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泥に汚れた背中

مؤلف: 吟色
last update تاريخ النشر: 2025-08-25 23:33:21

講堂はざわめきに飲まれていた。

女子たちの視線は氷のように冷たく、嫉妬と軽蔑を滲ませながら舞台上のレナータを射抜く。

男子たちは口元を隠し、面白がる囁きを次々と落とした。

「女王様、自分で冠落としただけよ」

「……でも、あの鏡は本当なの?」

「いや、幻影魔法の悪戯じゃないのか」

「沈黙は肯定ってやつでしょ」

言葉は次々と飛び交い、ざわめきは渦を巻く。

笑い、嘲り、疑念。そのすべてが一人の少女を飲み込もうとしていた。

舞台上に座るレナータは、紅の瞳を伏せたまま黙している。

ほんの一瞬、迷いが走った。けれど答えを出すのに時間はいらなかった。

そのとき、濃い栗色の髪が揺れた。

氷のような灰色の瞳が、舞台を射抜く。

エリシア・ロイアナ──女王の隣を歩いてきた少女。

「あんなの嘘に決まってるわ。あなたが庶民なんかと関わるはずないわよね?」

低い声はレナータの耳元にだけ届いた。

確信に満ちたその響きに、レナータは一拍置き、かすかに微笑んで小さく答える。

「……ええ」

その短い返答は、講堂全体には届かない。けれどエリシアには十分だった。

周囲のざわめきはさらに熱を帯びる。

「女性様には幻滅だわ」

「庶民程度に触れられるのか、俺もお願いしたいぜ」

失笑と嘲りが波のように押し寄せる。

レナータは沈黙を貫いた。

胸の奥が焼ける。喉が詰まる。

笑い声が突き刺さるたびに、自分が切り刻まれていくようだった。

それでも女王は何も言わない。──なら、自分が言うしかない。

トマスは立ち上がり、講堂に響く声で叫んだ。

「あの鏡は嘘だ!俺とレナータが、そんなはずがない!」

一瞬の静寂。だがすぐに嘲笑が爆ぜた。

「庶民が何を必死に!」

「夢見すぎだろ!」

ただ一人、マリナだけが真剣な眼差しを送っていた。

その瞳には心配と痛みが宿っていたが──トマスには気づく余裕はない。

レナータはゆるやかに腰を上げた。

紅の瞳で全員を見渡し、ふっと微笑む。

「噂話なんて、好きに楽しめばいいじゃない」

余裕そのものの声。ほんの一瞬の揺らぎは消え、学院の太陽を取り戻していた。

だが、その余裕が、トマスの孤立を決定づけた。

最後にエリシアが冷たく告げる。

「レナータを守るためにも──庶民には身の程をわきまえてもらわないとね」

その一言で、視線は完全にトマスへ。

貴族たちは頷き合い、彼に冷笑を向ける。

マリナだけが小さく「やめてよ……」と呟いたが、その声は誰の耳にも届かなかった。

廊下にはまだ講堂での噂が尾を引いていた。

囁きは壁に染み込み、歩くたびに背後から追ってくるようだ。

「……庶民に少し授業をしてあげなさい。調子に乗らないようにね」

エリシアが取り巻きの下級貴族に目をやり、低く囁いた。

その灰色の瞳は冷たく、命じられた側は楽しげに口角を上げる。

次の瞬間、トマスの腕に抱えられていた本が風に煽られ、床に散乱した。

「わっ、手元が狂った!」

とぼけた声。周囲からくすくすと笑いが漏れる。

トマスは黙って膝をつき、本を拾い集めた。

けれど最後の一冊に手を伸ばしたとき、床に水魔法が散らされ、紙が濡れていく。

「おや、拭き掃除の手間が省けたな」

悪意に満ちた声に、取り巻きの笑いが重なる。

「トマス、大丈夫!?」

駆け寄ってきたマリナが本を掴もうとする。

けれどトマスは静かに首を振った。

「……大丈夫だ」

濡れた本を抱え、彼は立ち上がる。

その瞳には悔しさも怒りも映らない。ただ黙して歩き出すだけだった。

マリナは唇を噛みしめる。

背後では、同じ庶民の仲間たちが視線を向けていた。

だが誰ひとり声をかけない。沈黙だけが、彼の孤立を残酷に浮かび上がらせていた。

錬金実習の教室は、薬草の匂いと金属の響きで満ちていた。

各々が鍋をかき混ぜ、回復薬の基礎調合をしている。失敗すれば逆に毒にもなる危険な作業だった。

トマスもまた、真剣な眼差しで鍋を覗き込んでいた。

包帯で補強した杖を傍らに置き、慎重に攪拌を繰り返す。

周囲が思わず手を止めるほど正確な手つき。けれど本人は気づかぬふりで、黙々と鍋をかき混ぜ続けた。

だが、背後で小さな囁き声が走る。

「……今だ」

棚に置かれた触媒の瓶が、ふわりと浮かび上がる。

誰にも気づかれぬほど小さな魔法で導かれ、その中身が音もなくトマスの鍋へと流し込まれた。

──ボンッ!

鍋が爆ぜ、熱湯と炎が弾け飛ぶ。

トマスの左腕に熱が走り、赤くただれた跡が瞬時に浮かび上がった。

「やっぱり庶民は粗雑だな」

「基礎すらまともにできないのか」

嘲笑が教室を包み、笑い混じりの失笑が重なる。

トマスは歯を食いしばり、声ひとつ漏らさず鍋を押さえた。

教師が険しい顔で近づき、火傷を見て一瞬だけ表情を曇らせる。

だが次の瞬間には平然とした声に戻った。

「……次からは気をつけろ、トマス」

その視線は、鍋に異物を投げ入れた貴族生徒には一切向けられず、トマスだけを射抜いていた。

授業は何事もなかったかのように続けられる。

庇う声は、誰からも上がらない。

「先生!これはトマスのせいじゃ──!」

マリナが駆け寄り、彼の火傷に手を伸ばす。

だが教師は手を振って遮る。

「静かにしなさい。授業を妨げるな」

マリナは悔しそうに唇を噛み締めた。

灰色の視線が突き刺さっても、誰も彼を守らない。

「……大丈夫だ」

トマスは低く言い、マリナの手を振り払った。

痛みを押し殺し、背筋を伸ばしたままノートを取り始める。

遠く、レナータがその姿を見ていた。

紅の瞳にほんの一瞬、動揺が揺らめく。

けれどすぐに表情を整え、何事もなかったかのように筆記を続けた。

まるで──最初から何も見なかったかのように。

夜の石畳は冷え、湿った風が寮へと続く道を撫でていた。

トマスは無言のまま歩いていた。濡れた本を抱えた腕には火傷の痛みがまだ残っている。

その瞬間、足元がざわりと揺れた。

──バシャッ。

泥水が跳ね上がり、制服の裾から胸元にまで飛び散る。

「……」

暗がりから、押し殺したような笑い声がいくつも重なる。姿は見えない。

挑発する必要もなく、庶民を嘲るだけで彼らは満足しているのだ。

トマスは立ち止まらない。泥を払うこともなく、そのまま歩き続けた。

濡れた靴が石畳を鳴らし、闇に小さな音を刻む。

「トマス!」

背後から駆けてきた声。マリナだった。

彼女は苦しげに唇を噛みながら、泥に汚れた背中へ言葉を投げる。

「……少しは怒ってよ……」

けれどトマスは振り返らない。低い声だけが夜気を切り裂いた。

「怒ったら、あの人がもっと笑われるだけだ」

泥水が制服に冷たく張り付き、皮膚の奥を焼くように突き刺さる。

恥辱も痛みも、怒りもあった。だが──それでいい。

自分が悪者になれば、矢面に立てば、彼女は笑われずに済む。

それでも、少年の目は死んでいなかった。

その瞳には、確かな決意が宿っていた。

マリナは足を止め、ただ立ち尽くす。

泥に汚れた背中を見つめながら、胸が締め付けられていく。

──私がどれだけそばにいても、あなたは女王様しか見てないんだね……。

私の声は届かない。想いなんて、最初から見てもいない──。

心の声は夜風に消え、彼女の瞳に小さな涙だけが浮かんでいた。

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