月明かりが差し込む控室は、まだ舞踏会の熱を引きずっていた。
床に散らばる宝石の飾りと、庶民の少年が纏っていた古びた制服の袖。 その間に重なり合う影が、揺れる鏡にあらわになっている。 黄金の髪はほどけ、波のように広がる。 潤んだ紅の瞳を伏せ、学院の女王──レナータは、吐息を殺しながら庶民の腕に縋っていた。 誰もが憧れ、畏れ、近づくことすら許されない存在が、いまは爪を立てて擦り切れた布を握りしめている。 「……ん、ぁ……」 抑えきれない声が喉から漏れる。 控室の隅の魔法灯は淡く明滅し、二人の影を幾重にも重ねて揺らした。 その光はまるで、この交わりが決して赦されないものだと告げるためだけに存在しているかのようだ。 鏡は残酷に真実を映す。 滴る汗、乱れた衣服、そして交わるはずのない二人の姿。 もし誰かが扉を開けたなら、その瞬間すべてが終わる。──それでも止まらなかった。 月光が彼女の頬を濡らし、金糸の髪をさらに鮮やかに染め上げる。 学院の女王と、ただの庶民。 許されぬ二人が、月と鏡の前で──最悪の秘密を刻んでいた。 窓辺のカーテンが揺れ、淡い朝の光が控室を染めた。 散らばったドレスの飾りも、擦り切れた制服も、夜の熱を映したまま無惨に転がっている。 レナータはゆっくりと身を起こし、乱れた髪を指でかきあげる。 白い首筋に昨夜の痕跡が残り、それを見つめるトマスの視線を彼女は冷たく払いのけた。 「……忘れましょう」 声は震えていない。けれど吐き捨てるように響いた。 「これは、なかったことに」 学院の女王が庶民に抱かれた──そんな真実が広まれば、全てが崩れる。 だからこれは、彼女自身を守るための呪文だった。 それでも、胸の奥にかすかな痛みが残る。 ほんの一瞬でも救われてしまった自分を、彼女だけが知っていた。 「……はい」 庶民の少年、トマスはただ頷いた。 だが胸の内では叫んでいた。 (忘れられるはずがない。俺にとっては……) 窓から射し込む光が鏡に二人を映す。 そこにあるのは、交わってはいけない立場の違う二人の姿だった。 湖を囲む白亜の尖塔は、朝日に照らされて眩しく光っていた。 アヴェルニア学院──アスフォデル王国の誇り。 けれどトマスにとっては、どうあがいても届かない遠い光だった。 門の前には三つの列ができる。 黄金の馬車から降りる上位貴族。 取り巻きに囲まれ談笑する中流貴族。 そして最後に、擦り切れた制服を着た庶民たち。──トマスもその端に立っていた。 視線を横にずらせば、寮の差もはっきり見える。 湖畔にそびえる宮殿寮は王家と大貴族だけのもの。 隣に建つ豪奢な寮はその取り巻きのため。 庶民が押し込まれるのは、湿気を帯びた石造りの古い寮。 同じ制服を着ていても、暮らしぶりを見れば一瞬で線が引かれる。 「アヴェルニアは魔法と権力の縮図」──トマスはその言葉を、何度も耳にしてきた。 いまなら痛いほど分かる。 数では庶民が多くても、権力の輪の外にいる自分たちは、ただ黙って耐えるしかないのだと。 袖のほつれを直しながら、トマスは湖面に映る尖塔を見上げた。 腰に差した杖は、包帯で補強されたひび割れの木肌。 父の形見であり、唯一の遺品だった。 「正しく使え」──父が残したその言葉だけが、胸の支えになっている。 背後から笑いや囁きが聞こえても、足を止めはしない。 胸にあるのは劣等感ではない。 入学試験で示した実力と、学院から与えられた奨学の証。 それはどんな宝石よりも誇れるものだと信じている。 ……けれど、昨夜の光景だけはどうしても頭から離れなかった。 学院の女王を抱いてしまった。 それは誇りではなく、重すぎる秘密だった。 トマスはまだ知らなかった。 その“学院の太陽”もまた、同じ朝、鏡の前で影を落としていたことを。 白亜の尖塔に朝日が射し込むと、真っ先に輝いたのは彼女だった。 レナータ・ヴァレンティナ──学院の女王。 黄金の髪が光をはね返し、紅の瞳が人々を射抜いていく。 その姿を目にしただけで、校庭の空気が変わるのをトマスは感じた。 制服は大胆にアレンジされ、宝石が散りばめられている。 ただ歩くだけで舞踏会のような光景が生まれ、女子たちは競うように真似し、男子たちは言葉を失う。 教師すらも彼女を前にすると一瞬たじろぐのを、トマスは何度も見てきた。 (……やっぱり、完璧だ) そう思った瞬間、胸がひやりとする。 けれどトマスには分かってしまった。 彼女の横顔に、ごく小さな歪みがあることを。 昨夜、月光の下で触れた体温が、まだその奥に残っているように見えた。 忘れなければならない。 そう頭では分かっている。 だが──忘れられるはずがない。 学院の太陽。誰もが崇める女王。 その光に、確かに細い亀裂が走っている。 そしてそれを知ってしまったのは、数多の生徒の中で庶民の自分だけだった。 昼休みの校庭。 木陰に座るトマスの隣に、幼馴染のマリナが腰を下ろす。 「また……見てたでしょ、あの人のこと」 栗色の髪を揺らしながら、彼女は小さな声で呟く。 トマスは慌てて視線を逸らす。 遠くでは仲間に囲まれて笑うレナータの姿。 「……別に」 耳まで赤く染まりながら誤魔化した。 マリナは草を千切り、溜息をつく。 「知ってるよ。ずっと前から……あなたがあの人に憧れてるの」 その声には、理解と嫉妬が入り混じっていた。 幼馴染として夢を語られるのは嬉しい。 だが、その夢が“届かない女王”に向かうたび、胸の奥は焼けるように痛んだ。 「……あんな人、あなたとは世界が違うのに」 マリナはそう言い残し、立ち上がった。 呼び止められず、トマスはただ背を見送る。 風に揺れるその背中は、苛立ちと切なさを必死に隠しているように見えた。 ……けれど、それでも彼女が隣に座ってくれる時間が、今の自分には救いだった。 翌朝。 学院中の鏡に、同じ文字が浮かび上がった。 《学院の女王レナータ、庶民の少年トマスと一夜を共にす》 短い一文に続き、幻影が揺れる。 乱れたドレスの裾、擦り切れた制服の袖口。 舞踏会の控室を思わせる断片的な光景だった。 「は? なにこれ、いたずらでしょ」 「幻影魔法を悪用したんじゃないの?」 最初は笑い混じりの声が飛ぶ。誰もが信じようとせず、冷やかし半分で鏡を覗き込んだ。 けれど、それは一枚の鏡だけではなかった。 廊下、教室、食堂──学院中すべての鏡に、同じ文字と映像が映し出されていたのだ。 「え……まさか、学院中の鏡で……?」 「そんなの、普通の魔法じゃ……」 ざわめきは困惑へ、そして恐怖へと変わっていく。 映像は消えない。目を逸らしても、別の鏡に同じ文字が浮かぶ。 逃げ場などなく、噂は否応なく現実として突きつけられた。 「いや、でも……ドレスの裾、あれ本物じゃない?」 「庶民に抱かれるなんて最低……」 信じたくない。けれど、鏡に揺れる光景はあまりにも生々しかった。 笑っていた生徒たちも口を噤み、目を逸らすしかなくなる。 沈黙の空気が、真実を認めた証のように重く広がった。 鏡に浮かぶ文字を見て、レナータの赤い瞳がわずかに揺れた。 「……何よ、これ……」 いつもの堂々たる声色に混じって、かすかな震えが滲む。 それは誰も気づかないほど小さな揺らぎ──けれど確かに、学院の太陽が陰った瞬間だった。 ほんの一瞬、彼女は心の奥で呟いていた。 (こんな形で……知られるなんて……) 遠巻きにその光景を見ていたトマスは、唇を噛みしめていた。 すべてが終わったと思った。 けれど、まだ始まりにすぎなかった。 こうしてアヴェルニア学院の静寂は破られた。 “囁きの書”の最初の囁きが、世界に放たれたのだ。朝、雨は上がっていた。石畳はまだ少し湿っていて、廊下の窓から差す光が薄く揺れる。昨日のざわめきが嘘みたいに静かな朝だった。マリナは自室の机でノートを開き、写しの束をもう一度指でそろえた。どこで見せるか、誰に渡すか、順番を頭の中で並べる。肩の力を抜き、封筒の口を確かめて立ち上がる。トマスは寮の階段で封筒の重さを手のひらで量るように持ち替えた。守るものが形になったときの重さは、筋肉ではなく胸で受けるのだと知る。遅いと全部が塗り替えられる。なら、速く動く。エリシアは教員室前の掲示窓に貼られた掲示順の案内を目で追い、正式な掲示の経路を洗う。誰の許可が必要で、どの手続きを飛ばせないか。飛ばせないなら、別の入口を作る。紙を抱え直し、踵を返した。* * *午前の講義。庶民班の教室には、昨日のざわめきの名残が薄く残っている。小さな囁きはあるが、声は上がらない。冷たい静けさだけが机の間に落ちていた。マリナは立ち上がり、前へ出た。ノートと封筒を手に持ち、黒板を背にする。「昨日のこと、私は見た。だから、書かれたことを——読んでほしい」机の上で封筒を開き、写しの一部を広げる。見覚えのある文字と、見慣れない押印の跡。近くの子が身を乗り出し、指で行を追う。「……本物なの?」「また偽物じゃないの?」声は小さい。マリナは笑って首を振る。「確かめて。読むって、信じるより強いから」彼女は席に戻らず、教室の後ろまで見渡した。受け取った子たちは顔を見合わせ、次の子へ回す。紙は静かに動き始める。机の脚が小さく軋み、筆記具の音が戻ってきた。* * *廊下では、きれいに整えられた列の横で小さな人だかりができていた。「庶民がまた何か広めてるって」「“原本”とか言ってたぞ」貴族班の生徒が顔を寄せる。トマスが間に入り、封筒を持ち上げた。「見てもらって構わない。中身は昨日の記録だ」封筒から取り出した数枚を手渡す。読む目の色が途中で変わる。書き換えられた文と、ここにある文の流れが違う。行間の呼吸が違う。「……これ、本当に?」「こっちには“協力”ってある」ざわめきが広がりかけたところで、きれいな靴音が割って入った。補佐員が腕を組み、短く言う。「許可なき資料の配布は禁止です」トマスはまっすぐに見返す。「許可を求める時間が、もう残ってない」補佐員は鼻を鳴らし、紙を取り上げ
夕方から降り出した雨は、校舎の庇を細く打っていた。外灯が点き、石畳に淡い輪がいくつも重なる。昼間のざわめきは引き、廊下は息をひそめている。三人は授業のあと別々の道を回ってから、約束の角で顔を合わせた。「正式手順だと、一週間は待たされるわ」エリシアが低く言う。「待っていたら、真実が塗り替えられる」トマスはためらわない。「だから、今行く」マリナもうなずいた。さっき、一度は保管庫の前室まで行った。係の生徒に「閲覧停止中」と告げられ、規定だと押し返された。扉の向こうに灯りがあっても、鍵は開かなかった。三人は一度だけ引き、方法を決めて戻ってきた。雨はその間に本降りになり、廊下の窓に水の線を残している。* * *記録保管庫は、廊下のいちばん奥にある。石の壁に埋め込まれた鉄の扉。鍵穴の上には薄い光紋が浮かび、円のなかを小さな記号が回っている。トマスが周囲を確かめる。「人の気配はない」エリシアは紋に近づき、目を細めた。「二重。外側は一般の閲覧印、内側は保管印。正式な解除は無理。——順序を一瞬だけ乱す」マリナは壁際の張り紙に目を止める。紙の角が新しい。「閲覧停止:再整理中」と太字で書かれ、昨日の日付が押されていた。再整理という言葉は、棚の並べ替えではなく、意味の並べ替えを指すのだろうと、直感で分かる。「やっぱり、意図的だね」マリナが小さく言う。二人も異論はない表情だった。エリシアが手袋を外し、光紋の脇に指先を近づける。「合図をして。三つ数えたら、紋の回転を崩す。瞬間だけ鍵が甘くなるはず」トマスは扉の端に手を掛け、小さく深呼吸した。マリナは廊下の向こうを見張る。足音の気配は遠い。雨の音だけが途切れず、屋根裏から降りてくる。彼女は二人へ視線で合図した。「いち、に——」光紋が一度だけ脈打つ。記号がわずかにずれ、鍵の歯が緩んだ。トマスが押す。力だけではない、ゆっくりと、金属の遊びを見つけて広げる。軋みが小さく響く。マリナは手を上げ、通り過ぎる学生の気配がないことを示す。「——さん」音はそこで消えた。扉はわずかな隙間を開け、冷たい空気が流れ出す。三人は順番に中へ滑り込み、静かに扉を閉じた。* * *内側は薄暗く、紙とインクと蝋の匂いがまじっている。棚が幾列も並び、紐で束ねられた書簡や、封蝋で留められた包みが番号札と一緒に収められていた。床は乾いて
朝の鐘が二つ鳴ったころ、掲示板の前には人の輪ができていた。上段に新しい文書が貼られている。太い字で「庶民班の独立提案書・承認見込み」。下には昨日の議事録の写しらしき紙が重ねられ、印の欄には確かに“承認”の文字がある。「やっぱ本当だったんだ」「庶民、勝手に動いたの?」「指導権を取りに来てるって」ざわめきが一気に広がる。トマスは前に出て、紙を外さないまま目を走らせた。数行読むだけで、内容が昨日からさらに歪められているとわかる。庶民が“学院の運営に関与する”を、「指導権を奪う計画」と言い換え、署名欄の横には見慣れない印が押されていた。「先生、これは」近くにいた教員に声をかける。教員は視線を逸らした。「上の決裁だ。……今は、触れないでくれ」それ以上は何も言わない。周囲の期待と疑いが、同時にトマスの背にのしかかる。* * *庶民の教室は、午前の予鈴の前から落ち着かない空気で満ちていた。「どうして本当に出したんだよ!」「私の名前まで載ってる!」机を叩く音が混じる。マリナは壁際に歩き、昨日、自分たちでまとめた議事のメモを取り出した。胸の高さで掲げ、みんなの視線が集まったところで、掲示された文書の写しと並べて画鋲で留める。「見て。こっちが私たちの記録。こっちが今朝の文書。どっちが本当か、見比べて」数人が前に出る。紙と紙の差は、文字の並びよりも、押された印の濃さにあった。「……どっちにも“上”の印がある」「印があるなら、向こうが“本物”になる」言葉が教室のあちこちで落ちる。マリナは一度だけ息を整えた。「じゃあ、読んで。印じゃなくて、中身を。——それでも迷うなら、私が説明する」返事はない。けれど、さっきより声の高さが下がる。彼女は並べた二枚の紙の間に指を置き、自分の中でもう一度決める。声を出すだけでは足りない。見る場を作る。見せることで届かせる。* * *廊下では、庶民と貴族の生徒が向かい合ってい
朝の鐘が半分も鳴り終わらないうちに、廊下の空気がざわついた。掲示板の前、渡り廊下、教室の入口。どこでも同じ出来事が、違う形で語られていた。「昨日の会議、庶民側が“独立を要求”したらしいよ」「でも止めたのはエリシア様だって」「トマスが教員を批判したって聞いた」言い回しは似ているのに、焦点はまちまちだ。部分的には本当らしい。それでも、全体の形は別物になっていた。マリナはすれ違いざまにそれを耳にし、息を小さく止める。――誰かが、話を作っている。* * *一限の前。教室の後方で、庶民の仲間たちが声を落として集まっていた。「“独立”なんて言ってないよな」「誰が広めたんだよ、これ」マリナは机に自分のノートと、昨日まとめた紙束を置いた。「まず、書いた記録を確かめよう」「うん……」紙に残した議事の要点。言葉は正確だ。順番も、発言者も、内容も、嘘はない。マリナは一枚ずつ見直し、最後にそっと重ねた。「本当の言葉は、ここにあるのに」前の席の子が、苦笑いに似た顔で肩をすくめる。「誰も読まないんだ、こういうの。噂のほうが早い」「……そうだね」マリナは頷いた。胸の内側で、昨日までと違う重さが動く。――声を出すより、形を奪うほうが早い。だったら、形を守らないと。「もう少し細かい要点も残そう。誰が見ても、同じ意味に読めるように」「やってみる」仲間たちが頷く。音は小さいが、返事の色は揃っていた。* * *同じころ、廊下。トマスは呼び止められた。「トマス、本当に“独立”って言ったの?」「勝手に代表して決めたって聞いた」彼は足を止め、相手の目を見る。声は落ち着いている。「言ってない。昨日は“切るには早い”って言っただけだ」「でも、記録に残ってるって……」別の声が遠慮がちに続く。トマスは短く息を吐いた。「信じてくれとは言わない。でも、確かめに来い。俺たちが書いた記録を」沈黙が一つ。視線が揺れる。彼は言い募らない。背に受ける空気の中に、別の色が混ざっているのを感じた。渡り廊下の端。貴族の生徒が数人、こちらを見ている。表情は穏やかだが、目は測っている。――“証拠”を作るための視線だ。トマスは視線を返さず、教室へ向かった。* * *教員室。エリシアは受付の机で議事録の写しを受け取った。上部に押印。欄外に承認印。目を走らせると、見覚えのない
朝の鐘が静かに引いていくころ、掲示板の前に薄い輪ができていた。新しい紙が一枚、上段に貼られている。「臨時代表者会議 — 混合班の調整と生徒間協力の促進」その下に、小さく名前が二つ。貴族代表=エリシア。庶民代表=トマス。ほかには役目の欄も、補足もない。そこに、マリナの名はなかった。「やっぱりエリシア様が上に立つんだね」「庶民代表って、便利な言葉ね」囁きは淡く、芯だけ固い。貼り紙の角は新しく、糊の跡がわずかに光る。マリナは人垣の後ろから文字を読み、息をひとつだけ整えた。「……行ってらっしゃい、トマス」心の中で小さく言ってから、輪を離れた。笑って流せるほど、胸の奥は静かではない。けれど、顔には出さない。* * *一限前の教室。庶民の仲間と机を寄せ、今日の段取りを確認する。資料を分け、時間割を突き合わせ、短い役割分担を決める。そこで、正面の子が何気ない調子で言った。「代表はトマスだから、今日は関係ないだろ」言い切る声に悪意はない。けれど、机の上の紙が少し重くなった気がした。「関係ない、か……」マリナはノートを閉じ、背筋を伸ばす。視線だけ机の輪をぐるりと回してから、落ち着いた声で言う。「じゃあ、聞きに行こう。決まることを、知らないままにはしたくない」「でも、会議は代表だけじゃ……」「聞くだけ。廊下まででもいい」椅子が小さく鳴る。二人が目で「分かった」と告げ、もう一人は不安そうにうなずく。マリナは鞄を肩にかけ、扉へ向かった。* * *会議室の前。扉には簡素な札。内側から人の気配が重なる。マリナはノブに触れず、耳を澄ませた。「混合班の成果と、再構成案について」司会の声は、よく通る。けれど、教員のものではない。昨日から見慣れない“補佐員”の顔が浮かんだ。「庶民との連携は、まだ効率が低いと思います」「うちの班でも、指示の理解に時間がかかりました」貴族側の声が続く。淡々と並ぶ「効率」「時間」「指示」の言葉。間に差し込まれる短い同意の相槌。紙に書く音が重なる。「効率は、慣れと理解で変わる。初日で切る判断は早すぎる」トマスの声が聞こえた。落ち着いている。息の置き方も、言葉の順も、昨日より揃っている。「要約します。“庶民班の独立を希望”——」「待ってください」それは、マリナの耳にも違和感だった。重なるように、別の声が入る。「今の書
朝の鐘が鳴り終わるころ、学院は不自然なほど静かだった。廊下で交わされる声は小さく、昨日の余韻を警戒するように抑えられている。掲示板の前にだけ人が集まり、貼り出された紙を覗き込んでいた。「本日の講義・変更通知……?」「班の時間、入れ替わってる」「“教員の都合により”って、昨日の影響じゃないの」紙の角には、新しく糊を引いた跡が残っていた。列は自然に伸びるが、誰も長く立ち止まらない。見た内容を胸に入れたまま、教室へ散っていく。* * *マリナは庶民の仲間と並んで時間割を確かめた。紙に指をあてると、ほんの少し浮いている。「これ、本当に変更?」「ほら、ここ。貼り替えた跡、見える」隣で小声が落ちる。「“庶民の意見を公平に扱うため、混合配置を試行”って……誰が決めたんだろ」マリナは一度だけ息を整えた。周囲の視線は薄い。騒ぎのあとに置かれた静けさだけが、廊下に均一に広がっている。「ルールとして出たなら、従おう。——まずは授業に行こう」「……うん」言いながら、胸の奥に違和感が残る。昨日の声が、どこかで誰かの言葉に変えられている気がする。足を速めずに教室へ向かった。* * *訓練場には、いつもと違う顔が立っていた。担当教員の姿はなく、“臨時補佐”と書かれた腕章を巻いた若い補助員が中央で指示を出している。庶民と貴族の二つの班が一列に並べられ、互いの間隔はいつもより近い。「本日、混合演習。前半は貴族班が先導、後半は庶民班が先導」補助員の声は淡々としている。ヴァレンが口の端だけで笑った。「“対等”って言ってたな。先にお前、指揮してみろよ」「順番は掲示の通りで」トマスは短く返す。「そっちが先に指示を出して。次はこっちが続く」一見、譲ったように見える。けれど、相手の段取りを計るために置いた一手だと、近くの仲間には分かった。「第一手。二列目、準備運動に戻れ」補助員の指示が飛ぶ。列が動く。すぐに別の指示が重なる。「戻らず、右へ。器具庫前で待機」動く足が止まり、また動く。小さな混乱が砂の上に生まれ、すぐに薄まる。三つ目の指示は、さきほどと逆方向へ出された。「左へ。合図を待て」トマスは眉を寄せた。指示の出し方が不自然だ。間を置いてから内容が変わる。誰かが合図をすり替え、列の流れを切っている。「……これは、試されてるんじゃない。揺さぶられてる