Mag-log in講堂はざわめきに飲まれていた。
女子たちの視線は氷のように冷たく、嫉妬と軽蔑を滲ませながら舞台上のレナータを射抜く。 男子たちは口元を隠し、面白がる囁きを次々と落とした。 「女王様、自分で冠落としただけよ」 「……でも、あの鏡は本当なの?」 「いや、幻影魔法の悪戯じゃないのか」 「沈黙は肯定ってやつでしょ」 言葉は次々と飛び交い、ざわめきは渦を巻く。 笑い、嘲り、疑念。そのすべてが一人の少女を飲み込もうとしていた。 舞台上に座るレナータは、紅の瞳を伏せたまま黙している。 ほんの一瞬、迷いが走った。けれど答えを出すのに時間はいらなかった。 そのとき、濃い栗色の髪が揺れた。 氷のような灰色の瞳が、舞台を射抜く。 エリシア・ロイアナ──女王の隣を歩いてきた少女。 「あんなの嘘に決まってるわ。あなたが庶民なんかと関わるはずないわよね?」 低い声はレナータの耳元にだけ届いた。 確信に満ちたその響きに、レナータは一拍置き、かすかに微笑んで小さく答える。 「……ええ」 その短い返答は、講堂全体には届かない。けれどエリシアには十分だった。 周囲のざわめきはさらに熱を帯びる。 「女性様には幻滅だわ」 「庶民程度に触れられるのか、俺もお願いしたいぜ」 失笑と嘲りが波のように押し寄せる。 レナータは沈黙を貫いた。 胸の奥が焼ける。喉が詰まる。 笑い声が突き刺さるたびに、自分が切り刻まれていくようだった。 それでも女王は何も言わない。──なら、自分が言うしかない。 トマスは立ち上がり、講堂に響く声で叫んだ。 「あの鏡は嘘だ!俺とレナータが、そんなはずがない!」 一瞬の静寂。だがすぐに嘲笑が爆ぜた。 「庶民が何を必死に!」 「夢見すぎだろ!」 ただ一人、マリナだけが真剣な眼差しを送っていた。 その瞳には心配と痛みが宿っていたが──トマスには気づく余裕はない。 レナータはゆるやかに腰を上げた。 紅の瞳で全員を見渡し、ふっと微笑む。 「噂話なんて、好きに楽しめばいいじゃない」 余裕そのものの声。ほんの一瞬の揺らぎは消え、学院の太陽を取り戻していた。 だが、その余裕が、トマスの孤立を決定づけた。 最後にエリシアが冷たく告げる。 「レナータを守るためにも──庶民には身の程をわきまえてもらわないとね」 その一言で、視線は完全にトマスへ。 貴族たちは頷き合い、彼に冷笑を向ける。 マリナだけが小さく「やめてよ……」と呟いたが、その声は誰の耳にも届かなかった。 廊下にはまだ講堂での噂が尾を引いていた。 囁きは壁に染み込み、歩くたびに背後から追ってくるようだ。 「……庶民に少し授業をしてあげなさい。調子に乗らないようにね」 エリシアが取り巻きの下級貴族に目をやり、低く囁いた。 その灰色の瞳は冷たく、命じられた側は楽しげに口角を上げる。 次の瞬間、トマスの腕に抱えられていた本が風に煽られ、床に散乱した。 「わっ、手元が狂った!」 とぼけた声。周囲からくすくすと笑いが漏れる。 トマスは黙って膝をつき、本を拾い集めた。 けれど最後の一冊に手を伸ばしたとき、床に水魔法が散らされ、紙が濡れていく。 「おや、拭き掃除の手間が省けたな」 悪意に満ちた声に、取り巻きの笑いが重なる。 「トマス、大丈夫!?」 駆け寄ってきたマリナが本を掴もうとする。 けれどトマスは静かに首を振った。 「……大丈夫だ」 濡れた本を抱え、彼は立ち上がる。 その瞳には悔しさも怒りも映らない。ただ黙して歩き出すだけだった。 マリナは唇を噛みしめる。 背後では、同じ庶民の仲間たちが視線を向けていた。 だが誰ひとり声をかけない。沈黙だけが、彼の孤立を残酷に浮かび上がらせていた。 錬金実習の教室は、薬草の匂いと金属の響きで満ちていた。 各々が鍋をかき混ぜ、回復薬の基礎調合をしている。失敗すれば逆に毒にもなる危険な作業だった。 トマスもまた、真剣な眼差しで鍋を覗き込んでいた。 包帯で補強した杖を傍らに置き、慎重に攪拌を繰り返す。 周囲が思わず手を止めるほど正確な手つき。けれど本人は気づかぬふりで、黙々と鍋をかき混ぜ続けた。 だが、背後で小さな囁き声が走る。 「……今だ」 棚に置かれた触媒の瓶が、ふわりと浮かび上がる。 誰にも気づかれぬほど小さな魔法で導かれ、その中身が音もなくトマスの鍋へと流し込まれた。 ──ボンッ! 鍋が爆ぜ、熱湯と炎が弾け飛ぶ。 トマスの左腕に熱が走り、赤くただれた跡が瞬時に浮かび上がった。 「やっぱり庶民は粗雑だな」 「基礎すらまともにできないのか」 嘲笑が教室を包み、笑い混じりの失笑が重なる。 トマスは歯を食いしばり、声ひとつ漏らさず鍋を押さえた。 教師が険しい顔で近づき、火傷を見て一瞬だけ表情を曇らせる。 だが次の瞬間には平然とした声に戻った。 「……次からは気をつけろ、トマス」 その視線は、鍋に異物を投げ入れた貴族生徒には一切向けられず、トマスだけを射抜いていた。 授業は何事もなかったかのように続けられる。 庇う声は、誰からも上がらない。 「先生!これはトマスのせいじゃ──!」 マリナが駆け寄り、彼の火傷に手を伸ばす。 だが教師は手を振って遮る。 「静かにしなさい。授業を妨げるな」 マリナは悔しそうに唇を噛み締めた。 灰色の視線が突き刺さっても、誰も彼を守らない。 「……大丈夫だ」 トマスは低く言い、マリナの手を振り払った。 痛みを押し殺し、背筋を伸ばしたままノートを取り始める。 遠く、レナータがその姿を見ていた。 紅の瞳にほんの一瞬、動揺が揺らめく。 けれどすぐに表情を整え、何事もなかったかのように筆記を続けた。 まるで──最初から何も見なかったかのように。 夜の石畳は冷え、湿った風が寮へと続く道を撫でていた。 トマスは無言のまま歩いていた。濡れた本を抱えた腕には火傷の痛みがまだ残っている。 その瞬間、足元がざわりと揺れた。 ──バシャッ。 泥水が跳ね上がり、制服の裾から胸元にまで飛び散る。 「……」 暗がりから、押し殺したような笑い声がいくつも重なる。姿は見えない。 挑発する必要もなく、庶民を嘲るだけで彼らは満足しているのだ。 トマスは立ち止まらない。泥を払うこともなく、そのまま歩き続けた。 濡れた靴が石畳を鳴らし、闇に小さな音を刻む。 「トマス!」 背後から駆けてきた声。マリナだった。 彼女は苦しげに唇を噛みながら、泥に汚れた背中へ言葉を投げる。 「……少しは怒ってよ……」 けれどトマスは振り返らない。低い声だけが夜気を切り裂いた。 「怒ったら、あの人がもっと笑われるだけだ」 泥水が制服に冷たく張り付き、皮膚の奥を焼くように突き刺さる。 恥辱も痛みも、怒りもあった。だが──それでいい。 自分が悪者になれば、矢面に立てば、彼女は笑われずに済む。 それでも、少年の目は死んでいなかった。 その瞳には、確かな決意が宿っていた。 マリナは足を止め、ただ立ち尽くす。 泥に汚れた背中を見つめながら、胸が締め付けられていく。 ──私がどれだけそばにいても、あなたは女王様しか見てないんだね……。 私の声は届かない。想いなんて、最初から見てもいない──。 心の声は夜風に消え、彼女の瞳に小さな涙だけが浮かんでいた。朝の光が弱くて、白板の文字が二重に見えた整えられた清書と、その下に薄く残った揺れる記録立ち止まる足が増えて、廊下の息がそろう箒を持った年配の女性が一歩出て、白板の前に立つ指で行をなぞって、ひと息置いてから、一行だけ読む声は小さいのに、遠くまで届く息が少し遅れて、言葉がやわらかく残る「……始まったね」マリナが小さく言って、肩の力を抜くエリシアが目だけで頷く「“解説”じゃなく“読む”から」小部屋の前に紙を一枚だけ貼る〈黙→聴→読む→返す→確かめる→記す〉それだけトマスが紙の端を押さえながら言う「合図は掌、返事は自由」リオが笑わずに笑う「拍手は……今日はなしで」中庭に机を三つ置いて、椅子は少し空けておく始まりの合図はない誰かが一文だけ読む二呼吸の黙「うん」「はい」「……うん」返事が三つに散って、空気が揺れるルールは言わない輪は、勝手に大きくなる補佐が若手を連れて現れる腕に束ねた薄い冊子「公式解説書だ、配布する。読後は要約を」エリシアは冊子をめくらない目だけで白板を指す「要約は意見。——今は引用だけ」若手が戸惑って補佐を見る補佐は口を開きかけて、飲み込む輪は読みへ戻る紙の音だけが少し鳴る読み手が入れ替わるリオが最初の一文言葉の端が少し丸い貴族生徒の少女が続く背筋は固いのに、声はやわらかい吃音の少年が三番手最初の音でつかえて、息が止まる輪が“二/二/三”で黙礼する待つ少年の喉が動いて、もう一度今度は出た短い一行が、まっすぐ落ちるマリナが目だけで笑う「遅れて、届いた」天井の放声機が低く鳴る「午後より“監訳朗読”を実施。問い→答えを提示」トマスが空を見ない声で言う「答え、先に置くのか」エリシアが短く息を整える「置かれたら、引用で返す」午後監訳者が壇の前に立つ「この文の意は?」マリナは別の箇所を開く指で一行を押さえ、そのまま読む監訳者が要約を足そうと口を開く輪が二呼吸だけ黙って、視線を落とす別の読み手が次の引用を重ねるルクシアが遠くで頬杖をつく「質問に答えず、本文で返す。——きれい」廊下の奥から鍵の音老司書が小さな鍵束を掲げて近づく「付室を開けよう」旧図書室の隣の扉が重くひらく中の机に「初版の帳面」を置く紙の角に古い時刻印エリシアが指
夕刻の掲示が、音より先に空気を冷やした。本日深夜、評議による記録清書を実施。旧記録は破棄。放声機が天井で繰り返す。要約は真実。整えよ。列ができる。紙を差し出す手は、ためらいを隠す形になる。トマスが小声で言った。「燃やす前に、何が残るかだな」「紙より、時間のほうが残る」マリナは掲示の角に触れて、息を整えた。エリシアは頷きだけ。「なら、時刻で上書きする」小部屋は薄い灯り。黒板だけがはっきりしている。エリシアが白墨を走らせた。〈白板写し/耳の地図/黙枠〉「評議が清書する前に、こっちの“先書き”を残す」トマスが椅子を引き寄せる。「火がつく前に、息を置けってことか」マリナは笑うほどでもなく、口元だけゆるめた。「言葉より、呼吸の順番で書く」写し班は走る。廊下の突き当たり、昨日の白板がまだ冷たい。リオが紙を重ね、端を揃える。時刻印を一度。二度。薄く重ねる。線の上、マリナが“息点”を落とした。「ズレて見えるけど、それが“本物”の時間」「整ってたら、嘘になる」リオは目を細め、もう一枚を写す。紙の面が、灯りを受けて脈打つように見えた。耳の地図班は、回廊の影に小さな共鳴札を置いていく。笑いの名残。呼吸が浅くなる位置。黙った後にこぼれる微かな衣擦れ。トマスが札の裏を指で叩く。「言葉じゃなく、呼吸の距離を録る」一緒に回る無名の生徒が問う。「意味になるの?」「ならないほうが、残る」トマスの声は低い。納得させるより、置いていく調子だった。黙枠班は小部屋へ残る。黒板の裏面は、まだ誰の字もない。エリシアが枠線だけを描いた。四辺は閉じない。角に小さな余白を残す。息点。時刻。掌の印。「この枠がある限り、清書ははみ出す」扉の影で気配が笑った。ルクシアが薄い冊子を抱えたまま覗き込む。「“枠”を描く人ほど、いちばん外にいるのよ」エリシアは白墨を握り直す。「外にいるなら、見えるものもある」講堂は明かりが増え、声が揃う方へ傾く。補佐たちが白板を集めては、統一された文面を書き直す。放声が重なる。整えよ。そろえよ。言葉を一つに。私室でリヴァリスが盤を見下ろす。「時刻をずらしても、要約は一つになる」砂時計が三重に回り、光が重なった。灯りが落ちる前、三人は散った。「どこに置けば」リオが紙束を胸に抱えている。「読む場所の
講堂は広いのに、音が近い。壇上の砂時計が静かに落ちて、補佐の声だけが真っ直ぐ来る。「一問一答。即答。沈黙は未回答。要約は評議の権限」マリナが砂に目をやる。「……急がせる音」トマスが小さく肩を回す。「砂、ひっくり返せるだろ」エリシアは息を整える。「順番、先に置く」補佐が続ける。「まず確認。記録は——」エリシアが手を上げる。「“公開記録”の白板を壇前に。全質疑に時刻印を」「記録は要約で足りる」「要約はあなた。記すのは、ここ」短い沈黙。渋い顔で、白板と時刻印が運ばれる。補佐が第一問を投げる。「“第四の声”の主導者は誰だ」三人の視線が交わる。二呼吸の黙印。マリナが口を開く。「名前、ありません」補佐のペン先が止まる。「未回答に記す」エリシアは白板に書く。[問:主導者/答:『名なし』/備考:二呼吸の黙/時刻:—]書き終えて、振り向く。「未回答ではなく“未だ”。——時刻、ここ」時刻印が小さく鳴る。ざわめきが一段、落ちる。補佐が第二問を重ねる。「黙礼や掌の合図は組織指示か」トマスが前を見る。「合図、見せる。音は出さない」輪の数人が掌を静かに見せる。客席のそこかしこで、同じ動きが連なる。収音具は何も取らない。エリシアが白板に追記する。[記録:視覚の返事/音響記録なし]補佐が苛立った声で言い直す。「要約:沈黙で扇動」エリシアは首を傾けるだけ。「要約に“扇動”の語。事実照合なし、と併記」ペンの音が、静かに戻る。客席の一角で椅子が鳴る。ヴァレンが立つ。「遊びだ。即答しろ」トマスが目を合わせる。「二呼吸、やるか」ヴァレンは何か言いかけて、一拍だけ止まる。空気がそこで落ちる。エリシアは白板の隅に小さく点を置く。[ヴァレン:一拍の黙]ヴァレンは舌打ちを飲み込んで座る。後方で紙がめくられる音。ルクシアが薄い冊子を掲げる。「前例。公聴規程、旧条文。“聴問の権利——答弁前に沈黙の時間を置くこと”」エリシアは条文番号だけを白板端に写す。補佐は否定せず、視線を逸らす。砂時計に指が向く。補佐が急かす仕草。トマスが一歩、壇に寄る。「順番。聴く→読む→……で、今は“聴く”」上級生が合図を送り、砂時計が反転する。張り詰めた糸が、少しだけ緩む。第三問が落ちる。「公開読み合わせで進行
朝、掲示板の紙が増えていた。角がそろっていて、文字は二声の和音みたいに並んでいる。「二声朗読 本日正午/返答の種類は記録」小さく但し書き。「沈黙は“未回答扱い”」天井の放声機が同じ高さで文言を流す。息継ぎまで揃っている。マリナは紙の端を指で押さえた。「……声、増えたのに、狭い」エリシアが目を細める。「“未回答”に落とすための但し書き」トマスが短く息を吐いた。「沈黙、点数外ってことか」小部屋。黒板にはいつもの四語が残っている。〈読む/問う/確かめる/記す〉。その下に〈聴く〉。エリシアがチョークを持ち足した。一語、静かに。〈黙す〉「返事は奪われる。なら、返さないことを返事に」マリナが頷く。「黙る時間を、決める」トマスは黒板から視線を外に向けた。「二呼吸。短く、揃えない」机の上に紙を並べ、四人で稽古する。「読むね。——ここまで」マリナの声が止む。全員で二呼吸の沈黙。空気がわずかに動く。三呼吸目、リオだけ遅れる。リオが目を上げた。「揃わないのに、同じ感じがする」エリシアは手帳に短く書く。「黙印は記号じゃなく、時間の体温」トマスが肩を回す。「殴り合いより難しいな。止まるの」廊下を回る回収隊が増えた。肩章の補佐が先頭で歩く。「沈黙=未回答」の小札を貼り足していく。紙が白く増えて、視線が泳ぐ。「黙ったら負け、って見える」マリナが小声で言う。「負けじゃないって、どうやって伝えるの」トマスは首を横に振っただけ。エリシアは掲示の時刻を目で追い、歩く速さを少し落とした。中庭に人が集まる。放声は二声で始まっている。同じ和音、同じ間。マリナが一行だけ読む。「読む、問う、確かめる、記す」合図はない。輪の内側で、全員が二呼吸の沈黙に入った。第三拍、誰かが故意に遅れる。音がないまま、放声の和音がわずかに浮いた。エリシアは白板を引き出して、小さく点線を書く。「二/二/三(黙)」トマスが外縁に立つ。「殴る手は外。ここは止まる場」補佐が前に出る。「いまの沈黙は未回答。記録上、空白」エリシアが静かに返す。「空白は“無い”ではなく、“未だ”。——時刻、ここ」スタンプが落ちる音。白板の端に時刻印。空白の横に二本の短い線。マリナは客席を見渡し、声を戻す。「続き、読むね」再読。場の緊張が少し下がる。息が動く。ヴァレ
朝の鐘が終わっても、教室は静かだった。壁に小さな黒い円が増えている。札に、細い字。返答の種類と回数を記録。廊下の声が、ひとつ分、低くなった気がした。笑いの音だけが、どこにもいない。マリナが貼り紙を見上げる。「……音が、生きてない」トマスが肩を回して、息を短く吐く。「笑い、消えるだけで、こんなに冷えるんだな」エリシアは黒い円をじっと見た。「高さと回数と、強さは取れる。揺れは、取れない」マリナはうなずく。「じゃあ、揺らす」彼女の目が、少しだけ笑った。小部屋の机に、紙を四枚並べた。リオが椅子の端に座る。指先が落ち着かない。エリシアが収音具の仕組みを、簡単な線で描いた。「ここで拾って、ここで数える。――でも、息の外れは数字にならない」マリナがペンを置く。「笑えば、外れる」トマスが目を瞬く。「笑う、だけ?」「理由は、いらない。合図じゃなくて、呼吸」リオが息を飲む。「できるかな……」エリシアはノートを閉じた。「練習するしかない。“笑う息”」夜。旧図書室は静かで、紙の匂いが薄くあった。四人は丸く座り、灯りを一つだけ置いた。マリナが吸う。小さく、漏らす。「……ふ」短い、笑いの前。エリシアが続ける。「ふ、……ふ」喉の奥で、音がほどける。トマスが肩を揺らす。「は、……無理だ、わざとは」リオが目を伏せ、息をためてから。「……ふ」それは本当に小さくて、でも温かかった。全員がつられて、少しずつ、笑いが生まれる。音ではなく、息が混ざる。温度が重なる。エリシアが手帳に短く書く。「笑い=呼吸の乱れ。均一化、不可」マリナが灯りを見た。「今の、拾えないよね」トマスが笑うのをこらえる顔のまま、うなずいた。「数えられない」翌朝、天井の放声機が鳴った。規則正しい間で、笑いが流れる。「ハ、ハ、ハ……」滑らかで、同じ高さ。どこにも息の外れがない。生徒の歩幅が、半分だけ短くなる。マリナが顔を上げる。「……真似、された」エリシアは耳に手を当て、目を細める。「呼吸まで“作って”きた」トマスは腕を組む。「笑ってないのに、笑いがある。気持ち悪い」通路の角で、誰かの足音が止まる音。みんな、笑えない顔になる。小部屋に戻る。紙の上で、マリナが指を転がす。「作った笑いは、同じ高さで、同じ間」彼女は短
朝の廊下は、白い紙と同じ音で息をしていた。天井の受音具から、細い声が降ってくる。息継ぎの位置まで揃っていて、少しだけ冷たい。新しい掲示が一枚、二枚。「統一朗読 正午一斉/文言は校内放声に準ず」マリナは紙の端を指で押さえた。「……遅れまで、同じ」エリシアが首を傾ける。「“息点”の模倣。機械の呼吸ね」トマスは受音具を見上げ、短く吐いた。「音、冷たいな」三人の間に、わずかな間。廊下の風は薄い。*小部屋。黒板には、いつもの四語が残っている。〈読む/問う/確かめる/記す〉。エリシアが白いチョークをもう一度握った。「ここに——」新しく一語を書く。〈聴く〉。「先に“聴く”。返事の揺れは、写せない」マリナが頷く。「読むより、先に、耳」トマスが腕を組み、少し笑った。「返事の“間”で、合図を出す。殴るより早い」リオが控えめに手を上げた。「練習……しても、いい?」「うん」マリナが紙を渡す。「揃えないで返して。好きな呼び方で」読み手の声が一行。「——読む、問う、確かめる、記す」三人とリオが、少しずつずらして返す。「うん」「はい」「……うん」「ええ」リオが照れて笑う。「揃わない……けど、近いね」エリシアはチョークで点を散らす。「それが耳印。記号じゃなく、返事の散り」トマスが窓の外に視線を流した。「よし、外に持ってく」*回収隊が廊下をゆっくり進む。肩章の補佐が拡声の魔具を増設して、天井の受音具と同じ高さで音を重ねていく。放声は均一のピッチで流れ続けた。〈読む・確かめる・信じる〉トマスが低い声でぼそっと。「あれ、殴り合いより厄介だ」マリナは短く息を吸う。「じゃあ、被せ返す」エリシアが黒板を小さく持ち上げた。手順の五語が、揺れずに並ぶ。*中庭。人垣は、朝の光より少し暗い色で渦になっている。放声が遠くでも、近くでも鳴る。マリナが前に出て、一行だけ読んだ。「読む、問う、確かめる、記す」トマスが横に立ち、低く告げる。「返事は自由で。合図はしない」少しの沈黙。それから、あちこちで音が生まれる。「うん」「はい」「……うん」「ええ」「うん」放声の均一な遅れが、薄くなっていく。返事の“ズレ”がゆっくりと広がり、人の位置に点の地図を描いた。エリシアは白板を引き出して、五語をもう一度。〈聴く→読む→