LOGIN景凪は、訳が分からないといった様子の深雲を冷ややかに見下ろした。実はかつて、無理やり彼を墓参りに連れてきたあの時、景凪はすでに自分の生い立ちを明かしていたのだ。父は貧しい苦学生で、穂坂家の援助を受けていたこと。その後、入り婿として穂坂家に入り、自分が母方の姓を名乗っていること。そして、父の旧姓が『小林』であったこと……だが、深雲にとってはどうでもいい話だったのだろう。彼は端から彼女の話になど興味がなかった。だから、記憶の片隅にすら残っていないのだ。「景凪さん……本当に、あなただったのね」姿月の瞳から、瞬く間に涙が溢れ出した。なんて女だ……景凪は心底感心した。自分の母の墓前で、よくもまあ、これほど白々しい『感動の対面』を演じられるものだと。「もしかしたらとは思っていたけれど、まさか本当にそうだったなんて……!景凪さん、まだ二十年前の誤解を引きずっているの?」誤解、だと?景凪の掌に爪が食い込む。その厚顔無恥ぶりに、怒りで全身が震え出しそうになった。だが、彼女が口を開くより先に、眉をひそめていた深雲が訝しげに声を上げた。「待て、姿月。つまり、君が言っていた『腹違いの姉』というのは、景凪のことだったのか?」「ええ……」姿月は懺悔の涙で瞳を潤ませながら頷く。「あの頃の私はまだ幼すぎて、お姉さんのお名前もあやふやで……」彼女は以前から、景凪が自分の正体に気づいている可能性を警戒していた。だからこそ、万が一に備え、あらかじめ深雲にある『物語』を吹き込んでおいたのだ。もちろん、完全な嘘などすぐにばれる。真実の中に巧みに嘘を混ぜ込むことこそが、説得力を生む秘訣だ。「お姉さん、ごめんなさい。お父さんとお母さんの代わりに、私がお詫びするわ」姿月は半歩進み出て、景凪の足元に跪こうとした。だが、その体はすぐに深雲の強い手によって引き上げられた。「跪く必要などない。当時、君はまだ五歳だ。今の清音と同じ歳だろう。子供だった君に何の罪がある」深雲は不快感を露わに景凪を睨みつけた。冷酷な能面のような景凪の顔と、か弱く健気な姿月。あまりの対比に、彼の中にわずかに残っていた景凪への憐憫など、跡形もなく消え失せてしまった。「君がずっと、雪華さんが自分の母を殺したと思い込んでいるのは知っている。だが、君の母の死因は病死だ。それに、雪華さんと克書さん
深雲はふと意識を過去へと飛ばした。あの時、景凪はまるで幼子のようにはしゃぎ、墓前でとりとめもなく喋り続けていた。そのほとんどが、彼の自慢話だったことを思い出す……なんとも奇妙な話だ。あの時の彼女の生き生きとした表情を、今でも鮮明に思い出せるとは。まるで、自分が世界一幸せな女だと言わんばかりのあの顔を……「深雲さん、何を考えているの」腕に絡みつく姿月の声が、思考を現実へと引き戻す。「いや、別に」深雲は清音と辰希の背中を軽く押し、墓碑の前に立たせた。「せっかく来たんだ。ついでだ、お祖母さんに挨拶していきなさい」純真な清音は、言われるがままぺたりと膝をつき、丁寧に頭を下げた。「おばあちゃま、初めまして。清音です」「パパ、どうして今まで一度もお祖母ちゃんがここにいるって教えてくれなかったの?連れてきてくれたこともなかったじゃない」辰希は堪えきれず問い詰める。パパはとことんママに対して冷酷だ、と幼心にも感じずにはいられなかった。深雲はわずかに眉根を寄せ、煩わしげに答えた。「お祖母さんはずいぶん昔に亡くなってるんだ。俺も会ったことはない。これからは毎年連れてきてやる」姿月は、墓石に嵌め込まれた長楽の写真を流し目で一瞥し、誰にも気づかれぬよう口の端を微かに歪めた。生きてる時はママに踏みつけられ、死んでからは私のお祖母ちゃんに見下ろされる場所で眠るなんてね。ふふっ、穂坂の人間は一生、這い上がれない運命なのよ。「深雲、私も年下としての礼儀よ。穂坂おばさんにお線香を上げさせて」しおらしく申し出る姿月に、深雲は怪訝そうに眉をひそめた。「君がか?」長楽は景凪の実母だ。そこに部外者である姿月が線香を手向けるというのは、いささか不謹慎ではないか……だが、姿月はすでに三本の線香を手に取り、拝む素振りを見せている。「失せなさい!お母さんの眠る場所を汚さないで!」突如、怒りに満ちた鋭い声が響き渡った。景凪だ。姿月がハッと振り返った瞬間、白い菊の花束が彼女の顔面を激しく打ち据える。バシッ、バシッ!花弁が散り、無惨に折れた枝葉が宙を舞う。「きゃあ!」姿月は悲鳴を上げ、慌てて深雲の背後へと逃げ込んだ。「何をするんだ」深雲が景凪の手首を乱暴に掴む。だが、景凪も負けてはいない。間髪入れず、膝を突き上げ彼の股間を狙った。
「佐久間さん、おじいちゃんの実験室を見せてもらえないかな」広重の案内で、景凪はかつて益雄が使用していた実験室へと足を踏み入れた。扉を開けた瞬間、息を飲む。そこには最新鋭の実験機器が並び、黒板には祖父が書き残したであろう筆跡がそのまま残されていたのだ。景凪はしばらくの間、室内を丹念に観察した。祖父が何らかの細胞再生研究を行っていたことは明白だが、肝心の研究手稿は一切見当たらない。パソコンの中身も確認してみたが、データは綺麗さっぱり消去されていた……これほどの大掛かりな設備と隠蔽工作。景凪の脳裏に、ある大胆な仮説が浮かぶ。もしかすると、祖父は政府と協力して極秘の研究を行っていたのではないか。だが、もし政府の後ろ盾があったのなら、穂坂家の資産を取り戻すことなど造作もなかったはずだ。祖父が、小林克書と雪華――あんなクズ男と泥棒猫の二人に、何年も好き勝手させておくはずがない!理屈が通らない。彼女は再び祖父の寝顔を見にいった。投薬のおかげか、彼は安らかに眠っている。涙がこぼれる前に、景凪は踵を返した。広重と明浩が門まで見送りに来てくれた。「お嬢様、これからは日曜ごとならまたいらしてください」明浩が念を押すように言う。「ほかの曜日は立ち入り禁止なんです。それも雇い主の決まりで。以前、誤って迷い込んだ奴がいたんですが、悲鳴が聞こえただけで、姿を見た者はいません」その正体不明の雇い主に対する好奇心が、ますます募る。景凪は遠くに見える、生家を模した屋敷を見上げながら、ふと別の疑問を口にした。「そうだ、佐久間さん。ここ数年、母のお墓の手入れをしてくれていたのはあなた?」広重はきょとんとして首を傾げた。「いいえ」彼は恥じ入るように沈んだ声を出す。「私は当時片足を潰されて、明浩を連れて田舎へ引っ込んでおりましたから。A市に戻ったのは四年前、ここに来た時です。長楽様のお墓の場所すら、存じ上げませんで……」佐久間さんじゃない……では、誰が母の墓を守っていたのか?この謎の雇い主だろうか?「お嬢様!」立ち去ろうとした景凪を、明浩が呼び止めた。彼は乾いた唇を引き結び、真剣な眼差しで訴えかける。「もし人手が足りないようなら、俺を使ってください。お守りします。佐久間家は代々、穂坂家にお仕えしてきたんですから」広重も言葉
しかし、祖父の記憶に彼女の今の姿はない。「あんたも甘凪っていうのかい?わしの孫も甘凪というんだ」老人は穏やかに微笑み、手の中の飴玉に視線を落とした。「これはあの子が大好きなハッカ飴だよ。店じゃ買えない、わしの手作りなんだ」景凪の頬を伝う涙の粒が大きくなる。彼女は震える手を差し出した。「ひとつ、私にもくれない?私もハッカ飴、大好きなの」老人は少し迷った素振りを見せたが、やがてそっと景凪の掌に飴を落とした。長く握りしめられていたせいで、包み紙の中の飴は溶けかかっている。景凪はそれを剥き、口に含んだ。舌の上に、苦味を帯びた清涼感が広がる……彼女はそのまま長い時を祖父と共に過ごした。やがて老人の体力が限界を迎え、まどろみ始めたのを見計らって、数人の介護士が慎重に彼を抱え上げ、部屋へと運んでいった。ドアの縁に立ち、ベッドに横たわる祖父を見守る。かつて一族を牽引した偉大な家長の姿は見る影もなく、今は無力な赤子のように小さく丸まっている。景凪が顔を背けて涙を拭っていると、浅黒い手が清潔なハンカチを差し出してきた。顔を上げると、明浩が立っている。彼はもう片方の手で気まずそうに頭をかいた。「お嬢様、これ、おろしたての新品です。綺麗ですから」彼女は微かに微笑み、「ありがとう」と受け取る。そこへ広重が近づいてきた。足取りが重い。よく見ると、彼の片足は義足だった。「佐久間さん、その足はどうしたの?それに、どうしてここにあの家とそっくりな建物があるの?おじいちゃんはなぜここに?」溢れ出る疑問をぶつける景凪。広重が答えるより早く、明浩が憤りを爆発させた。「全部あの小林克書、あの恩知らずのクソ野郎のせいですよ!親父はお嬢様たちのことが心配で屋敷に戻ったんです。そうしたら、奴が公印や権利書を漁っている現場に出くわして……」「明浩!」広重が鋭く名を呼び、一喝する。「昔の話だ、よせ」小林克書、あの畜生め!景凪は声を低く沈めた。「佐久間さん、あなたのその足の借り、私が必ず返させます」その瞬間、広重は景凪の横顔に、亡き母・長楽の面影を見た。大人になった彼女は、あの方に瓜二つだ。だが、母娘で決定的に違うのは、その瞳だろう。長楽様の眼差しはどこまでも柔らかかった。けれど、景凪様の瞳には、決して折れない強靭な光が宿っている。広重
「こんにちは。穂坂益雄に面会に来ました」景凪は丁寧な口調で告げた。「孫の、景凪です」「……」男の乾いた唇が微かに震えた。彼は食い入るように景凪を見つめ、声を上げた。「お嬢様……!」景凪は目を丸くした。お嬢様?そう呼ぶのは、かつて穂坂家に仕えていた古参の使用人たちだけだ……「あなたは?」問い返そうとしたその時、奥から野太い声が飛んできた。「明浩、誰と話しているんだ」明浩……佐久間明浩(さくま あきひろ)!景凪は驚愕に見開いた目で、近づいてくる初老の男を見つめた。「佐久間さん!」かつて穂坂家の執事だった、佐久間広重(さくま ひろしげ)だ。しかし彼は二十年前、息子の明浩を連れて家を去ったはず。なぜ、こんな所に?「お嬢様!」広重は一目で景凪だと気づいたようで、歓喜の表情を浮かべて明浩に開門を促した。景凪は驚きと喜びで胸がいっぱいになり、すっかり白髪になってしまった元執事の姿に言葉を失った。数秒後、こみ上げる切なさに視界が滲む。「佐久間さん……」震える声で呼びかけ、こぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。広重もまた、涙声になるのを堪えるようにぎこちなく頭を撫でつけ、笑顔を作った。「こんなことなら、白髪染めをしておくんだったな。今日お嬢様に会えるとわかっていれば」その言葉に、景凪は泣き笑いのような表情を見せた。幼い頃、彼女は広重の白髪を嫌がって、見つけるたびに抜いていたのだ。白髪さえ抜いてしまえば、彼はずっと年をとらないと無邪気に信じていたから……「佐久間さん、どうしてここに?おじいちゃんは?」広重が重々しく溜息をつき、何か言おうとした矢先、看護師が血相を変えて走ってきた。「院長、大変です!益雄さんの発作がまた!」景凪の心臓が早鐘を打つ。彼女は事情を聞くのも後回しにし、切迫した声で叫んだ。「案内して!」看護師は戸惑って「院長」と呼ばれた広重の方を振り返ったが、彼が頷くのを見て、慌てて踵を返した。景凪は小走りでその後に続いた。だが、奥へ進むにつれて、周囲の景色が奇妙な既視感を帯びてくる。そして、目の前にあの見慣れた洋館と、庭園、芝生が現れた時――景凪の足は止まった。――穂坂家の屋敷。二十年前、彼女が生まれ育った、幸せの記憶が詰まった生家だ!それが、そっくりそのままここに移築され
警察からの連絡で、血塗られた六年前の記憶が呼び起こされたせいだろうか。その夜、景凪は悪夢を見た。夢の中の自分は六年前と同じ、身代金の詰まったバッグを提げて、金山九蔵との取引現場へと足を踏み入れていた。深雲を解放してくれと、彼女は懇願する。次の瞬間、場面が切り替わる。悪臭を放つ獰猛な男が、彼女に襲いかかり衣服を引き裂こうとする。現実の記憶では必死の抵抗ができたはずなのに、夢の中の彼女の手首はねじ上げられ、無残に折られてしまう。絶望に支配され、助けを求めて泣き叫ぶ彼女の視界に、ふと人影が現れた。血に飢えた獣のような気配を纏い、近づいてくる男――黒瀬渡だ。彼は片手で金山の頭を力任せに押さえつけると、もう片方の手に握った鋭利なナイフで、ためらいなくその喉笛を搔き切った。鮮血が噴き出す。返り血を浴びながら、渡はただ景凪を見つめ、静かに言った。「教えたはずだ。勝てない時は、俺に言いつけろと」ハッとして、景凪は目を見開いた。同時に、目覚ましの電子音が鳴り響く。身を起こしてこめかみを軽く押さえながら、彼女は思わず失笑した。なんてデタラメな夢だろう。まさか渡が出てくるなんて……最近、彼がやけに優しくしてくれるから、こんな間の抜けた夢など見てしまったに違いない。まさか、彼が本当に助けに来てくれるなどと期待しているわけでもあるまいし。そんな自意識過剰にはなりたくない。黒瀬財閥の御曹司――たとえそれが非嫡出子であっても、その肩書きは天へと続く梯子のようなものだ。今の渡は、ピラミッドの頂点に君臨する存在。自分とは住む世界が違いすぎる。彼の気まぐれな戯れを、真に受けるほど愚かではない。鷹野深雲との結婚生活で、彼女は血の代償を払い、命の半分を失うほどの教訓を得たのだ。「真心」などという不確かなものを、二度と信じる気にはなれなかった。冷水で顔を洗い、景凪は完全に意識を覚醒させた。今日は日曜日。待ちに待った、祖父の益雄に会える日だ。彼女は念入りに支度を整え、あの琥珀の瓢箪を首にかけた。エレベーターを降りた直後、スマホが震える。郁夫からのメッセージだった。「起きた?朝ごはん何食べたい?」という文面と共に、カフェのショーケースに並んだ色とりどりのパンやサンドイッチの写真が送られてきている。景凪は【結構です】と