ログイン一方、車内で待つ姿月は、纏わりついてくる清音の相手どころではなかった。全神経が、少し離れた場所にいる深雲と景凪に向けられている。二人の距離が縮まり、景凪が手を伸ばすのが見えた。あろうことか、深雲はそれを拒む素振りすら見せない……「いたっ!」清音が可哀想な声を上げた。「姿月ママ、痛いよ」隣で数独に没頭していた辰希が、妹の悲鳴に反応して素早く顔を上げる。「あら、ごめんなさい清音ちゃん。わざとじゃないのよ。痛いの痛いの、飛んでいけ……どう?まだ痛い?」姿月は慌ててご機嫌取りにかかる。「ううん、もう平気」「清音ちゃん、こっちへ来なよ。面白いもの見せてやるから」「ほんと?うん!」清音は姿月の腕の中から抜け出し、兄のそばへと移動した。辰希は鋭い眼光で姿月を睨みつけた。その冷たい眼差しは景凪に瓜二つで、姿月は以前から懐こうとしないこのクソガキに苛立ちを覚えていた。それが今、頂点に達しようとしている。いつか必ず、この生意気なガキを始末してやる……!だが、今はそれを表に出すわけにはいかない。姿月は辰希に向かって作り笑顔を浮かべてみせた。辰希はそれを黙殺し、妹の赤くなった腕を優しくさすった。ふと顔を上げると、深雲が車の方へと戻ってくるのが見えた。姿月は弾かれたようにドアを開け、待ちきれない様子で駆け寄る。「深雲さん、景凪さんは何て?まさかまだ、私のお母さんが家庭を壊したとか、お父さんが穂坂家の財産を乗っ取ったとか、そんな世迷言を言ってたんじゃないでしょうね?」深雲はきょとんとした顔で首を横に振る。「そんな話は一切していない。ただ子供たちのことを少し話しただけだ」姿月の表情が凍りついた。信じられない。何も言わなかった、だと?あの意地悪な景凪が、告げ口の一つもしなかったというの?姿月は疑念を拭えなかった。子供の話をするだけで、あそこまで顔を近づける必要があるだろうか。「深雲さん……」彼女は深雲にしなだれかかり、甘えた声で囁いた。「私、怖いの。景凪さんにあなたを奪われちゃうんじゃないかって……」深雲の瞳がわずかに沈む。彼は姿月の背中を優しく叩き、低い声で宥めた。「馬鹿なことを言うな。俺たちはもう離婚してるんだ」「じゃあ……いつ婚約してくれるの?」姿月は上目遣いで深雲を見つめた。頬を桃色に染め、恥じらうよう
その視線は、明浩の背後に守られている景凪を刺すように射抜いた。深雲の中で苛立ちが炎となって燃え上がり、口元には残酷な笑みが一層濃く浮かぶ。「お前は一体どこの誰だ?二十年前なんざ、まだ洟垂れ小僧だったくせに、何を知っていると言うんだ?」深雲は嘲るように鼻を鳴らした。「そこまで景凪を信じ込むとはな。惚れたのか?はんっ、離婚した途端、随分とモテるようになったじゃないか。俺の『元妻』という肩書きが、女としての価値を底上げしてくれたと見える」「黙りやがれッ!」明浩の拳が、深雲の顔面めがけて唸りを上げた。深雲は間一髪でそれをかわすと、沸騰する怒りに任せて低く罵り声を上げ、拳を握りしめた。二人の男は激しくぶつかり合う。深雲は洗練された武術の心得があるが、対する明浩は我流の喧嘩殺法、しかも急所を狙う容赦のない動きだ。互角の攻防が続き、勝負の行方は見えない。その喧騒をよそに、景凪は静かに母への拝礼を終えた。三本の線香を香炉に立て、ゆっくりと身を起こす。そして、不意に甘く柔らかな声を響かせた。「深雲」その一言が、深雲の意識を一瞬だけ揺らがせた。明浩はその隙を見逃さない。渾身の一撃が深雲の顔面を捉えた。バゴッ!姿月の表情が凍りついた。勝てるはずの喧嘩で、あの女の声一つで深雲が隙を見せたのだ。まさか……深雲、まだあの女に未練が?「明浩、やめなさい!」景凪の鋭い制止の声が飛ぶ。振り上げられた明浩の拳は、空中でピタリと止まった。「ですが、お嬢様!こんな奴、殴り殺させてください!」悔しげに歯を食いしばる明浩に対し、殴られた頬に青あざを作った深雲は、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「景凪に聞いてみろよ。俺を殺すなんて、彼女が許すはずないだろう?」景凪は、いつものように牙を剥いて言い返すことはしなかった。深雲の背後に隠れる姿月へ冷ややかな流し目を送り、不意に艶やかな微笑を浮かべると、自ら深雲へと歩み寄る。姿月は瞬時に警戒心を露わにし、すがりつくように深雲の袖口を掴んだ。「深雲さん、行きましょうよ。清音ちゃんや辰希くんたちが車で待ってるわ……」景凪は深雲を見つめる。演技ならお手の物よ。未練がましい眼差しの一つくらい、造作もないことだわ。彼女は瞳にたっぷりと情を湛え、甘く囁いた。「あなたに、話があるの」姿月の顔
景凪は、訳が分からないといった様子の深雲を冷ややかに見下ろした。実はかつて、無理やり彼を墓参りに連れてきたあの時、景凪はすでに自分の生い立ちを明かしていたのだ。父は貧しい苦学生で、穂坂家の援助を受けていたこと。その後、入り婿として穂坂家に入り、自分が母方の姓を名乗っていること。そして、父の旧姓が『小林』であったこと……だが、深雲にとってはどうでもいい話だったのだろう。彼は端から彼女の話になど興味がなかった。だから、記憶の片隅にすら残っていないのだ。「景凪さん……本当に、あなただったのね」姿月の瞳から、瞬く間に涙が溢れ出した。なんて女だ……景凪は心底感心した。自分の母の墓前で、よくもまあ、これほど白々しい『感動の対面』を演じられるものだと。「もしかしたらとは思っていたけれど、まさか本当にそうだったなんて……!景凪さん、まだ二十年前の誤解を引きずっているの?」誤解、だと?景凪の掌に爪が食い込む。その厚顔無恥ぶりに、怒りで全身が震え出しそうになった。だが、彼女が口を開くより先に、眉をひそめていた深雲が訝しげに声を上げた。「待て、姿月。つまり、君が言っていた『腹違いの姉』というのは、景凪のことだったのか?」「ええ……」姿月は懺悔の涙で瞳を潤ませながら頷く。「あの頃の私はまだ幼すぎて、お姉さんのお名前もあやふやで……」彼女は以前から、景凪が自分の正体に気づいている可能性を警戒していた。だからこそ、万が一に備え、あらかじめ深雲にある『物語』を吹き込んでおいたのだ。もちろん、完全な嘘などすぐにばれる。真実の中に巧みに嘘を混ぜ込むことこそが、説得力を生む秘訣だ。「お姉さん、ごめんなさい。お父さんとお母さんの代わりに、私がお詫びするわ」姿月は半歩進み出て、景凪の足元に跪こうとした。だが、その体はすぐに深雲の強い手によって引き上げられた。「跪く必要などない。当時、君はまだ五歳だ。今の清音と同じ歳だろう。子供だった君に何の罪がある」深雲は不快感を露わに景凪を睨みつけた。冷酷な能面のような景凪の顔と、か弱く健気な姿月。あまりの対比に、彼の中にわずかに残っていた景凪への憐憫など、跡形もなく消え失せてしまった。「君がずっと、雪華さんが自分の母を殺したと思い込んでいるのは知っている。だが、君の母の死因は病死だ。それに、雪華さんと克書さん
深雲はふと意識を過去へと飛ばした。あの時、景凪はまるで幼子のようにはしゃぎ、墓前でとりとめもなく喋り続けていた。そのほとんどが、彼の自慢話だったことを思い出す……なんとも奇妙な話だ。あの時の彼女の生き生きとした表情を、今でも鮮明に思い出せるとは。まるで、自分が世界一幸せな女だと言わんばかりのあの顔を……「深雲さん、何を考えているの」腕に絡みつく姿月の声が、思考を現実へと引き戻す。「いや、別に」深雲は清音と辰希の背中を軽く押し、墓碑の前に立たせた。「せっかく来たんだ。ついでだ、お祖母さんに挨拶していきなさい」純真な清音は、言われるがままぺたりと膝をつき、丁寧に頭を下げた。「おばあちゃま、初めまして。清音です」「パパ、どうして今まで一度もお祖母ちゃんがここにいるって教えてくれなかったの?連れてきてくれたこともなかったじゃない」辰希は堪えきれず問い詰める。パパはとことんママに対して冷酷だ、と幼心にも感じずにはいられなかった。深雲はわずかに眉根を寄せ、煩わしげに答えた。「お祖母さんはずいぶん昔に亡くなってるんだ。俺も会ったことはない。これからは毎年連れてきてやる」姿月は、墓石に嵌め込まれた長楽の写真を流し目で一瞥し、誰にも気づかれぬよう口の端を微かに歪めた。生きてる時はママに踏みつけられ、死んでからは私のお祖母ちゃんに見下ろされる場所で眠るなんてね。ふふっ、穂坂の人間は一生、這い上がれない運命なのよ。「深雲、私も年下としての礼儀よ。穂坂おばさんにお線香を上げさせて」しおらしく申し出る姿月に、深雲は怪訝そうに眉をひそめた。「君がか?」長楽は景凪の実母だ。そこに部外者である姿月が線香を手向けるというのは、いささか不謹慎ではないか……だが、姿月はすでに三本の線香を手に取り、拝む素振りを見せている。「失せなさい!お母さんの眠る場所を汚さないで!」突如、怒りに満ちた鋭い声が響き渡った。景凪だ。姿月がハッと振り返った瞬間、白い菊の花束が彼女の顔面を激しく打ち据える。バシッ、バシッ!花弁が散り、無惨に折れた枝葉が宙を舞う。「きゃあ!」姿月は悲鳴を上げ、慌てて深雲の背後へと逃げ込んだ。「何をするんだ」深雲が景凪の手首を乱暴に掴む。だが、景凪も負けてはいない。間髪入れず、膝を突き上げ彼の股間を狙った。
「佐久間さん、おじいちゃんの実験室を見せてもらえないかな」広重の案内で、景凪はかつて益雄が使用していた実験室へと足を踏み入れた。扉を開けた瞬間、息を飲む。そこには最新鋭の実験機器が並び、黒板には祖父が書き残したであろう筆跡がそのまま残されていたのだ。景凪はしばらくの間、室内を丹念に観察した。祖父が何らかの細胞再生研究を行っていたことは明白だが、肝心の研究手稿は一切見当たらない。パソコンの中身も確認してみたが、データは綺麗さっぱり消去されていた……これほどの大掛かりな設備と隠蔽工作。景凪の脳裏に、ある大胆な仮説が浮かぶ。もしかすると、祖父は政府と協力して極秘の研究を行っていたのではないか。だが、もし政府の後ろ盾があったのなら、穂坂家の資産を取り戻すことなど造作もなかったはずだ。祖父が、小林克書と雪華――あんなクズ男と泥棒猫の二人に、何年も好き勝手させておくはずがない!理屈が通らない。彼女は再び祖父の寝顔を見にいった。投薬のおかげか、彼は安らかに眠っている。涙がこぼれる前に、景凪は踵を返した。広重と明浩が門まで見送りに来てくれた。「お嬢様、これからは日曜ごとならまたいらしてください」明浩が念を押すように言う。「ほかの曜日は立ち入り禁止なんです。それも雇い主の決まりで。以前、誤って迷い込んだ奴がいたんですが、悲鳴が聞こえただけで、姿を見た者はいません」その正体不明の雇い主に対する好奇心が、ますます募る。景凪は遠くに見える、生家を模した屋敷を見上げながら、ふと別の疑問を口にした。「そうだ、佐久間さん。ここ数年、母のお墓の手入れをしてくれていたのはあなた?」広重はきょとんとして首を傾げた。「いいえ」彼は恥じ入るように沈んだ声を出す。「私は当時片足を潰されて、明浩を連れて田舎へ引っ込んでおりましたから。A市に戻ったのは四年前、ここに来た時です。長楽様のお墓の場所すら、存じ上げませんで……」佐久間さんじゃない……では、誰が母の墓を守っていたのか?この謎の雇い主だろうか?「お嬢様!」立ち去ろうとした景凪を、明浩が呼び止めた。彼は乾いた唇を引き結び、真剣な眼差しで訴えかける。「もし人手が足りないようなら、俺を使ってください。お守りします。佐久間家は代々、穂坂家にお仕えしてきたんですから」広重も言葉
しかし、祖父の記憶に彼女の今の姿はない。「あんたも甘凪っていうのかい?わしの孫も甘凪というんだ」老人は穏やかに微笑み、手の中の飴玉に視線を落とした。「これはあの子が大好きなハッカ飴だよ。店じゃ買えない、わしの手作りなんだ」景凪の頬を伝う涙の粒が大きくなる。彼女は震える手を差し出した。「ひとつ、私にもくれない?私もハッカ飴、大好きなの」老人は少し迷った素振りを見せたが、やがてそっと景凪の掌に飴を落とした。長く握りしめられていたせいで、包み紙の中の飴は溶けかかっている。景凪はそれを剥き、口に含んだ。舌の上に、苦味を帯びた清涼感が広がる……彼女はそのまま長い時を祖父と共に過ごした。やがて老人の体力が限界を迎え、まどろみ始めたのを見計らって、数人の介護士が慎重に彼を抱え上げ、部屋へと運んでいった。ドアの縁に立ち、ベッドに横たわる祖父を見守る。かつて一族を牽引した偉大な家長の姿は見る影もなく、今は無力な赤子のように小さく丸まっている。景凪が顔を背けて涙を拭っていると、浅黒い手が清潔なハンカチを差し出してきた。顔を上げると、明浩が立っている。彼はもう片方の手で気まずそうに頭をかいた。「お嬢様、これ、おろしたての新品です。綺麗ですから」彼女は微かに微笑み、「ありがとう」と受け取る。そこへ広重が近づいてきた。足取りが重い。よく見ると、彼の片足は義足だった。「佐久間さん、その足はどうしたの?それに、どうしてここにあの家とそっくりな建物があるの?おじいちゃんはなぜここに?」溢れ出る疑問をぶつける景凪。広重が答えるより早く、明浩が憤りを爆発させた。「全部あの小林克書、あの恩知らずのクソ野郎のせいですよ!親父はお嬢様たちのことが心配で屋敷に戻ったんです。そうしたら、奴が公印や権利書を漁っている現場に出くわして……」「明浩!」広重が鋭く名を呼び、一喝する。「昔の話だ、よせ」小林克書、あの畜生め!景凪は声を低く沈めた。「佐久間さん、あなたのその足の借り、私が必ず返させます」その瞬間、広重は景凪の横顔に、亡き母・長楽の面影を見た。大人になった彼女は、あの方に瓜二つだ。だが、母娘で決定的に違うのは、その瞳だろう。長楽様の眼差しはどこまでも柔らかかった。けれど、景凪様の瞳には、決して折れない強靭な光が宿っている。広重