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第405話

Author: 花辞樹(かじじゅ)
最後の一言は、明らかに深雲への当てつけだった。

研時は本心から姿月を不憫に思っていた。

深雲のために、彼女はずっと耐え忍んできたのだ……

自分の想いが彼女に届かないことは悔しいが、その気持ちを表に出すつもりはない。

姿月のように清らかな女性を守れるなら、それも一つの幸せだと思っていた。

目障りだった田舎者の景凪も消えた。これからは、姿月が一歩ずつ幸せになっていく姿を見守ることができるはずだ。

深雲は無表情のまま、冷ややかな視線を研時へ向けた。「あの女の話をする必要があるのか」

「陸野先輩、私はちっとも辛くなんてありませんでしたよ」姿月は深雲を見つめ、優しく微笑んだ。「それに、深雲さんの秘書として働いた数年間は、私にとっても学びの多い日々でしたから」

「田村常務が父の古いご友人だということは、私もここ数日で知ったことなんです。児玉さんとは、以前『夜響』でお会いしたのがきっかけで……向こうのアシスタントの方から連絡先を交換したいと言われまして。お話しするうちに、お祖父様の源造さんが熱心な骨董コレクターだと伺ったんです。ちょうど実家にいくつかコレクションがあったので、鑑賞用にお送りしたら、それを機に親しくさせていただくようになって」

研時は以前、父に連れられて児玉源造(こだま げんぞう)に何度か会ったことがある。

確かにあの老人は骨董品の収集家であり、目利きとしても有名だった。だがその審美眼は厳しく、彼の眼鏡にかなう品となれば、間違いなく稀代の珍品だろう。

それを「実家にいくつかあった」などと事もなげに言うあたり、姿月の実家のコレクションはどれも国宝級の価値があるに違いない。

研時は姿月を見つめる瞳に、いっそう深い想いを宿した。

これほどの財力を持ちながら、一度もひけらかしたことがないなんて……こんなにも虚栄心のない女性は稀有だ。それに比べて、あの穂坂景凪はどうだ。まさに雲泥の差じゃないか。

姿月が天上の雲なら、景凪は路傍の泥水だ。

その時、轟音と共に一台の黒いハマーH1が現れた。そのナンバープレートの色を見ただけで、堅気の人間が乗る車ではないことがわかる。

車から降りてきたのは、噂の児玉潤一と、明航重工の田村常務だった。

深雲が大股で出迎えると、姿月も駆け寄って彼の腕にそっと手を回す。深雲が拒まないのを見て、彼女はさらに強く腕を絡めた。
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