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第11話

Author: 花辞樹(かじじゅ)
景凪は、これ以上見ていたら我慢できず、あのクズ男女にビンタを食らわせに突入してしまいそうで、サングラスを直し、そっとその場を離れた。

個室の隅では、研時が顔を赤くした姿月をチラリと見て、なんとも言えない気持ちで手元のグラスを一気に飲み干す。

空になったグラスを置いた時、研時はふとした視線の端で、ドアの外を一瞬横切る人影を捉えた。どこか見覚えのある後ろ姿に、彼は小さく息を呑む。

「清音、もうやめなさい」深雲は自分の手を姿月の手の上からそっと引き離し、軽く肩をすくめて娘を抱き下ろした。「中でお兄ちゃんと遊んでおいで」

清音は少し不満げだ。

姿月はしゃがんで優しく宥める。「清音、姿月マ…」

深雲を一瞥し、すぐに言い直した。「姿月おばさんが一緒に行ってあげようか?」

清音は、いつも姿月の言うことを素直に聞く。コクンと頷いて、従順に手を取った。

研時は、姿月が清音を連れて奥の部屋へと入っていくのを目で追いながら、静かに席を立ち、深雲の隣へと腰掛けた。

「深雲、景凪の様子はどうだ?まだ目を覚ましてないのか?」研時は遠慮なく切り出した。

深雲のスマホを弄っていた指がピタリと止まる。少しの間を置いて、ぽつりと答えた。「昨日、目を覚ましたよ」

研時は意外そうに目を見開く。

またドアの外を見やる。

じゃあさっき見た、あの景凪によく似た女性は、もしかして……

「それで、彼女は……」

研時がさらに尋ねようとしたが、深雲が冷静に口を挟んだ。「彼女は目が見えなくなった。いつ治るかわからない。あいつは昔から強がりだから、完全に治るまで、目覚めたことは公表したくないんだ」

目が見えない?

そんな状態の女性が、自分たちの個室のドア前で覗き見なんてできるはずがない。

やっぱり、さっき見たのは人違いだったか。

研時は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

深雲は、スマホ画面に目を落とす。そこには二時間前、田中からの連絡が表示されていた。

【ご主人様、奥様が車で連れて行かれました!】

車のナンバーの写真付き。

一目で、それが千代の車だと分かった。

まるで驚きはしない。

景凪の世界は、驚くほど狭い。自分以外に親しい友人といえば、唯一、千代だけだ。

あの千代ときたら、いつも大げさで短気、家も没落してしまったから、深雲はずっと千代のことを見下していた。

だが景凪も、その辺りは分かっていて、この数年はこっそり千代と連絡を取り合っていたものの、深雲の前で千代の話題を出すことはなかった。

今回、千代と会うために無断で外出したのも、きっと自分を怒らせたくなかったのだろう。

深雲は口元を少しだけ緩め、心の奥に小さな満足感を覚えた。

景凪の考えていることなんて、自分にとってはいつだって手に取るように分かる。

深雲はソファにもたれかかる。暖色のライトに照らされた端正な顔立ち、だがその瞳には冷ややかな色が宿る。

景凪は本当に素晴らしい。妻としても、仕事のパートナーとしても、完璧すぎるほどだ。

だが、あまりにも分かりやすい女というのは、まるで水のように無味無臭で、捨てるには惜しいが、味気ないものだ……

……

一方その頃。

「ハクチ!」

景凪は大きなくしゃみをした。

目の前に分かれ道の廊下が現れ、呆れて口元を引きつらせる。

五年ぶりに訪れた万宝楼は、一度大規模に改装され、以前よりもずっと広くなっていた。

景凪は帰り道に出るつもりで歩いていたが、ぼんやりしていたせいで、この階で迷子になってしまった。

壁や床にある案内表示を探していた景凪は、不意に曲がり角から現れた男に気付かず、もう少しでぶつかるところだった。

「お前、目が見えねぇのか!」いきなり罵声が飛んできた。腹が突き出て首も見えない中年男、太い金のネックレス――見るからに成金の下品な男だった。

景凪は男の酒臭を感じ取り、余計なトラブルは避けようと、頭を下げて盲杖で道を探る。「すみません、見えなくて……」

だが男は、かえって調子づく。

「おい、マジで目が見えねぇのかよ」

サングラス越しに、男の脂ぎった顔がいやらしく近づき、強烈な酒臭が鼻を突いて胃がムカつく。

「へへ、なかなかいい顔してるじゃねぇか、しかもいい匂いだ。俺、医者なんだぜ。ほら、目を診てやろうか?」

景凪は冷たく言い放つ。「どいて」

男は、細身の景凪をまるで虫けらでも見るように鼻で笑い、「いい子にして、お兄さんって呼んだら通してやるよ?どうだ?」と下卑た声で迫る。

景凪は元々、鬱憤が溜まっていた。今日はこいつが八つ当たりの相手になってもらおう。

壁の監視カメラをちらりと見やり、あえて弱々しく怯えたフリをする。

「そんな……ほんとに医者なの?近寄らないで……怖い……」

そう言いながら、少しずつ後退して、男を監視カメラの死角へと誘い込んだ。

男は、ますます酒気と色欲に目をギラつかせ、手をこすりながら景凪を追い詰める。

「怖がらなくていいって、お嬢ちゃん。俺の部屋でゆっくり目を診てやるよ!」

景凪のサングラスの奥の目には冷たい光が宿る。盲杖を握りしめ、一発で相手の急所を叩き、半身不随にしてやろうとタイミングを計る。次はあの三本目の足も蹴り折ってやるつもりだ。

中年男の太い手が伸びてきた瞬間、景凪が動こうとしたその時、スーツ姿の男が背後から飛び出し、その中年男の手首を掴んでねじり上げた。

「ぐああっ!!」

中年男は情けない悲鳴を上げる。

景凪も驚き、その突然現れた男をじっと見つめる。三十歳前後、エリート然とした雰囲気のある男だ。しかし、見覚えはまったくない。

悠斗は男の後頭部を掴み、壁に勢いよく叩きつけた。

そして、冷たく言い放つ。「酔っぱらったなら部屋に戻って寝てろ。送っていこうか?」

男は恐怖で酔いが一気に冷め、必死で命乞いをする。

「い、いいです。自分で帰ります、帰りますから……」

男が逃げようとしたその瞬間、背後から低く、冷ややかな声が響く。笑っているようで、内に氷の刃を隠したような声音。

「そんなに簡単に帰れると思ったか?」

この声は……

景凪の体が反射的に強張る。ゆっくり振り返ると、数メートル先から、長身で端正な渡が歩み寄ってくる。廊下の淡い灯りがサングラス越しに柔らかな夕暮れ色となり、景凪には七年前の空港の記憶が蘇る。

七年前の渡の姿と、今の姿が重なった。

「景凪、本当に、それでよかったのか?」

その言葉が、深層の記憶から蘇る。太鼓のように心を揺らし、魂を震わせる。

七年ぶりだ……
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