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第10話

Author: 花辞樹(かじじゅ)
景凪は、あの日のことを今でも鮮明に覚えている。あれは、深雲の誕生日だった。ふたりが付き合い始めて間もない頃だ。

深雲は一緒に食事をすると約束してくれた。だから彼女は、三時間も前から念入りに身支度を整えて、胸を躍らせながらレストランで彼を待っていた。

けれど、どれだけ待っても深雲は現れなかった。夜も更け、レストランは閉店時間を迎える。彼に電話してみても、電源が切れている。もしかして事故でもと心配になった景凪は、彼の通う大学まで足を運んだ。

男子寮の下で朝まで膝を抱えながら待ってみたが、深雲の姿はついに現れず、代わりに姿を見せたのは彼の友人、暮翔だった。

暮翔は、景凪を見てなぜか複雑な表情を浮かべた。「深雲、昨日病院に行ったんだ……」と、どこか口ごもりながら教えてくれた。

景凪は、深雲がきっと病気だったのだろうと素直に信じ、「私が待っていたことは秘密にしてね、心配かけたくないから」と暮翔に頼んだ。

だが、その夜、景凪がひたすら待ち続けていた間、深雲は、姿月と一緒にいたのだ!

もう、耐えきれなかった。

景凪は力いっぱい目を閉じ、息をするだけで胸が痛んだ。

あの写真は、今も脳裏に焼き付いて離れない。まるで鋭い刃で心の一番柔らかな場所を抉られるようで、血が滲むように痛かった。

てっきり、五年間の植物状態の間に姿月が居座って、深雲とコソコソ始まったものだと思い込んでいたが……実際は、ずっと前から二人は繋がっていたのだ!

しかも、深雲の周りの奴らは皆、姿月の存在を知っていた!

彼らの目には、景凪は哀れで滑稽な道化に映っていたのだろう。

胸が冷たい氷に包まれるようだった。

はっきりと悟った。深雲が姿月を会社に入れて自分の秘書にしたのも、最初から計画的だった。

自分が妊娠してお腹が大きくなっている時でさえ、深雲は裏で姿月と逢瀬を重ねていたのだ。

どうして、どうしてあんな仕打ちができるの?

怒りと悲しみが胸を爆発させそうになる。

その時、千代が震える景凪を優しく抱きしめた。

「景凪……」

景凪は崩れそうな感情を押し殺し、無理に笑顔を作って千代に言う。「大丈夫よ」

千代はまだ何か言おうとしたその時、ドアの外からアシスタントの声が聞こえた。

「千代さん!やばいです、週刊誌に居場所バレました!下にファンが集まり始めてて……会社から車が来てます!」

千代はどうしても景凪が心配な様子。

景凪は彼女の肩を押して外に促した。「行って、早く。芸能界は敵が多いんだから、変な噂立てられたら大変だよ」

千代は帽子とマスクを着け、出がけに改まって景凪に言い残す。

「景凪、もし深雲のクズ野郎がまた何かしたら、私、SNSで晒してやるから!」

その言葉に、アシスタントが慌てて千代を引っ張った。

「千代さん!アカウントもう会社に管理されてるんですよ!ほんと勘弁して!」

景凪は思わず苦笑してしまった。

千代が去ったあと、景凪はしばらく静かに座り、心を落ち着ける。再びサングラスと帽子を被り、白杖を手に外へ歩き出した。

鷹野家は巨大な権力を持つ家系だ。千代に危険な真似をさせるわけにはいかない。

自分のことは、自分で決着をつける。

深雲に踏みにじられたもの、奪われたもの、すべて彼に返してもらうつもりだ。

あんな男、彼女の子どもたちの父親になる資格なんてない!

廊下の角まで来たとき、不意に幼い可愛らしい声が聞こえた。

「姿月ママ、これ、今日幼稚園でもらったお花だよ。先生が、一番好きな人にあげていいって」

景凪の全身が凍りつく。

この声……清音!

どうして清音がここに?

深雲は、子どもたちはピアノのレッスンに行かせたと電話で言っていたはずなのに!

考える間もなく、姿月の優しい声が続く。

「じゃあ、清音はこのお花、誰にあげるの?」

清音は即答した。

「もちろん、姿月ママにあげるんだよ!わざわざ持ってきたんだもん。お兄ちゃんとパパの次に、大好きなのは姿月ママだよ!」

自分の娘が「ママ」と呼んでいるのは、他の女。その甘い声が、何本もの針となって景凪の心を刺した。

「姿月ママも、清音のことが一番好きだよ。このお花、大事にするね」姿月は微笑みながら言った。「さあ、帰ろうか。パパが待ってるからね」

その「パパ」とは、もちろん深雲のことだ。

まるで本当の家族みたいな、親しげな口調だ。誰が聞いても、幸せそうな一家にしか思えないだろう。

景凪は手にした白杖をぎゅっと握りしめ、感情が暴走しないよう必死にこらえた。姿月のヒールの音が近づき、咄嗟に消防通路に身を隠した。

ドアの隙間から、姿月が清音の手を引いて歩いていくのが見える。

清音はワンピースを着て、姿月の手を握り、時折顔を上げて無邪気に笑う。

その姿に、景凪の目には涙がにじんだ。命を賭けて産んだ娘が、今は他の女を「ママ」と呼んでいる。

気づけば、景凪は二人を追いかけていた。

姿月と清音は、個室の前で立ち止まり、姿月がドアを開けて中に入る。景凪が後ろで耳を澄ますと、中から賑やかな笑い声が聞こえた。

「お、お義姉さんが来たぞ!」

聞き覚えのある声――深雲の幼なじみで大学時代のルームメート、暮翔だ。

景凪が深雲と付き合い始めた頃から、暮翔は彼女をよく思っていなかった。いつも冷たく、どこか敵意すら感じた。深雲と結婚してからも、「穂坂さん」と他人行儀に呼ぶだけだった。

深雲は「暮翔はそういう奴だから気にするな」と言っていたが……

「ふっ……」

景凪は皮肉な笑みを浮かべた。

暮翔は大学時代から姿月の存在を知っていた。彼にとって「義姉」とは姿月であり、景凪が割り込んだと考えているのだ。

自分は法的には深雲の妻なのに、彼らの中では第三者以下の存在だったのか。なんて滑稽で、惨めなのだろう。

隅に立ち、ドアの隙間から景凪は部屋の中を見つめる。深雲はソファに座り、スマホを眺めている。息子の辰希は視界には入らなかった。

「パパ!」清音が甘えるように深雲に飛び込んだ。隣の友人たちは、自然と姿月のために席を空ける。

「あっ、悪い悪い、お義姉さんの席を取っちゃってた」

姿月は少し恥ずかしそうに微笑み、反論せず、深雲の隣に寄り添う。

清音はパパの大きな手を姿月の手に重ねながら、「パパの手あったかい。姿月ママの手、冷たいから、あっためてあげて」と無邪気にせがんだ。

その光景が、景凪の胸をさらに締め付ける。

自分が眠り続けた五年の間に、姿月は家庭に入り込み、清音の心まで奪ってしまった。深雲も、それを黙認している……

いや、むしろ、これが深雲の望む形なのかもしれない。

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