Masuk男にここまで面と向かって辱められたのは、人生で初めてだった。姿月は悔しさに奥歯を噛み締めたが、相手はあの児玉家だ。本気で怒らせるわけにはいかない。「児玉さん……何か誤解をなさっているようですけれど……」「そうかい」潤一は取り付く島もない様子で、彼女との距離を置いた。「足を挫いたというのなら、ここで少し休んでいるといい。鷹野さんに連絡するか、それともメイドを呼んでこさせようか」彼はズボンのポケットに手を突っ込み、彼女を支えようとする素振りすら見せなかった。「いい大人同士だ。二人きりで長く居すぎると、いらぬ誤解を招きかねないからね」そう言い放つと、潤一は事務的な笑みだけを残して、彼女をその場に置き去りにして歩き出した。背を向けた瞬間、先ほどまでの愛想笑いは霧散した。鷹野深雲のような甘い男なら騙せても、自分には通用しない。彼は海外の特殊な育成機関で徹底的に鍛え上げられ、その後はいわゆる「裏の世界」や紛争地帯の最前線に身を投じてきた。幾多の死線を潜り抜け、命のやり取りを日常としてきた男だ。自らの圧倒的な実力に加え、名家の後ろ盾もある。今や表の世界でも恐れられる、底知れぬ実力者なのだ。女を見る目は、嫌というほど肥えている。姿月の見え透いた芝居など、彼にとっては反吐が出るほど退屈なものだった。潤一はメインホールへと向かって歩いていた。途中ですれ違った使用人に、竹林の方にいる姿月の様子を見てくるよう、ついで仕事のように言いつける。いくらあの女が気に入らないとはいえ、今日は祖父の祝いの席だ。客人を無下に扱って、家の沽券に関わるような真似はしたくない。ふと、潤一の足が緩んだ。彼の視線は、少し先にある水辺のテラスで、うつむき加減に電話をしている景凪に釘付けになった。ちょうど雲の切れ間から太陽が顔を出し、淡い金色の光が霧のように、あるいは粉雪のように、彼女の全身を包み込んでいる。潤一は目を細めた。今日の景凪は、クラシカルなミッドナイトブルーのドレスを身にまとっていた。落ち着いた色合いの中に、繊細な花柄が織り込まれた、知的で控えめなデザインだ。だが、その真骨頂は裾の仕掛けにあった。一見するとシンプルなシルエットに見えるが、実は贅沢に生地が使われており、彼女が歩くたびに重なり合った裾が軽やかに揺れ、まるで大輪の花びらが一枚ずつほぐれてい
それを聞くと、源造はそれ以上何も言わず、ただ口元だけで意味深長な笑みを浮かべた。「心遣い、感謝するよ」彼は香炉を箱に戻し、潤一に渡した。「棚に置いておきなさい」そのあっさりとした扱いに、小林家の父娘は戸惑いを隠せなかった。どういうこと?さっき一目見たときは、あんなに歓喜していたのに……姿月は動揺しながら声をかけた。「おじい様……」「児玉おじいさんと呼びなさい」源造は彼女の言葉を遮った。「今日は客が多い。他人が聞けば、いらぬ誤解を招きかねん」口調こそ穏やかだったが、その態度は明らかに先ほどよりも冷ややかだった。「わしの家には出来の悪い孫が二人おってな。一人はそこにいる潤一、もう一人はその妹の清禾(きよか)だ。彼女はお前と同じくらいの年頃だが、今は戦場カメラマンとして海外を飛び回っておって、今日は戻って来られんのだ」姿月は焦って何か言葉を継ごうとした。「あの、児玉おじい様、私……」だが源造は車椅子を動かして彼女から距離を取り、疲れを見せた。「パーティーの時間が迫っている。支度があるゆえ、これにて失礼させてもらおう」彼は背を向けたまま命じた。「潤一、小林さん親子を会場までお送りしなさい」「わかりました」潤一は軽く頷くと、二人に向き直り、慇懃だがどこかよそよそしく告げた。「どうぞ、こちらへ」克書と姿月は顔を見合わせ、釈然としないまま部屋を出るしかなかった。竹林を出たところで、克書は「電話をかける用事がある」と言い訳をし、姿月と潤一を先に会場へ戻らせた。人目のつかない場所まで移動すると、克書はすぐさま携帯電話を取り出し、雪華に発信した。彼の表情は険しく、声には苛立ちが滲んでいる。「あの『鳳凰の舞』とかいう香炉だが、本当に本物なんだろうな?お前、家の骨董品を片っ端から売り払って実家への仕送りにし、その代わりに精巧な贋作を並べて俺を誤魔化してきた前科があるだろう」普段なら、元手のかかってない財産だからと見て見ぬふりをしてきた。だが、これほど重要な場面で、もし偽物を掴まされたとしたら……「偽物なわけないじゃない!」雪華は即座に否定した。「三人の鑑定士に見せて、絶対的な真作だとお墨付きをもらっているのよ!愛する娘の将来がかかっているのに、そんな馬鹿な真似するわけないでしょう?」あまりに自信満々な口
源造の書斎は、母屋から少し離れた場所に独立して建てられていた。裏山を背に湖を望む竹林の中にひっそりと佇んでおり、周囲には静謐で落ち着いた空気が流れている。潤一は慣れた足取りで先導し、書斎の扉の前まで来ると、自分は中に入らずに声をかけた。「おじいさん、小林のおじ様と姿月さんがお見えだよ」「おお、早く通しなさい!」中から響いてきたのは、老齢ながらも張り詰めた重厚な声だった。その声には聞く者を正すような威厳があったが、今は明らかに待ちわびていたという期待の色が混じっている。潤一が「どうぞ」と手で促してその場を去ろうとしたが、源造にはお見通しだった。「こら、お前も入れ!」「……」体の向きを半分変えかけていた潤一は、やれやれといった風に眉を上げると、観念したように書斎へと足を踏み入れた。書斎の中は決して豪華絢爛というわけではなかった。しかし、古美術に関わって長い克書の目には、壁際の書棚に並ぶ古びた書物の数々がすべて稀少な孤本や逸品であることが一目でわかった。茶卓にはすでに茶の用意が整えられており、源造はそこで一行を待っていた。膝には薄い毛布が掛けられている。よく見ると、彼が座っているのは椅子ではなく、特注の車椅子だった。克書は一瞬だけ視線を止め、気遣わしげに声をかけた。「源造先生、おみ足が……」源造は鷹揚に手を振った。「昔、戦地で受けた弾丸の破片がいくつか残っていてね。若い頃は無理をして各地を飛び回っていたが、この年になると体が言うことを聞かなくなっていかん。歩くたびに痛むものだから、近頃はもっぱら車椅子生活だよ」「おじい様、おいたわしい……さぞかしお辛いでしょうね」姿月がしおらしく口を開き、同情に満ちた視線を向けた。すでに源造の傍らに立っていた潤一は、その様子を冷ややかな目で見やっていた。源造の鋭くも温かい眼差しが姿月に注がれる。彼は込み上げる感情を抑えきれない様子で、目元をわずかに赤くした。「お前が……」克書は表情ひとつ変えず、淀みない口調で言った。「ええ、源造先生。我が家も私が一人息子ですし、私にとってもこの子がたった一人の娘です。すでに一族の籍に入れ、今では立派に小林の家を継ぐ娘として育てております。姿月、お前も幼い頃に源造おじい様にお会いしたのを覚えているだろう?」名字を変えたという話に、源
視線が交錯する。克書は明らかに動揺を見せたが、それはほんの一瞬のことだった。次の瞬間には、まるで汚いものでも見たかのように冷徹に視線を逸らし、二十年ぶりに会う実の娘を完全に空気として扱ったのだ。それどころか、隣に立つ姿月の髪を慈愛に満ちた手つきで整えてやる始末だった。「元旦那をそんな目で見つめるなんて、穂坂さんはまだ鷹野深雲に未練たっぷりみたいだね」不意に、男のからかうような低い声が響いた。景凪がハッと我に返って顔を上げると、そこには児玉潤一の姿があった。今日は彼の祖父、源造の誕生日パーティーだ。長男の息子である彼がここにいたとしても、何ら不思議ではない。私が深雲を見ていたと思ってるのね……「おや、泣きそうじゃないか」景凪の潤んだ赤くなった目元に気づき、潤一は目を細めた。チッ、泣き顔だと、この女はいっそう綺麗に見えるな。景凪は彼に弁明するつもりなど毛頭なく、ただ礼儀正しく頭を下げた。「児玉さん」そう挨拶だけして立ち去ろうとしたが、潤一は横に一歩踏み出し、彼女の行く手を遮った。「どうした?図星を突かれて逃げたくなったか」彼は景凪を見下ろし、口の端を歪めて意味ありげに失笑した。「十五年も一途に尽くした挙句、最後は無惨に捨てられたっていうのに……まだ諦めきれてないとはね。穂坂さんの執念には驚かされるよ」以前レストランの前で偶然見かけて以来、潤一はこの女に少なからず興味を持っていた。少し調べてみれば、呆れるほどの「尽くし方」だ。男一人にここまで盲目になれるとは、彼にとっては新種の生物を発見したような気分だった。景凪は小さく息を吸い込んだ。ここは児玉家のテリトリーだ。露骨に波風を立てるわけにはいかない。頼みの綱の昭野は、相変わらず人垣に囲まれていて、こちらの状況には気づいていないようだ。「今日はどうやって入り込んだんだ?」潤一は不思議そうに眉を跳ね上げた。「自分の足で歩いて入ってきました」景凪は適当に答え、作り笑いを浮かべると、突然潤一の背後を指差した。「あちらにいらっしゃるのは、お祖父様ではありませんか」潤一は反射的に振り返ったが、そこには祖父の影も形もない。ハッとした。祖父はまだ書房で来客の相手をしているはずだ。一杯食わされたと気づいて振り返ると、景凪はすでに数メートル先まで遠ざかっていた。まるで疫病神か
雪華は閉じていた目を開けず、最後の一節を心の中で唱え終えると、静かに仏前で手を合わせてからゆっくりと身を起こした。「何をそんなに慌てているの。仏様が驚かれるでしょう」彼女は咎めるような視線を娘に向けつつ、部屋を出ようと歩き出した。「今の深雲さんには、どうしてもあなたが必要なのよ。感情面では命の恩人であり、ビジネスの面でもあなたは彼の力になれる。深雲さんは愚か者じゃないわ。どっちを選ぶべきか、ちゃんとわかっているはずよ」「それに、穂坂景凪のことなんて放っておけばいい」雪華は冷ややかな笑みを浮かべた。「あの小娘が真実を知ったところで、何ができるというの?お父さんが対外的に『娘』だと認めているのは、あなた一人だけ。それより今、あなたが注力すべきは児玉源造様のお誕生日会よ」雪華は飾り棚に置かれた豪奢な小箱を手に取り、姿月に手渡した。「これが源造様が最も愛するという古美術品……『鳳凰の舞』と呼ばれる青磁の香炉よ。これで源造様の機嫌を取ることができれば、児玉家との太いパイプができるわ」姿月が箱を開けると、そこには確かに、今にも飛び立ちそうな鳳凰の意匠が施された、美しい香炉が鎮座していた。瞬く間に、児玉源造の誕生日パーティー当日がやってきた。会場となるのは、郊外の静寂な森に囲まれた児玉家の別邸だ。重厚な門の両脇には、威厳ある石灯籠と手入れの行き届いた松が配され、その屋敷の格式の高さを無言のうちに物語っている。エントランス前には高級車がずらりと列をなしていた。見るからに高価なスーパーカーもあれば、一見地味だが、その特殊なナンバープレートや運転手の所作から、持ち主の政財界における強大な権力が透けて見える黒塗りのセダンもある。今日、景凪は昭野のパートナーとしてこの場に足を運んでいた。「墨田さん、今日は連れてきてくれてありがとうございます」実は、ダメもとで昭野に連絡を取ってみたのだった。もし彼に断られていたら、別の手段を使って潜り込むつもりではあったが、彼のエスコートという「正攻法」で堂々と入場するのが、最も手っ取り早く確実なのは間違いない。意外だったのは、昭野が二つ返事で快諾してくれたことだ。今日の彼は珍しく仕立ての良いスーツに身を包んでいる。普段の「ドラ息子」的なチャラついた雰囲気は鳴りを潜め、彼が本来持っている名家の御曹司とし
周作は景凪の剣幕に気圧され、目を白黒させた。「えっ、あ、旦那さんは黒瀬さんじゃないんで?じゃあ、あの黒瀬さんって方は、なんのゆかりもねえのにあんなに一生懸命、穂坂さんのために尽くしてたんか……」周作は困惑し、白髪混じりの頭をカリカリとかいた。これが今時の若いもんの恋愛事情ってやつかねえ?自分も年を取ったものだ、と嘆息する。景凪はゆっくりと手を離した。指先は氷のように冷たく、微かな痺れだけが残っている。「その人の名前は……『渡』ではありませんでしたか」「下の名前までは……ただ、お連れの方が『黒瀬様』と呼んでたのは耳にしました。いやあ、それにしても……本当に美しい男だったなあ。私も半世紀生きてますけどね、あんなにご器量良しの男は見たことがない。まあ、男があそこまで綺麗すぎると、それはそれで色々大変なんでしょうがねえ……」間違いない。渡だ。ただその顔立ちだけで、これほど強烈な印象を残せる男は、彼しかいない。目覚めてからというもの、幾度となく起きた出来事。そのすべてにおいて、彼はまるで計ったかのように、私が最も必要とする瞬間に現れている……だが、なぜ?彼と私の間に、これほどの献身を受けるような理由なんて何一つないはずだわ……私にとって黒瀬渡とは、大学時代、何かと突っかかってくる目障りな同級生に過ぎなかった。疑ったことがないわけじゃない。だからこそ、直接彼の気持ちを問い質したこともある。でも、彼は自分の口ではっきりと言ったのだ。「好きじゃない」と。なら、どうしてここまでするの?理由もなく、人はこれほど他人に尽くしたりはしない。必ず何か目的があるはずよ。帰りの車中、景凪は長いこと躊躇った末に、渡へメッセージを送った。【いつ時間が取れる?少し話したいの】だが、送信されたメッセージは梨の礫のごとく、いつまで経っても返信が来ることはなかった。景凪は初めてと言っていいほど落ち着きを失っていた。痺れを切らして自ら電話をかけてみたが、無情にも電源が入っていないというアナウンスが流れるだけだった。仕方なく、景凪は悠斗に連絡を入れた。だが、返ってきた答えは期待外れのものだった。「社長は海外へ用事を済ませに行っております。海外に出られる際は、別の携帯を使われますので」悠斗は事務的に答えた。「穂坂様、何か急用でしょ







