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触れない距離

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-08-27 00:41:29

石造りの回廊は、夜更けの冷たい風に満たされていた。

魔力を帯びた灯火石はほとんど落ち、壁に並ぶ燭台の明かりが細く揺れている。

トマスは一人、その中を歩いていた。

表情は硬く、感情を押し殺したように無機質で、靴音だけが乾いた調子で響く。

昨日から続く噂のざわめきはもう聞こえない。だが、その静けさこそが、彼の孤立を際立たせていた。

ふいに背後から、柔らかい声が落ちてくる。

「……ねぇ、少し話せる?」

足が止まった。驚きに肩がわずかに震え、振り返った先に立っていたのはレナータだった。

紅の瞳が夜灯りを映し込み、揺らめく光とともに真っ直ぐに彼を射抜いている。

一歩近づいたレナータは、間を置いてから静かに口を開いた。

「講堂でのあなた……少し驚いたわ。事実なのに、どうして否定したの?」

声は穏やかだが、奥には迷いが潜んでいた。

紅い瞳は真っ直ぐで、それが返答を逃がさない。

トマスは目を逸らさなかった。

唇を結び、硬い声を押し出す。

「俺が悪者になれば、あなたは守られる。一夜の過ちは忘れるべきだ」

その顔は真剣で、決意の硬さが無理やり形を作っていた。

自分を切り捨ててでも、彼女を守るという意思。

レナータは息を呑んだ。

瞳がわずかに揺れ、吐息が震える。

「……あなたのような人に会ったことがないわ」

その一言は、夜の静けさに溶けて消える。

二人の間に短い沈黙が落ちた。

けれど彼女はすぐに顔を上げ、紅い瞳を細めて微笑んだ。

「だからこそ……知りたいの。あなたの本当を」

一歩近づき、声を落とす。

「……深夜二時、湖を散歩しない? 誰にも邪魔されないわ」

あまりにも唐突な誘いに、トマスの胸がざわついた。

息を呑み、思わず冗談めかして吐き出す。

「……俺なんかと?」

レナータの唇が小さく震えた。

だが次の瞬間、彼女はほんの一瞬だけ少女の顔に戻り、真っ直ぐに告げる。

「あなたじゃなきゃ、意味がないの」

心臓が強く打つ。

トマスは目を逸らさず、真剣な顔で言葉を返した。

「でも、それだと……また噂になる」

揺るぎない瞳で、レナータは迷いなく答える。

「私は気にしないわ。約束よ」

胸の奥でざわつきを抱えながらも、トマスは小さく頷いた。

「……わかった」

満足げな微笑みを浮かべたレナータは、振り返り、静かな足取りで歩み去っていく。

その場に残されたトマスのもとに、足音が近づいた。

マリナだった。気まずそうに視線を逸らしながら、口を開く。

「……女王さまと、何を話してたの?」

問いに、トマスは言葉を濁し、短く答える。

「別に、大したことじゃない」

マリナは俯き、唇を噛んだ。

「……そう」

(また、あの人だけを見てるんだね……)

心の声は夜気に溶けて消える。

二人はそれ以上言葉を交わさぬまま、並んで寮へと帰っていった。

丑三つ時の湖畔は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。

魔法炎の残滓が水面に漂い、風が吹くたびにゆらゆらと揺れて、湖面は星空を映す鏡のように光を散らしている。

誰もいない。二人だけ。

トマスは無表情のまま、足音を忍ばせて歩いていた。

「静かね……。こうして歩くと、女王であることなんて忘れてしまいそう」

ふいに隣から聞こえた声に、トマスは驚いて硬直する。

思わず硬い声で返した。

「そんなこと言うんですね……」

胸の奥で緊張が高鳴り、言葉がうまく出てこない。

レナータは小さく微笑み、横顔を覗き込む。

「ふふ……あなたが緊張してるなんて、少し意外だわ。講堂であんなに強く声を上げたのに」

紅い瞳を細めながら、歩きつつ彼に近づいていく。

「ねぇ……本当は、どうしてあんなことを言ったの?」

トマスは視線を逸らさず、短く答えた。

「夕方に言った通りですよ。……あんな一夜の過ちで、あなたが泣くところなんか見たくなくて……」

レナータは小さく息を呑み、伏し目がちに呟く。

「……過ち、ですって?」

「私にとっては……ただの過ちじゃなかったのよ」

彼女は顔を上げ、真剣な瞳で見据える。

「あなたは本当に……不思議な人ね。私を守ろうとするなんて」

トマスも真剣な顔で応じた。

「それぐらいしかできませんから……」

「俺にとっては過ちです。……女王と庶民が並び立つなんて、許されない」

レナータは寂しげに目を伏せたが、次の瞬間には揺るぎない光を宿した。

「……相応しくない、ね」

「じゃあ、あなたは私の気持ちを勝手に決めつけるの?」

彼女は歩みを緩め、距離をさらに詰める。

「私は──ただ、あなたといると楽になれるの。女王でも貴族でもなく、ただの私として」

「……それも、間違いなの?」

その顔は、学院の女王ではなく、仮面を外した素顔の少女だった。

二人の手が、歩くうちに偶然触れそうになる。

……心臓の鼓動が、互いに聞こえてしまいそうなほど近い。

だが気づいた瞬間、どちらも指先をほんの数センチだけ引いてしまう。

触れない距離が、かえって胸を熱くしていった。

トマスは声を詰まらせる。

「いや、それは……」

レナータは月明かりに照らされ、かすかに微笑んだ。

「……やっぱり、あなたは優しいのね」

「でも優しさだけじゃ、私の隣には立てないわ」

歩み寄り、距離を詰めながら低く囁く。

「トマス。あなたが庶民だろうと、私が女王だろうと……そんなこと、本当はどうでもいいの」

「ねぇ……それでも、私と歩いてくれる?」

トマスは喉を鳴らし、拳を握りしめてから答えた。

「……あなたが、笑ってくれるなら……」

「それだけが……俺の救いです」

レナータの紅い瞳が大きく揺れ、やがて少女の微笑みに変わる。

「それだけで……十分よ」

彼女は夜空を仰ぎ、湖面に映る光を見つめながら囁いた。

「……忘れないでね。この夜のことを」

レナータは湖面に映る光を見つめながら、微かに笑った。

その横顔は、学院の誰も知らないただの少女。

トマスには、それがどんな宝石よりも眩しく映っていた。

境界なんて、どこにも存在しなかった。

翌朝。

学院の鏡に、ゆらめく光が映し出されていた。

深夜の湖畔。

並んで歩く二つの影──女王と庶民。

声はなく、灯りに照らされたシルエットだけ。

それだけで、憶測を煽るには十分だった。

「やっぱり本当だったんだ!」

「夜中に二人で……!」

「女王様が庶民と……ありえない!」

廊下はざわめきに飲まれ、囁きが渦を巻く。

レナータはその中心に立ちながらも、余裕の微笑みを崩さなかった。

ただ一瞬──紅の瞳が硬さを帯び、「見られていた」気配を悟ったかのように揺れる。

すぐに笑みを取り戻したが、その僅かな動揺を見抜いた者は少ない。

ざわめきの中、足音が近づく。

灰色の瞳が冷たく光り、周囲の魔力が凍りついたように廊下の空気が張り詰めた。

「レナータ」

エリシアが彼女の隣に立つ。

声は抑えられていたが、その刃は鋭かった。

「庶民なんかに隙を見せるから──今みたいに笑われるのよ」

そして低く囁く。

「あなたの隣に立てるのは、私だけ」

表向きは心配そうに肩を寄せる仕草。

だが、その言葉は庶民を切り捨てる刃だった。

レナータは一瞬だけ視線を伏せる。

けれどすぐに、また余裕の微笑みを浮かべた。

──その光景を、トマスは遠くから見ていた。

廊下に突き刺さる視線。

以前なら言葉を荒げたかもしれない。

だが今はただ無言で、拳を握りしめる。

喉に言葉が凍りつき、沈黙だけが居場所のなさを際立たせていた。

庶民仲間ですら、彼から距離を置き始めている。

孤立は、より鮮明になっていく。

その背中を、少し離れた場所からマリナが見つめていた。

表情は読み取りにくい。

(どうして……私じゃなくて、あの人を)

胸の奥に痛みが走る。

けれど、その瞳の奥には痛みだけでなく、かすかな影が揺れていた。

ふと、廊下の鏡にマリナの横顔が映り込む。

偶然のはずなのに── 妙に胸に引っかかった。

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