があった。この茶番もうすぐ終わる。清墨たちが、もうすぐここに到達する。彼らが動けば、すべてが終わる。宏は歯ぎしりした。この茶番を最後まで楽しめないことが、彼には耐えられなかった。楽しくないのだ!「若様、外に人が来ています。お会いしたいそうです」部下が小声で報告してきた。だが宏は、もはやそれどころではなかった。男は続けた。「桜井さんの母親だそうです。大金を持って来て、釈放を求めています」母親……綿の心がわずかに震えた。父と母を巻き込んでしまったのだ。彼女はそっと天井のテレビを見上げた。これほど大事になれば、両親どころか、世界中に知れ渡ってしまっただろう。またしても、心配をかけてしまった……その時だった。倉庫の窓ガラスが、突然破壊された。バリン!鋭い音が響き、破片が四方に飛び散った。人々は驚き、一斉に振り向いた。続けざまに、他の
宏を刺激さえしなければ、リモコンのボタンを押させなければ、それでいい。清墨は低く言った。「外の連中は全て片付けた。ただ、段田宏のような用心深い男なら、すぐに侵入に気付くだろう。高杉さん、今こそ警察に交渉を始めさせるべきだ。その間に、俺たちが内側へ忍び込む」輝明は眉をひそめた。「ここ、電波が入らない」彼が中に入った瞬間、スマホの電波は消えていた。「今は大丈夫」清墨は微笑んだ。彼らはそれぞれ独自の通信機を持っていた。だからこそ、康史からの指示も受け取れたのだった。輝明が電話をかけようとしたその時だった。耳元のイヤホンから康史の声が響いた。「外に動きあり、注意しろ」夜と九歌はすぐに門の左右へ潜んだ。巡回していた敵が入ってきた瞬間、二人は同時に動き、素早くナイフで片を付けた。夜は手首を軽く振り、イヤホンをトントンと叩いた。「片付いた」「麻里佳、早く夜たちと合流して!」康史はドローンで状況を確認しながら指示した。麻里佳は一人で別行動していた。「あの二人の場所を見つけた」麻里佳は冷静に報告した。「了解、今は一旦合流を優先して!」康史は再び強く促した。麻里佳は頷き、方向を変えた。だがその直後、前方から巡回小隊がやって来た。麻里佳は一瞬、動揺した。……やばい、隠れる場所がない!焦った麻里佳の耳に、別方向から足音が聞こえた。巡回小隊はそちらへ気を取られ、麻里佳には逃げ道が開けた。「夜が引きつけた!早く合流しろ!」康史が叫んだ。「わかった!」麻里佳はすぐさま駆け出した。少しでもミスをして、行動に支障が出るのが怖かったのだ。第二防衛線に辿り着いた時、彼女は輝明の姿を見た。これが、彼女が初めて輝明を目にした瞬間だった。テレビで見たときより、ずっとハンサムで魅力的だった。その醸し出す雰囲気も、普通の人とはまるで違う。――だからこそ、ボスがあれほど彼に惚れ込んだのも無理はない。だが、麻里佳にとって、彼はただ外見が良いだけのクズ男だった。ほどなくして、夜も戻ってきた。倉庫の扉が閉じられ、外との隔絶が完了した。康史は周囲の電波を全て遮断した。宏はこの状況を映像で確認できず、きっと焦っているはずだ。輝明とも連絡が取れない、脅すこともできない――それもまた
清墨は康史の到着を待ちきれなかった。彼は仲間を率いて、先に倉庫内へ潜入することに決めた。耳元では康史が必死に警告していた。「焦るな、焦りは禁物だ!」清墨には、すでに明確な作戦があった。「まずは高杉さんの支援に向かう」彼は低く指示を出した。今、輝明は第二防衛線に閉じ込められている。誰よりも焦ってるはずだ。あのテレビを通して綿の動きを見せられるなど、生殺しも同然だった。宏は、さすが裏社会で生き抜いてきた男だった。どうすれば人を焦らせ、どうすれば絶望させられるか、熟知していた。綿と嬌が一緒に縛られている。――それが、どれだけ人々の興味を煽る構図か、彼らはよくわかっていた。もし誘拐されたのが綿一人だけなら、世間の反応はただの憤りで終わったかもしれない。だが、そこに嬌も加わったとなれば話は別だ。どちらも、かつて輝明と関係のあった女たち――人々は怒りながらも、皮肉な好奇心を抑えきれないだろう。ただの事件が、どこか面白くなってしまうのだ。宏は輝明に話しかけた。「高杉さん、ちょっと二つ、質問してもいいか?」輝明は冷たい顔で、周囲を取り囲む男たちを睨んだ。彼らは全員、屈強な男たちだった。戦えば勝てるかもしれない。だが……彼らのポケットには銃がある。無謀な行動はできなかった。これらの男たちは命知らずだった。輝明には、まだ守るべき命があった。「綿と嬌が同時に水に落ちたら、どちらを救う?」宏は目を細め、笑いながら尋ねた。くだらない話題だった。だが、輝明は即座に答えた。「綿だ」その言葉を聞いた瞬間、嬌の心はぎゅっと締め付けられた。彼女は愚かだった。一瞬だけ、輝明が自分の名を呼ぶことを期待してしまったのだ。かつて、彼は確かに自分に優しかった。だが、その優しさは、もう跡形もなく消え失せていた。悪いのは、彼女だった。不誠実だったのも、大事にしなかったのも――あの頃、輝明が与えてくれた温もりを、ちゃんと受け止めなかったのは、彼女のほうだった。けれど、今や二人の関係がこんなふうになってしまったのは、本当に、彼女だけが悪いのだろうか?「じゃあ、もう一つ質問だ」宏はリモコンを手に弄びながら、続けた。「綿のためなら、なんでもするか?」輝明は眉をひそめた。この狂った男が、何をしでかすか分
もちろん、秀美には天揚の言葉の真意までは伝わらなかった。天揚もすぐに気付き、盛晴に向かって申し訳なさそうな顔をした。盛晴は、心底驚いていた。嬌が……実の娘ではない?綿も……この二人の子供たちは、いったい……盛晴は車のドアを押し開け、車から降りた。降りた瞬間、陸川夫人の嗚咽が耳に飛び込んできた。「桜井夫人……」陸川夫人はやっぱり打算的なところがある。かつて陸川家が栄華を極めた時、彼女は誰にも媚びず、誇り高かった。それが今、桜井夫人と呼びかけてきた。まるで夢でも見ているかのようだった。「話なら座って話しなさい、何をしているの……」盛晴は涙声で言った。娘が誘拐され、親としては心が気が気ではなかった。「どうか……うちの嬌ちゃんを……」陸川夫人は懇願するように泣き叫んだ。盛晴は静かに答えた。「警察はすでに動いている。綿が無事なら、陸川さんにも危害は及ばないわ。あなたが私に跪いたところで、意味はない」陸川夫人は必死に首を振った。「桜井夫人……うちの嬌ちゃんが悪かった!」彼女は泣きながら叫んだ。「彼女は本当に、親不孝な娘で……」盛晴はまだ知らなかった。綿が誘拐されたのは、嬌が宏と共謀したからだということを。「あなた、何を言っているの?」盛晴は涙を拭いながら言った。「嬌は、以前の過ちに対してもう十分に償っている。今や、彼女と綿は関係ないわ」盛晴は心の中で焦っていた。正直、立ち止まっている場合ではなかった。すぐにでも倉庫へ向かい、娘を救いたかった。なぜなら、先ほど誘拐犯から電話があり、多額の現金を持って現場に来るように言われたからだ。天揚が電話をかけ続けていたのも、交渉と現金の手配を進めていたためだった。一秒でも遅れれば、娘に何かあってしまう……そんな恐怖が盛晴を追い立てた。その時だった。易が口を開いた。「嬌は、誘拐事件に加担していた」盛晴は目を見開いた。え?秀美も激昂した。「陸川さん、あなた方は一体どういう教育をしてきたの?どれだけ深い恨みがあるっていうの?なんでここまでして、綿ちゃんを標的にするのよ!綿ちゃんが生かしてくれているだけでも、ありがたく思いなさい!あなた方の娘は、明くんまでも騙して弄んだ!これ以上、何を望むのよ!神様も
これ以上、綿に屈辱を味わわせるわけにはいかなかった。もし守れなければ、自分たちの存在意義すら消えてしまう。清墨は車を飛び降りると、ちょうど遠くからパトカーのサイレンが響いてきた。これは絶好の機会だった。たとえ中で失敗しても、外には警察が待機している。数人は倉庫を回り込み、裏手へ向かった。裏手は、綿が拘束されている倉庫に一番近い場所だった。その頃、桜井家の別荘前には記者たちが集まり、通路を塞ぐようにしていた。一人の記者がレポートしていた。「ただいま、高杉家の大奥さん、高杉さんご夫妻が桜井家に到着しました」「桜井家からは、綿さん誘拐について公式なコメントは出ていません。ただ、桜井天河さんが警察署へ向かい、まだ戻っていないとのことです」記者がそう言い終えたところで、桜井家の門が開いた。秀美は盛晴を支え、盛晴はマスクをつけて顔色が悪かった。天揚は後ろから電話をかけながら出てきた。桜井家の老人たちはまだ姿を見せず、美香も出てこなかった。記者たちは取材しようと殺到したが、門に阻まれて中には入れず、天揚が車を出して周秀雅と盛晴を連れて行く様子を、ただ見守るしかなかった。やがて門が開き、車がゆっくりと動き出す。窓越しに見える車内の顔は、みな重く沈んでいて、どこか悲しげだった。盛晴は涙をこぼし、秀美が必死に慰めていた。天揚は電話を続けていた。窓の外から、記者の声がかすかに聞こえた。「桜井夫人、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」「桜井さんがこれまでに何かトラブルに巻き込まれたことはありますか?不審な点など……」その質問に、盛晴は顔を背けた。秀美はため息をつき、盛晴の肩をそっと叩いた。「まったく、あの記者たちは……人が一番苦しんでるときに質問攻めしてくる!こっちは気が気じゃないのに、取材?取材って、そんなもんするなっての!」秀美はぶつぶつ言いながらも、盛晴の表情を注意深く伺っていた。「当然、答えるわけないわ。無駄なことばかり聞いて!」盛晴は鼻をすすり、涙を拭った。その様子はとても控えめで、痛々しいほどだった。盛晴が言葉を発する前に、天揚が急ブレーキを踏んだ。車内は大きく揺れ、秀美と盛晴は体勢を崩した。「どうした?」秀美が驚いて尋ねた。三人は一斉に前を向いた。前方に